フリーターをめぐって、あるいは失業や再就職をめぐって、本人の「プライド」や「見栄」を問題にする言説をよくみかける。とりわけ女性に対してよく言われている気がする。(くわしくは未調査。)実際、著者も親類から「あなたが失業をしているのは高望みしすぎだから」と責められたことがある。本当にそうだろうか?
社会学者のブルデューは、失業問題を語る際、階層脱落(デクラスマン)という言葉を用いている。日本でもこれは当てはまるのではないだろうか?
これ以上賃金・保証・労働条件を悪くしたくない。これ以上軽蔑されたくない。そう考えると妥協もできず、なかなか職がない。
ではその「いまある職」とは何かが問題になる。実際には一時的な細切れの雇用、保証のない雇用、交通費など手当てのでない仕事、あまりにつらくてたいていの者が1~2日で「自主的」に辞めてしまう仕事……などである。
また、女性の場合は、同じ大学を出ても女性というだけで労働条件がよくない。ならば、思い切って難しい資格ーー例えば司法試験などーーを受けようとする。または、大企業に入ってせめて貯金を多くしたり、産休・育休をとったり、極端に見下されない程度の地位を手にしたいと考えるのではないだろうか?
おかしな雇用政策への個々人の無意識の反乱。それが「望みが高い」「プライドが高い」と現状肯定派に叩かれている可能性はないだろうか?
小さいころから極端に「自分はステージが高い」と思って壊れている、絵に描いたような「東大クン」タイプの人以外は、多分プライドが高すぎるのでも、見栄の張りすぎでもないのだとわたしは疑っている。必要以上に本人の道徳的罪障感をあおるのはやめてもらいたい。神経毒を盛られるのにも似て、感覚がしびれてくる。ひどい言葉や態度を何とも思わない鈍感な人になってゆく。
こういった言説はフリーターや失業者や女性本人に、さらなる自己否定的自己分析を強いる。
また、自己責任感をおしつけて憂鬱の元をはびこらせる。そして、社会への視点、人との交流、新たなコミュニティの形成と維持を不可能へと追いやる。そして、しまいには本人から希望や夢を奪ってしまう。
そうすると、「なんでも自己責任」のネオコン論はさらに犠牲者をいたぶる。「もっとヤル気を出せ」「がんばればなんとかなる」「ちゃんと自分を知りなさい」云々。そうして、何でも個人の意識・細かすぎる態度の問題ーー心の問題ーーにすりかわる。学校教育における「心のノート」と内申書、職場での勤務評定は社会や組織の問題をすべて個人の問題にすりかえる機能を持っている。
失業者の苦悩。それは、ひとりで悩みに悩んだ末に吐き出される。いろいろな会社を職を当たったすえ、自己否定と絶望と共に押し出される。その言葉を相対的には恵まれた正社員や、階層的に上の立場にあることの多い上の世代から「見栄・プライド」などと言われると、絶望はいや増す。そして、侮辱や罵倒に対してどんどん鈍感になってゆく。ネオコトドキシンという神経をしびれさせる毒を盛られたかのように。とにかく、トンチンカンかつ残酷な言葉なのだ。この手の、現実の厳しさを隠蔽・検閲し、フリーターら下位のグループの人々の希望を殺す言説に、わたしは反対だ。
自分は、階層脱落に抵抗していきたいと考えている。見栄とかプライドではない。生きるための欲求であり、「権利のための闘争(イェーリング)」なのである。
読者はどのようにお考えだろうか?
社会学者のブルデューは、失業問題を語る際、階層脱落(デクラスマン)という言葉を用いている。日本でもこれは当てはまるのではないだろうか?
これ以上賃金・保証・労働条件を悪くしたくない。これ以上軽蔑されたくない。そう考えると妥協もできず、なかなか職がない。
ではその「いまある職」とは何かが問題になる。実際には一時的な細切れの雇用、保証のない雇用、交通費など手当てのでない仕事、あまりにつらくてたいていの者が1~2日で「自主的」に辞めてしまう仕事……などである。
また、女性の場合は、同じ大学を出ても女性というだけで労働条件がよくない。ならば、思い切って難しい資格ーー例えば司法試験などーーを受けようとする。または、大企業に入ってせめて貯金を多くしたり、産休・育休をとったり、極端に見下されない程度の地位を手にしたいと考えるのではないだろうか?
おかしな雇用政策への個々人の無意識の反乱。それが「望みが高い」「プライドが高い」と現状肯定派に叩かれている可能性はないだろうか?
小さいころから極端に「自分はステージが高い」と思って壊れている、絵に描いたような「東大クン」タイプの人以外は、多分プライドが高すぎるのでも、見栄の張りすぎでもないのだとわたしは疑っている。必要以上に本人の道徳的罪障感をあおるのはやめてもらいたい。神経毒を盛られるのにも似て、感覚がしびれてくる。ひどい言葉や態度を何とも思わない鈍感な人になってゆく。
こういった言説はフリーターや失業者や女性本人に、さらなる自己否定的自己分析を強いる。
また、自己責任感をおしつけて憂鬱の元をはびこらせる。そして、社会への視点、人との交流、新たなコミュニティの形成と維持を不可能へと追いやる。そして、しまいには本人から希望や夢を奪ってしまう。
そうすると、「なんでも自己責任」のネオコン論はさらに犠牲者をいたぶる。「もっとヤル気を出せ」「がんばればなんとかなる」「ちゃんと自分を知りなさい」云々。そうして、何でも個人の意識・細かすぎる態度の問題ーー心の問題ーーにすりかわる。学校教育における「心のノート」と内申書、職場での勤務評定は社会や組織の問題をすべて個人の問題にすりかえる機能を持っている。
失業者の苦悩。それは、ひとりで悩みに悩んだ末に吐き出される。いろいろな会社を職を当たったすえ、自己否定と絶望と共に押し出される。その言葉を相対的には恵まれた正社員や、階層的に上の立場にあることの多い上の世代から「見栄・プライド」などと言われると、絶望はいや増す。そして、侮辱や罵倒に対してどんどん鈍感になってゆく。ネオコトドキシンという神経をしびれさせる毒を盛られたかのように。とにかく、トンチンカンかつ残酷な言葉なのだ。この手の、現実の厳しさを隠蔽・検閲し、フリーターら下位のグループの人々の希望を殺す言説に、わたしは反対だ。
自分は、階層脱落に抵抗していきたいと考えている。見栄とかプライドではない。生きるための欲求であり、「権利のための闘争(イェーリング)」なのである。
読者はどのようにお考えだろうか?
多分わたしたちは立場が近いのでしょう。おっしゃること、何となく分かります。
疲れとストレスのなかで、上の人から何度も大声で言われると、はじめは「何それ?」と思っていても、徐々に染まっていきますよね。明確に「おかしい!」
と気づいたときにはもう遅い、ということも(泣)。
ただし、そんなことを説教する正社員や上司たちも、似たような労働条件で働いており、あと数年後にはリストラまたは倒産にあうかもしれないのです。
アルバイトや派遣を見て「オレは違う」「こんな風になりたくない」と思うからこそキツく責める心理もあるでしょう。
また、「心の問題」だと考えている人は、主観的には善意で客観的な地獄を作りだすこともあり、要注意です。もちろん、中には身分の低いものをいじめる「特権」を喜ぶサディステイックないやがらせもあるでしょう。それらのうち複数が一人の人間の中に混在していることもあるでしょう。
今はアルバイトや派遣を責めたりなじったりしている
人たちも、手当ての削除、賃下げ、増税、年金の危機によって、生活基盤をおびやかされつつあります。
なんとか、相対的にはまだ安定している公務員と正社員が中心となって、労働組合や労働問題NGOを展開し、それに不安定雇用の人々も連携する必要があると思います。幸い、一人でも入れる、あるいは失業者でも安い会費で加われる労働組合もあります。(そのうち記事としてUPする予定です。)
>混沌からなんとか抜け出すことができたのは自分の
>考えを心から信じることができるようになったから
>です。
大事なポイントだと思います。黒人公民権運動のマルチン・ルーサー・キング牧師も「自分に自信を持っていれば差別を恐れることはない」といった意味のことをおっしゃっていますね。
>身勝手な言葉や考えの押し付けが他人に及ぼす影響
>をもっと考慮するべきだと感じます。
小さくても権威・権力のある人は、そうではない人に対してちょっとした言葉や身振りがおしつけとなり、ある種の暴力となってしまいます。
仮にも同じ職場で働く人から「お前らアルバイトは(派遣は)悪い、おかしい」といったことを日常的に言われたら、とてもつらいことですね。
けれど、あなたはもう一人じゃありません。あなたの考えを支持する者がここに一人いることを忘れないでください。
ひょっとしたらトウアさんの職場でも、クビが怖いので表面は上に媚び周りにあわせながら、内心では「何だ、あんなのヒドイじゃないか」と考える人がいるかもしれません。
力強いコメントをしてくださり、感謝します。わたしはあなたの発言に勇気づけられました。
たしかに、一部ただしいとおもいます。たとえば、派遣社員以下のしごとしかせてないくせに、何倍もの所得あげてるオヤジ、たくさんいますよね(笑)。そういう連中が、「おおはば賃下げ」という、うきめにあうのは自業自得です。
でも、くだんの経済学者連中がいうのは、要は、具体的な人物を、単なる量的存在として、強引にモデルにあてはめた抽象論にすぎないんですよね。たとえば、時代が激変して、大学や民間シンクタンクのエコノミストが不要となったら、かれら自身、クビになったり、所得激減になるんですよね。つまりは、神様の視点からみおろして、エラそうにかたっているけど、自分たちが失業者の一群の一部になるかもしれないといった、具体的な危機感は、すっぽりぬけているわけ(笑)。
はっきりいって、自分たち自身が「労働市場のミスマッチ」とかいっているとおり、労働者の各層に、適材適職をあてがえない市場が、未成熟ってことですよね。未開拓、未使用、ムリ/ムダ/ムラばかりの人材活用こそ、現実の市場だってこと(たとえば、世界経済からすれば、ムリ/ムダの極地というべき、外国人労働力=現地では超優良人材の、無私そうな つかいすて,etc.…)とか、はっきりいって「市場の失敗」の一部のはずなのに、連中、絶対にみとめようとしない(笑)。高等数学で抽象的なモデルつかって、なかまうちだけで、「整合的」な議論をしていればいい。自分たちは、やっぱりアタマがいい……とか、誤解の連続(笑)。
最近は、その辺、まともな経済学者が、フリーター問題の本質を、世代間闘争、と、まとめるようになったので、まずは、第一歩かとおもいますけど。