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「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」ヴィクトル・ザスラフスキー著 ”過去(起きたこと)を語ることの重要性”

2021-10-30 17:51:51 | 本の紹介
・1940年四月と五月に、25,000人以上のポーランド市民が、ソ連内務人民委員部(NKVD、通称秘密警察)によって銃殺された。その大部分は陸軍将校だったが、他に知識人、大学教授、学校教師、実業家、幹部公務員、地主、警察官、国境警備隊員、神父たちがいた
犠牲者たちは、ソ連が独ソ不可侵条約にもとづいてソ連に分割された東部ポーランドを占領したさいに、捕らわれた。この犯罪はカチンの虐殺と呼ばれている。カチンはスモレンスク近くの場所の名前で、大量のポーランド人捕虜の銃殺死体でうまった墓穴が発見されたからである。

・スターリンは、カチン虐殺事件を揉み消すために、西側の政治家や歴史家に幇助されて、現代史上空前の真実の偽造、隠蔽、抹消の大宣伝工作を展開した。ソ連は虐殺の罪をドイツ国防軍にかぶせようとしたのだ。

・カチン事件の調査手続きの中止は、ゴルバチョフ、エリツィン政権がはじめた民主化と歴史的事実を自由に扱う方針からロシア政治、つまりプーチン政権が距離をおくことの象徴となった。

・ソヴィエト連邦史には、階級としての富農(クラーク)の抹殺、1937年-39年の大粛清期におこなわれた44,000人の高級将校をふくむ100万人以上の銃殺、第二次大戦末期の国内住民強制移住などの事件があった。カチンはこのような多くのスターリン主義犯罪のひとつとして、その残虐性は他と異ならず、したがって例外とはいえない。

・スターリン指導部は捕虜交換にさいして、ナチによる迫害を怖れてソ連に残留することを望むユダヤ人と共産党員からの再三の訴えを一蹴した。

・スターリン政権はジュネーヴ協定(戦争捕虜の扱いについて)の署名を拒否していたのだ。その結果として、第二次大戦中に数十万のソ連の捕虜が命を落とすことになった。

・この新しい資料は、占領ポーランド地域での大規模テロの激しさが、ソ連でのテロの激しさを上まわったことを証明している。わずか20か月のあいだに東部ポーランドの人口の4%つまり40万人以上が投獄、追放、銃殺の憂き目にあった。

・こうしてNKVDの地方責任者は、名簿上の約7万人を一人として逃さなかったと得意げに報告書に記すことができた。

・ソ連にたいするドイツの壊滅的な攻撃はスターリンを驚愕させた。ソヴィエト指導部は方針を変更して、亡命ポーランド政府との和解を選ばざるをえなかった。1941年8月12日、ウクライナとベロルシアはすでにドイツ軍に占領され、ドイツ軍はモスクワをめざして急進撃をつづけていたその日にソ連政府は、1年半前に判決をくだされ追放されていた全ポーランド国民にたいして恩赦令を布告した。

・雄弁な一例は1915年にトルコ人によっておこなわれ、そのほとんどすべてを死ににいたらせたアルメニア人約150万人の追放をジェノサイド(「民族大虐殺」)と認めるかどうかで、この歴史論争はいまだにつづいている。

・1943年4月13日、ドイツ・メディアは世界に向けて、カチンにほど近い森のなかでドイツ側の言い分ではNKVDに射殺された数千のポーランド将校の死体を発見したと報じた。

・スターリンは、カチン虐殺を隠蔽して罪をナチになすりつけることに執着した。

・西側政府の積極的な幇助がなかったならば、ソヴィエト指導部は半世紀ものあいだカチン虐殺の自己責任を隠しおおすことはできなかっただろう。西側政府は入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力をつくした。アメリカ政府は1950年はじめまで、イギリス政府はソヴィエト政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。

・ニュールンベルクのソ連代表団(1946年3月21日の委員会)は予期しない障害にぶつかった。検察官の一人ニコライ・ゾーリャが、クレムリン指導者の組織した偽造工作に参加することを拒否したのである。
・・・。1946年5月23日、ゾーリャはニュールンベルグの自室で死んでいるのが発見される。・・・。
ゾーリャはソ連の解釈を疑問視するものすべてを脅すために送られたベリヤの手先によって暗殺された。ゾーリャの死を知ったスターリンが「奴は犬並みに埋めればよい」と命じたという噂がたった。

・こうして、カチン事件は「証拠不純分」で裁判から除外された。・・・。
戦後初期、英米政府はこの立場を変えることはなかった。1944年から51年まで、アメリカ国務省とホワイトハウスはカチンの真相が公になるのを防ぐために全力を尽くした。
英米政府のこうした努力はスターリンとモロトフには、ことごとく西側指導者の本質的な弱みとしてとらえられた。
この共犯関係と無関心の風土をこれ幸いと、ソ連秘密機関はカチン事件を実体験した人々、とくにベリヤの手先の直接行動がおよぶ範囲外で生活している、国際医学調査委員会の委員たちの信用を失墜させ沈黙させる国際キャンペーンを展開した。

・ポーランド将校を銃殺したのはソ連の秘密警察であるとの確信を披露し、その理由として、将校の死体には結婚指輪と金歯が残されていたからだと言った。ナチの親衛隊は犠牲者から身につけている金製品を奪うよう命じられていたのにたいしてい、NKVD特殊部隊はそのような指令を上部から受けていなかったのだ。

・歴史改竄に執着するクレムリン首脳の決意は、カチン虐殺事件証拠書類の破棄によって補強され、同時に、イギリス政府のとったような西側政府の姿勢はソ連秘密機関と宣伝機関を勇気づけ、カチン虐殺の「公式見解」(ナチの仕業)はますます図々しく横行した。1970年代のブレジネフ政権下で、この公式見解は最終的なかたちをとった。

・「大祖国戦争」の開始後に情勢が複雑化したせいで、収容所の撤退は間に合わなかった。およそ11,000人のポーランド人戦争捕虜がドイツ軍に捕まり、その後1941年秋にカチンの森で銃殺された。

・ソ連側は「自分たちの見解を資料で裏付けることに成功しなかった」だけでなく、歴史の真実が確立されないように全力を注いだのだ。

・コゼルスク収容所から移送された者の名簿と、1943年春にドイツ軍が墓から掘り出した死体で身元のわかった者の名簿とを突き合わせると、あきらかに一致していて、否定しがたい関係が署名されている。

・この状況証拠にもとづくと、カチン地区のポーランド将校がNKVD、個人的にはベリヤとメルクロフの手にかかったと結論することができる。

・1991年7月15日、エリツィンの指令で、封印文書ファイルに保管されている資料を検討する特別委員会が設置された。

・イギリス政府が自国の公文書に存在する資料を隠し、イギリスのポーランド人社会が調査を企てたり犠牲者を記念しようとするたびに抑圧する政策をとったのは、さまざまな歴史的瞬間におけるさまざまな動機からだった。戦争中に英米政府が採った、カチンの真相を公にしないという決定は、スターリンとの同盟を維持し、戦後のソ連の協力を確保する必要からだった。

・1989年、ゴルバチョフがソ連の罪を認めてポーランド国民に公式に謝罪すると、イギリス外務省はつぎのばかばかしい声明を出すにとどまった。
「長年われわれはこの事件を明らかにするようあらゆる方面に求めてきた。したがって今回のモスクワによる新し時日発表を歓迎する」

・危険な機密文書の公開にゴルバチョフが抵抗し、公開するくらいならば破棄したほうがましだとしたことは、かれのイメージにぬぐいがたい汚点を残した。

・なぜ、この恐るべき事件から70年を経た今になって、歴史家、とくに欧州歴史家はカチンの物語を語りつづけ、その状況と原因と歴史的結果とを分析し続けるべきなのか。ハンナ・アーレントは『暗い時代の人間性について』の有名な一節で書いている。「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩をやわらげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり-そえは長いあいだつづくかもしれない-過去の『克服』はくりかえし語りつがれる物語のかたちをとる」。カチンの歴史の決定版はまだ書かれていない。

・カチンの追憶は21世紀の歴史から最大の教訓のひとつをわれわれにあたえることができる。それは、人権擁護を国内問題として個々の政府に任せておけないとする原則に立って、新しい国際文化と対外政策の誕生に寄与できるからである。

感想
カチンの森の大量虐殺はソ連が行ったそれをドイツ軍の行為としていたことは知っていましたが詳しい状況はしませんでした。
特に西側諸国も隠蔽に加担していたことは知りませんでした。

起きたことを語る。
明らかにすることが大切だということです。

この本を読んでいて、安倍元首相のモリカケ問題、桜を見る会などの事実を語ること、つまり独立した調査委員会で調査することが大切だということを改めて思いました。
赤木さんの妻が、再調査の嘆願書を岸田首相に提出しました。
岸田首相は「しっかり受け取った」と発言されました。
ところが何の調査もされません。
赤木さんの妻は再調査することを提訴されました。

それと人権問題はその国だけに任せていると人権が守られないと言うこと。
これはまさに中国の例からも分かるようです。

それにしても、為政者が多くの人を殺害してきたのだと驚きました。
それを認めないように国民が声をあげないといけないのでしょう。
そうしないといつ国民に為政者からの災難が降り注ぐかわかりません。
一票では何も変わらないと思いがちになりますが、その気持ちが為政者の独走を認めてしまうことにつながるのでしょう。
たかが一票、その一票が価値があり大きいのだと改めて思いました。

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