幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「怒羅権と私 怒羅権メンバーの怒りと悲しみの半生」汪楠著 ”汪さんを信じて支える続けた石井小夜子弁護士”

2021-09-05 02:50:50 | 本の紹介
・犯罪集団へと変質していった怒羅権ですが、結成当初はこのような組織を目指していたわけではありません。日本社会で孤立していた中国残留孤児の子孫たちが生き残るため、自発的に生まれた助け合いのための集まりでした。

・後日、近所の人が襲撃の様子を語ってくれました。
大きいトラック2台に乗せられ、100人近い男たちがやってきたそうです。彼らは近所の道を封鎖し、騒ぎを聞きつけて家から出ようとした住民たちを脅し、足止めしていたといいます。
父は無事でした。・・・
犯罪集団は最後まで分からないままで、その後、被害者であるはずの私の父は投獄されました。

・父が収監されてから、私は喧嘩するようになりました。
同年代の子を倒したあとも容赦なく殴りつづけて、頭を地面に何回も叩きつけて、脳震盪になるほど程の怪我を負わせる事件を起こしました。

・私が訪日したのは1986年4月14日でした。日にちまでハッキリ覚えているのはその日が14歳の誕生日だったからです。

・私は残留孤児ではありません。両親は中国人です。父は離婚した後、残留孤児1世の女性と再婚していました。父はその女性に呼ばれる形で日本に移り、その3~4年後に私と姉が呼び寄せられたのです。

・日本に着いて1週間後には学校生活が始まりました。
当時、江戸川区では区立葛西小学校と区立葛西中学校が残留孤児たちを受け入れており、日本語教育を受けることになっていたのです。
私は14歳でしたが、中学1年生に編入しました。

・私たちのほとんどが日本語を喋れません。それを馬鹿にされます。差別のもっとも大きな源泉は言葉なのだと知りました。

・学校では、空気のように透明な存在である必要がありました。声も発せず、奇抜な行動をとらず、つまり座って呼吸するだけという姿勢を求められていたのです。

・家にも、学校にも居場所がない、そんな子はほかにも大勢いました。そうした心情を抱えた2世たちにとって聖地と呼べる場所が、葛西には2つありました。
ひとつは常盤寮です。中国残留邦人の受け入れ施設でもあったこの寮は、若い世代の情報交換の拠点でもありました。
地下鉄葛西駅の目と鼻の先にある「恐竜公園」も2世たちにとって無くてはならない場所でした。

・怒羅権が誕生するきっかけは、こうしたいじめに対する抵抗でした。
学校内で殴ったり殴られたりするわけですから、普通は学校が親を呼び、やめさせます。しかし、残留孤児2世の親は来られません。みな忙しく働いていますし、子ども以上に日本語がわからない場合が多いからです。

・現在の怒羅権は犯罪集団ですが、当初は自然発生的に誕生した助け合いのチームだったのです。

・怒羅権に明確な設立日はありません。また、最初は怒羅権という名前もありませんでした。確かなことは1986年にはチームの形になっていたこと、最初のメンバーは12人だったことです。中学3年生と2年生の8人が主力メンバーでした。

・自営のためのチームだった怒羅権は、やがて暴走族になり、半グレと呼ばれる犯罪集団へと変化していきます。

・怒羅権の原動力が、このように不当に扱われた中国残留孤児2世・3世の怒りだったのは間違いはありません。しかし厳密に言えば、私を含め怒羅権のメンバーもいじめは受けましたが、自発的に反撃をするようになったので、虐げられた時期自体は長くないのです。

・怒羅権という居場所ができたことで、自宅や学校には寄り付かなくなりました。
当時は本当に貧乏で、メンバーみんなが食べるものに事欠いていました。

・当たり前のことですが、中国残留孤児2世・3世が全員不良になっていったわけではありません。進学した者もいますし、立派なカタギの職業についた人が大勢います。

・90年代になると怒羅権はさらに過激化していきます。パトカーや交番に放火したり、警官を襲って拳銃を奪おうとしたり、ヤクザ事務所を襲撃したりといった事件を起こすようになりました。その行動原理の根底にあったのは警察やヤクザに対する敵対心です。

・私たちがいたのは残虐ではければ生き残れない世界でした。私たちは異端者として差別され、社会にも守ってもらえないことは浦安事件や朱金山事件で思い知っていました。

・事実、私も17歳からある組に所属していました。

・結局、少年院で実施されるのは更生プログラムではなく、人格破壊と洗脳であったと思います。

・組の事務所で仕事をする合間をぬって、読書をするようになりました。人生で一番勉強した時期でした。

・事務所破りを立て続けに成功させられた要因の1つに、私のピッキング技術があると思います。

・盗聴や盗撮の技術も磨きました。

・少年の頃から危険の中で生きてきたため、観察眼が養われていたというのが大きいと思います。

・公判の際に、情状証人として彼女の親族が故郷から呼び出されました。親族は「そんなに生活に困っているならなぜ言わなかったのか」と彼女を責めました。「一族から犯罪者がでるなど恥である」とも言ったそうです。
Kさんは逆上し、法廷で叫びました。
「あんたたちは今更善人ヅラをするが、私が大変なときに何もしてくれなかった。生活が行き詰っていることは知っていたのに見て見ぬ振りをした。汪さんは私に犯罪をやらせたけど、助けてくれた。子どもの誕生日にプレゼントをくれたり、お父さんの介護の業者を紹介してくれたり、あなたたちよりずっといい人だ」

・8年ぶりに再会した石井小夜子先生は、あの強盗容疑の一件の頃と変わらず、私の話にしっかりと耳を傾けてくれました。留置場での面会を重ねるうちに、これまでのこと、好きな本の話など事件と関係のないことも数多く話すようになりました。そしてこの出会いによって、罪に対する私の考え方は大きく変わっていきます。

・石井先生は言いました。
「私の中にも阿Q(『阿Q正伝』)はいます」
彼女のこの言葉に、私はとても感じ入るものがありました。阿Qとは人の愚かさや醜さの象徴であり、それが自分の一部であると認めることは心の強さが必要です。この人を信じられるのではないか、という思いが生まれ始めました。
そしてもう1つの重要な心境の変化が生まれました。
それは「このまま処刑されてよいのか」というものです。
阿Qは、無知ゆえに流されるまま処刑されました。なぜ自分が処刑されたのか理解すらしていなかったのでしょう。

・社会は私が罪人だといいますが、先述の通り私は罪悪感もなければ反省もしていません。自分の罪を理解することなく、刑罰を受けるのは阿Qと同じなのではないかと思うのです。

・罪を直視するには、自分の過去を振り返り、時間をかけながら理解していくほかありません。膨大な作業であり、客観的にそれを見てくれる信頼できる他者が傍らにいることが不可欠なことでした。
私は「この作業につきあってくれますか」と先生に尋ねました。
「協力する」と先生は言いました。・・・
先生の「協力する」という言葉に嘘はありませんでした。
服役の間、先生を通じてさまざまな人と文通したり、面会をしたりして知り合いました。そうして生まれた人の輪は100人以上にもなり、現在の私の礎になっています。その第一歩を踏み出すきっかけは紛れもなく石井先生との再会でした。

・警察と犯罪者がいかにずぶずぶの関係であるか、ここで語っておきたいと思います。
今回の私の事件で、3つの長官賞と何千万円もの予算がいくつかの署に渡りました。問題はその後の警察の対応です。彼らは汪様々と言わんばかりに私に手厚い接待をしたのです。・・・
極めつきは、私の取り調べが行われていた当時、若乃花と貴乃花の兄弟が人気だったのですが、稽古を見たいと言ったら係長が二子山部屋に連れて行ってくれたkとです。手錠を外した状態で稽古を見学できました。

・裁判で検察から告げられた求刑は15年でした。
耳を疑いました。
私の起訴は10件で、被害金額は約2億円。この規模ならば長くとも7年から8年が妥当であり、完全に予想外の長さだったのです。そして13年という判決が下されました。
この判決は、当時、司法関係者の間でも議論になりました。私が感じた通り、罪状に対して重すぎる判決だと多くの弁護士が語りました。・・・やはりた私が中国人だからなのだと思います。ある意味で見せしめのために量刑を重くしたのではないでしょうか。

・刑務所はいじめの巣窟
岐阜刑務所は、LB指標と言われる受刑者に特化した刑務所です。LB指標というのは、L(ロング、刑期が10年以上)、B(犯罪傾向が進んでいる)という分類で、殺人などの重犯罪者が多く、各地のツワモノが集まっているような場所でした。

・協調性という大義名分のもとに、少数派に対する迫害が正当化されるのです。

・ここで肝心なのは、いじめを先導する強い者だけがいじめの原因なのかといえば、それは違うということです。むしろ、強い者に「そうだろう?」と同意を求められ、頷いてしまう日和見主義者によって協調性は強まり、いじめを許容する空気が生み出されるのです。

・ペニスに玉を入れる者たち

・13年間の服役中、私が読破した本は3,000冊を超えていました。

・刑務官とヤクザの癒着

・日本で起こる犯罪の約6割が再犯者、つまり過去に逮捕されたことのある者によって起こされるものだそうです。刑務所の実態を見ているとそれも無理もないと感じます。このような不条理な世界で長年暮したところで法を順守する意識が高まるとは思えません。

・ここから私が学んだのは、刑務所は正義に則って運営されているわけではないということです。社会の仕組みと一緒で、そこには秩序を維持するための暴力装置があるだけです。正しい行いをしていれば自分もそれに守ってもらえるなとど考えていると怪我します。

・実のところ、日本社会に同化しようと努力した時期もありましたが、今はむしろ同化して日本人になりきろうとするよりも、自分はどう生きたいか、どう行動すべきなのかと考える方に重心を置くようになりました。

・日本は戦争という罪を犯しました。その後、補償を行い、国際社会から罪は受けたと言われます。しかし、罪を受けたからといって、罪を犯した事実は消えません。
これは私も同じなのです。
私は自分の犯した罪を忘れずに、もしも被害者に会ったときは、やはり詫びの言葉を口にしたいと思うようになりました。

・劣悪なLB刑務所で13年間も服役し、私はむしろ人間が好きになっていました。これは奇跡的なことだと思います。もっと早くこれを経験できていたら私は違う人生を送ったはずだと、遠回りをしたことにもどかしさを感じることもありました。しかしそれは同時に、これからは違う人生が送れるかもしれないという希望を見いだせた瞬間でもあったのです。

・繰り返しになりますが、犯罪を犯して刑務所に入った者が更生し、社会復帰するためには、このような社会との接点をいかに持ち、感謝の気持ちを抱くことがもっとも大切なのだと痛感します。

・最初の1年間、さまざまなことをやりました。ホームレス支援などのボランティア活動のほか、残留孤児の問題や、障害者・精神疾患の人々の暮らし、沖縄、憲法改正といった市民運動にも関わりました。ただ、何をすればよいのかずっと迷っていました。

・あるとき石井先生はこんなことを言いました。
「君は問題提起したけれど、問題解決していない」
確かにそのとおりでした。

・「ほんにかえるプロジェクト」を立ち上げたのは2015年9月のことです。本の寄付を募って数千冊の蔵書を集め、そのリストを全国の受刑者に送って希望の本を差し入れするという活動を行うボランティア団体です。

・この活動で私が心がけていることは、更生しろとは言わないことです。更生しろと言われ続けて更生できなかった人だから刑務所にいるのです。

・私の多くの非行の元となっていた怒りの感情は、今はもうありません。

・私の人生はこの国で狂ったことは事実で、それゆえか、私はこの国でやり直したいと切に願っています。・・・この国を私は信じ、活かせるチャンスを願っています、どうか私に力をください。

感想
すごい人生です。
居場所がないことや虐めから自分を守ること。
それが反社会的行為にもなっていく経緯。

そして刑務所での体験。
そして支えてくれる人母との出会いからの立ち上がり。

そしてこれまでの経験を活かし、犯罪者の更生を本を通して実現しようと日々努力されています。

学校にも、警察にも、刑務所にも正義だけではなく問題行為があることの実体験でもありました。
現実社会の裏というか闇の部分を知ることもできました。

人は人によって犯罪に手を染めてしまいますが、人によって立ち上がることができることの実体でした。

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