幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「町工場の娘」諏訪貴子著 ”小さな勇気を、後悔しないために”

2021-10-05 08:50:25 | 本の紹介
・「お父さまは急逝白血病を発症しました。余命はあと4日ほどと思います」
2004年4月、冷たい雨の降る夜。私は東京都新宿区の慶応義塾大学病院にいた。

・預金通帳がない。金庫が開かない。社印が見つからない。権利書もない・・・。
その都度、会社と病院を行ったり来たりしながら「あれはどこにあるの?」「この件は誰に聞けばいい?」と父に確認した。

・「会社は大丈夫だから!」
思わず、そう叫んだ。
父は私の目を見つめたままの姿勢で息を引き取った。64歳だった。
病院に緊急入院してわずか4日。

・ダイヤ精機は兄・秀樹の存在なしには誕生しなかった。
61年生まれの兄はわずか3歳で白血病を発症した。
高い治療費を捻出するため、サラリーマンだった父は、ゲージ工場を営む叔父から機械2台と職人3人を無償で提供してもらい、ダイヤ精機を創業した。つくれば売れる高度経済成長期のまっただ中、ものづくりはお金を稼ぐ手っ取り早い手段だった。

・発症当初「余命半年」と言われていた兄は、そこから3年生きることができた。だが、やはり病魔に打ち勝つことはできず、67年、6歳で他界する。

・その中で、父には次の目標となる思いが芽生えた。
「ダイヤ精機の後継者が欲しい」
兄は両親にとって第2子で、1歳上に第1子がいた。ただし、それは女の子。父は兄の生まれ変わりで、会社を継ぐ2代目となる男の子が欲しくなったのである。
そんな期待の中、71年に生まれたのが私だ。
「女か・・・」
電話口でがっかりして、そうつぶやいた父に、母はかける言葉が見つからなかったという。
落胆のあまり、母子の入院中、一度も顔を見に来ることもなく、退院の日も迎えにすら来なったという。それから、一風変わった「兄の生まれ変わり」として私の人生が始まった。
そのせいか、私は子供の頃から男の子が興味を持つようなおもちゃや遊びにばかり熱中した。
私には何も言わなかったが、父は次第に私をダイヤ精機の後継者として見るようになっていったようだ。

・高校でも理系に進む女子はクラスに数人、とりわけ工学部に進む女子は少なかった。
成蹊大学の工学部工業化学科を進学先に選んだ。
2代目には理系の「論理」を備えてほしいと考えたのではないかと思う。
結果論だが、工学部で身につけた論理的な思考法は、私の大きな財産であり、武器になっている。父の選択は間違っていなかった。

・見るに見かねた上司が「まじめで優秀な人間だよ」と1人の男性エンジニアを紹介してくれた。それが今の主人だ。すぐに付き合い始め、結婚が決まり、願い通り、入社2年後の97年に寿退社した。わずか2年間であったが、ユシアジェックスで本当に学ぶことが多かった。機械加工、生産管理、品質管理、設計など、製造業のイロハを広く学べるしごとぉ担当させてもらった。

・社会人になる時、もう1つ、父から言い渡されたことがあった。
「お客様からの誘いは絶対に断るな」
この掟も必死で守った。
飲み会、カラオケ、ゴルフ・・・。工機部唯一の女性ということで、私にはしばしば声がかかった。

・97年に結婚退職し、専業主婦になった。翌年、生まれた子どもは男の子。一番喜んだのが父だ。私が生まれた時には、退院するまで一度も顔を出さなかったという父が、真っ先に病院に駆けつけ、息子を抱っこした。
私の顔を見るなり一言。
「でかした!」
その時の父のうれしそうだったこと。
兄の代わりの男の子がどれほど欲しかったのかがうかがえた。

・多くの関係者の「意中の人」であった夫は後継者にはならなかった。では、誰か、この時点でも、私は自分が2代目社長になることは考えもしなかった。
次に、私は幹部社員3人を集めた。
夫が予定通り米国に赴任すると決めたことを伝え、「今いるダイヤ精機社員の中から、話し合って新社長を選んで欲しい」とお願いした。・・・
ところが、数日後、幹部社員たちが出した結論は驚くべきものだった。
「貴子さん、社長をやってください」
「全力で支えるからお願いします」
「本当に頼む、この通り」
幹部社員たちは私の前で頭を下げた。
「えっ? 私が社長」
全く想定していない事態に言葉も失ってしまった。

・背中を押してくれた弁護士
「社長になるのが怖い」と告げる私に、佐藤さんはこう尋ねた。
「失敗した時に摂られて困るような財産はあるの?」
「アルバイトで結婚披露宴の司会をやっていた時に貯めた貯金50万円ぐらいですかね」
「それなら怖いものなんてないじゃない。うまくいけばそれでいいし、失敗しても命まで取られることはないから、やるだけやってみたら? ダメだったら自己破産すればいいのよ」
「そうか・・・」
単純な私はシンプルで力強い言葉に結城づけられた。

・5人のリストラで月に200万円ほどの人件費を削減。それに加え、経費もとことん削減した。その結果、当面の経営難に対処することはできた、

・そのためには、何を置いても教育が必要だと考えた。最初に訴えたのが挨拶の徹底。

・製造業の基本である「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)」も教え込んだ。
1か月後、会社に4トントラックを呼び、テープが張ってある不用なものを積み込んだ。荷台は不用品でみるみるいっぱいになった。
こうして不用品を処分してみると、雑然としていた階段、廊下、工場がとてもすっきりした。

・ホウレンソウ(報告・連絡・相談)のあり方
・品質・コスト管理

・PDCAの考え方
 ・「QC(品質管理)サークル」を設けた。
 ・「若手の会」(10~20代)、「中堅の会」(30~40代)、「職人の会」(50代以上)
  「若手の会」から「何を話したらいいかわからない」という声が出てきた。
  そこで「『ちょっとここがやりにくい』とか、『これが使いにくい』とか、会社に対する悪口でも何でも言っていいよ
」と伝えた。ただし、悪口を言う相手は私と会社のみ、人間関係にヒビが入りかねない同僚への悪口はNGだ。

・「かがむので腰が痛い」という意見に、製品を研磨する時、立って腰をかがめながら磨くスタイルだったことから出てきたもの。
早速、私は「なぜ立ったまま研磨しているの?」とベテラン社員に理由を聞いてみた、答えは「昔からそうだったから」。
特別な理由はなく、単なる慣習だったのだ。
そこでベテラン社員にいすを用意し、座って研磨してもらったところ、「これは楽でいい」と非常に評判が良かった。
こうして「悪口」から1つの舵縁が生まれた。
私は社員から提案が出て、それを実現するのがとてもうれしかった。
重要なのは社員が積極的に提案すること。
自分が提案した改善案が実現すれば、モチベーションが上がり、さらなる改善のタネを探し、気付き、実行するようになる。
こうした活動を繰り返す中で、社員の「ムダをなくそう」「効率を上げよう」という意識は日に日に高まり、一体感を持って改善を勧められようになった。小さな改善が一つひとつの積み重なるたびに「会社が良くなっていく」ことを実感できた。

・社長に就任してからの2~3年は、できるだけ作業着を着て工場に入り、社員と一緒の時間を過ごすことを心がけた。
「社長との会話」が日常的になってくると、みんな構えることなく接してくれるようになった。

・社長に就任したのが2004年5月。断腸の思いで5人のリストラを決行したのが6月。そして、ありがたいことに、その直後に“神風”が吹いた。2004年7月から、急激にゲージや治工具の需要が膨らみ始めたのである。

・心が折れそうだった私を救ったのは、その頃、読んだ本の中で出合ったシェークスピアの言葉だ。
「世の中には幸も不幸もない。考え方次第だ」
この1節を見た瞬間、霧が晴れたような気分になった。
何事も考えようで、世の中には「絶対に悪いこと」もなければ、「絶対に良いこと」もないと気付いたのである。

・社長就任から1年ぐらい経った時のことだろうか、何かの拍子に社員に謝ったことがある。
「社長が女でごめんね。頼りないよね」
すると、その社員は笑って言った。
「いや、社長はたまたま女だっただけですよね。社長は社長。男より男っぽいじゃないですか」
その一言に救われた。私1人が性別にとらわれすぎていたのだと感じた。

・1年目に意識改革で会社の土台を整えることができた。2年目のテーマは「チャレンジ」とした。まず手をつけたのは生産設備の購入。バブル崩壊後、業績が悪化したダイヤ精機は長年、機械の更新ができていなかった。

・機械を買いたいのに買えない。想定外の事態に困り果てた。
機械メーカーが出展する展示会にも足を運んでみた。会場を歩き回り、片っ端からブースをのぞいていったが、私が客とは思えなかったのだろう。誰も相手にしてくれなかった。
「この会場で最初に声をかけてくれたメーカーから買う」
そう心に決め、歩き続けていると、とあるブースで、待ちに待った一声がかかった。
「ご説明しましょうか?」
森精機製作所の営業マンだった。
実は、ダイヤ精機がNC研磨機を導入したのはその時が初めてだった。
簡単な研磨なら熟練工の手を煩わせるまでもなく、機械に任せてしまえばいい。
そう考えて思い切って導入してみると、当初は渋い顔をしていたベテラン社員が「正解でしたね」と言ってきた。単純作業に煩わされることがなくなり、より難しい仕事に集中できるようになって、作業効率が向上したのあ。

・私は汎用機の使い方を覚えてからNC機を扱うという従来の教育方法は、慣習と前例以外、合理的な理由はないと思った。
そこで、私はルールを変えた。若手社員にはNC研磨機を先に扱わせて、並行して汎用機の使い方を教えることにしたのだ。
固定観念にとらわれずに「なぜ」を追求し、合理的に物事を判断することで、より良い道を切り開くことができたと思う。

・機械導入に続いて取り組んだのが生産管理システムの構築だった。

・SWOT分析を始めた。
Strength Weakness Opportunities Threats
時間をかけて分析した結果、私は大と精機の強みは技術力にあると導き出した。
このSWOT分析を取引先で監査役を務めていた方に見ていただく機会があった。
「これはダイヤ精機の社長であるあなたの目線でしょう。お客様の目線で分析していないのではないですか」
取引先のメーカーに行き、担当者に尋ねた。
「どうして、うちの会社に注文を出してくれるのですか?」
「品質が高く、コストが適正というのは、もう当たり前の時代です。では、どうしてうちの会社がダイヤ精機に注文を出しているか、対応力ですよ。急な依頼にも応えてくれる。欲しいとと思った時に持ってきてくれる。足繫く通って課題を一緒に解決しようとしてくれる。だから、頼んでいるのです」
私にはとても意外な言葉だった。「えっ、そこなの?」と思った。
では、どうすれば対応力をたかめることができるのだろうか。
対応力を高めるために必要なのは、この多品種少量生産を徹底管理することだと考えて。
選んだのがテクノ社の「THCHS-BK」だ。

・IT武装で収益力もアップ
特級対応件数は月10件から20件に増えた。

・私が実践してきたのは、「物事には原理に基づいた原則があり、そして基本がある。基本があるからこそ応用ができる」という考え方だ。

・向こう傷は問わない
1)「失敗を恐れず、新しいことに挑戦しなさい」
2)「これだけは絶対に誰にも負けないというものを持ちなさい」

・新人社員との交換日記、チャレンジシート、QC発表会といった育成プログラム

・ただの倉庫だった矢口工場の2階は、今や月井20~30万円を売り上げる収益源となっている。
苦しい時に社員と一緒に壁を塗り替えたのも、今となってはいい思い出だ。

・良い仕事をするには、素直さ、コミュニケーション能力、向上心などの「ヒューマンスキル」こそが大切だということだ。

・今、ゲージ事業は売上高全体の6割を占めるまでに成長している。
(ゲージ部門はミスがあるとそれで生産された不良品も負担するので、リスクが高く、かって撤退するかどうか迷ったがゲージは残すことにした)

・「やる」か「やらない」かを迫れた時の答えは、すべて「やる」と決めているからだ。
悩まないが、代わりに「迷う」。どれをやるかで「迷う」のだ。

・麻生首相が退室しようとドアの方に向かっていく。
「このまま何も言わずに帰ったら絶対後悔する」
そう思った私は勇気を振り絞って立ち上がった。
「麻生首相、直訴させてください!」
叫んだ瞬間、自分が取った行動に自分で驚いた。
もっと驚いたのは麻生首相のSPだ。何事かと慌てて私の方に駆け寄り、後ろから腕をつかんで制止した。
部屋を退出しかかっていた麻生首相は、呼びかけに気づいて足を止め、私の方に近づいてきてくれた。
SPに腕を抑えられながら、私は伝えたいと思っていたことを口にした。
「雇用調整助成金のことでお願いしたいことがあります。対象企業の要件ですが・・・売上高や生産量の減少の基準年が前年同期で・・・そのままでは対象にならない企業がおおいのです」
しどろもどろになりながら必死で説明した。
首相に随行していた経済産業省の官僚が私の訴えの意図をくみ取り、「彼女が言っているのはこういうこどです」と“通訳”してくれた。
すぐに内容を理解してくれた麻生首相は「よし、わかった、わかった、それはかならず見直しさせるから。約束する」と言って帰って行った。・・・
経産省の担当者からは「諏訪さんの直訴が通りました」と連絡があった。「勇気を出して言って良かった」と心から思った。
私の人生はこれを機に大きく変わった。
「首相に臆さずものを言う女性」
霞が関ではそんな評判が広まったらしい。2011年、経済産業書から声がかかり、産業構造審議会の委員になった。(それもあり)2012年「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞のきっかけにもなった。
2013年からは政府税制調査会の特別委員も務めている。
講演会の質疑応答の時間、質問者がなく静まり返っているとき、このエピソードを話すと、手を挙げる人が何人も出てくる。
そう、大事なのは、どんな場においても、悔いのないよう「小さな結城」を持って行動することだ、自分を変え、人生を変えるチャンスは至る所に転がっている。

感想
突然の災難というか、過酷な選択が人生の方から問いかけてきました。
そして逃げることをせず、それに真摯に一つひとつ対応されたようです。
そこには、一人ですべてをやらなければならないというのではなく、皆の力を活用されたようです。
5人リストラしたら、職場の雰囲気が変わったそうです。
でもそうしないと乗り切れなかったそうです。
仕事がなくなったとき、社員を他の会社に出向させて人件費削減も取り組みました。
その出向にも社員は協力してくれたそうです。
そしてその出向の体験がプラスにもなったそうです。

人生から過酷な問いかけが来ます。
それにどう応えていくか。
過酷であればあるほど、それに応えた結果は大きいものなのでしょう。
でも大変ですが。

NHKでドラマ化されていました。
https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=4588

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