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「赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの」ジャック・デリダ著 ”赦すということを哲学的に考察”

2022-07-27 02:34:08 | 本の紹介
・みずからの過ちを告白しないような誰か、改悛せず、明示的にせよそうでないにせよ、赦しを乞わないような誰かを人は決して赦すことはできないだろう。

・犯罪があまりに深刻であるとき、それが根源悪の一線、それどころか人間的なものに一線を越えてしまっているとき、それが怪物的なものと化してしまっているとき、赦すことはもはや問題とはなり得ないであり、赦しとは、こう言ってよければ、人間たちのあいだ、人間的なるものの尺度のうちにとどまるべきものである、ということ。

・主権者は、彼自身を狙ったものではなしに犯された罪に対しては恩赦を授ける権利をいかなる場合にも持たず、持つべきではない、と臣民たちによって臣民たちに対して犯された罪に対しては-したがって彼にとっての第三者でもあう者たちのあいだでの罪に対しては、彼は恩赦権を持つべきではない、

・愛による運命との和解が可能であるとヘーゲルは主張するのである。

・『時効にかかり得ぬもの』の中で彼が作動させているものである。

・マルセル・モースがつとに解明したように、贈与はそれを受け取る者に「負債」ないし「返礼の義務」の感情を生じさせ、そこから受講者は「対抗-贈与」を行うべく促される。そして実際に「対抗-贈与」がなされることにより、社会は贈与者・贈り物・受贈者という三項からなる安定した関係性を構築することになる。
この場面において贈与はその純粋性を失い、交換、取り引き、計算へと変質してしまっていのである。

感想
赦す前に犯罪者が正直に事件の事実を述べ、そして赦しを乞うということがあって初めて成り立つとの考えは、なるほどと思いました。
赦しのなかには赦しの対象になるものとならないものがある。
それは人間的な限度を超えてしまったことは赦しの対象にはならない。
赦すことができるのは誰か。それができるのは主権者(国家)ではなく、被害を受けた者だと。
刑法の時効について。
赦しと和解。
赦しと贈与など。
よくわかりませんでしたが、こういった視点で”赦し”を考えたことがありませんでした。

アポリア(難題)という言葉を知りました。

人生は、”アポリア”との遭遇そのもののように思います。
そのアポリアがなぜ私に?と問うことよりも、どうするかが問われているのでしょう。
”赦し”はまさに”アポリア”なのでしょう。

”赦し”は研究テーマでもあるようです。
赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの [著]ジャック・デリダ
https://book.asahi.com/article/11599907 好書好日

 本書は、仏のユダヤ系哲学者が、ナチスのユダヤ人虐殺を断罪した哲学者V・ジャンケレヴィッチの論考や手紙を分析しながら、難題「赦(ゆる)し」について深く掘り下げた思索の軌跡だ。「時効にかかり得ぬもの」「償い得ぬもの」と指弾された虐殺。しかし、赦しは「償い」から解放されるべきかどうか。ユダヤ人の実存自体を罪としたドイツ人から赦しを乞う言葉を得ることは、赦し・感謝につながるのか。赦しや正義をめぐる言表行為の中に「前もって書き込まれている偽証」、「赦しを乞う—赦す」ことの可能性・不可能性とは何か。戦後70年の安倍談話をふまえ、戦争犯罪と和解について再考したい向きに、難解だが示唆に富む一冊だ。

赦し、ほとんど狂気のように ―― デリダの宗教哲学への一寄与 川口 茂雄
https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2011/08/rel-annual2005-no.6.pdf


不可能な赦しの可能性 ― 現代宗教哲学の観点から ― 佐 藤 啓 介
http://jare.jp/admin/wp-content/uploads/2017/05/sato-religion_ethics04.pdf

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