幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「世界は贈与でできている 資本主義の『すきま』を埋める倫理学」近内悠太著 ”サンタクロースは贈与の姿を借りて”

2021-01-06 03:44:44 | 本の紹介
・1990年代のスイス
原子力エネルギーに大きく頼っているこの国では、核廃棄物の処理場が必要だった。
その建設候補地をして、ある小さな村が選ばれた。
建設の可否を決める住民投票の前に、数名の経済学者が、村の住民に対して処理場を受け入れに賛成か反対か、事前調査を行った。すると51%の住民が「処理場を受け入れる」と答えた。
そこで経済学者たちは、一つの前提を加えた上で、もう一度アンケートを実施した。
「国が全住民に毎年、多額の補償金を支払う」という前提だ。つまり、処理場を受け入れてもらう「見返り」として住民の皆さんに大金を払いましょう、という提案を付け加えたのだ。
すると、結果は予想に反して、賛成派は51%から25%に半減してしまった。
これは『これからの「正義」の話をしよう』で日本でも注目された政治哲学者、マイケル・サンデルの著書『それをお金で買いますか』で取り上げられている実話です。
誰かが引き受けなければならない、市民としての貢献は「お金で買えないもの」だったわけです。
僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動を「贈与」と呼ぶことにします。

・哲学者の戸田山和久は、「哲学とは結局のところ何をしているのか」という問いに、「哲学の生業は概念づくりだ」と答えています。では哲学は何のために概念をつくるのか。答えは「人類の幸福な生存のため」です。

・ハラリの言葉「サピエンス全史」
人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的絆を結べるものを優遇した。

・カール・マルクス
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。

・映画「ペイ・フォワード」から得られる教訓、それは「贈与は受け取ることなく開始することはできない」というものでした。そして、これが贈与の原理の一つです。

・問題は、僕らは、自分のことを手段として扱おうとして近づいてくる人を信頼することはできないことです。親切にされればされるほど、何か裏がある、打算があるはずだと感じてしまう。

・誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。

・インセンティブとサンクションの幻想 サミュエル・ボウルズ著『モラル・エコノミー』
ボストンのある消防署。消防本部長は、月曜日と金曜日に、消防士たちの疑わしい病気欠勤が集中していることに気づいた。そこで彼は、有給病欠の年間上限を計15日までと設定し、上限を超えた消防士には言及を命じた。
その結果はどうなったか。予想に反してクリスマスと元旦の病欠連絡が、前年の10倍に増加してしまった。それに対して、消防本部長は今度はボーナスの一部の支給を取りやめることを決めた。すると消防士たちはそれを不快に思い、前年と比べて2倍以上の病欠日を申請することで応じた。
イスラエルのある託児所。この施設は、親たちが子供を迎えにくるのが遅いという問題に直面していた。そこで託児所は、遅刻する親たちに罰金を科すことにした。するとどうなったか。予想に反して、親たちは遅刻回数を2倍にするという反応を見せた。
どちらのケースも、減給や罰金というサンクション(制裁)によって、逸脱行為や違反を減らそうと試みた結果、逆効果になってしまったという、たいへん興味深い事例です。
この二つの事例は交換の論理と関係しています。
なぜそんなことが起こったかというと、申し訳なさやうしろめたさを、金銭と交換させてしまったからです。金銭を払うことで負い目をチャラにできてしまったのです。

・献血は無償の善意であり、自身の血液を差し出すという、きわめて贈与的な貢献です。にもかかわらず、そのような社会貢献活動は人気がない。
その理由は「直接的なレスポンスが得やすいかどうか」にあるといいます。
言ってしまえば、献血はコストパーフォーマンスが悪いということです。
どうやら、自分の行為がどれぐらい人の役に立っているのかが認識しにくいから積極的になれないということらしいのです。

・「贈与は、それが贈与だと知られてはいけない」ということです。

・贈与は名乗ってはなりません。名乗ってしまったら、お返しがきてしまいます。贈与はそれが贈与だと知られない場合に限り、正しく贈与となります。
あれは贈与だったと過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名にふさわしい、だから、僕らは受取人としての想像力を発揮するしかない。

・「16時の徘徊」の合理性
その男性の母親は認知症を患い、毎日16時になると外へ出て行ってしまうという。
いわゆる「徘徊」だ。
男性は、必死になってその外出を止めようとすると、母親はわめき、暴力をふるう日々が続いた。
「母さん、どうして毎日16時に外出しようとするの?」
尋ねてもはっきりした返事はない。
どうすることもできなくなり、彼はベテランの介護職員に相談した。
すると介護職員は何を思ったか、母親の兄に連絡を取った。そして「16時」というキーワードで何かヒントは無いかと尋ねる。すると伯父は、「16時」とは幼かったころの息子が幼稚園からバスで帰ってくる時間ではないかと言う。
その話を聞いた介護職員は、母親にこう告げた。「今日は息子さん、幼稚園のお泊り会で、帰ってきませんよ。バスも今日は来ませんよ」。おまけにニスモノの「お泊り会」の案内状まで作って母親に見せた。
するとどうだろう、母親は、「そうだったかね?」と言って部屋に戻っていった。
その日を境に、同じように「今日は帰ってきませんよ」という説明をしてあげるだけで、「16時に外へ出て行ってしまう」という行為はなくなった。
『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』酒井穣著
母親は、昔の鮮明な記憶の世界において、毎日16時に、幼い息子を迎えに行っていたのです。
「実はこの私を迎えに行っていたのか」と気づいた時点において、母の行為が数十年の時間を跳び越えて、今ここに贈与として立ち現れたわけです。

・他者のことを理解できないのは、その心の内側が分からないからではありません。その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから理解できないと感じるのです。
男性はその職員に相談しなかったら、「徘徊」とはまったく別の可能性を疑うことができなかったのではないかと僕は思います。なぜなら、僕らの言語ゲームではその母親の振る舞いを「徘徊」と見なすからです。「疑い」と言うとネガティブな印象があるかもしれません。が、そうではなく、それは「自分の言語ゲームに対する問い」なのです。

「君の好きなとこ」平井堅

・サンタクロースは人ではありません。
見返りを求めない純粋贈与という不合理性を合理性へと回収するために要請される装置、機能に与えられた名前であり、贈与の困難を切り抜ける方法だったのです。

・実践を通してゲームが成立するがゆえに、事後的にルールというものがあたかもそこにあるかのように見える、というのがウィトゲンシュタインの主張のポイントです。
ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを「言語ゲーム」と名づけました。

・ある意味では、ウィトゲンシュタインが示した言語観は僕らには馴染みのあるもかもしれません。それは言霊です。

・他者と共に言語ゲームを作っていく
僕らが他者を理解できないのは、その人の言語ゲームが見えないからです。

・他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです。

・アノマリーとは、「(科学的)常識に照らし合わせたとき、うまく説明のつかないもの」一般を指す言葉です。
発見は、変則性(アノマリー)に気付くこと、つまり自然が通常科学に共通したパラダイムから予測を破ることから始まる。『科学革命の構造』

・ホームズの推理に共通するのは、「アノマリーの列挙」と「常識、確実な知識」の組み合わせによって、隠された謎を解くという方法論です。

・アノマリーとは「過去」からのメッセージだったのです。

・ホームズが推理の種明かしをされたワトソンが「ぼくの目だって、きみと同じくらいにはいいはずなんだが」とぼやくと
「きみは見ているだけで、観察していないんだ。見ることと観察することとは、まるっきり違う。たとえば、玄関からの部屋へ上がる階段を、きみは何度も見ているね」
「ずいぶん見ている」
「何度くらい?」
「そうだな、何百回と見ているな」
「じゃあ聞くが、何段ある?」
「何段かだって! そんなの知らないな」
「そうだろう! 観察していないからだ。見るだけは見ているのにね。ぼくの言いたいのはそこなんだよ。僕は17段だということを知っている。見るだけでなく観察しているからだ」『ボヘミアの醜聞』

・求心的思考/逸脱的思考、この二つを合わせて「総合力」と呼ぶことにします。

・逸脱的思考とは、世界と出会い直すための想像力のことでした。世界と出会い直すことで、僕らには実は多くのものが与えられていたことに気づくのです。

・その功績が顕彰されない陰の功労者、歌われざる英雄(unsung hero)アンサング・ヒーロー。それはつまり、評価されることも褒められることもなく、人知れず社会の災厄を取り除く人ということです。

・贈与は市場経済の「すきま」に存在すると言えます。

・贈与に関して、自閉症を抱える作家の東田直樹注)は次のように問いかけています。
「命のバトン」という言葉があるが、これは命をつないで生きることを意味しているのだろうか。僕は、命というものは大切だからこそ、つなぐものではなく、完結するものだと考えている。
人が死んで思いが残る。そう考えるのは、生きている人である。死んだ人が死んだ後、何を思っているのか本当のところは分からない。死んでからの自分がどうなるのか、何を考えているかは、死んでみないと誰にも分らないのだ。命がつなぐものであるなら、つなげなくなった人は、どうなるのだろう。バトンを握りしめて泣いているのか、途方に暮れているのか、それを思うだけで僕は悲しい気持ちになる。『自閉症のうた』

・教養とは誤配に気付くこと
端的に言えば、教養とは、誤配に気付くことです。
どれだけ多くを知っていたとしても、それだけでは教養とは言えません。
手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、そしてその知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶのです。
そしてその人はメッセンジャーとなり、他者へと何かを手渡す使命を帯びるのです。
使命感という幸福を手にすることができるのです。

感想
贈与とは知られてはならない。
タイガーマスクと名乗る人がずーっとランドセルを贈り続けていました。
まさに贈与なのでしょう。
そして誰が送ったかはずーっと後に分かることなのかもしれません。

人知れず誰かのために何かのために行うこと、それが贈与なのでしょう。
そして名もない贈与が社会の隙間を埋めて社会をスムーズに回しているのかもしれません。

「風になる-自閉症の僕が生きていく風景」 東田直樹著
著者の東田直樹さんは重度の自閉症のため、頭にうかんだことばを覚えていることが難しく、通常の会話ができないそうです。

そこで、手作りの紙の文字盤を指差しながら、一音、一音、発し、一かたまりのことばとして発語します。
「今日は、僕のついに出ることになった本の記者会見の会場に来てくださり、ありがとうございます。
この本を書いたのは、自閉症の人たちは特別な存在ではなく、みんなと同じように悩み、苦しみ、そして喜んでいたり、楽しんでいたりしていることをわかってもらいたかったのです。
自閉症の説明をしていると思われるかもしれませんが、どちらかというと、僕の価値観を表現したものです。
どうか多くの方に読んでもらいたいです。どうぞよろしくお願いします。おわり」
筆談を経てたどり着いたこの独自の発語方法で、ゆっくりと発語する直樹さんのご挨拶で、会見は始まりました。

自閉症の自分は一人では生きられない。誰かの助けが必要。生きててよいのだろうかとの自問自答。
そして、生きていてよい。存在の価値はあると信じてできることを精一杯されています。

先ずは、自分の存在は大切なもの。自分は存在していてよいんだと信じることから始まるのではないでしょうか。
そして、どんな人も生きている価値はあると信じます。相手の尊重です。
その価値をどこまで高められるかは、自分の持っている、あるものを、どれだけ生かすかだと思います。

神様は一人ひとり違う使命を与えてくださっていると考えます。
その使命を遂行するために今の状況を神様が与えている。神様からのプレゼントだと。
神様が他の人に与えているプレゼントを羨ましく思ってもどうすることもできません。
与えられているものを活用して、どうするかは私たちができることではないでしょうか?
それを生かすと、他の人より劣ったと思った(神様からの)プレゼントが大きな輝きを発するのだと思います。

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