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「明治の女子留学生 最初に海を渡った五人の少女」寺沢龍著 "帰国後、日本語を忘れていて、文部省から仕事の依頼がなかった!”

2021-04-26 01:12:00 | 本の紹介
・津田梅子(六歳)、永井繁子(十歳)、山川捨松(十一歳)、吉益亮子(十四歳)、上田悌子(十六歳)である。その身元はいずれも幕末維新の戦いで賊軍とされて幕臣や佐幕藩家臣の子女たちであり、官軍と称した側には一人の応募者もあらわれなかった。幼い五人の少女たちの応募は、もちろん彼女たちの意思ではなく、その親たちにそれぞれの思いのこもった決断があったのである。

・岩倉使節団には、男子53人、女子5人というおおぜいの留学生が同行した。

・吉益亮子は大陸横断の途中に雪で眼を傷めたため、・・・、彼女を帰国させることに決まった。上田悌子もおなじく病を負っていたらしく、自ら願って帰国を申し出ていたのである。
亮子と悌子の二人は帰国することになる。・・・日本を発ってからほぼ一年が過ぎていた。

・女子留学生の米国派遣を発案したのはだれか
この疑問を追っていくと、二人の人物に行き当る。ともに薩摩藩出身の黒田清隆と森有礼である。

・なぜ、海外への女子留学生に「幼稚」の女子を対象としたのであろうか。その理由については、十年間という長期の留学期間にかかわりがあるのではないか。帰国後の婚期を考慮すると、娘を留学させる親の立場としてためらいがあろうから、募集者の年齢を極力低く制限せざるをえない事情が生じたのであろう。当時の女性の一般的な結婚年齢は、数え年の15、16歳から18、19歳ころである。

・この留学はなぜ十年もの長期の期間が必要だったのか。このことについてもそれを説明する資料は遺っていない。

・先に帰国した吉益亮子はコレラで死亡
吉益亮子と上田悌子の二人は、ミッション・ホーム(横浜共立学園)に入学した。二人とも多少、英語を話せたので米人女教師の受けはよかったようである。
明治18年に、父親の吉益正雄は、28歳の娘の亮子を校長とする私塾「女子英学教授所」を東京・京橋区南鍋町(現在の銀座6丁目)に開校したが、翌年の秋に、亮子は当時大流行したコレラに罹って亡くなった。

・悌子はこのとき25歳だったが、蘭医師の桂川甫真の長男・甫純に嫁いでいた。妻の悌子は二人の間に男二人、女四人の子どもをもうけている。悌子は昭和14年1月7日に没した。享年85歳である。五人の留学生のなかではもっとも長命であった。

・日本に帰国するとき、彼女たちがもっとも心配したのは、自分たちが日本語を忘れてしまっていることだった。梅子の場合は、日本に育ったのは7年足らずで、まだ子供言葉の時代であり、日本語を話す機会をなくしている。日本に帰ってから、日本語の習得にずいぶん苦労して努力もしたが、梅子の日本語は終生、外国人風の発音だったという。・・・このために、彼女は日本での後半生に大きなハンディキャップを背負うことになった。

・津田塾大学の屋根裏で発見された梅子の500通の手紙
津田梅子がランマン家(留学中お世話になった家庭)の婦人のアデリンに宛てた30年近くに渡る500通ほどの肉筆の手紙と、ランマン夫人が梅子に宛てた百数十通の書簡が発見された。梅子の没後すでに55年の歳月が過ぎており、その間、大学関係者のだれにも知られずに、大量の貴重な資料が屋根裏に眠っていたのである。

・帰国しても仕事がなくて悩む捨松と梅子
黒田清隆邸訪問から数日後に、捨松と梅子は文部省を訪ね、自分たちの仕事のことを相談したようである。その後しばらくのあいだ、文部省からの連絡を待ったが、結局、なんの沙汰もなかった。
捨松と梅子は、官費留学生として帰国した自分たちがいま、むつかしい立場と状況にあることを覚って悩んだ。

・繁子は、梅子たちよりも1年早くに帰国し、文部省直轄の「音楽取調掛」の「洋琴奏師」に採用され、年防360円の高給を受けることになった。繁子は、アメリカで初めて洋琴(ピアノ)を知り、興味を抱いたことからこの道に進んだのだが、結果として彼女の留学での成果に専門性が備わり、捨松や梅子ともちがって文部省からの声もかかったのである。当時、正規にピアノを弾ける日本人はいなかった。繁子は日本語が不自由であったが、ピアノ演奏の技法の指導には言葉よりも手指の運びの実技が優先されたので、洋琴奏師を務めることができた。
(海軍中尉・瓜生外吉と結婚)

・捨松の心境の変化と結婚の決意(大山巌の後妻として)
「現在のところ、私が就職できるような仕事はまったくありません。教えることだけが今の日本が必要としていることではないと思います。いま一番やらなければならないのは、社会の現状を変えることなのです。日本ではそれは、結婚した女性だけが出来ることなのです。」

・梅子は、桃夭女塾(伊藤博文の支援で下田歌子が開いた)で生徒と下田歌子(実践女子大学創立者)に英語を教え、歌子から国語と習字を習った。

・鹿鳴館で催された日本最初の慈善バザー
「有志共立東京病院」(のちの「東京慈恵会医院」)内に日本最初の看護師養成所を設立するために、その資金を集める手段として西洋流のバザーを思いついたのである。捨松が実質上の準備責任者とされた。捨松が目標とした千円をはるかに超える7,865円の売り上げを手にした。

・宮内庁所管の官立「華族女学校」の教授補として採用され、中学科の欧語学(英語・仏語)の英語を担当した。「明治女学校」にも、梅子は英語教師として兼務することになった。

・津田梅子はふたたび米国への留学を目指す
やはり自分で学校を開かなければとの思いがつよくなった。よりより学校をつくるためには、梅子は自身が高等教育を修めることと、よりよく教えるためには師範学校教育を履修する必要があると考えた。

・梅子は米国に再留学3年、生物学と教育・教授法を学ぶ

・音楽教師の職と夫への内助と子育ての三役をこなす繁子

・津田梅子は三度目のアメリカ渡航

・梅子の学校設立の決意とその資金づくりの苦心

・米国で梅子の支援組織が結成されアリスが再来日

・津田梅子は「女子英学塾」を創立する

感想
明治初期に女性5人をそれも幼い子どもを10年の長期にわたって留学させたのもすごいと思いました。
山川捨松は当時、女性は結婚しないと活動ができないとの思いで、二度も結婚を申し込んでくれた大山巌と結婚し、女性の地位活動に貢献しました。
そして、津田梅子を支えて、女子英語塾創立を支援しました。

明治には多くの人が海外に出て、学び日本の礎を築いてきました。
学ぶ姿勢は、忘れないようにしたいと思いました。

それと、女子教育に貢献したい、留学に投資された費用に見合うだけのことを日本に返したいとの思いが時間をかけて実現しました。
思いを持つこと、そしてそれを実践していくこと、それを教えていただきました。

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