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ここで死ぬんだ…爆弾破片が顔に命中、米軍治療で一命 沖縄戦経験の女性「誰もこんな目に遭わせたくない」 ”語り続ける熱意と使命感”

2017-08-15 11:50:00 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00010001-saitama-l11 埼玉新聞 8/15(火)
 「戦争のせいでこんな顔になったんだ」。沖縄県民の4人に1人が犠牲になったといわれる太平洋戦争末期の沖縄戦。13歳だった新垣(にいがき)文子(ふみこ)さん(84)=埼玉県越谷市=は、顔に爆弾の破片が当たり大きな傷を負った。「もう誰もこんな目に遭わせたくない」と、2年前から自身の過酷な体験を語り始めた。

 沖縄県首里市(現那覇市)で7人きょうだいの長女として育った。父が時計店を営み、経済的にも恵まれていたが、「幸せな家庭は戦争によって奪われた」。長男は学徒動員され、次男は疎開。残った家族7人は、ガマと呼ばれる洞窟や防空壕(ごう)に隠れながら南へと逃げた。父は4歳の弟を、母は2歳の弟を背負い、新垣さんは6歳と8歳のきょうだいの手を引いた。

 沖縄戦終結間近の1945年6月13日。米軍による爆撃が襲う中、壕に入れず近くの民家で身を潜めていた。危険を感じた父親に手を引かれ、その場から逃げようとした瞬間、爆弾の破片が新垣さんの顔に当たり、気を失った。

 目が覚めると頭が鉛のように重かった。顔は腫れ、顔の中心に「ざくろのような」穴が開いていた。父に担がれて野戦病院へ行ったが、医師からは「助からない」と言われた。薬すらもらえない。意識がもうろうとし、これ以上逃げることはできなかった。一家は壕に戻り、残されていたわずかな食料で2日間を過ごした。「私はここで死ぬんだ」。新垣さんは覚悟した。

 2日後、家族は米兵に見つかり捕虜となった。米軍による治療のおかげで容態は落ち着いた。「もう少し遅かったら駄目だったと思う」。約3カ月にわたる沖縄戦で、出兵した15歳の長男は戦死したが、残る家族は生き抜いた。

 戦後、顔に大きなばんそうこうを貼って、高校に通った。男子生徒にからかわれることもあった。卒業写真は撮影を拒んだ。「私は元々こんな顔じゃない。戦争のせいでこんな顔になったんだ」。戦争への強い怒りは、次第に「打ち勝ってやろう」という生きる力に変わっていった。

 19歳の時、後に「おばあちゃん」と慕うようになる米国人女性と出会う。顔の傷を見た女性は手術の援助をしてくれた。10回以上の形成手術により、傷は目立たなくなった。「きっと加害者としての気持ちで助けてくれたのだと思う。けがはしたけど、恵まれていた」

 顔の傷を理由に諦めていた結婚だったが、東京で再会した高校の同級生と30歳で結ばれ、2人の子宝に恵まれた。一方、不安もあった。「私の顔のせいで子どもたちが学校でいじめられていないか」。そんな気掛かりから、子どもたちに戦争について全てを伝えることはできなかった。

 語り始めたきっかけは2010年、沖縄戦をテーマに朗読を行う女優の谷英美さん(52)=川越市=との出会いだった。谷さんは新垣さんの体験を基にした作品「顔」を朗読していた。新垣さんはそれを聞くうちに、「私も伝えたい」と思い始めた。

 「こんな傷がなければと考えてしまうことがある」。それでも、新垣さんは講演の依頼を引き受ける。「自分の体験を話すのは魂の叫び。もう誰にもこんなつらい目に遭わせたくない」

感想
戦争体験を話すことで、戦争の悲惨さの一部を知ることができます。
戦争を始める人は、安全なところで、自分が傷つくこともありません。
しかし、その人が始めた戦争で多くの兵士がそして一般人が犠牲となりました。

戦争体験を話す人が高齢になり、だんだんと少なくなっています。
戦争はどんなことがあっても起こしてはいけない。
そのための努力をしなければなりません。
戦争ができる国にするための努力は戦争になる確率を高めるだけだと思うのですが。

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