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「不登校のこころ 児童精神科医 40年を生きて」渡辺 位(たかし)著 ”「常識」を疑う”

2023-12-30 18:00:18 | 本の紹介
・初診の日には、診断をつける対象に会うことよりも「今日はどんな子がくるのかな」と、その子ども自体に出会えることを楽しみにしてきたように思えます。

・上野動物園の前園長だった中川さんは、90%動物の側に立つと動物がわかっている、といっておられます。

・暴力化する理由
 ①朝起きて来なかったり登校の準備をなかなかしないので、家族が強引におこしたり行かせようとすると、抵抗して暴力を振るいます。当人にしてみれば、登校できないことへの負い目やバツの悪さを感じているだけに、それを無視した一方的なやり方への抵抗や反感から暴力的になるのです。
 ②なんとか登校しようとしても、それができない自分が情けなく、つらい苦しい気持ちから両親に頼って助けてもらいたいのですが、両親は子どものそうした心の内を察するどころか、大人や学校の論理で子どもに圧力をかけるので、頼りたい気持ちが反転し暴力化するのです。
 ③学校に行けない自分を「自分はダメな人間なんだ」と自責して人生を絶望し、「どうなってもいいや」と自暴自棄になることからの暴力化で、自殺にも通じる心理が働いているといえるでしょう。
 ④強迫神経症となった場合です。登校拒否に陥った場合、一日に何度も手を洗ったり着替えをしたり、その他同じことを何度もくり返したりと、強迫行為が現れてくることがよくあります。そして、その強迫行為が思うようにいかないことがあると、イライラしたり不安が強まってきて、興奮して暴力的になります。強迫行為が現れるのは、登校など社会で決められた枠にうまくおさまれないことに引き目を持ち、自分を責め、葛藤するからです。

・臨床経験からすると、たとえば登校拒否に陥っている子どものほとんどが自分の現状に否定的であり、一度は「死にたい」と思った者は半数以上にのぼる。それほど学校に在籍している子どもの欠席することへの罪悪感は強いのである。

・今なお大人社会は、登校拒否に対し、子どもの資質や両親の育児が問題だと信じ、強い偏見を持っている。それが登校拒否状態となった子どもとその両親への心理的圧迫となり、両親は一層子どもに再登校を願い、子どもはさらに引け目や負い目を強く持たされることにもなるのである。登校拒否状態にある子どもは、必ずしも人嫌いでも引きこもりがちな子どもでもない。偏見のまなざしを向ける社会と、その圧力によって学校教育にこだわり、「学校に行っていないと世間体が悪い」「学歴がないと将来生きて行けない」などといって登校拒否を受け入れることができない家族との間では、子どもはどこにも居場所がなく、まさに格子なき牢獄につながれたも同然となり、ときにはそれが死を求める動機にもなるのである。

・登校拒否への対応は、単純に子どもを息詰まる学校にふたたび戻すことでも、社会の都合に合わせた建前や通念にこだわり、それらによって子どもを束縛することでもなく、まず、社会の登校拒否への偏見をあらためることと同時に、個々の子どもの主体性が尊重されて、それぞれの資質にしたがい本質的な自己を自由に表現することが許され、それによって伸びやかな成長・発達が保障されるような子どもの居場所を大人側が真剣に考えることであろう。

・私も最初は不必要な入院を勧めた一人だったのですが、そうではないのではないかということに気づいてから、親と共に、家族と共にという時代が来るわけです。

・複数の家族との面接がきっかけとなり、「親の会」が生まれました。国府台病院のなかの登校拒否の親の会である「希望の会」は、このような事情からできたのです。・・・
十周年にあたる1983年に、記念にこれまでの会報をまとめては、という意見が出されました。そして、最終的には会報のまとめではなく、『登校拒否-学校に行かないで生きる』という本が出版されました。

・家族が安心して子どもの側に立つことをできなくしている社会の状況こそ、問題なのではないか、子どもを追いつめ家族をも追いつめる社会の状況こそ、病理性を持つものとして、”治療“の目標にすべきではないか。ということでした。

・“登校拒否を考える会”よりも、“登校を考える会”をつくって、子どもが登校しているけど、なぜ登校するのか、今のまま登校してよいのだろうか、などをみんなで考えてみるほうが大切なのではないかと思うのです。

・“おまえは学校に行けないダメなやつだ”と決めつけると、子どもも素直にそう思い込んで、“僕はダメ人間なんだ”と思いこんで、一生だめ人間である、という考えをもとにした人生を生きることになるわけです。

・物事を決めつけて考えず、幅広い柔軟な見方で見直すということが、悩みを抱える一部の人々だけではなく、もっと社会一般に広がらなくてはいけないと思います。人に対する、社会の考え方、見方、在り方が変わることがまた、社会との関係のなかで個別の悩みを持つ方の生き方を変えることにもなるはずです。

・登校拒否の問題というのは、登校拒否をつくりあげる「常識社会」の問題なんだといえるのです。そのような「常識」こそ、常識といいながらそれは人間ほんらいの自然のありようから出発した常識ではなくて、ほんらいの人間の在り方とは別の、たとえば社会側を中心にして考えた「常識」とでもいえるようなもので、その「常識」のなかで今いったような事態がおこっている、そういうふうに考えられるわけです。・・・
 そういう「常識」のなかで、人がほんらいの人であることが押しつぶされつつあると思うのです。

・私は最終的に、理由がどうであろうと、不登校があっても不思議はないと先ほど申し上げました。さらにもう一つ申し上げたいことがあります。残念なことですが、日本の学校の在り方が不登校を増やしているということです。 

・私はかつていろいろな本に「登校拒否の対応の三原則」と書いたことがある。でも最近はそrを強調するのをやめた。やめた理由というのは、三原則を書いたら三原則をその通りに守りさえすれば、また学校へ行くようになるかと思っている大人がいるからです。
 私はそんなことをいっていたのではないのです。その三原則とは、
 ①学校へ行け、行けという登校督促をするなということ
 ②本人もまわりも学校、学校といって、学校に行けないのか行けるのか、あるいは学歴、学力、学校体験などということにすごくこだわるので、そうった学校に関するいろいろなことへのこだわりを即刻とり去るということ、つまり学校や学校教育へのこだわりから脱却しろということ
 ③学校に行けない、行かないことは、それなりの価値なのだからをマイナスに見ない
ということです。

・要するに、病む社会のなかで苦悩する子どもにつき合っていこうと思ったら、社会を病ませている枠のなかの自分から一歩出ない限り、その苦悩する子どもとはつき合うことなどできはしないのだ、ということを申し上げたかったのです。
 そして、くり返しになりますが、なぜ子どもが苦悩する状態になるかというと、それは、大人たちが自分たちの「常識」で、病む社会のなかにまるでカゴのなかなの鳥のように子どもを枠づけして、登校拒否という事態に追い込むためだということです。そこで、そういう点について認識をしてみることが大事なんだろうと考えているわけです。

感想


 学校が子どもたちが安心して居られる場所でなくなってきているのかもしれません。
学校が安心して居られる場所と感じない子どもが増えているのでしょう。
あるいは教える先生側が安心しておられる居場所提供が減ってきているのか。
あるいは文科省の指導が子どもを国の発展のためにとの思いが強くなった人創りになっているのか。

 国のためではなく、子どもたち一人ひとりが幸せに生きるための知識と技術を学ぶ場であるところだと思うのですが。

 「東京シューレ 子どもとつくる20年の物語」奥地圭子著渡辺位先生のことがあったので、読みました。
 子どもたちが安心して居られる場所を確保したいとの思いで「東京シューレ」が始まったことがよくわかりました。

  これら3冊の本を読み理解したことは、「不登校の子どもを学校に通えるようにすることが子どものためにも大切で必要なのだ」と思っていたことがそうではないということでした。
 学校が居場所でない子どもを無理に学校に行かすことより、その子どもに合った居場所を提供し、子どもが自分の人生について考えることに大人が伴走者として寄り添うことが、子どものためにやることだということだと理解しました。



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