幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「プレッシャーに負けない-夢中になれば奇跡が起こる」梅沢由香里著 ”美人で囲碁も強くて大学も出て素晴らしいと思っていたが、こんなプレッシャーと戦って今があったとは知らなかったです”

2022-05-05 00:53:28 | 本の紹介
・小学校一年生、六歳の子どもの日、父から手渡されたプレゼントの包みを大喜びで開けると、出てきたのは・・・囲碁セット。
「なんだこりゃ?」
って、不思議に思ったのがことのはじまり。
父も、別に囲碁が好きだったわけでもなんでもなく、打ったことすらなかったのに、なぜあのときの囲碁セットなんて買ってきたのか、いまだに謎です。

・週末はいつも、囲碁教室か碁会所に、父に連れていかれました。平日も、学校から帰ると、碁のドリルを解く勉強を毎日2~3時間させれたもです。
「ほかの友だちは楽しく遊んでいるのに、なんで私だけ・・・」と、内心納得がいきませんでした。
それでも囲碁をつづけてきたのは、私が「負けず嫌い」だったからです。

・普段はなにをしてもかなわない大人に、囲碁でなら、子どもの私でも勝つことができる。これは、とても大きな発見であり、快感でした。
囲碁は、勝ち負けがはっきりしています。ほかの習い事はどれもつづかなかったのに、囲碁だけがつづいたのは、勝ち負けがはっきりつくという面白さがあったからです。
勝つ喜び、楽しさをしるにしたがって、私はだんだん囲碁にはまっていきました。

・対局に負けたあと、帰りの電車の中で、人目をはばからずに、電車を降りるまで30分以上も怒鳴りつづける父、そして、それをうつむいて聞いている小学生の私。・・・
あたりまえだけれど。怒られるのはつらいし、いやなものです。
「負けたらお父さんに怒られる」というのが、人生最初の大きなプレッシャーでした。
勝てばほめられ、負ければ怒られる。私の子どものころの囲碁生活は、まさに天国と地獄をジェットコースターで行き来しているようなものでした。地獄はつらい。でも、地獄があるから天国がもっと輝く、その天国をまた味わいたくてがんばる、その繰り返しでした。

・「なんで負けたんだ」と言われても、理由なんて答えられませんよね。「弱いから負けた」としか言いようがないのに。でも、そう答えると、さらにこっぴどく怒られることになります。・・・
でも、私もあとになってわかったことですが、「負けた原因」をつきとめることは、実はとても大事なことなんです。
負けた原因をつきとめて、その失敗を繰り返さないためにはどうすればいいかと工夫することで、一歩前進して、その分強くなる。それが父の考えでした。
負けたこと、うまくいかなかったことは、いやな記憶ですから早く忘れたい。でも、そこをぐっと我慢して、なぜだめだったのかを考えてみる。これは、自分の弱点を知る、大事な作業でした。

・中学二年生の終わり、十四歳で加藤(正夫)先生に弟子入りし、プロをめざす人が入る日本棋院の院生になります。プロを目指すには、遅いスタートでした。

・高校二年生のときのことです。私はその日も、プロになるための大事な対局に負けてしましました。それは、とてもとても、くやしい負け試合でした。
自分なりにがんばって、精一杯戦ったすえの負け、本当にくやしくてつらくて、なにも話したくないほどに落ち込んでいました。
それなのに父は、そんな私を、容赦なく責め続けました。
食事の間も、ずっと「なんで負けたんだ」「説明しろ」と延々と説教をつづける父、私はついて怒りました。
「いいかげんにしてよ! 負けて、いちばんつらいのは私、お父さんじゃない!」
気がついたら、そう叫んでしました。
父は、思ってもみなかった私の反撃に驚いたのでしょう。むすっとした顔で、黙って部屋を出て行きました。

・子どものころから、囲碁づけの生活を送ってきた私でしたが、だからこそ、「囲碁だけの人」にはなりたくなかったんです。大学に行って、囲碁以外の世界を見て、いろいろな人に出会い、いろいろな考え方を吸収したい、そんな好奇心がありました。そうした前向きな気持ちの一方で、迷いが生まれていたことも事実です。
比較的順調に囲碁の世界を歩んできたものの、プロの試験になかなか合格できなかったことではじめて、「なんで私はプロをめざそうとしたんだろう?」という疑問がわいていました。

・大学一年生のとき、院生からプロになる最後のチャンスだった試験の対局で、ギリギリのところで負けてしまいました。ここで気持ちがきれてしまったんですね。・・・
そしてついに、19歳という年齢制限で、日本棋院の院生を卒業せざるをえなくなりました。卒業というのはソフトな言い回しで、つまりクビになったということです。
プロになるという目標を見失い、加藤先生のところにも、無断で行かなくなってしまいました。
こうして私は、子どものころから生活の中心だった囲碁から遠ざかってしまったのです。

・そんなさなか、大学三年生の五月、私は全日本アマチュア本因坊戦東京都大会で優勝をはたしました。
男女混合戦の大会なのですが、女子で優勝したのは私がはじめてでした。その話題性もあり、新聞にも取り上げられました。
父は、それはもうすごく喜んで、その新聞記事を一日に何十回、何白回と見ていました。
父は、亡くなる直前まで、その記事を見ていました。父が亡くなったのは、私が優勝した一週間後のことでした。

・私の中で、つねに囲碁と父はセットでした。それまで、私にとって囲碁は、自分自身が好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか、という以前に、「父にやらされているから、やっている」ものだったのです。
でも、その父がいなくなった。やめようと思えば、やめられる。
そうなったとき、「自分の人生に責任を持とう、自分で決めよう」、そう思いました。そして、「自分の人生は自分で選ぶものだ」ということに、はじめて気がついたんです。
そこから、「私は、本当はなにがしたいか」を考えはじめました。・・・
「私には囲碁しかない」
自分探しのすえに、そのことにはっきり気がついたんです。
そして、プロをめざして再チャレンジする決意をしました。

・本気で努力して、それがダメだった、きっと絶望してしまう。
私は、ずっとそれが怖かったんです。
それが怖いから、本気で努力することを避けていたんです。
もう、逃げるのはやめよう。努力しないでダメになるよりも、好きな囲碁のために、一度だけ本気で努力してみよう。そして、たとえダメでも、努力した自分を認めてあげよう。
そう決意しました。もう、ここまでどん底に落ちてしまったら、あとは這い上がるしかありません。
結局私は、就職活動は一切せず、プロ試験一本に絞りました。
そして再び、加藤先生の門をたたきました。
弟子が無断で師匠のもとに通わなくなってしまっていたのですから、普通なら破門です。でも、先生は、変わらぬやさしさと穏やかさで、私を受け入れてくれました。
今度こそ、父のためでも誰かに言われたからでもなく、自分の意思で選んだ囲碁の道です。
自分で決めた以上は、結果がダメでも人のせいにすることはできない。あとはがんばるしかありません。

・プロ試験を、院生としてではなく、外来として受けなければなりません。
私は、外来予選、一次予選を順調に勝ち残りました。でも本戦では四位、次点という、くやしい結果で落ちてしまったのです。その後、次点の人たち同士で戦って、その中で一位になればプロになれる、という敗者復活のチャンスがありました。でもここでも次点の二位になってしまい、またしてもギリギリのところで、プロに手が届きませんでした。
このときはもう、本当に、絶望感に打ちひしがれました。ショックで、惨めで、苦しくて・・・・。
地獄を見る思いでした。

・でも、それからまもなく、女流棋士の特別枠採用試験がありました。
とはいえ、受験できるのは22歳までという年齢制限つき(最後のチャンス)、そして合格してプロになれるのは、毎年ひとりだけ、しかも、一か月という長い期間をかけて戦う、総当たりのリーグ戦です。
すでに疲れきっていた私は、自分の集中力や気力がつづくかどうか、不安でもありました。
それでも、私に残されたプロになるためのチャンスはこれしかありません。

・試験会場は、千葉の幕張で、私の自宅から電車で二時間かかるんですが、とにかくその時間がつらくてたまりませんでした。
また試験を受けなくてはいけない現実に、満員電車の中で思わず泣いてしまったこともあります。
中学二年生ではじめてプロをめざして以来、私は七年間で14回もプロ試験に落ち続けてきました。
院生のうちに十代で合格してプロになる棋士が大半のこの世界では、プロになるために「七浪」もしたというのは、いかに長い道のりといえます。
いつも、いいところまではいくのですが、肝心なところで勝てない。
ということは、いかに私がプレッシャーに弱いか、ということです。
この、女流棋士の特別枠採用試験でも、私は大きなプレッシャーと戦わなければなりませんでした。
でも、このときは、「先を考えてもしかたない。とにかく、今、この日の前のことに集中しよう。
いまできることにベストを尽くせば、どんな結果でも納得できる」と腹をくくりました。・・・
女流棋士の特別枠採用試験の最終予選を、私は九戦全勝でクリアすることができました。
やっと、やっと、合格したのです!

・私は生来怠け者ですから、父が私にあれほど期待し、やらなければならないというプレッシャーをかけつづけていなければ、囲碁をとっくにやめていたと思います。
父のおかげで、いまの私があると、感謝しています。
その一方で、ただ「感謝しています」のひとことではかたづけられない、複雑な思いがあることも事実です。

・囲碁から離れている時間があったから、自分の囲碁への気持ちを再認識し、再びがんばる気持ちになれました。
学校の勉強でも、なんでもそうだと思いますが、人に言われてやるのではなく、自分の意志でやると決めると、力の入り方ちがいます。
自分で決めた道だから、つらくてもがんばれる。

・プレッシャーに弱い。大事なときに緊張してしまう。
それは、人間である以上、ある程度はしかたがないものです。
その壁を破るヒントを与えてくれたのは、野球のイチロー選手の言葉でした。
「プレッシャーがなくなることはない。プレッシャーがある状態で、いかに戦うかが大事」
とても、納得できました。

・(女流棋聖のタイトルを取った)次の日、ひとりで加藤先生のお墓参りに行きました。
「ついに、ついに・・・」
心配をかけ通しだった先生に、やっと、うれしい報告ができました。
「きっと、天国でにこにこしながら、『由香里ちゃん、よかったね』って言っていると思いますよ」
就位式の日、先生の奥様が、そう言ってくださいました。
私はついに、初のタイトル「女流棋聖」を獲得しました(3度目のタイトル挑戦で獲得、二期防衛)。

・プロ棋士である私には、二つの目標があります。
ひとつは、父が望んだように、強くなること。
もう一つは、囲碁の楽しさを、たくさんの人に知ってもらうことです。

・いましていることが、なにかの「布石(将来のための備え)」になるかもしれない。
そう思えば「つまらないこと」なんでなくなって、毎日ワクワク過ごせそうですよね・

・囲碁は、陣取り合戦。でも、盤上の陣地をすべて取ってやろうなどと欲張ると、絶対にうまくいきません。すぐに負けてしまいます。
大切なのは、相手にも与える発想。勝つためには、最終的に自分の取り分がちょっとだけ多ければいいので、ある程度は相手に与えるという発想が必要です。

・プレッシャーを感じるのは、「ダメだったらどうしよう」などと、いろいろなことを考えてしまうからですよね。

・ここで大切なのは、落ちこんでいる「あるがままの自分」を受け入れてあげることではないかと思います。自分を責めつづけたり、無理に駆り立てても、つらくなるばかりです。

・この(色紙に書く)言葉(至楽)のとおり、私のモットーは、「仕事もプライベートも楽しむ」ということです。

・そういう夢を持つと、自然に努力したくなります。夢に向かって真剣に取り組んでいく中で、すごくたくさんのものが得られると思います。
ワクワクするような夢は、これからの人生を歩んでいくうえで、すごく大きな力に変わるはずですよ。

感想
将棋や囲碁のプロになるのはとても難しいです。
プロになれなくて去って行った人もすごく多いです。
将棋ではプロになれるチャンスは30歳まででしたが、それから人生をやり直すのは大変だということで26歳までになりました。

プロになってもタイトルを取れるのはほんの一握りの棋士です。
多くは、素人を教えることで生活を成り立たせています。
とにかく勝たないと次の対局がなく、お金が入って来ない厳しい社会です。
あとは連盟からのお仕事になります。

梅沢由香里さんは、しばらくNHK囲碁番組の司会をされていました。
美人で可愛い感じで慶応大学卒業でかつ、囲碁のプロということでとても人気が高かったです。
美人だということは勝負の世界では関係がありません。
プロとしてタイトルを取得されたのはすごいことです。
女流枠で特別との負の思いもあったかと思いますが、タイトル取得でその思いも払拭されたと思います。
プロになっても、勝てるだろうか?/昇段するだろうか?との不安があります。
梅沢由香里さんは六段まで昇段されています。
女流の高段者は八段に2人、七段に3人、六段に11人います。
ちなみに男性は九段に80人、八段に39人、七段に48人います。
ただ、将棋では男性と女性の強さの差が大きく、女流と男性は別ですが、囲碁は同じです。
将棋では男性棋士に勝つと女流でもトップクラスになります。
囲碁の方が将棋より女性に向いているのかもしれません。
先日初めて男女混合のタイトル戦で上野 愛咲美四段が優勝し、かつ昨年度の全棋士の勝ち数が初めて女性としてトップになりました。
日本主催の唯一の囲碁国際戦SENKO CUPワールド碁女流最強戦2022国際タイトル(中国、台湾、韓国、日本の女流トップ棋士参加)で初めて日本人が優勝したのは上野 愛咲美四段です。
これまでの女流棋士の頑張り(啓発、普及活動)で女流も強くなってきました。

もちろん勝っている棋士がいるということはそれだけ負けている棋士がいるのです。
それだけタイトルとるのはプロ中のほんの一握りプロだけなのです。

プレッシャーをどう考えるか。
そしてやはり自分の人生は自分が責任を負うとの覚悟がとても大切なことを教えてもらいました。
自分が選んだんだから、頑張れるのです。
やはり努力がいかに大切かもまさに梅沢由香里さんが実体験で教えてくれているように思いました。
かつ、結果を考えるより、今に全エネルギーをかけることなのでしょう。
開き直りの気持ちも必要なようです。

趣味が将棋・囲碁なので、加藤正夫さんの囲碁の棋譜もよく見ていました。
加藤正夫九段は
タイトル獲得合計 47回
通算成績 1254勝663敗2持碁1無勝負
という囲碁棋士のトップの中でも素晴らしい成績を残されました。
弟子の育成にも尽力されていたことは知りませんでした。
残念ながら57歳で2004年に亡くなられました。
梅沢由香里さんが初めてタイトル取ったのが2007年でした。
加藤正夫氏が生きておられたらどんなに喜ばれたでしょう。

親が囲碁をやっているので、子どもが自然に興味を持ってやるのはよくあります。
しかし、梅沢由香里さんのお父さんのように囲碁をやらずに子どもに囲碁を強制的にやらすケースはほとんどありません。
なぜ、囲碁を選んだのか?
なぜ、そこまで強制したのか?
それにしても、よく反発せずに頑張られたと思います。
プロになれなかったらどんな人生を送られていたのでしょう。
また、お父さんに対する思いもどうなっていたでしょう。
本を出す人は何とか乗り越えた人ですが、乗り越えなかった人や途中であきらめた人、挫折した人も多いと思います。
でも、チャレンジしなければ、掴むことができないことだけは確かです。
掴めなくてもまた違った人生が目の前に広がっていると思って日々努力を続けられるかどうかが問われているのかもしません。

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