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「山本美香という生き方」山本美香 日本テレビ編 ”運命の出逢い”

2022-01-23 00:01:23 | 本の紹介
ウイキペディアより
山本 美香(やまもと みか、1967年(昭和42年)5月26日 - 2012年(平成24年)8月20日)は、日本のジャーナリスト。ジャパンプレス所属のジャーナリストとしてイラク戦争など世界の紛争地を中心に取材し、ボーン・上田記念国際記者賞特別賞、日本記者クラブ賞特別賞などを受賞した。2012年のシリアでの取材中、銃撃により殺害された。

・命を賭けてまで、この仕事をする意味があるのか。
あの日以来、佐藤さんはメディアや友人知人に何度も問われた。問われるまでもなく、自問自答を繰り返した。
けれど、
「我々がいなければ世界は真っ暗闇だ」
佐藤さんは言う。

・1969年にアフガニスタンで紛争を取材して以降、佐藤さんと美香さんはつねにふたりで取材していた。美香さんの紛争地行きは、すべて佐藤さんと一緒だった。美香さんが単独で取材することはあり得ないことだっただろう。と、美香さん自身も、佐藤さんも思っている。
「でも僕にとっても、彼女なしで取材に行くことはあり得ない」
ふたりは一心同体だった。

・「前を向いて歩きながら考える」
それが、佐藤さんと美香さんのモットーだった。

・「いちばん最初に彼女と顔を合わせたとき、光輝くような目で真っすぐに見つめられたんです。ものすごくキラキラしていてね。その瞳の中に吸い込まれるようだった」
佐藤さんにとっても、美香さんにとっても、それはその後の人生を大きく変えるような強烈な出会いだった。
1995年、美香さん28歳。
「その頃、彼女はほかの人と結婚していたんですよね」
でも、「出会ってしまった」。当時、親友にそう打ち明けていたという美香さん。これからの人生、そして仕事を共にしていきたい、「そういう人に出会ってしまった」のだと。

・もともと、新聞記者だった父親の影響で10代の頃から報道記者を目指していた美香さん。大学卒業後の1990年、当時できたばかりの衛星放送局に入社して1年目はまだ記者として何を伝えていきたいのか手探りの状態だったが、翌年から大きな自覚が芽生えている。
1991年6月、長崎県・雲仙普賢岳で発生した火砕流。美香さんは現場に入り、被災の状況をリポートし続けた。
被災し、傷ついた人の立場から、報道人として伝えなければならないことがある-。

・「出会ってすぐに恋に落ちてしまったから、まさか一緒に仕事をすることになるなんて、当時はまったく考えていなかったんですよ」
もとより自身の結婚生活に対する迷いや悩みを抱えていた美香さんは、佐藤さんとの出遭いを機に離婚。きちんとけじめはつけたものの、世間でいうところの道ならぬ恋をしていた期間もあったふたりに対して、周囲からの風当たりは思いもよらぬほど強かった。
「結果的にふたりともアジアプレスを辞めざるを得ない状況になりました。まさに孤立無援、四面楚歌の状態でしたね」
佐藤さんと美香さんが共に歩んでいくことを認めない周囲に対して、自分たちは何をしていけばいいか。
「仕事で証明していくしかない、そう決意しました」
1996年、佐藤さんは自身が代表を務める通信社『ジャパンプレス』を立ち上げる。美香さんも同社にフリーランス・ジャーナリストとして所属。たったふたりでの再出発となった。

・とりわけ美香さんに大きな感動をもたらしたのが、元女子大学生たちの、“秘密の英語教室“での取材だった。タリバン支配下のアフガニスタンで、教育を受けることさえも禁じられてしまった女性たちが、自分たちの、そして自分の国の将来を考えながら、独自に勉強を続けている姿。
自分の意思を持つとこんなにも強い目の輝きを放つものか。同じ女性として、精一杯生きている彼女たちに出会えて本当によかった-。

・企画を考える際に、佐藤さんと美香さんにはいつも共通した思いがあった。それは紛争の最前線だけではなく、戦火が広がる街の中で暮らす市井の人々の姿を伝えていきたい、ということ。

・美香さんが自らやりたいと提案した企画のひとつに、男尊女卑の激しいイスラム社会で、夫からドメスティックバイオレンスを受ける女性たちへの取材があった。

・戦場で身近なところに人の死があり、生がある。したたかでたくましく生きる人々の姿に一度触れてしまうとまた彼らに会いたくなってしまうのだ。それが私の原動力となり、再び戦地へと向かわせるのだろう。

・(イラク侵攻時)「ブッシュは無実の人々を傷つける汚い奴だ。1歳と、1歳半の子どもが殉死した。ブッシュ、これを見ろ!」
ベッドに横たわる息子を指差す父親は、怒りで震えていた。

・日本人のメディア関係者は、今のところ十数人いるだろうか。・・・
世界中から集まっている報道関係者は、技術者を含めると300人以上。そのうち女性は20人ほど。

・『米英軍はイラク市民に歓迎されながらバクダッドに入城した』『喜びに沸くイラク市民』
このような報道が日本でもされていたが、実際にはすべての市民が手放しで喜んでいたわけではない。

・「あんな扱いを受けた若者は、きっとテロリストになるよ」と語気を強めた。その言葉は、あながち嘘ではないだろう。動物のような扱いを受けた思春期の青年たち。憎しみを抑えることは難しい。
コソボでも13歳の少年が、「やられたらやりかえすんだ。何が悪いの」とまっすぐな目で私を見た。

・「2003年、イラクでの取材活動が一区切りつくまでは本当に忙しかった。年に3回か4回、それぞれ1か月半ほど現地に滞在。1年のうち半分はイラクにいて、帰国して映像を編集して、次の企画を考え、時にはオンエアを見る暇もなく現地に飛ぶこともあった」
美香さんは、その後もイラクやアフガニスタンなど紛争地への取材を重ねる一方、2004年にかけて、日本テレビの報道番組『きょうの出来事』のフィールドキャスターとしても活躍。2008年からは早稲田大学大学院の非常勤講師、また母校の都留文科大学では臨時講師を務めていた。
「ジャーナリストとして、生涯現役で現場に立ち続けることは難しい。そう考えたときに、何か別の手段で自分たちの経験を伝える術を持つべきだ、とは、彼女にもよく言っていた」
大学時代、教職課程もとっていたという美香さんの中には、自らが戦場でジャーナリストとして経験したこと、感じたことを若い世代に伝えていきたいという気持ちが芽生え始めていた。
美香さんは40歳を迎えるころ、子どもを持つかどうか、女性として思い悩んだ日々もあったという。悩んだ結果、子どもを持たないと決意した。
その代わりできるだけ多くの若い世代に・・・、と思いが強まったのだろうか。

感想
自分の人生をどう生きたいかなのでしょう。
何をしたいか。
誰と人生を歩みたいか。

美香さんが銃撃された時は、佐藤さんも一緒だったそうです。
佐藤さんが銃撃を受けなかったのは奇跡に近い状況だったそうです。

現地に入る時には、現地の人の案内を付けていたそうです。
慎重な上での行動だったようですが、紛争地では何があるかわからないのでしょう。

実際に行われていることを報道することで実態を世界に伝えること。
危険ですが、やはり誰かが行わないと人々は知ることができません。

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