幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「がんで余命1カ月宣告、体重は10キロ減り…」“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さん(73)が“最期の講演”で紹介した“難病の少年が書いた詩”「いま、おいらにつばさがあれば ・・・

2024-08-15 03:25:33 | 生き方 考え方 笑顔 ロゴセラピー

「その中で書かれた子どもたちのメッセージを、生きるということのメッセージを伝えたい。この子たちの思いを伝えたいという気持ちがとってもありました。そのために是非この本をたくさんの人に読んでもらいたいと思いました」
 難病の子どもの夢を実現させる非営利団体「メイク・ア・ウィッシュ」の“伝道師”として30年間、3000人の夢に寄り添ってきた大野寿子さん(おおのひさこ、73)。彼女ががんで余命1カ月と宣告されたのは、今年6月26日のことだった。

 体力の限界を迎え、講演はまもなくできなくなる。そこで浮かんだのが、自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』を希望者に無料で配ることだった。彼女はこの計画を“最期の大野プロジェクト”と名付け、「余命1カ月」を生き続けている。冒頭の言葉はその最後の計画を始めた理由について聞いた時のものだ――(「週刊文春電子版」でインタビュー動画を無料公開中)。
 ◇◇◇
「メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたい」
 7月18日発売の「週刊文春」並びに「週刊文春電子版」で始まったドキュメント連載「『難病の子どもたちの夢を叶えたい』大野寿子さん余命1カ月を生きる」に大きな反響が寄せられている。
 著者の小倉孝保さんは毎日新聞論説委員。著書『十六歳のモーツァルト』の取材でメイク・ア・ウィッシュを知り、大野さんとの付き合いが始まった。その後メールでやりとりをしたり、講演で会うなどしていた。
 今年5月、大野さんから突然、メールで「がんになった」と連絡があったという。
〈もう命のタイムアウトが見えてきてやりたいことは何かと考えると、メイク・ア・ウィッシュのことを伝えたいという思いです〉(大野さんのメールより)

「最期のプロジェクト」を支援してもらいたいとの思いが綴られていたため、小倉さんはすぐに彼女に会いにいった。そして、6月17日の毎日新聞朝刊の「余録」で次のように大野さんの「最期のプロジェクト」について伝えた。
〈命の残り時間に気付かされた時、人は何が一番大切なのかを知る。千葉県浦安市に住む大野寿子さんにとってそれは、少女や少年が困難を乗り越え、夢に向かって奮闘する姿を伝え、残すことだった(中略)その本人に今年2月、肝内胆管がんが見つかった。腫瘍は約7センチに膨らみ、リンパ節に浸潤していた。手術や放射線治療は不可能である。終末期医療を視野に入れ、自分の夢と向き合った。
 子どもたちを紹介した自著「メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた」はすでに絶版になっていた。できるだけ多くの人に、これを読んでもらいたい。無料(協力してもらえる人には有料)配布を決め、自費で500部刷り直した。
大野さんの自著『メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた』 ©文藝春秋
 大野さんは言う。「病気の子は自分のことでいっぱいいっぱいのはずです。でもみんな誰かの役に立ちたいと思い、心から他者の幸せを願っていました」(以下略)〉
 毎日新聞の記事が話題となり、本を送ってほしいという連絡が次々と入ったという。

「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」
 そして――。小倉さんは今回、「週刊文春」で大野さんの「余命1カ月」の日々について綴る。
〈細くなった腕を伸ばしてマイクを握ると、大野寿子はこう切り出した。
「すっごい楽しみにして、ここに来ました」
 顔にははち切れんばかりの笑みが浮かんでいる。
 白いシャツに青のカーディガンをはおり、黒いロングスカート。髪は若い頃からショートで、最近は染めなくなったため、輝くようなグレイヘアである。
 7月6日。神戸・三宮近くのキリスト教施設には約60人の聴衆が詰めかけた。「夢に向かって一緒に走ろう」と題した講演だった。
 笑みには理由があった。大野は末期の肝内胆管癌で、6月末には医師から「余命は1カ月ほど」と宣告されている。来られるかどうか最後まで不安だったのだ。実際、体重はかつての50キロから40キロに減り、157・5センチの身長にしてはかなり細い。衰弱は確実に進んでいる。

 この日の神戸は最高気温が34度にもなった。普段は千葉県浦安市の自宅で、介護用ベッドに体を横たえている。それでも講演では、不思議と元気になる。
「アドレナリンが出るのかな。しゃきんとするのよ」
 さすがに9月に予定していた講演は無理と判断した。この神戸が生涯最後の講演になりそうだった。

最後の講演で語ったこと
 最後の講演で紹介した子どもの一人が、東大阪市の嘉朗君(よしろう)だ。
 1993年に生まれてすぐ、ミルクを激しく吐いた。息づかいもおかしい。体調は戻らず、母は各地の病院を回る。「こんな体に産んでしまって」と自分を責める母に、3歳の嘉朗君は言った。
「病気やからって悪いことばっかりちゃうねんで。病気やからわかることもあるんや」

 母はこの言葉に、自分を責める気持ちが息子を苦しめていたと知る。
 4歳で原発性免疫不全症と診断された後、間質性肺炎、再発性多発性軟骨炎など次々と難病に襲われる。学校にもあまり通えない。それでも大阪の子らしく、調子に乗っては、周りを笑わせた。
 さい帯血による造血幹細胞移植手術のため9歳で東京の病院に移り、しばらくして詩を書き始めた。入院生活が2年を過ぎたころだ。疲れた母がベッド脇でうとうとしていると、パソコンに何かを書いていた嘉朗君が「後で読んで」と言って眠った。夜中にパソコンを開くと、こんな詩が書かれてあった。
〈いま、おいらにつばさがあれば/病気を治して/ママをいろんなところへつれていってあげたい。/いっつも看病してくれているママ。楽しいところへ、わくわくするところへ/つれていってあげたい。/ママ、もうちょっと待っててね。病気を治したら、絶対にしあわせにするから。/それまで待っててね。〉
 子どもは病魔に襲われても他者へのいたわりを忘れない。自分のことで精いっぱいのはずなのに、周りの者を気遣う。

 嘉朗君は日ごろ、母にこうも言っていた。
「20歳になったら恩返ししたるから、それまでは世話してな。ばばあになったらおしめも替えたるから」〉(「週刊文春」7月25日号より)
 嘉朗君が残した詩編の数々と闘病の日々、大野さんが講演会で語ったこと、そして「最期のプロジェクト」の行方について――。記事全文と大野さんへの独占インタビュー動画を「週刊文春電子版」で無料公開している。


感想
“メイク・ア・ウィッシュ”大野寿子さんが余命1か月と宣告されたことを、嘉朗君のお母さんから教えていただきました。
よっくんの本を出したいと、よっくんのお母さんから相談されました。
お母さんはたくさん、よっくんのことを書かれていました。
そこで、ボランティア仲間で本を出した方に出版社を教えていただき、その出版社はマンションの一室でそこを訪ね、自費出版についていろいろ教えてもらいました。
最低80~100万あれば出せるとのことでした。
私が出しても良いと思ったのですが、それでは多くの人に読んでもらえないと思いました。よっくんに関係した人から少しずつ募るのはどうかと思い、関係者にメールや電話や会ったりして本の出版について相談しました。
 その中のお一人が、大野寿子さんでした。当時、“メイク・ア・ウィッシュ”の事務局長をされていました。“メイク・ア・ウィッシュ”の活動は知っていました。
大野さんといろいろお話させていただき、どうするのが良いかなと考えていたら、大野さんから連絡を受けました。神戸のお寺の住職がお金を出していただけるとのことでした。大野さんがいろいろあたってくださったのだと思います。
そしてそれが実現したのが本『いつかぼくもビーズになる!: よっくんのポエム』April 25, 2014 です。
 大野さんのご尽力で本になり、よっくんのことを多くの人に知っていただきました。
 私はよっくんが入院していた病院の”遊びのボランティア”(入院児と一緒に遊ぶ)をしていて、よっくんと何度か遊んだり、よっくん、お母さん、私でウノをやったりしました。そこでお母さんとも話をしました。
 よっくんが亡くなられたことは、同じボランティア仲間のその病院の医学生から教えてもらいました。子どもが亡くなってもボランティアには病院は教えてくれません。そしてお母さんが挙げているブログに投稿し、そこからつながりができました。
 ただ、よっくんのお母さんはよっくんの詩だけでなく、よっくんのことをたくさん書いておられてそれも本に入れたいと思われていました。
 でも制限があるので、それは下記のHPに載せました。
本には載っていない、よっくんの闘病生活とお母さんのことがわかります。
お読みいただけると嬉しいです。

大野寿子さんは余命1か月と言われ、それでも何かできることはないかと考え、(下記は朝日新聞デジタルから引用)
「最期の大野プロジェクト」と名付けたSNSアカウントを作り、活動を広めてくれる人を対象に著書「メイク・ア・ウィッシュ 夢の実現が人生を変えた」(KADOKAWA)を届け始めた。
希望者はメール(book.yumenojitsugen@gmail.com)を送り、返信メールに記された入力フォームから申し込む。

もう何もできないと思われる状況でも、何かできることがあるのだと教えていただきました。

大野寿子さんに感謝の気持ちを込めて、彼女の闘病記事を紹介させていただきます。
知らない私からの電話にも丁寧に真心を込めてご対応していただいたことが昨日のようによみがえってきました。
本当にありがとうございました。
奇跡が起こることを祈っています。

「自分の考えをパッと80字で論理的に書けるようになるメソッド R80」中島博司著 "書く・話す・発表する”

2024-08-15 02:04:02 | 本の紹介
・R80のルールは簡単に言うと2つだけ
 ①2文構成で80字以内
 ②2文目の最初に必ず接続詞を使う

・私は茨城県の高校教員になった当初、オーソドックスに板書をする授業をしていました。
しかし20代後半で2校目に赴任すると、やり方をガラッと変えました。
「スーパー日本史ノート」という繕冊の副教材を自分で開発したのです。
なぜなら、板書は時間のムダだと感じたからです。・・・
いっそオリジナルのノートを作っちゃおう、と思いついて、板書する項目などをあらかじめまとめたノートを配布することにしました。
 B4の用紙に刷ったものを、生徒たちが半分に折っていきB5判にして、ホッチキスで留める。こうして1冊30頁程度、9冊で300パージほどの手作り副教材が完成します。

・授業では、私は歴史ドラマを繰り広げることに集中しました。
 たとえば桶狭間の戦いなら、自分が織田信長の奇襲を現場で見てきたかのように身振り手振りを交えながら臨場感をもってはなすのです。
 そうすると、生徒たちも前のめりになって聞き入ってくれます。・・・
 やがて受験シーズンを迎えると、中堅進学校だったこの高校が、センター試験の日本史Bの平均点で県内1位になったのです。
 この噂が県外まで広まり、36歳の時、教科書会社からオファーを受け、日本史の教科書執筆に携わりました。

・次に勤務した3校目は、県内有数の進学校、県立土浦第一高校でした。
 ここでは11年間教鞭をとりましたが、生徒たちがとても優秀で、センター試験緒日本史Bの平均点で全国1位になった年が3回もありました。
 出版社もこうした実績に目を留めたようです。
「スーパー日本史ノート」の存在を知った編集者から、
「これをベースにした本を出版しましょう!」と言われました。
 そこから1年かけてできたのが『はじめる日本史』という本です。
1999年からの24年間で42刷、累計20万部ほどのロングセラーとなっています。

・さて、私は2015年に校長になりました。R80が誕生する前年のことです。就任と同時に始めたのが、アクティブ・ラーニング(AL)の研究でした。
 溝上慎一・元京都大学教授は「能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの稼働への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」と定義しています。
「認知プロセスの外化」というと難しいですが、言い換えると「頭の中にあることをアウトプットする」ということです。

・2016年、県立の中高一貫校である並木中東教育学校の校長になりました。
 就任直後にひらめいた「書く」ためのメソッドが、R80でした。
 ネーミングも一瞬にして降ってきました。
 Rとは、リフレクション(振り返り)とリストラクチャー(再構築)の頭文字。80は80字以内で書くという意味です。

・現代文のカリスマ・出口汪先生による定義が、私には一番しっくりきました。
「論理力とは、
 相手の主張の筋道を読み解き、
 自分の考えを整理して伝える力」

・私はR80を「思考力・判断力・表現力を身につけ、論理力を育成する」ことをも目的として開発しました。

・R80を続けてきた生徒たちは、遅刻や欠席が減ったというのです。
 生徒指導の件数は激減したそうです。
 もちろん、先生方の熱心な指導あっての成果です。

・ある公立小中一貫校では、学校を挙げてR80に取り組んだ結果、文武科学省の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の成績が上がったという報告がありました。
成績が上がったことに加えて、特筆すべきことがありました。
全国学力テストの中学3年生の国語には、記述問題があります。
その記述問題で無回答の生徒が1人もいなかったというのです。
これは中学校の常識からすると、奇跡的なことなのだそうです。

・R80は小学1年生から始められます。

・中学校での「また」禁止条例!
もっと長い文章を書けるようになってから上手に使ってください。

・「なぜなら」は最強の接続詞

・「一方」を使うと文章がかっこよくなる

・R80は、現在の大学入試に対応できるメソッドだと自信をもって言えるのです。

・400字を「因数分解」すればR80×5回
 ①字数をR80×〇と因数分解する
 ②1:3:1に配分し、序論・本論・結論を書く
 ③本論は3つの具体例を等分に書く

・具体例を3つ挙げることで説得力が増す

・R80で「質問力」もつく

  
感想
 
 先生が、板書するのをノートを取るのは無駄だと思いました。 
 田舎の高校で、進学校でなかったので、高3のときは、英語以外は内職(参考書をやる)していました。

 R80で何かできるようになると、学校行くのが楽しくなると他の科目も良くなるようです。
ランチェスター戦略という軍事戦略があり、マーケティングにも活用されています。
これは何か得意な科目ができると他の科目も伸びると言われています。

 国語力がUpすると他の科目の成績もUpすると言われています。
特に小学校の算数Upには国語力が必要と言われています。論理的考えることができるどうかのようです。

 寺子屋では読み書きそろばん(計算)を教えてましたが、それが大きな力になったようです。
明治維新に多くのすぐれた人が出たのは、藩校などで四書五経を学んでいたからとも言われています。

書き・話すに発表を加えているのはとても良いと思いました。
発表するためにはいろいろな力を養います。

後、読むが必要だと思います。
読むはベースになります。
情報収集にもなります。

私は小中学校の時、趣味は?と言われた時、読書と言っていました。
なので、読書は好きでした。
今は将棋・囲碁と答えていますが。

話すことはとても苦手でした。
小学校の時は手を挙げて質問するのさえ苦手でした。
しかし、会社に入って必要になり何度も人前で話しをする体験を積み重ねると平気になりました。

書くことも苦手でした。
レポートは平気でしたが、自分の考えをまとめたり、レターの文面を礼を失しないように書くのは苦手でした。
外部の先生などにレターを書くことをたくさん行うと、パターンが決まっていますので、慣れてきました。
それと社内の論文募集に何度も出すことで、賞も何度もいただき、慣れました。
やはり、たくさん経験することなのでしょう。
そのとき、このR80など知っていると、上達の効率が良いのでしょう。
苦手なことはそのことに時間を使っていないということに気づきました。
得意なことはそのことに時間を使っているのです。
このことを高校の時に気づいていれば英語が苦手にならなかったのですが・・・。

この本を読み、自分の主張だけでなく、相手はどうしてその考えに拘っているのかをもう少し考えると良かったなと思います。
ただ、こちらが論理的に話をしても、論理は抜きで感情で話をされる人も多いので、なかなか難しいですが。