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プライベート・ユートピア ここだけの場所─British Council Collectionにみる英国美術の現在

2014-02-07 19:10:42 | 美術展


プライベート・ユートピア ここだけの場所─ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在
(※トップのタイトルは文字数制限の関係で一部を英語表記にしたことを断っておく。)
[英題:Private Utopia: Contemporary Art from the British Council Collection]
(東京ステーションギャラリー、2014年1月18日~3月9日)

宮島達男氏の近著『アーティストになれる人、なれない人』(マガジンハウス、2013)の表紙には、同書における対談者のひとりである茂木健一郎氏の次の言葉が載っている。

批評性を、それとは気づかせない形で忍び込ませるのがアート」。

ここでいう〈アート〉とは、とりわけ20世紀以降の現代アートのことをいうのだろう。

現代アートの出発点といっても過言ではないマルセル・デュシャンの《》は、いわゆる「コンセプチュアル・アート」といった枠組みのなかで一般に捉えられる。
この象徴的な〈事件〉からもわかるように、20世紀以降のアート界は、それ以前の"fine art"とそれ以外の"art"という、いわば「二次元」の芸術観を超克し、「三次元」の膨らみをもたらした。

英国に目を移せば、ターナー賞受賞作品をはじめとして、現代アート界には非常に活気がみられる。
有名な話だが、「生きる上で最も重要な素質はなにか」と問われたイギリス人は、しばしばこぞって「ユーモアのセンス」と答えるという。

〈ユーモア〉の本質とはなにか。
それは自己を客観的に捉える、いわゆる「メタ認知」の能力に他ならない。

対象を客観的に、すなわち〈第三者〉として捉える姿勢は、究極的に優れた〈批評性〉を生む。
英国の現代アート界が賑わっている理由の一端は、こうした彼らの「ユーモア」にあるのだろう。

少し話は変わるが、19世紀イギリスの文学者をみても、(ディケンズやテニスンらは措くとしても)ドイルやスティーブンソン、ワイルドらはみな、イングランド以外で生まれ、〈アウトサイダー〉として英国を眺めていた。
だからこそ、おそらく彼らは19世紀ヴィクトリア朝の繁栄の裏の社会問題を客観的に捉え、すぐれた作品を遺すことができたのだろう。

もっと歴史を振り返っても、いわゆる〈風刺文学〉の本質は、〈皮肉〉と〈批評〉を支える客観的な視線であった。
スウィフトしかり、エラスムスしかり。

ともかくも、本日訪れた、東京ステーションギャラリーで開催中の「プライベート・ユートピア ここだけの場所─ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在」展は、まさにいま、勢いづいている英国現代アート界の精華を結集させたものである。
先ほど言及した茂木氏も同展覧会を訪れ、所感を綴っておられる。(→参考

そもそも〈ユートピア〉とは、トマス・モアの著作を挙げるまでもなく、西洋文学の歴史に流れる重要な〈一流河川〉のひとつである。
Wikipediaの該当ページ(の"Etymology"の項目)にもあるように、"utopia"の頭の"u"には語源的に二つの含みがある。

"topia"に関しては"topos"="place"(場所)ということで問題ないのだが、"u"には"no"の意味と"good"の意味の両義がある。
実際、モリスの『ユートピアだより』も原題は"News from Nowhere"であり、また"good"の意味に関しては"eugenics"(「優生学」)の語源が同根として挙げられる。

つまり、〈どこにもない場所〉という意味と〈理想的な場所〉の二つのニュアンスが重ね合わされているのだ。

伝統的なユートピア文学における"u"の解釈としては上記の内容で問題ないと思われる。
しかし本日展覧会に赴いて作品をみていたところ、現代アートの表象した〈ユートピア〉を理解するにあたっては、従来の解釈では〈不十分〉な気がしてきた。

今回の展覧会のテーマである現代(アート)における「ユートピア」は、ある意味で〈作品〉という〈虚構〉の世界の話なので、"no"のニュアンスに関しては問題ない。

しかし"good"の方に関しては、慎重に考える必要がある。
むろん、ユートピア文学の歴史を振り返っても、全部が全部〈理想郷〉であったわけではない。
〈暗黒郷〉(dystopia)や〈反ユートピア〉(anti-utopia)というジャンルもあるくらいだ。

とはいえ、ギャラリーに展示されていたほとんどの作品の表象する〈ユートピア〉は、おそらくそのどれでもない。
単なる"good"というよりは、含みとしては"good?"(「これって、本当に〈理想的〉ですか?」)により近い、アイロニカルな響きをもつ作品が少なからずあったように思う。

現代アートは、いわゆる既成概念に対し、ときに疑問を投げかけ、ときに揺るがし、またときに亀裂を生じさせる。
様々な(加えてしばしば予想もつかないような)アングルを提供するのが、現代アートなのである。

展覧会のタイトルに関しては"private"のニュアンスに関しても触れておく必要があるだろう。
主催者側の〈意図〉に関しては展覧会場でも広告でも言及されていたので、今回はそれとは少し違った視点から、この語を現代アートの文脈に当てはめてみたい。

おおざっぱにいえば、19世紀までの(とりわけ)〈体制側〉の芸術というのは、作品の〈見方〉をしばしば一義的ないしは限定的に〈強要〉するものであった。
主題があって、それを読み解いて、...というのが、ある意味〈基本的〉な芸術鑑賞スタイルだったからである。

それが現代に至っては、かなり個人、すなわち"private"に委ねられる部分が大きくなってきたということだろう。
ピカソのキュビスムの究極形態といってもいい。
〈どこからみてもいい、どう捉えてもいい〉ということである。

ここで一点だけ具体的な作品に触れておこう。
このページのトップの画像の右端、"I'M DEAD"と書かれた看板をもつ犬の作品である。

デイヴィッド・シュリグリー氏によるこの作品をみて、ある作品を連想した。
有名な〈これはパイプではない〉の言葉が書き添えられているマグリットの絵画である。(→ "The Treachery of Images")

意図的かどうかはともかく、マグリットの絵画による二次元表現が、犬の剥製という三次元に移し替えられた形と捉えても無理はないだろう。
具体的な形をもったものが、同内容のアイロニカルな言葉を発していることで、より皮肉性、批評性が増しているように思う。

最後になるが、2007年に放送された福山雅治氏主演のドラマ「ガリレオ」第一シリーズ第六話 [「夢想る」(ゆめみる)] において、福山氏演じる湯川学が次のように語るシーンがある。

アイザック・ニュートンが、リンゴが落ちた瞬間見つけたのは、重力だけではなく世界との繋がりだ。
ガリレオ・ガリレイは、ピサの斜塔から二つの球を落としたとき、友人に喜びの手紙を書いた。

科学者の日常は単調だ。
人と出会う機会も少ない。
しかし、退屈な実験の繰り返しのなかで、見つかる世界がある。

将来的にアートもまた、"private"をつきつめていったところに、世界や人々との交わりをもたらすものになるのかもしれない。

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