福島第一原発事故の被災者に取材して制作された映画「希望の国」。
園子温監督がいつもの過激な手法を封印し、とても真摯にこの問題に取り組んでいることに、まず頭が下がります。
やはり、ドキュメンタリーではなく劇映画だということに、とても大きな意義を感じました。
ドキュメンタリーというのは、どんなに正確で詳細なデータを伝えても、そこから当事者でない者が実感を得ることは難しいですから。
部外者として眺めることはできても、それを明日は我が身というふうには捉えにくいです。
この映画に描かれるのは、被災者となった4組の男女とその周辺の人だけ。
一応、福島とは別の架空の県(長島県)という設定になっていますが、そのセリフや言動はすべて福島の被災者への取材に基づいていて、要は、観客の一人一人があの出来事を我が身に起きたこととしてもう一度考え直すのが狙いだと思います。
彼らの苦悩と選択を観ながら、観客も共にそれを実感するのです。
ぎりぎりで避難区域の外に住んでいたが、妻が身ごもったことで自主避難をする若い夫婦(村上淳・神楽坂恵)。
それを見送り、認知症の妻を気づかうなどの理由でその地に留まる老夫婦(夏八木勲・大谷直子)。
避難区域内に住んでいたため、強制的に避難所へ移される家族(でんでん・筒井真理子)。
津波に流されたらしい親の手がかりを探し続ける少女と、彼女の気が済むまでそれに付き合う彼氏(清水優・梶原ひかり)。
(上映時間133分)
彼ら彼女らのそれぞれに違う選択。
安易にそれに正否を言えるんだろうか。
今、この瞬間に原発事故が起きて、今度は自分が彼らと同じ目に遭うとしたら?
自分の気持ちを偽って、ただ生き延びることだけを目的に生きていけばそれでいいのか?
生きるのなら、僅かでもいいから生きる甲斐が、希望がほしい。
希望など無くても、とりあえずその日その日を生き延びられれば、それだけで良しなのか?
生きる意義を考えなくて良いのか? 考えてはいけないのか?
本当はここが原発事故について考えるときの起点となるはずなのに、それを表現してくれて、考えさせてくれたのは、私が知る限りテレビの報道も含めてやっとこの作品が最初です。
身ごもった妻が、部屋に目張りしたり外出時に防護服を着たりするのは、極端ですが、我が子を本気で守るための術として理解はできます。
私の知り合いにも似た人はいます。
放射能のことに詳しい。デモや講習などにも積極的に参加しています。
そういう人からすれば、私のように行動が緩慢な者は「思考停止して危機感を持てない人」に見えるかもしれません。
でもそれは違う。
思考すればするほど、ただ単純に生き延びれば良いということではないことに思い至ってしまうのです。
大谷直子さん演じる認知症の妻と、夏八木勲さん演じるその夫。
二人にとって、この地を捨てるというのがどういうことか、考えればわかると思います。
情緒的なことを言ってるのではありません。
たとえば避難所に移って他人との共同生活を始めればどうなるか。
私自身もかつて認知症の父の介護経験があるから容易に想像がつきます。
だから、ただ生き延びるだけの道は選ばないという老夫婦の選択を、私には否定することができないのです。
園監督ご自身もお母さんが認知症だと言いますから、それを思うのでしょう。
こういう考えに基づいて立ち止まってしまうことを、「放射能の本当の怖さを分かってないからだ!」と言われても、それは違う。むしろ、行動が機敏過ぎると、思考があらゆることに行き届かないで突っ走ってるから、しわ寄せを生じやすい。…と思う。
そのしわ寄せはどこに行くか…。たとえば、この映画の老夫婦みたいな弱者と言われる人のところです。
都心などでデモが盛大に行われる。でもそれに参加できるのは、今まだニュートラルな状況に身を置いていられる幸運な人たち。
もちろん、原発は即刻すべて廃止してほしいし、責任ある立場の者には猛省を促したい。
でも、せっかくまだニュートラルで居られる思考を、他を責めることや、自分・家族の身を護るためだけに費やしていればそれでいいんだろうか。
私はなんだか、この出来事は日本人という〝種〟全体のあり方を、神か何かから問われている気がしてならないのです。
だから、自分個人のことはとりあえず置いておき、まず、あの老夫婦のような多くの個々をなるべく実感し、全体像を見渡したい。
そして、日本人という〝種〟のあり方だとか、その中での自分の位置・役割とかを考えたい。
それがあって初めて、放射能対策だとか、困難な中でも自分が生き延びる理由にできるんだと思う。
ただ自分が生き延びるだけを目的に生きるのは、やはり辛い…。
映画もテレビドラマも報道さえも近頃なんだかゲーム化している。
でも、実際の問題はそんなに薄っぺらくはない。
放射線量の数値だけ知ってもだめなんだ。
世界は、数字のデータや記号では表せないものでできている。
そこに個々のどんな生き様があるかを実感し、それを未来に繋ぐにしても手放さざるをえないにしても、どうするのが最善かを共に考える。
スマフォなどの通信機器がどんなに進化し、ツイッターなどの通信手段がどんなに普及しても、情報量だけではだめなんだ。
映画の中のセリフ「一歩二歩三歩なんておこがましいよ。これからは一歩、一歩、一歩ですよ」
そう、まさにそのとおりだと思います。
ただ先を急ぐのではなく、自分の歩みがどこへ向かっているのか、何か大切なものを踏みつぶしていないのか、それを一歩、一歩、確認しながら歩くんだ。
それが過去の過ちから学ぶということだし、それをしなければまた新たな過ちを引き起こすことは明白なのだから。
こんなふうに考えるきっかけをくれた園子温監督に感謝します。
園子温監督がいつもの過激な手法を封印し、とても真摯にこの問題に取り組んでいることに、まず頭が下がります。
やはり、ドキュメンタリーではなく劇映画だということに、とても大きな意義を感じました。
ドキュメンタリーというのは、どんなに正確で詳細なデータを伝えても、そこから当事者でない者が実感を得ることは難しいですから。
部外者として眺めることはできても、それを明日は我が身というふうには捉えにくいです。
この映画に描かれるのは、被災者となった4組の男女とその周辺の人だけ。
一応、福島とは別の架空の県(長島県)という設定になっていますが、そのセリフや言動はすべて福島の被災者への取材に基づいていて、要は、観客の一人一人があの出来事を我が身に起きたこととしてもう一度考え直すのが狙いだと思います。
彼らの苦悩と選択を観ながら、観客も共にそれを実感するのです。
ぎりぎりで避難区域の外に住んでいたが、妻が身ごもったことで自主避難をする若い夫婦(村上淳・神楽坂恵)。
それを見送り、認知症の妻を気づかうなどの理由でその地に留まる老夫婦(夏八木勲・大谷直子)。
避難区域内に住んでいたため、強制的に避難所へ移される家族(でんでん・筒井真理子)。
津波に流されたらしい親の手がかりを探し続ける少女と、彼女の気が済むまでそれに付き合う彼氏(清水優・梶原ひかり)。
(上映時間133分)
彼ら彼女らのそれぞれに違う選択。
安易にそれに正否を言えるんだろうか。
今、この瞬間に原発事故が起きて、今度は自分が彼らと同じ目に遭うとしたら?
自分の気持ちを偽って、ただ生き延びることだけを目的に生きていけばそれでいいのか?
生きるのなら、僅かでもいいから生きる甲斐が、希望がほしい。
希望など無くても、とりあえずその日その日を生き延びられれば、それだけで良しなのか?
生きる意義を考えなくて良いのか? 考えてはいけないのか?
本当はここが原発事故について考えるときの起点となるはずなのに、それを表現してくれて、考えさせてくれたのは、私が知る限りテレビの報道も含めてやっとこの作品が最初です。
身ごもった妻が、部屋に目張りしたり外出時に防護服を着たりするのは、極端ですが、我が子を本気で守るための術として理解はできます。
私の知り合いにも似た人はいます。
放射能のことに詳しい。デモや講習などにも積極的に参加しています。
そういう人からすれば、私のように行動が緩慢な者は「思考停止して危機感を持てない人」に見えるかもしれません。
でもそれは違う。
思考すればするほど、ただ単純に生き延びれば良いということではないことに思い至ってしまうのです。
大谷直子さん演じる認知症の妻と、夏八木勲さん演じるその夫。
二人にとって、この地を捨てるというのがどういうことか、考えればわかると思います。
情緒的なことを言ってるのではありません。
たとえば避難所に移って他人との共同生活を始めればどうなるか。
私自身もかつて認知症の父の介護経験があるから容易に想像がつきます。
だから、ただ生き延びるだけの道は選ばないという老夫婦の選択を、私には否定することができないのです。
園監督ご自身もお母さんが認知症だと言いますから、それを思うのでしょう。
こういう考えに基づいて立ち止まってしまうことを、「放射能の本当の怖さを分かってないからだ!」と言われても、それは違う。むしろ、行動が機敏過ぎると、思考があらゆることに行き届かないで突っ走ってるから、しわ寄せを生じやすい。…と思う。
そのしわ寄せはどこに行くか…。たとえば、この映画の老夫婦みたいな弱者と言われる人のところです。
都心などでデモが盛大に行われる。でもそれに参加できるのは、今まだニュートラルな状況に身を置いていられる幸運な人たち。
もちろん、原発は即刻すべて廃止してほしいし、責任ある立場の者には猛省を促したい。
でも、せっかくまだニュートラルで居られる思考を、他を責めることや、自分・家族の身を護るためだけに費やしていればそれでいいんだろうか。
私はなんだか、この出来事は日本人という〝種〟全体のあり方を、神か何かから問われている気がしてならないのです。
だから、自分個人のことはとりあえず置いておき、まず、あの老夫婦のような多くの個々をなるべく実感し、全体像を見渡したい。
そして、日本人という〝種〟のあり方だとか、その中での自分の位置・役割とかを考えたい。
それがあって初めて、放射能対策だとか、困難な中でも自分が生き延びる理由にできるんだと思う。
ただ自分が生き延びるだけを目的に生きるのは、やはり辛い…。
映画もテレビドラマも報道さえも近頃なんだかゲーム化している。
でも、実際の問題はそんなに薄っぺらくはない。
放射線量の数値だけ知ってもだめなんだ。
世界は、数字のデータや記号では表せないものでできている。
そこに個々のどんな生き様があるかを実感し、それを未来に繋ぐにしても手放さざるをえないにしても、どうするのが最善かを共に考える。
スマフォなどの通信機器がどんなに進化し、ツイッターなどの通信手段がどんなに普及しても、情報量だけではだめなんだ。
映画の中のセリフ「一歩二歩三歩なんておこがましいよ。これからは一歩、一歩、一歩ですよ」
そう、まさにそのとおりだと思います。
ただ先を急ぐのではなく、自分の歩みがどこへ向かっているのか、何か大切なものを踏みつぶしていないのか、それを一歩、一歩、確認しながら歩くんだ。
それが過去の過ちから学ぶということだし、それをしなければまた新たな過ちを引き起こすことは明白なのだから。
こんなふうに考えるきっかけをくれた園子温監督に感謝します。
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