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pride and vainglory -澪標のpostmortem(ブリッジ用語です)-

初歩の文書分析と論理学モドキ(メモ)

書簡断片❶‐④

2025-02-09 16:25:23 | 鏡迷宮

 さて本論に入る事にする。今回テーマは翻訳と翻訳者の運命、翻訳者が反逆者とならざるをえないのは、それが単なる無知によるか苦渋の末の選択によるものかに係わらず生じ続け、業とか宿痾としか言いようがないものであり、誤訳は翻訳者の誉とでも開き直るしかないものであると同時に、ある程度は時間の流れの中で補正されて行くものでもある。数学の場合は記号化された論証での指摘、自然科学の場合は実験結果もしくは標準化された理論との齟齬(後者の場合はあくまでも可能性の指摘だが)、人文科学の場合はproであれconであれ過去の蓄積との論理的不整合が補正の導きとなると言える。

 何れにせよ、多くの場合いったん成立した翻訳は翻訳者の手を離れ、独立した視野もしくはFrame of Referenceに従って処理されていく事になる。

 

 やっかいなのは、翻訳者が紹介者として機能したり、当該の翻訳そのものがFrame of Referenceとなってしまった場合。

 紹介者としての紹介記事の中で、自身の間違いを訂正しない限り紹介記事は翻訳の妥当性を高める機能を発揮しますし、翻訳そのものがFrame of Referenceとなった場合審神者・お先師様の金言として機能します。

 まあ「今来の流行に染まり狂って、忠の字踊りを踊るのは五山以来の伝統。時間の流れの中で変成し何れ国風とかす。これこそが日本文化。」と洒落のめすのが、大人の振る舞いと承知の上での事上げです。

 一つは紹介の波が次々と訪れ熟成の暇がない事。一例を挙げれば実存主義~構造主義~ポスト構造主義。

 二つ目はご本尊自体が借り物のFrame of Referenceに依拠しており、借り先自体が更なる本尊のお筆先として成立している場合が多い事。これも歴史的・時間的に同じ場所での例を挙げれば、構造主義~プラハ学派~(トルベツコイ)、バタイユ・クロソウスキー~コジェーブ~(ソロヴィヨフ)。

 三つ目は紹介者の教養不足、これも同じ場所での例だが、マルクスを経由して時代を遡って辿り着いたと思しき、ヘーゲル以降の知識しか持たない笠井潔による日本ポストモダンの痛快とも言える論難とそれに対して沈黙で応えるしかない唱道者たち。

 フランスサイドの例ばかり挙げたが、分析哲学廻りもニュークリティシズム廻りもほぼ同断。哲学の枠組みの外、歴史学でも政治学でもほぼパラレルと考えている。

 私が近世ネーションステート全般ではなく、軍事と逓信に枠を狭めたのは、より専門性が高く、ほぼ自然哲学の影響を被らない領域のみを扱うことにより上記の問題点を回避したかったからだ。

 アシュモールかピープスでも研究ターゲットとするかと思っていたが、最近のDeeはもう少し社会史の方へと関心を移しているように見えるので、上記の私の問題意識についてのご意見をお伺いしたい。

 

 

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 今読み返して見ると、かなりいらだっていた事が顕わになっている。意図は分かるが、軍事オタクとかテクノロジーデタ―ミニストとか逆ホイッグ史観だとか、果ては蓑田胸喜の類。好意的なものですら近代の超克の再来とか行地社の島野三郎経由の影響と言及する程度。きれいに化粧された“西欧近現代”に蠱惑篭絡された妄言ばかり、それをまた公言して呪詛返しをするものだから、学部時代の友人を含めて村八分。そんな時代の事が思い起こされた。温厚なDeeも呆れたのか返信は三年近くたってからだった。

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