片腕の不自由な細面のイダルゴが、捕虜と言うよりは来賓と言った風情でそっくり返っているのには驚いたが、向こうは更に驚いたようだ。
ラディノ語に堪能なカルトグラファーとの触れ込みであらわれたのが10歳そこそこの餓鬼だったからだ。彼の口から出た言葉が「iungatsh」
「叔父さん、それラディノじゃないよ。イェディシュ。なりはこのとおりだけど、さっきまでマドラセで幾何学を教えていたんだ。だから餓鬼じゃない。」
私の言葉を聞いてオヤジ(これから後私は彼をこう呼んだ。私の事は勿論ぼうず”iungatsh”。)は更にハードルを上げた。「アルキメデスのパラボラを三日で教えてくれ。うまくいったら。知っている事はなんでも喋る。」立ち会っているマムルークを振り返ったら頷いている。急ぐ尋問ではなさそうだ。
三日後、「ぼうずの丁寧な説明で理屈は分かったが理解はできてねえ。その証拠に自力で説明してみろと言われたら、詰んでしまう。降参するからなんでも知っている事は喋る。こちらからのお願いはディオファントスとアポロニウスを基礎から教えてくれ、自慢じゃないが金とは縁がない。嫌疑は遠からずはれると思うが、身代金が払えない。三位一体修道会の話では私の番が回ってくるまでには数年掛かりそうだ。ゆっくり勉強する時間はある。お前さんへのお返しは、領主が手に入れた西欧語で書かれた情報のシノプシスをラディノ語で書くので、それをアラビア語に翻訳する手間賃(その辺の交渉は俺がやる。領主も俺もマルタ語は喋る事だけなら出来る。)、それに最新のシンボル化代数の情報、自慢じゃないがローマ学院とコインブラには伝手がある。それにフランス語とラテン語、それに低地語だ。」
勿論交渉成立、こうして5年近くに亘る奇妙な相互チュータリングが始まった。
漸く身代金が払われ、オヤジが自由の身になったのはヒジュラ暦987年の春(AD1579年3月)。すっかり一緒にいる事に慣れてしまった私に、イスパニアに帰る事になったオヤジが珍しく深刻な顔で尋ねてきた。
「一緒にカディスに行って、ポルトガルのPedro Nunesへのコネをつけるつもりだったが、亡くなった事が分かった。ポルトガルへ行っても詮無いので、三通紹介状を用意した。一通目Nunesの弟子のClaviusがいるローマ学院。二通目はユリのフッガー家。三通目はアントワープの海事ギルド。天文学、会計学、航海学と言う訳さ。アルマゲストまで教えてくれたお礼と高地語まで習得したご褒美さ。別れるのは辛いが、カスチリヤやアラゴンはセファルディには危険に過ぎる。そして私の仕事はそこにしかない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます