帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。
2022年6月11日(土)。
十勝で出土した縄文土器の時期的分類展示は、のちほど帯広市街西地区にある「百年記念館埋蔵文化財センター」で見学した。
縄文時代は、ほぼ日本列島の全域で繰り広げられた定住的な狩猟採集の時代と定義される。
縄文時代の始まりは、列島で土器文化が始まったおよそ1万6000年前とされているが、縄文文化の特徴である複数の竪穴式住居による集落での定住生活、弓矢の使用、すり石や石皿を使った植物質食料加工具の利用などが定着するのは1万年ほど前のことである。
北海道の縄文時代の遺跡は、気候や植生が現在とほぼ同じになった9千年ほど前から、その数が増える。また、縄文時代になって新しく加わった道具を見ると、狩猟だけでなく、漁労や植物採集も盛んに行われていたことが分かる。
十勝地域では、約1万4000年前の土器が帯広市大正3遺跡から発見されているが、各地で竪穴式住居による集落が営まれ、大量の土器、すり石などの植物質食料加工具が見られるようになるのは、落葉広葉樹が十勝平野にも進出した9000年前頃になってからとみられる。
縄文時代の遺跡は、十勝の各地におよそ1000ヵ所が確認されており、他の地域と交流・影響しあいながら、この地の自然環境にあわせた生活が営まれていた。
◆十勝平野の縄文土器。土器は、皮や繊維で作られた容器にくらべ、火に強く、腐ることもないため、煮炊きや貯蔵に適した道具として広まったと考えられている。
氷期が終わった1万年前ころから作られるようになった十勝の土器は、1万4千年前ころの土器とは違い、底が平らで模様も簡素である。底が平らな土器は7千年前ころまで作られ続け、一時的に丸い底やとがった底になる、6千年前ころから再び平らな底になる。
初期の土器には「縄文」がないものも多く、縄の模様は8千年前ころから見られるようになり、1千4百年前ころまで用いられ続けた。
土器が登場してしばらくは、底の深い土器ばかり作られたが、3千5百年前ころからは、皿や注ぎ口の付いた壺のような土器なども作られるようになった。
■縄文時代の石器
狩と漁の道具。矢柄の先端に付ける石鏃は、土器作りが始まったころから作られるようになるため、弓矢の利用も土器作りと同じころに始まったと考えられている。石槍は銛(もり)としても利用されていた。両端を打ち欠いた石は、石錘(せきすい)とよばれ、漁網のおもりと考えられている。
ものを加工する道具。つまみの付いたナイフは、この時代特有の石器で、つまみにヒモを結んで携行することを意識して作られたようである。縁辺に刃を作り出しただけの削器(さっき)もナイフとして使われていた。石斧は木を切ったり加工する、掻器(そうき)は皮をなめす、錐は穴をあける、砥石は石斧や骨角製の道具などを磨く道具と考えられている。
調理に用いられる道具。木の実などをすりつぶすための道具として、手に持ちやすい形の石を選んだり加工したりして使われたすり石や、大きくて平らな石皿などがある。
縄文人の生活 。
縄文人の食べものカレンダーからは、狩りや漁、木の実や貝類などの採集を季節に応じて行っていたようすがわかる。遺跡からは、食べものを手に入れることだけでなく、祭りや祈りといった行為が社会生活をする上で欠かせないものだったようすもうかがえる。身体を彩る装飾品にもさまざまな素材や形が見られる。
■食べる。十勝の縄文時代の遺跡からは、エゾシカ、ヒグマ、ウサギ、タヌキなどの動物、ワシ類などの鳥、サケ、マス、イトウ、ウグイ、チョウザメなどの魚、クルミやドングリ、ヤマブドウなどの木の実が見つかっている。
■住む。縄文人の住まいは多くの場合、地面に穴を掘って床を整え、屋根には土またはヨシや木の皮などをかぶせて作られた「竪穴式住居」とよばれる住居だったと考えられている。床には炉や、屋根を支える柱の跡が残る例がよく見られる。最近では穴を掘らない「平地式」の住居も発見されており、住まいのスタイルがさまざまだったことがわかってきた。
■願う。土偶は、写実的なものから抽象的なものまであるが、ほとんどは女性をあらわしているようで、赤ちゃんの誕生を願って作られたと考えられる例も少なくない。十勝では7千年前ころから作られていたようである。
■葬る。墓は一般的には地面に穴を掘って遺体を安置し、その後で埋め戻されたものと考えられている。多くの場合、遺体はひざを抱えるような形で埋葬されていたようである。墓の中に赤い粉を敷いたり、たくさんの副葬品を入れる例も見られる。
■装う。縄文時代には、きれいな石や漆、焼き物などを使った装身具がたくさん作られるようになった。芽室町小林遺跡からは、7千年前の耳飾りが見つかっており、日本各地から同じ形のものが見つかっている。
大正3遺跡 北海道最古の土器(約1万4千年前)。
日本列島で最も古い年代を示す土器は、青森県大平山元遺跡から出土した無文土器で約1万6000年前のものである。道内では2003(平成15)年に行われた帯広市大正3遺跡の発掘調査により、大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最も古いとされる。大正3遺跡は段丘の上で見つかったが、草創期の土器が残された当時は河原のような場所だったと考えられている。
大正3遺跡で見つかった土器は、土器に付着していた炭化物の年代測定で約1万4千年前ということが明らかとなり、北海道での土器の使用開始が数千年さかのぼることが明らかになったほか、北海道・日本の土器作りの起源と広がりを考える上でも極めて重要な発見として評価されている。
出土した土器の形は丸底で、先端中央に乳房状の突起が一つ付けられている。文様は本州の東北地方から中部地方にかけての縄文時代草創期の土器と共通する「爪形文」のほか、多様な刺突文などがある。土器の内側に海の生き物を煮炊きした「おこげ」がついたものがあり、これの放射性炭素年代測定では約1万4000~1万4500年前という値が示されている。
石器は大小の尖頭器、へら形石器、削器、掻器、錐などがあり、小型の尖頭器は弓矢を使った狩が行われていた可能性を示している。黒曜石製石器には、十勝のほか、置戸や赤井川産地のものが含まれている。石器の作り方は北海道の旧石器人よりも、本州の草創期人に近く、土器の特徴とも合わせ、この遺跡は本州からの移民かその子孫によって残されたという説も出されている。
しかし、道内では今のところこの年代に相当する土器は本例が唯一であり、どういう経路をたどって土器文化が十勝までたどり着いたのかは明らかではない。
◆謎の4000年。大正3遺跡に土器文化を携えて人がやってきた頃は、それまでの寒冷な気候から、右肩上がりに気温が上昇していた頃に相当する。しかし、1万3000年前ころから、全地球的に急激な「寒の戻り」を迎えた。この土器文化をもって来た人たちは、この寒冷化とともに南のほうへ撤退したのかもしれない。十勝平野で、次の土器文化(暁式土器)が出現するのはおよそ1万年前のことで、このおよそ4000年間の解明は、今後の課題である。
帯広市大正遺跡群。所在地:帯広市大正町。
帯広市街地の南約15㎞、途別川の左岸に点在する大正1~8遺跡を総称して「大正遺跡群」と呼び、2002~2004年に高規格道路建設のための発掘調査が行なわれた。遺跡群全体では、縄文時代草創期~前期前半期を中心に、50万点を超える土器や石器などの遺物、住居跡や墓跡などの遺構が出土した。
「北海道最古の土器」は大正3遺跡から出土したが、大正6遺跡からは約9千年前~8千5百年前ころ、十勝を含む東北海道地域で盛行した「暁式土器群」とよばれる平底の土器群のもっとも古いタイプ(約9千年前)と思われる無文で薄手の土器が多くの石器を伴って発見された。また、大正8遺跡では「暁式土器」の最も新しいグループとみられる絡条体による文様がつけられた土器が樽前d火山灰(約8千年前降下)の上層から出土した。
約8500年前、道東地域にはロシア極東地域に起源を持つと考えられる「石刃鏃(せきじんぞく)文化」が広がった。大正3・7遺跡からは当時の竪穴住居跡や石器作り工房の跡などから、大量の土器や石器類が出土した。この両遺跡は当時の内陸部の拠点的な集落とみられる。
石刃鏃文化の集団が集落での生活を止めて以降、土器の表面には縄文が多用されるようになり、約7千年前にはこの地域も「縄文土器文化圏」に含まれた。この頃の住居跡や多くの土器が大正8遺跡の発掘調査で出土した。
とくに縄文時代前期(約6千年前)の人たちは大正7・8遺跡に竪穴住居を作り、たくさんの土器や石器を使った生活を営んでいたようである。大正8遺跡から出土した当時の墓には「漆製品」が副葬されたものもあり、道南~本州東北地方との交流がうかがわれる。同遺跡から出土した土偶は、このステージもしくは少し前くらいのものと思われ、全体に赤い顔料が塗られていたようである。
墓。先史時代には様々な葬法があったと考えられるが、発掘調査で発見されやすいものに、地面に穴を掘って遺体を埋葬した「土壙墓」といわれるものがある。十勝各地の遺跡からも多く発見されており、中には土器や石器、装身具などが副葬されたものもある。
八千代A遺跡。帯広市八千代町基線194ほか。
八千代A遺跡は、縄文時代早期前半(約9000年前~8500年前)のものとしては全国的に見ても稀有な大規模集落遺跡である。
帯広市郊外の日高山脈のふもとにあり、1985年から4年間の発掘調査が行われた。湿地に面した丘の上からは105軒の竪穴式住居の跡、貯蔵用の穴(土坑)、土器・石器などの遺物約8万9千点が出土し、当時の人びとにとって、暮らしやすい環境であったと推測される。
ただし、多くの住居跡が残されているのは、数百年の間に何度も建て替えられた結果で、同時に利用されていた住居は数軒程度、集落の人口は数十人くらいだったと思われる。
住居は、円形の竪穴式住居がほとんどで、屋根を支える柱の跡が見つからないことも特徴の一つである。大きさは直径4~5mが基本サイズだが、8mを超す大型のものもある。基本サイズの住居では、4~6人くらいが暮らすことができたと思われる。
炉は床の真ん中あたりに配置され、炉のそばに、大きな石が残されたままの住居跡もあり、作業台として使われていたようである。
炉の中からは、オニグルミの殻、ミズナラの子葉、キハダやヤマブドウの果実や種子などが見つかり、十勝平野に、現在とほぼ同じような冷温帯性の落葉広葉樹が進出していたことが明らかとなった。
クマの頭を模造したと思われる土製品も見つかっている。動物をかたどったものとしては、北海道で最古の資料である。
コハクやカンラン石などで作られた装身具類。
住居からはネックレスの玉や、ペンダントなどの装身具も発見された。北海道の外から持ち込まれたと思われるコハクの玉も見つかっている。また、ネックレスの玉には、穴をあける途中で作業を止めているものもあり、住居の中で玉作りが行われていたことが想像される。
この遺跡で見つかった土器は、表面にあまり模様をつけず、底が平らで、底面にホタテ貝のあとが付けられたことに特徴がある「暁式土器」とよばれるものである。
土器の特徴の違いから、八千代A遺跡の集落は数百年にわたって営まれていたことがわかる。
石器は黒曜石で作られた石鏃や削器、彫器などの剥片石器、泥岩などで作られた石斧、扁平な石を使った擦石などがあり、擦石が多く出土していることから植物質の食料加工が盛んに行なわれていたことが推測できる。
◆続縄文時代
続縄文時代とは、紀元5世紀頃から7世紀前半(おおむね本州の弥生時代から古墳時代に並行)にあたる、おもに北海道の時代区分である。
弥生時代は、水田による稲作農耕と鉄製の道具の使用に特徴付けられ、その始まりは紀元前5世紀ころ(近年の研究では北部九州で紀元前10世紀までさかのぼる)とされている。
北海道での考古学的調査では、弥生時代と並行する時期になっても、稲作が行われた証拠は未発見である。金属器の使用もごくわずかで、石器の組み合わせが縄文時代のものと大きく変わらない。生業は、狩猟・漁労・採集を基本とし、西南部でヒエなどの栽培がこれに加わる程度であった。
続縄文時代は、前半期(おおむね弥生時代に相当)と後半期(おおむね古墳時代に相当)に二分することが可能である。
前半期は、北海道の東西で異なる土器文化が栄えた。十勝を含む東部地域では縄文晩期後半期の特徴をひく土器が使われ、池田町池田3遺跡では、小型の土器やコハク製装身具などが副葬された墓が出土している。
後半期になると、「後北式」とよばれる土器が北海道全域に広がり、さらに宮城県北部や新潟県、千島列島中部からも出土するようになる。この土器を伴う墓が浦幌町十勝太若月遺跡から出土しており、副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉があった。
終末ころになると、土器の表面からおよそ1万年の間続いた「縄文」が姿を消し、石器に替わって鉄器が徐々に普及していった。
後北式土器。浦幌町十勝太若月遺跡。
◆擦文時代
擦文時代とは7世紀後半から12~13世紀頃、ほぼ本州の飛鳥時代~平安時代に相当する北海道の時代区分である。
「擦文」の呼称は、土器の表面に木片などで擦った痕が見られることに由来し、本州の土師器をまねた技法で製作されている。
擦文土器の分布は、時期により違いはあるものの、北海道全域、東北北部、サハリン南部、千島列島南部に広がっていた。
擦文時代になると、竪穴式住居が本州と同じ方形で壁際に炊事用のカマドが設けられるタイプとなる。
また、石器に替わって鉄器が普及するなど、さまざまな文化や物資が本州方面から供給されるシステムが確立したものと推測される。この時代は、河川の流域、湖沼の周辺、海岸部などに大規模な集落が残されることに特徴がある。
◆十勝の擦文時代。
十勝では、大樹町から浦幌町にかけての沿岸部、十勝川の河口付近~中流域の段丘上に、まだ埋まりきらずに窪みとして地表から確認できる竪穴群の存在が知られ、「十勝ホロカヤントー竪穴群」(大樹町)、「十勝太遺跡群」(浦幌町)などは北海道の史跡に指定されている。
擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされる。
十勝では、浦幌町十勝太若月遺跡の住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられる。この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土している。前者は鍛冶の時に使う送風装置の部品、後者は糸をつむぐ道具である。
12~13世紀頃には、土器文化が終わり、竪穴式住居が姿を消すようになり、擦文時代は終末を迎え、アイヌ文化期へと移行した。この変遷は連続したもので、両文化の担い手は同一であると考えられている。