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帯広市 帯広畜産大学生協食堂 寄宿舎 逍遥舎

2024年06月28日 09時45分54秒 | 北海道

帯広畜産大学生協食堂。内部。帯広市稲田町。

2022年6月11日(土)。

帯広百年記念館を10時50分過ぎに出て、予定通り帯広畜産大学の学生食堂へ向かった。14時に「十勝ばんえい」が始まるが、その前のミッションとして、ここと帯広百年記念館埋蔵文化財センター見学の2つが残っていた。

帯広畜産大学には50年ほど前に訪れており、断片的な記憶が定着している。その回顧のための見学だ。

大学2年生だった1973年夏に、1年上の先輩2人から北海道旅行をした話を聞いたこともあり、国鉄の周遊券を使って一人で名古屋から青函連絡船経由で、まず札幌近郊江別市大麻の兄夫婦住む社宅で過ごした。札幌市内の有名観光地を回ったのち、札幌駅へ向かった。当時、カニ族といわれる学生の北海道旅行が流行していた。カニ族の名の由来は登山用のザックが当時は横長のキスリングが主流で、それを旅行用に転用していたからだ。私の場合はキスリングを持っていなかったので、愛用していたショルダーバッグを使用した。宿泊は駅の建物の横で野宿するのが多かった。そういう風景はテレビでよく放映されており、実際に札幌駅に行くと、多くの学生が野宿していたので、私も新聞紙を上半身を巻き付けて野宿した。

どこに行ったのか覚えている観光地は、一番人気のあった秘境といわれた知床だ。観光ツアーに参加して、知床観光船に乗り、知床五湖を回った。次いで摩周湖に行き、霧の無い摩周湖に感動した。

悲劇はここから始まったのだろう。釧路駅に着くと周遊券がなくなっていた。どこかで落としたのだろう。原因は寒さだ。摩周湖の最寄り駅で野宿したが、少々用意していた薄い上着では標高から考えて放射冷却して10度前後の寒さには耐えられなかった。駅前の電話ボックスに入り、新聞紙を燃やして暖を取ったが追いつかなかった。何とか夜を過ごして、釧路行きの列車に乗ったが、前に座った親子連れに遠慮して窓が閉められず、冷気をまともに浴び続けて、風邪を引きそうになった。列車に乗り込んだあとのどこかで失くしたようだ。

釧路駅で学割証明を使い、名古屋までの片道切符を購入した。途中下車はできるが、北海道周遊は諦めて、自宅へ帰ることにした。

午後遅く帯広駅で下車して、帯広畜産大学学生寮へ泊めてもらうために向かった。私は自宅通学だったが、学生寮に住む知人から国立大学の寮生は全国の国立大学学生寮に宿泊できるという話を聞いていたからだ。公的に認められているわけではないが、学生の自治が認められていた当時では学生同士で認め合っていたのだろう。

バスを使ったのだろうが、帯広畜産大学に着き、学生寮へ向かい、寮生に学生証を見せたのだろう寮の部屋に案内された。部屋の壁は政治的なスローガンの落書きがあった。夕食をご馳走され、畜産大学らしくホルモンの鍋を食べさせてくれた。新鮮な内臓だと自慢していた。数人と話をしながら、酒を飲まされたが下戸の私は少し飲んだ程度だった。記憶はその程度だが、帯広畜産大学がどこあるのか正確な場所は今回事前にチェックするまで知らなかった。帯広百年記念館も市街地南の郊外だったが、さらに南の郊外にあった。

ナビの目的地を帯広畜産大学生協に合わせたが、針葉樹の森沿いの直線道路を進むと、進入路が狭い道路だったのでパスしてしまい、正門らしき敷地に着いて、学内案内図を確認してみた。

すると、やはり学食には先程の狭い道路から進入するほうが良いと分かり、戻って学生食堂前の一般外来者用の駐車場に着いた。食堂開店の11時を少し過ぎた時刻だったが、ほとんど車はいなかった。

建物玄関から入るとホールがあり、右にレストランがあったが学食ではなかったので、左の通路を進むと学食があった。利用客が少ない時間帯を狙うのがセオリーだ。入口のメニューは多くはないが、豚丼と数品をセットにして627円だった。

食べ終わって200mほど学生寮へ向かった。寄宿舎という名前は女子大みたいな名称だ。意図的に変更されたものだろう。外観は現代風で、50年前の建物は取り壊されたものと思う。見るからに管理されているようだったので、内部には入らなかった。

学食の道路対面に洒落た建物があったので、覗いてみると帯広畜産大学創立70周年記念会館「逍遥舎」という建物だった。2011年に、帯広畜産大学同窓会から寄贈された建物で、同窓会員,職員,学生が相互の懇親などの交流の場として使っているという。

11時50分ごろ、次の見学地である帯広百年記念館埋蔵文化財センターへ向かった。

帯広市 帯広百年記念館⑥アイヌ文化 仕掛け弓 板綴り舟 「リウカ」サケ皮靴


福島市 戦後最大の冤罪事件 松川事件現場 殉職碑 松川の塔

2024年06月27日 15時23分17秒 | 福島県

松川事件現場・殉職碑・地蔵尊像。福島市松川町美郷美郷4丁目7−12。

2024年5月27日(月)。

福島市民家園の見学を終え、1949年に起きた松川事件の現場へ向かった。

松川事件とは、1949年(昭和24年)8月17日未明に国鉄東北本線で起きた脱線転覆により3人の乗務員が死亡した事故で、何者かが線路を破壊したことによる事件である。

同年7月に起きた下山事件、三鷹事件と並んで戦後「国鉄三大ミステリー事件」のひとつといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となった日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる。真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった。

1949年(昭和24年)8月17日3時9分(当時、日本においては夏時間が導入されており、現在の2時9分に相当する)頃、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の東北本線松川駅 - 金谷川駅間を走行していた青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車133号機牽引)が突如として脱線した。現場はカーブの入口(当時は単線、複線化後の現在では下り線)であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両、郵便車1両、客車2両も脱線した。この事故により、機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。

現場検証の結果、転覆地点付近の線路継ぎ目部のボルトおよびナットが緩められ、継ぎ目板が外されていたことが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、ほとんどまっすぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、近くの水田の中からバールとスパナがそれぞれ1本ずつ発見された。

下山事件および三鷹事件に続く鉄道事件として世間の注目を集め、事件翌日には当時の増田甲子七内閣官房長官が「(三鷹事件などと)思想底流において同じものである」との談話を発表した。捜査当局は、当時の大量人員整理に反対した東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)組合員の共同謀議による犯行とみて捜査を行った。

事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供し、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名および東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴された

1950年12月6日の福島地方裁判所による一審判決では、被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)となった。1953年12月22日の仙台高等裁判所による二審判決では、17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となった。

第一審・控訴審判決に対し、思想信条・階層を超えて多くの支援者が集結し、1300名を超える「守る会」や大弁護団が結成された。広津和郎、宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、壺井栄ら作家・知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

1959年8月10日、最高裁判所は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。検察側の隠していた「諏訪メモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。被告人達の無実を示すアリバイを証明していたが捜査機関により隠されていた。)の存在と検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」(松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが判明したことによる。

1961年8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決

1963年9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告人全員の無罪が確定した。

1964年8月17日午前0時、汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎えた。

被告人たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、1970年8月に東京高等裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

捜査当局は当初から労働組合員の犯行のシナリオを描き、周辺にいた少年を別件逮捕したうえで、脅迫や拷問まがいの取り調べで自白を強要し、それに基づいて20名の被告人を起訴した。また、真犯人に関する目撃証言なども多数あったが、警察署の担当者はむしろ真犯人を安全に逃亡させる協力をしたのではないかと思える動きをしていた。

真犯人が逮捕されないままに事件は時効となり、真相は謎のままになったため、真犯人や事件の真相に関するさまざまな説が論じられている。

有力な説は、「日本共産党支持層であった東芝社員らの労働運動を弾圧するために、GHQや警察が仕組んだ謀略である」というものである。事故直前に現場を通過する予定であった貨物列車の運休、警察があまりにも早く現場に到着した点や、事件後に現場付近で不審人物を目撃したという男性の不審死などの不可解な部分があると言われており、これらを元に謀略の可能性が指摘されている。

初代宮内庁長官田島道治が昭和天皇との対話を書き残した『拝謁記』では、「一寸法務大臣ニきいたが松川事件ハアメリカがやつて共産党の所為ニしたとかいふ事だが」「これら過失ハあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党ニ謝罪ニいつてる」との昭和天皇の発言が記述されており、謀略説を裏付ける初めての史料と目されている。

事件当時の東北本線は単線であったが、1964年(昭和39年)9月、従来線からやや離れた場所に線路を追加する形で複線化が行われている複線化後の従来線は下り線として利用されているため、事件に巻き込まれたのは上り列車であるが、現場は現在の下り線に存在することになる。

現在の下り線。福島駅方面から上野駅方向。奥に羽山陸橋。中央付近に現場。左に「松川の塔」。

列車が脱線転覆した現場は松川駅から金谷川駅に向かっておよそ1.7km、松川駅を出発してすぐにカーブし北西へ進んでいた下り線が福島市道市ノ沢・明内線の「羽山陸橋」を潜って曲がり、上り線と離れていく左カーブ(事件に巻き込まれた上り列車から見れば右カーブ)の地点である。東北本線下り線の「石合踏切」付近から線路沿いに伸びる農道を北西方向に進めば訪れることができる

右が、福島駅・仙台駅方向。

松川事件現場・殉職碑・地蔵尊像。福島市松川町美郷美郷4丁目7−12。

脱線転覆現場近くの線路脇には国鉄関係者によって「殉難碑」と観音像が建立されているほか、事件から50年後の1999年(平成11年)12月に東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)が建立した石碑「謀略 忘れまじ松川事件」がある。

「松川の塔」。

一方、脱線転覆現場から東へ200mほど離れた上り線線路脇には1964年(昭和39年)9月に建てられた記念塔「松川の塔」がそびえ、塔の周辺はあずまややベンチ、テーブルを備えた「松川記念塔公園」が整備されている。「松川の塔」はその高さとオベリスク型の形状からよく目立つが、実際の脱線転覆現場ではなく、塔の傍を走る上り線は事件当時には存在していなかったことに注意が必要である。

 

13時過ぎに、現場近くの橋(羽山陸橋)に到着。現場を確認しようとした。しかし、橋に駐車はできない。美郷の住宅街に駐車できる場所はなかったので、反対方向に戻って、橋から少し離れた介護関係施設「ライフ・タイム・福島」反対側の路肩に駐車した。すると、富山ナンバーの車が来て、「松川事件の現場はどこですか」と尋ねてきたので、今から橋に行って探すところだと答えた。焦っているので、東西南北も分からない。

歩いて橋から見下ろすと、右側に「松川の塔」(松川記念塔公園)、左側に「殉難碑」が見えた。

先ほどの、富山ナンバーが来たので、「あそこだ」と教えると、美郷方面へ進んで行った。事前にネットで読んで覚えていたのは、「東北本線下り線の石合踏切付近から線路沿いに伸びる農道を進む」ということだった。ナビで見ると、介護関係施設「ライフ・タイム・福島」横からアクセスすることになる。

近くに行くと、職員数人がいたので尋ねると、二つ目の踏切手前の一方通行の未舗装道路を進めばいい、ということだった。

その通りに進んで、狭い未舗装道路を進んで陸橋の下を通り抜けると、右側に「松川の塔」、少し進むと線路脇左側に「殉難碑」があったが、車を停めるスペースはないと感じ、そのまま進むと、「松川の塔」へ向かう畦道程度の細い農道が土手まで続き、土手下に富山ナンバーの車が駐車していた。60代ぐらいの男性3人が帰ってきて、車を出せるように移動するよう依頼されたので、土手下突き当りから右の「松川の塔」方向へ車を移動、富山ナンバーは突き当りから左に移動した。「松川の塔」が事件現場でないことは覚えていたので、そのことを話すと知らないという。東に本当の現場がある、と教えたら、土手の上を探しに行った。東西南北や福島駅・東京駅がどの方向か混乱していたので、間違っていたのだが。

「松川の塔」へ行き、見学しかけていると、もう1台土手方向に車が走ってきた。今日はやけに混雑する日だなと苦笑していると、富山ナンバーが細い農道から帰っていった。

車が邪魔になっていないかと、土手下へ戻ると、70代ほどの男性2人が大きなメガホンを携えて左側のスペースに置いた福島ナンバーの車から下りてきた。聞くと地元の人だった。事件現場は、土手の上かと尋ねると、反対側線路脇の「殉難碑」があった場所だと、断言した。「松川の塔」横に駐車スペースが以前あったというが、そこまでの路肩は信用できない状態だった。「松川の塔」へ戻ると封筒を呉れて陸橋と反対の方向が福島駅・仙台駅方向だと、資料をもとに教えてくれた。事件に巻き込まれた上り列車から見れば右カーブになった地点である。ややこしいのは、当時は単線だったが、現在は、下り線線路になっているからだ。

二人は、NPO松川運動記念会の人たちで、これから弁護士30人ぐらいが、ここに来るので説明をするために来たという。バスは一方通行の道路を通れないので、弁護士たちは歩いてくるという。NPOのHPによると、弁護士たちは、二本松市岳温泉で「5月研究討論集会」を開催(5月25~27日)した自由法曹団の一行であった。

 

最近、NHKで「下山事件」特番が再放送されたので見ていたら、松川事件も取り上げられ、実行犯たちが米軍横田基地から仙台空港まで行ったのち車で現場へ行き犯行を行ったという証言映像や昭和天皇が「アメリカがやって共産党のせいにした」と語ったことが紹介されていた。

 

このあと、二本松市の「智恵子記念館」へ向かった。

福島市民家園 会津の曲がり家・旧馬場家住宅(馬屋中門造り)


帯広市 帯広百年記念館⑥アイヌ文化 仕掛け弓 板綴り舟 「リウカ」サケ皮靴

2024年06月27日 09時27分02秒 | 北海道

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

2022年6月11日(土)。

 

アイヌ文化のコーナー。

川漁・海漁。

十勝川とその支流にたくさんの村があった十勝では、川漁がさかんに行われていて、サケ・マス・イトウ・アメマス・ウグイなど多くの魚を獲っていた。

漁の方法はいろいろあり、たとえば、十勝川のような大きな川では、丸木舟を使った網漁を、小川では川をせき止めて篭を仕掛ける漁をしていた。また、マレクという棒の先に鉤がついた道具を使った漁もしていた。

海岸近くの村では海漁が盛んで、タラやカレイなどいろいろな魚やアザラシ、オットセイなどの動物も獲っていた。北海道の南の地域では、銛でメカジキをとる漁も行っていた。

山猟。

山猟は秋から春にかけて行われた。この季節であれば草が枯れ、木の葉が落ちて周りがよく見えるためである。また、獲った動物の肉が腐りにくいためでもある。

山猟ではエゾシカ、ヒグマ、エゾユキウサギ、キタキツネ、エゾタヌキ、クロテンなどの動物や、エゾライチョウ、マガモ、カケスなどの鳥を獲っていた。

このような猟には、おもに弓矢を用いた。この矢にはトリカブトから採った毒が塗られていて、その威力は大きなヒグマも簡単に倒すほどであった。

このほか、シカやキツネを獲る仕掛け弓ウサギを獲る輪の形をした罠などいろいろな罠も使われていた。

植物の利用。

アイヌの人々は食用や薬用になる植物を数百種類も知っていて、春から秋にかけて、たくさんの植物をとっていた。

十勝では春から夏にかけて、ニリンソウ・ギョウジャニンニク・フキ・ヨモギ・ヒメザゼンソウなどの葉や茎、カタクリ・エゾエンゴサク・ウバユリなどの根などを集めていた。

夏から秋にかけては、ヤマブドウ・クルミ・キハダ・ヒシ・ヤブマメなどの実やコウライテンナンショウの根、タモギタケやマイタケなどのキノコをとっていた。

こうしてとった植物はすぐに調理するか、冬のための保存食や薬として日光で干してから家の中や食べ物専用の倉庫に保存していた。

イクパスイ(へら状のもの)とトゥキ(杯)。神へ祈るときに使う道具。

チャシ。後代には砦となるが、始まりは祭祀や談合の場であった。

 

帯広百年記念館内のアイヌ民族文化情報センター「リウカ」では、アイヌ民族の伝統的な文化や歴史について、本や映像・音声資料などを使って学ぶことができる。

サケ皮の靴「チェプケㇼ」。

乾かして広げたサケ皮。

 

9時50分から1時間ほど見学し、帯広畜産大学の学生食堂へ向かった。

帯広市 帯広百年記念館⑤縄文時代・続縄文時代・擦文時代 大正3遺跡 八千代A遺跡 暁式土器


福島市民家園 会津の曲がり家・旧馬場家住宅(馬屋中門造り)

2024年06月26日 15時52分00秒 | 福島県

福島市民家園。福島市上名倉字大石前地内(あづま総合運動公園内)。

2024年5月27日(月)。

9時から高湯温泉、土湯温泉を入浴後、福島市西部にある福島市民家園へ向かった。11時頃、広大な駐車場に入り、子供連れが入っていく施設へ入ったがサイクルスポーツ広場だった。駐車場の反対側に移動すると、民家園の入口が近くにあることが分かった。全国の民家園では川崎市と大阪服部緑地公園が有名で1980年代初めに見学しているが、1982年(昭和57年)8月に開園した福島市民家園もその頃から知っている。改修工事中のため見学できなかった芝居小屋の重文・広瀬座も有名である。

近年入場無料になったという。休園日が火曜日なのはありがたい。

福島市民家園は、江戸時代中期から明治時代にかけての県北地方の民家を中心に梁川村(現在の伊達市)の芝居小屋、福島市内商人宿、料亭、板倉、会津地方の曲り屋等が移築復原されている。

園内には生活・生産用具を展示し庭や畑と共に当時の環境を再現しているほか、時節にあわせて年中行事の再現や、わら細工等の体験行事などの伝承活動も行っている。

入口から入って、まず左横の展示館を見学し、いくつかの冊子を入手した。その後、順路に従って旧佐久間家板倉から、反時計回りに見学していった。芝居小屋の重文・旧広瀬座は工事中のためシートで覆われて見学できなかったが、建物群はよく整備されていた。

旧佐久間家板倉(いたくら)。市指定有形民俗文化財。

江戸末期~明治時代の建築。穀倉(こくぐら)とも呼ばれ、主に籾(もみ)の貯蔵に使われていた。

この板倉は福島市内では珍しい大型のもので、内部を区画して使用していた。

旧小野家住宅(市指定有形文化財)。伊達市伏黒にあった養蚕農家。

旧筧家宿店(市指定有形文化財)。市内上鳥渡にあった旅人宿。

会津街道と米沢街道の分岐点に建っており栄えたが、万世大路の開通と奥羽本線と岩越鉄道(現在の磐越西線)の開通により旅客が激減、廃業した。

元客自軒(旧紅葉館)(市指定有形文化財)。市内北町にあった割烹旅館。

隣の金沢屋で発生した世良修蔵襲撃事件の後に世良を引き立てた建物である。背景の旧広瀬座は工事中。

屋敷神。屋敷の一隅、特に鬼門(北東隅)に、石や木、わら屋根の祠(ほこら)があり、屋敷の守護神となる氏神や先祖の神、特に信仰する神の分霊が祀られていた。

旧阿部家住宅(県指定重要文化財)。市内大笹生にあった農家の住宅。

外の便所と五右衛門風呂。

旧渡辺家住宅(市指定有形文化財)。市内上名倉にあった農家であり、かつては庄屋だったとも言われている。

旧奈良輪家住宅(県指定重要文化財)。市内山田にあった農家の住宅。

旧菅野家住宅(県指定重要文化財)。市内松川町にあった農家。

旧馬場家住宅(市指定有形文化財)。南会津郡南会津町にあった農家。会津地方特有の曲家である。

 

12時40分頃見学を終え、謀略事件とされる1949年に起きた松川事件の現場へ向かった。

福島県桑折町 旧伊達郡役所 福島市 文知摺(もぢずり)石 飯坂温泉鯖湖湯 高湯温泉 土湯温泉


帯広市 帯広百年記念館⑤縄文時代・続縄文時代・擦文時代 大正3遺跡 八千代A遺跡 暁式土器

2024年06月26日 10時02分43秒 | 北海道

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

2022年6月11日(土)。

十勝で出土した縄文土器の時期的分類展示は、のちほど帯広市街西地区にある「百年記念館埋蔵文化財センター」で見学した。

 

縄文時代は、ほぼ日本列島の全域で繰り広げられた定住的な狩猟採集の時代と定義される。

 縄文時代の始まりは、列島で土器文化が始まったおよそ1万6000年前とされているが、縄文文化の特徴である複数の竪穴式住居による集落での定住生活、弓矢の使用、すり石や石皿を使った植物質食料加工具の利用などが定着するのは1万年ほど前のことである。

北海道の縄文時代の遺跡は、気候や植生が現在とほぼ同じになった9千年ほど前から、その数が増える。また、縄文時代になって新しく加わった道具を見ると、狩猟だけでなく、漁労や植物採集も盛んに行われていたことが分かる。

 十勝地域では、約1万4000年前の土器が帯広市大正3遺跡から発見されているが、各地で竪穴式住居による集落が営まれ、大量の土器、すり石などの植物質食料加工具が見られるようになるのは、落葉広葉樹が十勝平野にも進出した9000年前頃になってからとみられる。

 縄文時代の遺跡は、十勝の各地におよそ1000ヵ所が確認されており、他の地域と交流・影響しあいながら、この地の自然環境にあわせた生活が営まれていた。

◆十勝平野の縄文土器。土器は、皮や繊維で作られた容器にくらべ、火に強く、腐ることもないため、煮炊きや貯蔵に適した道具として広まったと考えられている。

氷期が終わった1万年前ころから作られるようになった十勝の土器は、1万4千年前ころの土器とは違い、底が平らで模様も簡素である。底が平らな土器は7千年前ころまで作られ続け、一時的に丸い底やとがった底になる、6千年前ころから再び平らな底になる。

初期の土器には「縄文」がないものも多く、縄の模様は8千年前ころから見られるようになり、1千4百年前ころまで用いられ続けた。

 土器が登場してしばらくは、底の深い土器ばかり作られたが、3千5百年前ころからは、皿や注ぎ口の付いた壺のような土器なども作られるようになった。

■縄文時代の石器

狩と漁の道具。矢柄の先端に付ける石鏃は、土器作りが始まったころから作られるようになるため、弓矢の利用も土器作りと同じころに始まったと考えられている。石槍は銛(もり)としても利用されていた。両端を打ち欠いた石は、石錘(せきすい)とよばれ、漁網のおもりと考えられている。

ものを加工する道具。つまみの付いたナイフは、この時代特有の石器で、つまみにヒモを結んで携行することを意識して作られたようである。縁辺に刃を作り出しただけの削器(さっき)もナイフとして使われていた。石斧は木を切ったり加工する、掻器(そうき)は皮をなめす、錐は穴をあける、砥石は石斧や骨角製の道具などを磨く道具と考えられている。

調理に用いられる道具。木の実などをすりつぶすための道具として、手に持ちやすい形の石を選んだり加工したりして使われたすり石や、大きくて平らな石皿などがある。

縄文人の生活 。

 縄文人の食べものカレンダーからは、狩りや漁、木の実や貝類などの採集を季節に応じて行っていたようすがわかる。遺跡からは、食べものを手に入れることだけでなく、祭りや祈りといった行為が社会生活をする上で欠かせないものだったようすもうかがえる。身体を彩る装飾品にもさまざまな素材や形が見られる。

■食べる。十勝の縄文時代の遺跡からは、エゾシカ、ヒグマ、ウサギ、タヌキなどの動物、ワシ類などの鳥、サケ、マス、イトウ、ウグイ、チョウザメなどの魚、クルミやドングリ、ヤマブドウなどの木の実が見つかっている。

■住む。縄文人の住まいは多くの場合、地面に穴を掘って床を整え、屋根には土またはヨシや木の皮などをかぶせて作られた「竪穴式住居」とよばれる住居だったと考えられている。床には炉や、屋根を支える柱の跡が残る例がよく見られる。最近では穴を掘らない「平地式」の住居も発見されており、住まいのスタイルがさまざまだったことがわかってきた。

■願う。土偶は、写実的なものから抽象的なものまであるが、ほとんどは女性をあらわしているようで、赤ちゃんの誕生を願って作られたと考えられる例も少なくない。十勝では7千年前ころから作られていたようである。

■葬る。墓は一般的には地面に穴を掘って遺体を安置し、その後で埋め戻されたものと考えられている。多くの場合、遺体はひざを抱えるような形で埋葬されていたようである。墓の中に赤い粉を敷いたり、たくさんの副葬品を入れる例も見られる。

■装う。縄文時代には、きれいな石や漆、焼き物などを使った装身具がたくさん作られるようになった。芽室町小林遺跡からは、7千年前の耳飾りが見つかっており、日本各地から同じ形のものが見つかっている。

大正3遺跡 北海道最古の土器(約1万4千年前)。

日本列島で最も古い年代を示す土器は、青森県大平山元遺跡から出土した無文土器で約1万6000年前のものである。道内では2003(平成15)年に行われた帯広市大正3遺跡の発掘調査により、大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最も古いとされる。大正3遺跡は段丘の上で見つかったが、草創期の土器が残された当時は河原のような場所だったと考えられている。

大正3遺跡で見つかった土器は、土器に付着していた炭化物の年代測定で約1万4千年前ということが明らかとなり、北海道での土器の使用開始が数千年さかのぼることが明らかになったほか、北海道・日本の土器作りの起源と広がりを考える上でも極めて重要な発見として評価されている。

出土した土器の形は丸底で、先端中央に乳房状の突起が一つ付けられている。文様は本州の東北地方から中部地方にかけての縄文時代草創期の土器と共通する「爪形文」のほか、多様な刺突文などがある。土器の内側に海の生き物を煮炊きした「おこげ」がついたものがあり、これの放射性炭素年代測定では約1万4000~1万4500年前という値が示されている。

石器大小の尖頭器、へら形石器、削器、掻器、錐などがあり、小型の尖頭器は弓矢を使った狩が行われていた可能性を示している。黒曜石製石器には、十勝のほか、置戸や赤井川産地のものが含まれている。石器の作り方は北海道の旧石器人よりも、本州の草創期人に近く、土器の特徴とも合わせ、この遺跡は本州からの移民かその子孫によって残されたという説も出されている。

 しかし、道内では今のところこの年代に相当する土器は本例が唯一であり、どういう経路をたどって土器文化が十勝までたどり着いたのかは明らかではない。

◆謎の4000年。大正3遺跡に土器文化を携えて人がやってきた頃は、それまでの寒冷な気候から、右肩上がりに気温が上昇していた頃に相当する。しかし、1万3000年前ころから、全地球的に急激な「寒の戻り」を迎えた。この土器文化をもって来た人たちは、この寒冷化とともに南のほうへ撤退したのかもしれない。十勝平野で、次の土器文化(暁式土器)が出現するのはおよそ1万年前のことで、このおよそ4000年間の解明は、今後の課題である。

 帯広市大正遺跡群。所在地:帯広市大正町。

帯広市街地の南約15㎞、途別川の左岸に点在する大正1~8遺跡を総称して「大正遺跡群」と呼び、2002~2004年に高規格道路建設のための発掘調査が行なわれた。遺跡群全体では、縄文時代草創期~前期前半期を中心に、50万点を超える土器や石器などの遺物、住居跡や墓跡などの遺構が出土した。

「北海道最古の土器」は大正3遺跡から出土したが、大正6遺跡からは約9千年前~8千5百年前ころ、十勝を含む東北海道地域で盛行した「暁式土器群」とよばれる平底の土器群のもっとも古いタイプ(約9千年前)と思われる無文で薄手の土器が多くの石器を伴って発見された。また、大正8遺跡では「暁式土器」の最も新しいグループとみられる絡条体による文様がつけられた土器が樽前d火山灰(約8千年前降下)の上層から出土した。

約8500年前、道東地域にはロシア極東地域に起源を持つと考えられる「石刃鏃(せきじんぞく)文化」が広がった。大正3・7遺跡からは当時の竪穴住居跡や石器作り工房の跡などから、大量の土器や石器類が出土した。この両遺跡は当時の内陸部の拠点的な集落とみられる。

石刃鏃文化の集団が集落での生活を止めて以降、土器の表面には縄文が多用されるようになり、約7千年前にはこの地域も「縄文土器文化圏」に含まれた。この頃の住居跡や多くの土器が大正8遺跡の発掘調査で出土した。

とくに縄文時代前期(約6千年前)の人たちは大正7・8遺跡に竪穴住居を作り、たくさんの土器や石器を使った生活を営んでいたようである。大正8遺跡から出土した当時の墓には「漆製品」が副葬されたものもあり、道南~本州東北地方との交流がうかがわれる。同遺跡から出土した土偶は、このステージもしくは少し前くらいのものと思われ、全体に赤い顔料が塗られていたようである。

墓。先史時代には様々な葬法があったと考えられるが、発掘調査で発見されやすいものに、地面に穴を掘って遺体を埋葬した「土壙墓」といわれるものがある。十勝各地の遺跡からも多く発見されており、中には土器や石器、装身具などが副葬されたものもある。

八千代A遺跡。帯広市八千代町基線194ほか。

八千代A遺跡は、縄文時代早期前半(約9000年前~8500年前)のものとしては全国的に見ても稀有な大規模集落遺跡である。

帯広市郊外の日高山脈のふもとにあり、1985年から4年間の発掘調査が行われた。湿地に面した丘の上からは105軒の竪穴式住居の跡、貯蔵用の穴(土坑)、土器・石器などの遺物約8万9千点が出土し、当時の人びとにとって、暮らしやすい環境であったと推測される。

 ただし、多くの住居跡が残されているのは、数百年の間に何度も建て替えられた結果で、同時に利用されていた住居は数軒程度、集落の人口は数十人くらいだったと思われる。

住居は、円形の竪穴式住居がほとんどで、屋根を支える柱の跡が見つからないことも特徴の一つである。大きさは直径4~5mが基本サイズだが、8mを超す大型のものもある。基本サイズの住居では、4~6人くらいが暮らすことができたと思われる。

炉は床の真ん中あたりに配置され、炉のそばに、大きな石が残されたままの住居跡もあり、作業台として使われていたようである。

炉の中からは、オニグルミの殻、ミズナラの子葉、キハダやヤマブドウの果実や種子などが見つかり、十勝平野に、現在とほぼ同じような冷温帯性の落葉広葉樹が進出していたことが明らかとなった。

クマの頭を模造したと思われる土製品も見つかっている。動物をかたどったものとしては、北海道で最古の資料である。

コハクやカンラン石などで作られた装身具類。

住居からはネックレスの玉や、ペンダントなどの装身具も発見された。北海道の外から持ち込まれたと思われるコハクの玉も見つかっている。また、ネックレスの玉には、穴をあける途中で作業を止めているものもあり、住居の中で玉作りが行われていたことが想像される。

この遺跡で見つかった土器は、表面にあまり模様をつけず、底が平らで、底面にホタテ貝のあとが付けられたことに特徴がある「暁式土器」とよばれるものである。

土器の特徴の違いから、八千代A遺跡の集落は数百年にわたって営まれていたことがわかる。

石器は黒曜石で作られた石鏃や削器、彫器などの剥片石器、泥岩などで作られた石斧、扁平な石を使った擦石などがあり、擦石が多く出土していることから植物質の食料加工が盛んに行なわれていたことが推測できる。

◆続縄文時代

続縄文時代とは、紀元5世紀頃から7世紀前半(おおむね本州の弥生時代から古墳時代に並行)にあたる、おもに北海道の時代区分である。

弥生時代は、水田による稲作農耕と鉄製の道具の使用に特徴付けられ、その始まりは紀元前5世紀ころ(近年の研究では北部九州で紀元前10世紀までさかのぼる)とされている。

北海道での考古学的調査では、弥生時代と並行する時期になっても、稲作が行われた証拠は未発見である。金属器の使用もごくわずかで、石器の組み合わせが縄文時代のものと大きく変わらない。生業は、狩猟・漁労・採集を基本とし、西南部でヒエなどの栽培がこれに加わる程度であった。

続縄文時代は、前半期(おおむね弥生時代に相当)と後半期(おおむね古墳時代に相当)に二分することが可能である。

前半期は、北海道の東西で異なる土器文化が栄えた。十勝を含む東部地域では縄文晩期後半期の特徴をひく土器が使われ、池田町池田3遺跡では、小型の土器やコハク製装身具などが副葬された墓が出土している。

後半期になると、「後北式」とよばれる土器が北海道全域に広がり、さらに宮城県北部や新潟県、千島列島中部からも出土するようになる。この土器を伴う墓が浦幌町十勝太若月遺跡から出土しており、副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉があった。

終末ころになると、土器の表面からおよそ1万年の間続いた「縄文」が姿を消し、石器に替わって鉄器が徐々に普及していった。

後北式土器。浦幌町十勝太若月遺跡。

◆擦文時代

擦文時代とは7世紀後半から12~13世紀頃、ほぼ本州の飛鳥時代~平安時代に相当する北海道の時代区分である。

「擦文」の呼称は、土器の表面に木片などで擦った痕が見られることに由来し、本州の土師器をまねた技法で製作されている。

擦文土器の分布は、時期により違いはあるものの、北海道全域、東北北部、サハリン南部、千島列島南部に広がっていた。

擦文時代になると、竪穴式住居が本州と同じ方形で壁際に炊事用のカマドが設けられるタイプとなる。

また、石器に替わって鉄器が普及するなど、さまざまな文化や物資が本州方面から供給されるシステムが確立したものと推測される。この時代は、河川の流域、湖沼の周辺、海岸部などに大規模な集落が残されることに特徴がある。

◆十勝の擦文時代。

十勝では、大樹町から浦幌町にかけての沿岸部、十勝川の河口付近~中流域の段丘上に、まだ埋まりきらずに窪みとして地表から確認できる竪穴群の存在が知られ、「十勝ホロカヤントー竪穴群」(大樹町)、「十勝太遺跡群」(浦幌町)などは北海道の史跡に指定されている。

 擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされる。

十勝では、浦幌町十勝太若月遺跡の住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられる。この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土している。前者は鍛冶の時に使う送風装置の部品、後者は糸をつむぐ道具である。

 12~13世紀頃には、土器文化が終わり、竪穴式住居が姿を消すようになり、擦文時代は終末を迎え、アイヌ文化期へと移行した。この変遷は連続したもので、両文化の担い手は同一であると考えられている。

帯広市 帯広百年記念館④旧石器時代 暁遺跡 細石刃 黒曜石