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秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡②木簡 陰陽師 墨書土器

2023年09月19日 11時59分49秒 | 秋田県

国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)。手前が厨川谷地遺跡。秋田県大仙市払田仲谷地95。

2023年6月3日(土)。

秋田県埋蔵文化財センター、払田柵総合案内所の展示から。

払田柵跡(ほったのさくあと)は、日本における木簡研究の嚆矢となった遺跡としても知られる。

払田柵跡を発見し、古代の城柵であることをつきとめたのは、後藤宙外である。後藤宙外は1866年、高梨村(現大仙市)払田に生まれた。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、小説家、評論家として中央で活躍、帰郷してからは六郷町(現美郷町)に住み、六郷町議会議員、町長を努めるかたわら、郷土史の研究にも情熱を注いだ。

実際に柵木が出土したのは、1903・04年に約200本が出土したのが始まりである。これらの柵木の規則性や刻書のあるものの存在に着目し、これを古代の史料に記載のある城柵と考えたのが後藤宙外である。

1930年3月『高梨村郷土沿革史』編さん事業として、主催高梨村、発掘担当者後藤宙外で発掘調査が実施され、外柵西門跡・外柵材木塀や内柵(外郭線)の三重柵などを発見した。

高梨村では、地元高梨村払田在住の藤井東一を調査主任として調査に従事させた。藤井東一は鉄棒を使用して水田をくまなく探求し、三重柵が外柵とは別個のもので、払田柵が外柵、内柵(外郭線)の二重構造であることを把握した。

さらに藤井東一は同年9月、政庁西のホイド清水から多量の墨書土器と共に、文字の書かれた木片を採集し、濱田耕作著『通論考古学』の写真図版にある中国の敦煌出土木簡と比較し、「木簡と云うものによく似て居る」との正しい認識を持っている。

現存する日本で最初の木簡発見例は、1904年香川県さぬき市の室町時代の備蓄銭付札である。1928年に三重県桑名市の柚井遺跡で籾の付札を含めた3点、1930年に秋田県大仙市美郷町の払田柵跡で2点が見つかっていたが、いずれも当時はあまり注目されなかった。大量出土は1961年の平城京跡での41点に始まり、1988年の長屋王家木簡の発見で、重要な考古資料として木簡が広く知られるようになった。

「官小勝」「小勝城」と書かれた払田柵跡出土の墨書土器が確認されたことで、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの「第2次雄勝城説」が現在あらためて注目されている。

 

厨川谷地遺跡

 

渦巻文様の瓦が発見されたのは払田柵跡だけである。

秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)


秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)

2023年09月18日 13時19分46秒 | 秋田県

国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)。復元された外柵西門。秋田県大仙市払田仲谷地95。

2023年6月3日(土)。

角館城跡の見学後、大仙市の秋田県埋蔵文化財センターおよび国史跡・払田柵跡へ向かった。ナビに従い北西の集落道路から進入すると復元された柵列に遭遇して驚いた。これは「真山(しんざん)」の西に建てられていた外柵西門の復元であった。雨がまだ降っていたので、秋田県埋蔵文化財センターの展示を見学したのち、雨が止んだ国史跡・払田柵跡を見学した。

払田柵跡は、秋田県大仙市払田、仙北郡美郷(みさと)町本堂城回にある古代城柵跡で、軍事施設と行政施設とを兼ね備えた、平安時代初期の9世紀初頭から10世紀後半ごろの国の役所であるとともに、儀式の場としての役割を持っていたと考えられている。

また、柵内では鉄の生産や鍛冶、さらには祭祀もとり行われていたと考えられる。

横手盆地北部、硬質泥岩を基盤とする標高65mの真山(しんざん)と54mの長森と呼ばれる低い丘陵を囲むように外柵が築かれ、そのさらに内側には、長森だけを囲むように外郭が築かれていた。自然の丘陵上をそのまま利用していること、三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴である。

外柵と外郭の東西南北には掘立柱による門があり、長森の中央には板塀で囲われた平安時代の政庁と考えられる建物跡が残る。その配置形式と造営技術は律令制下の官衙様式に則っていた。

発掘調査にもとづいて外郭南門・外柵南門や大路、政庁などが復元された。出土品は、近接する払田柵総合案内所(旧仙北町が設置)や秋田県払田柵跡調査事務所(建物は秋田県埋蔵文化財センターと共通)で見学することができる。

外柵(がいさく)とよばれる、角材(高さ3.6m、縦・横30cm)を並べた材木塀は東西約1370m、南北約780mの長楕円形に立ち並び、総延長約3.6km、遺跡の総面積は約87.8haにもなる広大な遺跡で、多賀城跡・秋田城跡と並ぶ東北地方最大級の城柵遺跡といえる。

外柵南門。秋田県埋蔵文化財センターから。

建設当時は外柵の中に川が流れていたことが判明している。現在は流路を変えているが、一部当時の川跡が復元されている。

外柵南門。払田柵総合案内所付近から。

外柵南門、政庁地区、外郭南門東の復元東方官衙。復元東方官衙の東にある駐車場へ向かう途中で。

外郭南門(柱列による復元)、復元東方官衙。その上が政庁地区。

外郭南門(柱列による復元)。

外郭南門から外柵南門方向。

外郭南門から外柵南門方向。

外郭南門前の広場は蝦夷の人々と饗宴をしたり、彼らに米や布を与えた場所と考えられる。

復元東方官衙と駐車場。

板塀の内部は、正殿と東西の脇殿が広場を囲むように、コの字形に整然と配置されていた。

政庁は4回、建て直されていることがわかっている。

政庁地区。西前殿。

政庁(長森)西側地区。鍛冶工房や祭祀用土器の工房が発見された。鍛冶工房が稼働した時期は9世紀後半から10世紀前半の短い時期で、秋田城下の蝦夷が反乱を起こし、秋田城が焼き討ちされた元慶の乱(878年)の時期と重なる。大量の金属加工品の生産は、元慶の乱後の武器や建築工具などの需要に応えたものと推定される。

政庁(長森)東側地区方向。正殿前広場。

正殿。

正殿後方西建物。

政庁(長森)東側地区方向。

政庁(長森)東側地区方向。

掘立柱建物が復元されている。役人たちが執務した建物群があったとされる。

柵跡の名が冠されたのは、外柵が柵木塀(材木塀)であることに由来する。柵木は約30cm角に加工した秋田杉で、1989年に年輪年代法によって、801年(延暦20)ごろに伐採されたものであることが確認された。「嘉祥二年」(849年)と記された木簡も発見されており、年代法の結果とも符合する。

東北地方には、払田柵跡以外にも古代城柵官衙(じょうさくかんが)遺跡が多く存在する。中でも、北東北に築かれた払田柵、秋田城(秋田市)、志波城(しわじょう/岩手県盛岡市)、徳丹城(とくたんじょう/岩手県紫波郡矢巾町)、胆沢城(いさわじょう/岩手県奥州市)は、律令国家勢力の北限を構成し、互いに密接な関係にあったと考えられている。

外郭の柵木は延暦20(801)年に伐採された材であることから、この遺跡はほぼその頃に創建されたものと考えられている。これにより、桓武朝における坂上田村麻呂らによる征夷事業によるものであり、陸奥国側の胆沢城、志波城と一連のものであると考えられる。

払田柵は、歴史書や古文書になどに関連記事がないことから、歴史上の名称が未だ解明されておらず、河辺府説や雄勝城説など様々な説が考えられている。

河辺府説は、宝亀6(775)年に秋田城から遷された出羽国府、すなわち「河辺府」であるとする。801年に、坂上田村麻呂が造胆沢城使となり、出羽権守文室綿麻呂を遣わして、河辺府、すなわち払田柵の造営に着手し、804年に完成したとする。

雄勝城説は、『続日本紀』に天平寶字4年(760年)創建とされる雄勝城であるとする。山形県酒田市にあった出羽国府とされる城輪柵(きのわのさく)や多賀城よりも大規模で、防御も厳重をきわめ、辺境経営の城柵として最大級の大鎮域が文献に記載されないはずがなく、大野東人の出羽遠征記事や元慶の乱(878)年にかかわる記事から類推して、出羽における一府二城のひとつであった雄勝城であろうとする。

ただし、年輪年代測定により創建年代が延暦年間であることがほぼ確定され、年代的に整合しないと否定されてきた。

しかし、近年「官小勝」「小勝城」と書かれた払田柵跡出土の墨書土器が確認されたことで、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの「第2次雄勝城説」が現在あらためて注目されている。

秋田県仙北市 角館城跡 新庄藩主家・戸沢氏 蘆名氏 佐竹北家


秋田県仙北市 角館城跡 新庄藩主家・戸沢氏 蘆名氏 佐竹北家

2023年09月17日 14時11分38秒 | 秋田県

角館城跡。秋田県仙北市角館町古城山。

2023年6月3日(土)。

10時40分ごろ乳頭温泉鶴の湯を出て往路を戻り、角館城跡へ向かった。角館は1970年代ディスカバー・ジャパンの時代に小京都ともてはやされた。1980年代前半に旅行で訪れ、武家屋敷群を見学し、稲庭うどんを食べた。なので、再訪することはせず、山川歴史散歩で興味を引かれた角館城跡のみ見学することにした。

山頂の本丸跡。

11時45分頃、古城山の麓にある古城山公園の駐車場に到着。雨の中、舗装された管理車道を歩いて登ると12時頃に山頂の平場に着いた。

石碑と石塔。

戸沢氏の家紋。丸に輪貫九曜。

姥杉。

山頂南端から角館武家屋敷方面。桧木内川沿いに桜並木がある。駐車場からの登城歩道の途中、曲輪跡に東屋が設けられている。

山頂南端から角館武家屋敷方面。

 

角館城は、戦国時代の山城で、角館の武家屋敷町の北側に位置する標高166m(比高100 m)の独立丘陵上にあった。かつては姫小松が多く茂っていたことから小松山城ともよばれていた。

築城年代、築城者ははっきりしないが、秋田氏(安東氏)や小野寺氏と戦いながら勢力を拡大した出羽国の戦国大名で、江戸時代に山形新庄藩主となった戸沢氏が本拠としていた城である。

戸沢氏は1424年(応永31)に北浦郡の門屋城(仙北市西木町)から、この城に本拠を移したとされる。戸沢氏重臣で小松山城主の角館能登守が上浦郡の小野寺氏と通じて謀叛を起こしたので、戸沢家盛がこれを討って小松山城を開城させ、後に居城を移転したという。天正年間に活躍した当主戸沢盛安は、「鬼九郎」(夜叉九郎)の異名で呼ばれた。

戸沢氏の頃は、山の上に館を置き、北麓に城下町を造り、軍事的機能を優先した町づくりが行われた。戸沢氏は、戦国末期には織田信長や豊臣秀吉と誼を通じて領国経営を安定させた。戸沢氏は関ヶ原の戦いでは東軍方だったが、1602年(慶長7)に減封の上、常陸国松岡へ国替えとなった。

代わりに角館に入ったのが佐竹氏の一族の蘆名義広(盛重)である。その後、1615年(元和1)に一国一城令が発令され、これに伴い、角館城は1620年(元和6)に城郭が破却された。

蘆名氏は、この山を軸として戸沢氏時代とは正反対に南麓に城下町の縄張りが行われ、館も南麓に移した。

その後、蘆名氏が断絶したことから、1656年(明暦2)に紫島城(むらさきしまじょう)(大仙市長野)の佐竹義隣(佐竹北家)が角館に入部し、以後、11代2百余年にわたり明治維新まで佐竹北家がこの一帯を治めた

城跡は現在、古城山公園として整備されており、主郭をはじめとする郭跡の平場が残っている。なお、この公園は角館の街並みを一望できる桜の名所として知られている。

古城山公園は、2023年7月6日にクマによる人身事故が発生し、当面の間、立ち入り禁止となっている。

 

戸沢氏は、桓武平氏貞盛流と称す。大和国三輪に居住し、源頼朝に臣従し奥州合戦での活躍が認められ、奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向鎌倉幕府御家人となったという。滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。1206年、戸沢兼盛は南部氏から攻められ、滴石から門屋小館(秋田県仙北市西木町)に移る。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城したという。

南北朝時代、戸沢氏は南朝に属した。興国二年(1341年)の合戦は北畠顕家の敗戦に終わり、顕家は滴石城に入城した後、出羽国へ去っていった。この時に滴石の兵も従ったとある。興国二年の合戦以後、南部氏が北朝方に寝返ったことと、北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となり、この時に戸沢氏が仙北地方に移ったと推測される。

戸沢氏は、その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに、仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指した。角館に本拠を移転した時期については諸説あるが、室町時代中期とされる。

応仁2年(1468年)、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退する。戸沢氏は北浦郡の統一に成功し、仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏さらには安東氏との抗争を開始する。元亀元年(1570年)には、北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定する。

戸沢盛安は、永禄9年(1566年)に生まれ、「鬼九郎」の異名を取り、北奥随一の名将と謳われた。盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功。戸沢氏の全盛期を出現させる。中央の動静にも絶えず注目し、豊臣秀吉の小田原征伐には東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、所領を安堵された。しかし盛安は参陣中に突然病死した。

盛安の死後、弟の戸沢光盛が家督を継ぐ。奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地の代官としての権限を与えられた。

光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した。光盛の死後、盛安の子戸沢政盛が家督を相続する。秀吉の死後、政盛は鳥居忠政の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近していく。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦う。しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始した。戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡へ減転封された。

蘆名義広(1575~1631年)は、蘆名(あしな)氏第20代当主で、常陸の戦国大名・佐竹義重の次男として生まれた。

蘆名氏は、文治5年(1189年)、奥州合戦の功により、三浦義明の七男・佐原義連に会津が与えられたことに始まる。蘆名姓を名乗るのは、義連の息子盛連の四男光盛の代になってからである。室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。

戦国時代、蘆名盛氏の時代に最盛期を迎えたが、一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生して、天正8年(1580年)、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。

蘆名氏は当主・蘆名盛隆が大庭三左衛門により殺害されたことで、混乱を迎えた。盛隆の子亀王丸が生後1ヶ月で蘆名氏の第19代当主となるが、度重なる当主交代に混乱する蘆名氏の家臣団は上杉氏や伊達氏の調略を受け、その勢力を削がれていった。

天正13年(1585年)5月、伊達政宗が蘆名氏と開戦。11月に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の間で人取橋の戦いが起こり、蘆名氏は佐竹義重率いる連合軍の一員として勝利した。

この頃、当主の亀王丸が夭折したため、家中は養子を巡って、伊達小次郎を推す伊達派勢力と義広を推す佐竹派勢力とに二分された。後継者争いは義広派が勝利し、天正15年(1587年)、盛隆の養女と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏当主となる。

しかし他家からの養子であることに加え、後継者争いでの紛糾や、当人の年齢も若かったことから、家臣団を掌握することができずにいた。

天正17年(1589年)6月伊達政宗との間に起こった総力会戦ともいえる摺上原の戦いで大敗した。義広とその近臣は戦場を逃れたが、もはや本拠の黒川城を守備する兵力を維持することは不可能で、実家佐竹氏の領国である常陸に逃れた。こうして奥州の戦国大名としての蘆名氏はその支配地域を失い滅亡した。

しかしこれらは豊臣秀吉が天正15年(1587年12月)に関東・奥州に対して発令した私戦を禁止する「惣無事令」以降のことであったため、その後の天正18年(1590年)の秀吉の小田原征伐の際、秀吉に恭順した政宗は、奪い取った蘆名領を全て没収された。蘆名領は蒲生氏郷に与えられ、義広への返還はなされなかったが、秀吉から佐竹氏与力として、佐竹氏の領国に近い常陸の龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5000石を与えられ、大名としての蘆名氏は一応復興した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したため、連座して所領を没収された。

慶長7年(1602年)、義重・義宣とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、仙北郡角館に1万6000石を与えられた。

義勝は、それまでの城下が河川の氾濫や火災にしばしば悩まされていたところから、元和6年(1620年)古城山の南側に新たに町割を起こし、城下を移転させた。これが今日の角館城下町の始まりである。

道路の幅員を広げるとともに見通しを避ける工夫をこらし、下水を整備し、火事対策を施して武家地、町人地、寺社を配置した。当初は古城山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承がある。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったといわれる。

死後、息子が相次いで病死、最後の当主・蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は滅亡した

 

佐竹義隣(よしちか。1619~1702年)は、佐竹氏一門の佐竹北家8代当主で、角館初代所預(城代)である。権大納言・高倉永慶の次男として誕生した。母は佐竹義宣の妹である。

 

佐竹氏は、清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したことに始まる。平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた。

 

佐竹北家は、常陸守護で太田城主の佐竹氏第14代当主・佐竹義治の四男佐竹義信(1476~1533年)が分家したことに始まる。天文年間に太田城の北に屋敷を構えたため、北家と呼ばれるようになった。佐竹東家と後に成立した佐竹南家とともに宗家の家政を支えた。

関ケ原の合戦で西軍に付いた佐竹氏が出羽国久保田藩(秋田藩)に減転封された後、元和7年(1621年)に当主申若丸(佐竹義直)が宗家の養子となったため一時絶家したが、寛永5年(1628年)に公家高倉家出身の義隣を養子に迎えて再興された。明暦2年(1656年)から角館を領するようになり、3600石を領した。義隣は、故郷を懐かしんで、京に似た地形の角館の山河に「小倉山」、「加茂川」などと命名した。

角館家ともよばれ、家禄は1万石。

21代目の当主である佐竹敬久は、2009年に秋田県知事に初当選し、現在4期目である。

 

このあと、角館武家屋敷群の通りを通り抜け、大仙市の秋田県埋蔵文化財センターおよび国史跡・払田柵跡へ向かった。

秋田県仙北市 乳頭温泉鶴の湯 美郷町 名水百選「六郷湧水群」 


秋田県仙北市 乳頭温泉鶴の湯 美郷町 名水百選「六郷湧水群」 

2023年09月16日 10時07分58秒 | 秋田県

名水百選「六郷湧水群」。「観光休憩所 清水の館」。秋田県美郷町六郷22−4。

2023年6月2日(金)。

横手市の後三年合戦金沢資料館・金沢城二の丸跡を見学して、北近くにある美郷(みさと)町の名水百選「六郷湧水群」を目指し、17時ごろに「羽州街道どまん中」という交差点角の駐車場に着いた。

事前の予習で、名水市場「湧太郎」、「清水の館」、「御台所清水」を予定地にしていたが、ナビでは名水市場「湧太郎」は分かるが、他のポイントは出てこなかった。道標はあるので、ぐるぐる回りながら、なんとか「観光休憩所 清水の館」にたどり着いた。

敷地内に湧き水を汲めるスポットがあり、容器を持参すれば無料で水を持ち帰ることができる。ここには係員がいたので、水を汲みがてら「御台所清水」への道順を尋ねると、意外と近かった。

「観光休憩所 清水の館」では、蛇口から名水を汲める。

御台所清水(おだいどころしみず)。美郷町六郷字宝門清水2。

水温11.7℃ ph5.8 湧水量21.0l/sec 水深70cm。

『月の出羽路』の絵詞に「瓢(ふくべ)清水即ち御台所清水也」とあり、瓢清水の別名があったようだが、現在では「御台所清水」だけが通り名となっている。同じく絵詞をみると、本来は形がひさご(ふくべ)に似ているのでふくべ清水であるが、台所清水と呼ばれる所以は「むかしこの地に鑑照公(佐竹藩21代<久保田2代>藩主佐竹義隆)の御憩在りし御館の蹟なれば・・・」とある。

菅江真澄によると「御憩館のみかしぎ(お炊事)料に汲み、御茶の水にもめし給ひしよし也」と「台所」の解釈をしている。

周辺は民家で、太桂寺も近く、赤すもも、杉などの木陰に位置する広い清水。水面には浮き草の浮かぶ透き通った清水である。涸れることがないため、周辺住民の生活と密着した清水で、整備も行き届いている。

「水の郷六郷」は、奥羽山脈と出羽山地に挟まれた横手盆地に位置し、奥羽山脈に源を発した丸子川の氾濫により気の遠くなるような年月をかけて形成された扇状地から豊富な水が湧き出す。昔「百清水」といわれた湧水も現在は60カ所余りに減ったという。

「御台所清水」見学後、酒蔵をリノベーションした観光複合施設「名水市場湧太郎」へ立ち寄ってみると、夕方から営業する飲食店の客が集まってくる時間帯になっていて、名水関係の資料館や案内所は終了していたが、無料で酒仕込み水を汲めるようになっていた。

翌土曜日は乳頭温泉鶴の湯の日帰り入浴から予定。多客が予想されるので、早着が必須。大仙市にある国道105号沿いの道の駅「なかせん」で車中泊。

田沢湖。遊覧船乗り場。秋田県仙北市沢湖字春山 148。

2023年6月3日(土)。

道の駅「なかせん」から鶴の湯へ向けて出発。時間に余裕があったので、田沢湖東岸レストハウス駐車場に立ち寄った。以前、西岸にある「たつこ像」を見た記憶はある。9時ごろに羽後交通 乳頭線・駒ヶ岳線・八幡平線・玉川線・田沢湖一周線の路線バスが来て、一人を降ろした。

田沢湖遊覧船出航の案内放送があったので、湖畔の乗り場を見ると数人が乗船するところだった。雨は降っていたが、湖畔の風景を味わえた。

乳頭温泉鶴の湯。入口の待合所。秋田県仙北市田沢湖先達沢国有林50。

9時30分ごろに駐車場へ到着。駐車車両は既に多い。観光客や宿泊客もそれなりに多い。

乳頭(にゅうとう)温泉鶴の湯は、乳頭温泉郷の中で最も古い歴史を持ち、秋田藩主の湯治場だった由緒ある温泉で、日本秘湯を守る会の会員宿である。

1996年に百名山を始めて、秘湯を守る会の宿を知り、宿泊するためにできるだけ母親と旅行し、10軒近く宿泊していた。2000年になり、百名山も残り10山余りとなったので、ウォーミングアップとして300名山の秋田駒ケ岳に登ることにして、初夏に乳頭温泉鶴の湯を予約した。すると、母親が大動脈瘤のために手術をことになり、仕方なく鶴の湯にキャンセルの電話を入れた。それ以来、秘湯を守る会の宿に泊まっていない。日帰り入浴ができれば充分で、鶴の湯では、有名な露天風呂に入れればそれでよい。

立寄り湯は、10:00~15:00で、入浴料は700円である。

土産菓子売店。売店のおばあさんと話していると、爺さんたちが来て買っていった。鶴の湯に来たというだけで気分が昂揚していたせいか、土産菓子を2品も買ってしまった。

入口。左が本陣、右が宿泊棟3号館。

鶴の湯温泉は乳頭山(1478m)の麓の乳頭温泉郷の八軒のうちの一軒で同温泉郷の中でも最も古くからある温泉宿である。

古くは寛永15年(1638年)に二代目秋田藩主 佐竹義隆公が、寛文元年(1661年)に亀田藩 岩城玄蕃公が鶴の湯に湯治訪れたといわれている。一般客相手の湯宿としての記録は元禄時代(1688~1704年)から残っている。

鶴の湯の名前の由来は地元の猟師.勘助が猟の際に傷ついた鶴が湯で傷を癒すのを見つけたことが、鶴の湯の名に残ったという。

茅葺き屋根の本陣は二代目秋田藩主佐竹義隆公が湯治に訪れた際に警護の者が詰めた建物として今では鶴の湯を代表する建物となっている。

茅葺きは数十年ごとに葺き替えをする。生保内下高野地区からススキを刈り、一冬越してから神代梅沢地区の茅手(かやで)と言われる職人が昔ながらの作業をする。

本陣も宿泊ができる。

宿泊棟入口。

事務所、黒湯、白湯。

事務所に行くと、入浴受付の10時まで2号館の休憩所で待つように言われた。事務所へ10時ごろに行くと10人ほどが待っていて料金を支払った。

鶴の湯の半径50m以内に泉質の異なる4つの源泉が湧いている。それぞれ、白湯、黒湯、中の湯、滝の湯と源泉名がついており、同じ敷地から効能、泉質共に異なる4つの温泉が湧く珍しい温泉場である。

黒湯。ぬぐだまりの湯・子宝の湯。ナトリウム塩化物・炭酸水素泉。

黒湯と白湯は廊下でつながっている。白湯に入ってから黒湯に入ったら、たまたま客がいなかった。

混浴露天風呂。柴垣の向こうにあり、柴垣裏の通路からは女性通行人が湯舟を見ていた。

源泉は白湯と同じで、含硫黄ナトリウム・カルシウム塩化物・炭酸水素泉(硫化水素型)。

 

10時40分ごろ鶴の湯を出て、角館城跡へ向かった。

秋田県横手市 後三年合戦金沢資料館②金沢城跡と津軽氏 南部氏 小野寺氏


秋田県横手市 後三年合戦金沢資料館②金沢城跡と津軽氏 南部氏 小野寺氏

2023年09月15日 10時03分42秒 | 秋田県

後三年合戦金沢資料館。横手市金沢中野字根小屋102-4。

2023年6月2日(金)。

金沢柵から金沢城へ 島田祐悦(横手市教育委員会) 抜粋

金沢城跡の立地と地形。

金沢城跡は、根小屋集落からの比高差約90~92mを測る尾根と斜面部を城として利用した山城である。東西に延びる尾根上の、東側に本丸、西側に二の丸、南北に延びる尾根上の、北側に北の丸、南側に西の丸(安本館)がある。

東尾根にある本丸は東西150m に南北30~50m の範囲で、西側が兵糧倉跡、一段高い郭が本丸で、標高174mである。西尾根にある二の丸は東西150mに南北5~35mの範囲で、東側の金澤八幡宮がある場所はひとつの郭となり、標高 175mと最も高い。北尾根にある北の丸は南北70mに東西30~40mの範囲に3 つの郭がある。南尾根にある西の丸(安本館)は南北180mに東西20mの範囲で、その中央堀切で2 つの郭に分断されている。

金沢城跡の調査成果。

現在目視される金沢城跡は中世金沢城であることが明らかとなってきた。中世金沢城は、14 世紀後半に自然地形を巧みに利用した郭を造り、土塁や堀などを構築した。城の南側にある本丸整地層から出土した遺物は、中国産の天目茶碗や龍泉窯系青磁盤・袴腰形香炉、古瀬戸袴形香炉、瓦質土器の風炉など多様な遺物が見られ、闘茶札もあり、天目茶碗や風炉とともに喫茶に関わる遺物として注目され、主郭として機能していたことを示唆している。14 世紀後半から15 世紀中頃までが本丸を中心とした南が正面の金沢城であったとみられる。

15 世紀中頃以降は、現在目視される金沢城となる。北側の本丸・二の丸・北の丸に複雑な郭がいくつも造られ、尾根に連なる堀切や斜面部に竪堀など、城の北側に複雑な郭を造りあげており、北に対する防御が強化され、城は南向きから北向きに変化したものと思われる。

南部氏の出羽進出と金沢城の登場。

室町時代になると、山本郡で南部氏と小野寺氏が確認される。応永十八年(1411)出羽秋田の領主安東某が南部守行と仙北刈和野で戦うとの記事、寛正六年(1465)幕府より南部氏に馬の献上が命ぜられ、大宝寺出羽守に路次の警固が命ぜられるが南部氏が仙北を通る際に、小野寺氏が抵抗したとある。

津軽藩士が江戸時代前期に提出した覚書では、津軽氏の祖先が南部氏の分流であり、金沢に拠点を構えていたことが記されている。金澤右京亮様として、「南部屋形様の御子御三男なり、仙北にて御他界なり。御假名を彦六郎様と申すなり。津軽の屋形様の御先祖初なり。此の殿を金沢京兆と申すなり。南部にては下の久慈に御座候被るなり。」と金沢での詳細を記している。

小野寺氏家系図』(小野寺氏正系図)の小野寺泰道の項に、「長禄二年(1458)、の小野寺泰道と秋田泰頼が南部三郎の幕下であったが、寛正六年から応仁二年(1465~1468)までの4 年間で、南部との合戦に終に打ち勝ち、仙北之本城(金沢城ヵ)に再び居住した。」と記されている。また泰道の子、景道の項に孫三郎道秀が金沢城主と記述されている。

他にも、仙北における南部氏と小野寺氏の合戦、南部勢力の敗退が記述されており、当事者の子孫に共有された歴史認識であったことが指摘されている。津軽氏の歴史は、三戸南部氏の遠隔地所領、仙北金沢の地に始まるといってよい。

 

金沢右京亮とは何者か―弘前藩津軽家祖先伝承から東北の室町時代史を復元する―

若松啓文2020年12月6日 令和2年度 後三年合戦金沢柵公開講座

「金沢右京亮」とは何者か。結論から言えば、「金沢右京亮」とは、近世弘前藩津軽家の先祖に位置付けられる、室町時代中頃、出羽国山北金沢を治めていた三戸南部氏当主の子息、である。

「京都御扶持衆」三戸南部氏が、遠隔地所領の山北金沢・大曲を経営させるために送り込んだ当主子息、それが金沢右京亮だった。しかしながら、その経営が地元の「京都御扶持衆」」小野寺氏との軋轢を生み、寛正六年(1465)室町将軍への馬進上の際に合戦に発展し、金沢右京亮は自害した。

その遺孤は大曲和泉守に救出されて成長し、父金沢右京亮の本領だった陸奥国下之久慈の領主となり、久慈右京亮となった。その子息は(大浦)光信を名乗り、津軽地方へ進出し、のちの津軽家の礎を築いた。

金沢右京亮が自害した山北金沢の事件は、弘前藩津軽家、盛岡藩南部家、石見国に移った小野寺家、それぞれの子孫に祖先伝承として記録された。これらを断片的な中世史料と繋ぎ合わせて分析すると、祖先伝承が歴史的事実を反映していることが分かる。

 

武家家伝。『津軽家文書』に伝えられる「津軽御家形様御先祖之次第」では、南部家形様の三男・彦六郎を始祖とする津軽氏の南部家支流説をとっている。この南部家形様とは三戸南部家十三代の守行と思われる。彦六郎は家光または則信と名乗り、秋田仙北地方の南部領を支配した金沢右京亮のことである。

 

佐竹義重の甲冑。

金沢柵から金沢城へ 島田祐悦(横手市教育委員会) 抜粋

金沢城跡北側の尾根に多くの経塚が埋納されている。経塚は仏教文化の産物である以上、寺院との密接な関係があるとされる。これまで6 経塚で10 基が確認され、秋田県内で最も集中しており、金沢経塚群といえる。

経塚は経典を経筒に入れ、外容器に入れ埋納したものであるが、金沢経塚群では経筒は青銅製・鉄製製が確認され、外容器には須恵器系陶器甕がみられる。

この中には人物名が記載されたものがあり、閑居長根1 号経塚は和鏡を蓋に転用した須恵器系陶器四耳壺の括り付けれた銅板(紐)に「ミナモト」との毛彫り(年代は鏡と壺から12 世紀末葉~13 世紀前葉)、閑居長根2 号経塚は和鏡を蓋に転用した銅製経筒に「元久三年歳1206年)次丙刀四月五日(梵字)本聖人引西 大壇越浄 金剛仏子念 覚軏尚寛 福有良賢 金氏 施主源太夫」と書かれていたとされる。これらには、「源」と「金」と共通姓があり、金氏は金沢の沢を略した源氏と何らかの関わる人物ではないかとみられる。

 

後三年合戦金沢資料館を出て、金沢城二の丸・本丸跡の駐車場へ向かい、雨の中、付近の史跡のみ見学。

 

兜杉。金沢城二の丸跡。

根回り7.45m、枝下高さ7m、樹高約26mもあり、樹齢およそ900年とも伝えられている。兜杉は、八幡太郎義家が凱旋のとき愛用の兜を埋めて石をその上に置き、そばに藤原清衡が記念のため植えた杉ともいわれている。昭和58年1月失火により焼失するまで市の天然記念物に指定されていた。

金沢八幡宮。金沢城二の丸跡。

後三年合戦終了後、寛治7年(1093)に源義家が藤原清衡に命じて出羽鎮護のため、岩清水八幡宮の神霊を勧請して創建したもので、弥陀八幡として誉田別命を祀っている。

新羅三郎義光の末裔である秋田藩主佐竹家の尊崇が特に篤く、慶長9年(1604)以来数回にわたって修改築を施している。本殿内の内陣は創建以来のもので、幾多の社宝とともに貴重な文化財である。

 

史跡は整備されていないので、雨中での見学は困難。翌日土曜日は乳頭温泉鶴の湯の日帰り入浴から予定。多客が予想されるので、早着が必須。大仙市にある国道105号沿いの道の駅「なかせん」で車中泊することにして、ルート途中の名水百選「六郷湧水群」へ向かった。

秋田県横手市 後三年合戦金沢資料館 金沢柵跡と清原氏