国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)。手前が厨川谷地遺跡。秋田県大仙市払田仲谷地95。
2023年6月3日(土)。
秋田県埋蔵文化財センター、払田柵総合案内所の展示から。
払田柵跡(ほったのさくあと)は、日本における木簡研究の嚆矢となった遺跡としても知られる。
払田柵跡を発見し、古代の城柵であることをつきとめたのは、後藤宙外である。後藤宙外は1866年、高梨村(現大仙市)払田に生まれた。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、小説家、評論家として中央で活躍、帰郷してからは六郷町(現美郷町)に住み、六郷町議会議員、町長を努めるかたわら、郷土史の研究にも情熱を注いだ。
実際に柵木が出土したのは、1903・04年に約200本が出土したのが始まりである。これらの柵木の規則性や刻書のあるものの存在に着目し、これを古代の史料に記載のある城柵と考えたのが後藤宙外である。
1930年3月『高梨村郷土沿革史』編さん事業として、主催高梨村、発掘担当者後藤宙外で発掘調査が実施され、外柵西門跡・外柵材木塀や内柵(外郭線)の三重柵などを発見した。
高梨村では、地元高梨村払田在住の藤井東一を調査主任として調査に従事させた。藤井東一は鉄棒を使用して水田をくまなく探求し、三重柵が外柵とは別個のもので、払田柵が外柵、内柵(外郭線)の二重構造であることを把握した。
さらに藤井東一は同年9月、政庁西のホイド清水から多量の墨書土器と共に、文字の書かれた木片を採集し、濱田耕作著『通論考古学』の写真図版にある中国の敦煌出土木簡と比較し、「木簡と云うものによく似て居る」との正しい認識を持っている。
現存する日本で最初の木簡発見例は、1904年香川県さぬき市の室町時代の備蓄銭付札である。1928年に三重県桑名市の柚井遺跡で籾の付札を含めた3点、1930年に秋田県大仙市美郷町の払田柵跡で2点が見つかっていたが、いずれも当時はあまり注目されなかった。大量出土は1961年の平城京跡での41点に始まり、1988年の長屋王家木簡の発見で、重要な考古資料として木簡が広く知られるようになった。
「官小勝」「小勝城」と書かれた払田柵跡出土の墨書土器が確認されたことで、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの「第2次雄勝城説」が現在あらためて注目されている。
厨川谷地遺跡
渦巻文様の瓦が発見されたのは払田柵跡だけである。