後三年合戦金沢資料館。横手市金沢中野字根小屋102-4。
2023年6月2日(金)。
金沢柵から金沢城へ 島田祐悦(横手市教育委員会) 抜粋
金沢城跡の立地と地形。
金沢城跡は、根小屋集落からの比高差約90~92mを測る尾根と斜面部を城として利用した山城である。東西に延びる尾根上の、東側に本丸、西側に二の丸、南北に延びる尾根上の、北側に北の丸、南側に西の丸(安本館)がある。
東尾根にある本丸は東西150m に南北30~50m の範囲で、西側が兵糧倉跡、一段高い郭が本丸で、標高174mである。西尾根にある二の丸は東西150mに南北5~35mの範囲で、東側の金澤八幡宮がある場所はひとつの郭となり、標高 175mと最も高い。北尾根にある北の丸は南北70mに東西30~40mの範囲に3 つの郭がある。南尾根にある西の丸(安本館)は南北180mに東西20mの範囲で、その中央堀切で2 つの郭に分断されている。
金沢城跡の調査成果。
現在目視される金沢城跡は中世金沢城であることが明らかとなってきた。中世金沢城は、14 世紀後半に自然地形を巧みに利用した郭を造り、土塁や堀などを構築した。城の南側にある本丸整地層から出土した遺物は、中国産の天目茶碗や龍泉窯系青磁盤・袴腰形香炉、古瀬戸袴形香炉、瓦質土器の風炉など多様な遺物が見られ、闘茶札もあり、天目茶碗や風炉とともに喫茶に関わる遺物として注目され、主郭として機能していたことを示唆している。14 世紀後半から15 世紀中頃までが本丸を中心とした南が正面の金沢城であったとみられる。
15 世紀中頃以降は、現在目視される金沢城となる。北側の本丸・二の丸・北の丸に複雑な郭がいくつも造られ、尾根に連なる堀切や斜面部に竪堀など、城の北側に複雑な郭を造りあげており、北に対する防御が強化され、城は南向きから北向きに変化したものと思われる。
南部氏の出羽進出と金沢城の登場。
室町時代になると、山本郡で南部氏と小野寺氏が確認される。応永十八年(1411)出羽秋田の領主安東某が南部守行と仙北刈和野で戦うとの記事、寛正六年(1465)幕府より南部氏に馬の献上が命ぜられ、大宝寺出羽守に路次の警固が命ぜられるが南部氏が仙北を通る際に、小野寺氏が抵抗したとある。
津軽藩士が江戸時代前期に提出した覚書では、津軽氏の祖先が南部氏の分流であり、金沢に拠点を構えていたことが記されている。金澤右京亮様として、「南部屋形様の御子御三男なり、仙北にて御他界なり。御假名を彦六郎様と申すなり。津軽の屋形様の御先祖初なり。此の殿を金沢京兆と申すなり。南部にては下の久慈に御座候被るなり。」と金沢での詳細を記している。
『小野寺氏家系図』(小野寺氏正系図)の小野寺泰道の項に、「長禄二年(1458)、の小野寺泰道と秋田泰頼が南部三郎の幕下であったが、寛正六年から応仁二年(1465~1468)までの4 年間で、南部との合戦に終に打ち勝ち、仙北之本城(金沢城ヵ)に再び居住した。」と記されている。また泰道の子、景道の項に孫三郎道秀が金沢城主と記述されている。
他にも、仙北における南部氏と小野寺氏の合戦、南部勢力の敗退が記述されており、当事者の子孫に共有された歴史認識であったことが指摘されている。津軽氏の歴史は、三戸南部氏の遠隔地所領、仙北金沢の地に始まるといってよい。
金沢右京亮とは何者か―弘前藩津軽家祖先伝承から東北の室町時代史を復元する―
若松啓文2020年12月6日 令和2年度 後三年合戦金沢柵公開講座
「金沢右京亮」とは何者か。結論から言えば、「金沢右京亮」とは、近世弘前藩津軽家の先祖に位置付けられる、室町時代中頃、出羽国山北金沢を治めていた三戸南部氏当主の子息、である。
「京都御扶持衆」三戸南部氏が、遠隔地所領の山北金沢・大曲を経営させるために送り込んだ当主子息、それが金沢右京亮だった。しかしながら、その経営が地元の「京都御扶持衆」」小野寺氏との軋轢を生み、寛正六年(1465)室町将軍への馬進上の際に合戦に発展し、金沢右京亮は自害した。
その遺孤は大曲和泉守に救出されて成長し、父金沢右京亮の本領だった陸奥国下之久慈の領主となり、久慈右京亮となった。その子息は(大浦)光信を名乗り、津軽地方へ進出し、のちの津軽家の礎を築いた。
金沢右京亮が自害した山北金沢の事件は、弘前藩津軽家、盛岡藩南部家、石見国に移った小野寺家、それぞれの子孫に祖先伝承として記録された。これらを断片的な中世史料と繋ぎ合わせて分析すると、祖先伝承が歴史的事実を反映していることが分かる。
武家家伝。『津軽家文書』に伝えられる「津軽御家形様御先祖之次第」では、南部家形様の三男・彦六郎を始祖とする津軽氏の南部家支流説をとっている。この南部家形様とは三戸南部家十三代の守行と思われる。彦六郎は家光または則信と名乗り、秋田仙北地方の南部領を支配した金沢右京亮のことである。
佐竹義重の甲冑。
金沢柵から金沢城へ 島田祐悦(横手市教育委員会) 抜粋
金沢城跡北側の尾根に多くの経塚が埋納されている。経塚は仏教文化の産物である以上、寺院との密接な関係があるとされる。これまで6 経塚で10 基が確認され、秋田県内で最も集中しており、金沢経塚群といえる。
経塚は経典を経筒に入れ、外容器に入れ埋納したものであるが、金沢経塚群では経筒は青銅製・鉄製製が確認され、外容器には須恵器系陶器甕がみられる。
この中には人物名が記載されたものがあり、閑居長根1 号経塚は和鏡を蓋に転用した須恵器系陶器四耳壺の括り付けれた銅板(紐)に「ミナモト」との毛彫り(年代は鏡と壺から12 世紀末葉~13 世紀前葉)、閑居長根2 号経塚は和鏡を蓋に転用した銅製経筒に「元久三年歳1206年)次丙刀四月五日(梵字)本聖人引西 大壇越浄 金剛仏子念 覚軏尚寛 福有良賢 金氏 施主源太夫」と書かれていたとされる。これらには、「源」と「金」と共通姓があり、金氏は金沢の沢を略した源氏と何らかの関わる人物ではないかとみられる。
後三年合戦金沢資料館を出て、金沢城二の丸・本丸跡の駐車場へ向かい、雨の中、付近の史跡のみ見学。
兜杉。金沢城二の丸跡。
根回り7.45m、枝下高さ7m、樹高約26mもあり、樹齢およそ900年とも伝えられている。兜杉は、八幡太郎義家が凱旋のとき愛用の兜を埋めて石をその上に置き、そばに藤原清衡が記念のため植えた杉ともいわれている。昭和58年1月失火により焼失するまで市の天然記念物に指定されていた。
金沢八幡宮。金沢城二の丸跡。
後三年合戦終了後、寛治7年(1093)に源義家が藤原清衡に命じて出羽鎮護のため、岩清水八幡宮の神霊を勧請して創建したもので、弥陀八幡として誉田別命を祀っている。
新羅三郎義光の末裔である秋田藩主佐竹家の尊崇が特に篤く、慶長9年(1604)以来数回にわたって修改築を施している。本殿内の内陣は創建以来のもので、幾多の社宝とともに貴重な文化財である。
史跡は整備されていないので、雨中での見学は困難。翌日土曜日は乳頭温泉鶴の湯の日帰り入浴から予定。多客が予想されるので、早着が必須。大仙市にある国道105号沿いの道の駅「なかせん」で車中泊することにして、ルート途中の名水百選「六郷湧水群」へ向かった。