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秋田県横手市 雄物川郷土資料館②縄文時代 オホン清水A遺跡出土 石棒

2023年09月11日 13時25分28秒 | 秋田県

横手市雄物川郷土資料館。横手市雄物川町沼館字高畑。

2023年6月2日(金)。

 

横手市歴史的風致維持向上計画 2018年・2023年

横手市の区域は、地理的環境から奈良時代に現在の市域とほぼ同じ区域で「平鹿(ひらか)郡」が設置されたことに端を発し、古代から一つの地域としてまとまって来た。市内には、旧石器時代から近世までの遺跡が途切れることなく、現在まで600ほどが確認されている。

1.原始(旧石器時代 - 弥生時代)

旧石器時代から縄文時代前期の遺跡は、盆地中央部では確認されず、奥羽山脈及び出羽山地のまわりの低丘陵や台地で確認される。

縄文時代草創期から早期(約 14,000-6,000年前)の遺跡としては、日本最古の石匙が出土した横手川の河岸段丘上にある岩瀬遺跡(山内地域)などがある。

縄文時代前期(約 6,000-5,000 年前)の遺跡は梨ノ木塚遺跡(増田地域)などがあり、竪穴住居からなるムラが生まれ、定住生活がはじまる。

縄文時代中期以降になると一段低い段丘面や丘陵裾野のから、やがて盆地の沖積地内にムラが形成されるようになる。こうしたムラは、中央広場を取り囲むように住居が配置された「環状集落」が一般的になってくる。中期(約5,000-4,000 年前)の遺跡としては神谷地遺跡(雄物川地域)などがある。

晩期(約 3,000-2,300 年前)になると盆地内に遺跡が点在し、遺跡数が最大になる。

弥生時代(約 2,300-1,800 年前)になると、大陸から九州に伝わった稲作農耕が次第に北へ広がり、本市域においても稲作が行われていたことが想定されるが、発掘調査では確認されていない。弥生時代の遺跡は、手取清水遺跡(横手地域)などのように沖積地に分布し、確認される土器には縄文がある。この時期は寒冷な気候であったため、縄文時代的な生活を続けながら、稲作を受け入れる過渡期と考えられている。

5世紀になると古墳文化が北進し、本市域でも確認されるようになる。オホン清水B遺跡(横手地域)や一本杉遺跡(平鹿地域)など、竈を持たない竪穴住居からなる集落が営まれるようになった。オホン清水B遺跡では、都に近い地域のものとみられる県内最古の須恵器有蓋高坏や土師器が大量に出土した。一本杉遺跡では、中央政権と繋がりのある人々によって営まれた5棟の建物からなる集落跡が秋田県内で初めて確認された。

2.古代(古墳時代 - 平安時代)

飛鳥時代(7世紀)は、日本が律令国家として始動した時期で、本市域においては7世紀中頃、盆地中央部の微高地に、長い煙道の竈を持つ方形の竪穴住居で構成される集落が形成される。100 年間継続したと考えられる釘貫遺跡(雄物川地域)が代表的なものである。

奈良時代になると、律令国家の地域支配が進み、天平宝字3年(759)には同時に雄勝・平鹿二郡が設置され、本市域を指す平鹿郡が初めて史上に現れる。文献上、横手には雄勝城と平鹿郡府(役所)の存在が考えられる。

平安時代のはじめ、律令国家の影響力は横手盆地北部まで伸び、律令国家の役所として払田柵(大仙市・美郷町)が造られた。中山丘陵では、須恵器を焼く窯の数がピークを迎え、さらに北陸からの伝播と思われるロクロ土師器窯も確認されるようになり、生産量・器種数ともに北東北随一の規模を誇る焼き物の生産地となった。

新道1遺跡

小吉山遺跡出土 線刻石製品

小吉山遺跡は縄文前期∼後期の集落跡としても知られ、後期初頭の土器とともに線刻を有する石製品が数多く見つかっている。小吉山遺跡は平安時代清原氏の城柵遺跡である国史跡・大鳥井山遺跡の一部である。

オホン清水A遺跡出土 石棒

縄文時代後期後葉(およそ 3300 ~ 3000 年前)の両頭石棒である。横手地域のオホン清水A遺跡から出土した。柄頭部の一部を欠いているものの、石棒製作時点で欠損していた可能性も推定される。長さ 82cm、幅 3.1 ~ 5.6㎝、厚さ 2.5 ~ 3.6㎝、重さ 2,830 g、粘板岩質である。平成 15 年(2003)の発掘調査において、祭祀遺構と推定される土坑から出土した。同じ場所からは石棒のほか、翡翠の玉などの特徴的な遺物が出土し、クリ・コナラなどの炭化した種実や、獣類の焼けた骨片も出土している。

 

廻舘1遺跡 弥生土器

 

七ツ森経塚出土 中世陶器

七ツ森経塚出土 岩偶類

郷土資料館見学後、横手城跡へ向かった。

秋田県横手市 雄物川郷土資料館①蝦夷の末期古墳・蝦夷塚古墳群 雄勝城 沼の柵