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秋田県横手市 横手城跡 戦国大名・小野寺氏

2023年09月12日 14時19分07秒 | 秋田県

横手城跡。横手市城山町。

2023年6月2日(金)。

雄物川郷土資料館見学後、横手城跡へ向かい、模擬天守下の駐車場に15時40分ごろ着いた。

二の丸広場

横手城は、その昔朝倉城といい、1550年頃、現在の秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって造られたと伝わる。横手城は朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害に建てられた平山城である。城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので、別名「韮城」ともいう。

関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことから徳川家康に西軍方とみなされたため、慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡る。慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が転封されてくると横手城も佐竹氏の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、伊達宣宗に続いて須田盛秀が入り、寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連(戸村義国の嫡孫)が入城して以降、代々「十太夫」を称す戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めた。元和6年(1620年)、一国一城令によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れた。

1868年の戊辰戦争の際に、東北地方で佐竹氏は孤軍官軍側につく。仙台藩と出羽庄内藩の軍勢が戸村義得(大学)の籠城する横手城を攻撃し、慶応4年8月11日(1868年9月26日)の夕方に落城した。

横手城跡は、現在横手公園として整備されている。本丸跡には焼け残った横手城の遺構を使って建立された「秋田神社」などがある。本来の横手城に天守はなかったが、1965年に郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に岡崎城をモデルに三層の模擬天守(通称:横手城)が建設された。

城址南東の一角に「本多正純公の墓碑」がある。元和8年(1622年)、当時の江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多上野介正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、寛永14年(1637年)に亡くなるまで過ごした。

横手市歴史的風致維持向上計画 2018年・2023年 抜粋

横手市の区域は、地理的環境から奈良時代に現在の市域とほぼ同じ区域で「平鹿(ひらか)郡」が設置されたことに端を発し、古代から一つの地域としてまとまって来た。市内には、旧石器時代から近世までの遺跡が途切れることなく、現在まで600ほどが確認されている。

3.中世(鎌倉時代 - 安土桃山時代)

文治5年(1185)、源頼朝が平泉の藤原氏を奥州合戦で滅亡させた後、秋田県域には新たに鎌倉御家人が入部する。横手では尾張国(愛知県)から松葉惟泰が入部し、平鹿郡を本拠として平賀氏を名乗り、平鹿郡地頭職を確立した。

同じように雄勝郡(湯沢市・羽後町域)などの地頭職を得た小野寺氏は雄勝郡稲庭(湯沢市)を本拠とし、室町幕府との関係を強化させ、やがて幕府を支える有力者を指す「屋形」と呼ばれるようになり、横手盆地のみならず最上郡や由利郡にまで勢力を拡大した。

小野寺氏の本格的な本市域への進出は、稙道が大永年間(1521-1528)に稲庭城を晴道に譲り、自らは平鹿郡西部の沼館城を本拠地に定めたことによる。沼館城は、後三年合戦の戦場となった「沼柵」を改修したものとも伝わり、面積約20万㎡の自然地形を利用した大規模な平城である。沼館へ移った稙道は横手盆地の盟主として支配を広げていった。稙道の子・輝道が朝倉城(横手城)を完成させたのは諸説あるが、天正7年(1579)頃ともいわれる。

この他にも小野寺氏は、金沢城(横手地域)・増田城(増田地域)・浅舞城(平鹿地域)・大森城(大森地域)などに一族の者や重臣を置いて支城とし、平鹿郡における足場を拡大していった。横手城はもちろん、こうした支城が置かれた集落は地域の中心となる中心集落や在郷町となり、現在の本市の都市形成の基礎は小野寺氏によって築かれたと考えられる。

その後、豊臣秀吉の奥州仕置や太閤検地によって、自領であった雄勝郡及び増田を含めた平鹿郡南部が山形庄内を本拠とした最上氏の勢力下となるなど、小野寺氏の支配域は変容していく。

4.近世(江戸時代)

徳川家康の命に背いたことにより、慶長6年(1601)に小野寺氏が改易されると、秋田は佐竹義宣の領地となった。佐竹氏の祖は、後三年合戦において、都から兄である源義家のもとに駆けつけた源義光である。義宣は自らの本拠地を海に近い久保田(秋田市)の地に定め、久保田藩(秋田藩)の政治を行うこととなる。そして広大な領地を治める藩政の一拠点として横手には須田盛久など直臣を配置して支城とした。5代からは戸村氏が横手城代となり、以降、幕末まで戸村氏一族が城代を勤めることとなる。

 関ヶ原の戦い後、横手にあった城はほとんどが廃城となり、残されていたものは横手城のほか金沢城・増田城・浅舞城・大森城であった。これらの城は南北・東西の主要街道沿いにあり、さらに雄物川に流れ込む支流沿いに位置しており、河川交通も意識したものと考えられる。慶長 20 年(1615)の一国一城令発令の際には横手城のみ存続するが、他は城が破却されるも、それぞれが地域の主要都市としてあり続けた。

 

小野寺氏は、出羽国において勢力を誇った豪族である。本姓は藤原氏とされ、家系は秀郷流で山内首藤氏の庶流にあたる。多くの分流を生み出し、東北地方を中心に広く分布した。それらの諸家の中でも出羽国仙北三郡に割拠した戦国大名となった仙北小野寺氏の家系がもっとも有名である。

小野寺氏は平安時代後半に下野国都賀郡小野寺(現・栃木市岩舟町小野寺)を「一所懸命」の地としていたのが始まりと言われている。文治5年(1189年)の奥州合戦による戦功で出羽雄勝郡などの地頭職を得た。各地の所領に庶流の子弟を代官として派遣し、惣領は鎌倉に常駐し出仕していたと見られる。

南北朝時代に、惣領家も狭小な本領から広大な所領である出羽雄勝郡稲庭に移住したと見られる。小野寺氏は、鎌倉公方の支配に反発した他の有力国人と同じく、室町幕府の京都御扶持衆となり、鎌倉府に対抗した。また、歴代当主は将軍より偏諱を賜っている。

戦国時代に入ると、小野寺氏13代にあたる景道のときに、雄勝郡をはじめ平鹿郡、仙北郡の仙北三郡から由利郡・河辺郡・最上郡にまで勢力を広げる有力な大身となり、「雄勝屋形」と称されて最盛期を迎えた。

景道の子・義道の代になると、戸沢氏、本堂氏、六郷氏など仙北諸将が離反し、天正18年(1590年)の奥州仕置時には5万4000石余に換算できる横手城主であったが、奥州仕置で所領3分の1を削られた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成、上杉景勝らの西軍に味方したため、慶長6年(1601年)には改易されたうえ石見津和野に預けられ、戦国大名としての小野寺氏は滅んだ。

 

小野寺氏と戦国時代の東北 竹井英文(東北学院大学)令和5年度後三年合戦沼柵公開講座 2023/08/20

はじめに

・小野寺氏…鎌倉期、下野国御家人の小野寺道綱が雄勝郡地頭職に任じられ、四代後の経道が現地に入部。仙北地域の領主として成長

・御所・屋形秩序…15 世紀半ば(室町末・戦国期)、小野寺氏は「屋形」の地位かつ京都御扶持衆

・16 世紀(戦国期)の状況…周囲には由利十二頭、戸沢氏、前田氏、本堂氏、六郷氏、鮭延氏、和賀氏、稗貫氏らが割拠。16 世紀後半になると最上氏や大宝寺氏、檜山・湊安東氏との関係も深まる

・一族の割拠…稲庭氏、西馬音内氏、川連氏、三梨氏など

居城の変遷…16 世紀(戦国期)、稲庭城 ⇒ 沼館城 ⇒ (湯沢城) ⇒ 横手城

 

※沼館城が小野寺氏の居城となった 16 世紀の小野寺稙道、輝道、光道、義道の四代の動向

1.小野寺稙通・輝道・光道・義道の事績

①小野寺稙道

・室町幕府第 10 代将軍足利義稙の一字拝領(偏諱)により稙道を名乗る。同時期に上洛?

・天文 2 年(1533)「小林寺」左衛門佐の存在…稙通か、前代の誰かか

・伊達稙宗朱印状写の「小野寺中宮亮」。数少ない伊達氏との通交関係史料

・居城を稲庭城から沼館城へ…雄勝郡から平鹿郡へ進出。山城から平城へ

・天文 15 年、横手光盛・金沢金乗坊と戦い、死去(「平城の乱」)

②小野寺輝道

・「平城の乱」で羽黒山に逃亡。羽黒山衆徒、庄内の大宝寺義氏、由利衆らの援護により復帰

・輝道は、天文 24 年段階では「次郎」。弘治 2 年(1556)に室町幕府第 13 代将軍足利義輝から一字拝領し、輝道・遠江守に

居城を朝倉城(横手城)へ移転。沼館城には家臣照井氏を城代として置くという

・「郡中」・「洞」。六郷・本堂・戸沢氏らが「道」の一字偏諱。相互紛争の一方で地縁・血縁による領主連合的な側面。中人制の前提

・和賀氏と小野寺氏…時に合戦し、時に上洛の際の通り道として便宜を図る

・織田信長・豊臣秀吉との通交

③小野寺光道・義道

小野寺光道…輝道の嫡男「四郎」。署名「道」の文書=唯一の文書。天正 14 年(1586)頃に家督相続、同 17 年 7 月以前に死去。その間の天正 15 年 10 月頃から翌年にかけて「仙北干戈」の勃発

小野寺義道…輝道の次男「孫十郎」。光道死去後に家督相続。輝道は大森城⇒吉田城へ隠居

・天正 18 年奥羽仕置…「上浦郡三分の二」を与えられ豊臣大名として存続。上浦郡、中郡、北浦郡の誕生

 

平賀氏は、鎌倉時代には出羽国平鹿郡を本領としており、安芸高屋保(東広島市)の所領の支配にあたったのは庶子家であった。南北朝時代、高屋保にあった平賀共兼は足利尊氏に属し、功があった。ところが、共兼の弟で惣領にあたる平賀直宗との間で家督をめぐる抗争があり、勝利をおさめた直宗が高屋保に下向、所領の支配にあたるようになった。出羽国にも一族が残ったようだが、南北朝の争乱のなかで平鹿郡は失われ、平賀氏惣領家の所領は安芸国の高屋保・入野郷が主となった。

小野寺氏は平賀氏勢力の弱体化を衝いて、平賀郡域へ進出したとみられる。

 

雨天および時間がないので、資料館には入館せず、北にある国史跡・大鳥井山遺跡へ向かった。

秋田県横手市 雄物川郷土資料館②縄文時代 オホン清水A遺跡出土 石棒