名水百選「力水」。秋田県湯沢市古館山。
2023年6月1日(木)。
山の上にある川原毛地獄・川原毛大湯滝を見学後、泥湯温泉奥山旅館の日帰り入浴をしようとしたら時間外だったので、失意のうちに山を下り、見学予定地の名水百選「力水」に向かった。旧湯沢城跡の麓に来れば分かると思ったが、電話番号でナビ指定できず迷った。スマホで大体の位置を確かめ、18時ごろ湯沢市役所の駐車場に着いた。車を降りて城跡へ向かうとようやく発見できた。
名水百選「力水」は、江戸時代初め、佐竹南家が現在の湯沢市役所のある場所に館を建てたときから佐竹南家の御膳水として明治25年ごろまで使用され、近所の人たちが昼食や休憩のときにのどを潤したり、この清水のお茶は特別にうまいといって飲まれていたが、だれということなく、この水を飲むと力が出るというようになり、その後、力水の石碑が建てられた。
水は年間を通じ、湧出量毎分約11リットル、水温13度前後と安定している。また、水質も良好な状態を保っている。
近所の女性らしき人が水を汲みにきた。
このあと、横手市南部の道の駅「十文字」へ向かい、車中泊。翌朝は、泥湯温泉再訪の前に、南東近くの増田地区へ9時過ぎに立ち寄り、佐藤養助・漆蔵資料館近くの無料駐車場に駐車した。
横手市増田伝統的建造物群保存地区。中七日通りの街並み。横手市増田町増田七日町。
2023年6月2日(金)。
2013年にこの地区の約10.6haが重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
日本有数の豪雪地帯である秋田県横手市の南東部に位置する増田は、成瀬川と皆瀬川が合流する地点に立地し、江戸時代以前より人と物資の往来でにぎわった地域で、江戸時代の増田は生糸や葉タバコのほか様々な物資の流通に伴って県内有数の商業地であったが、明治・大正時代になっても商工業活動は活発であった。
その商業活動の舞台となったのが現在の中町、七日町商店街通り(中七日通り)で、当時の繁栄を今に伝えるものが、短冊形で大規模な主屋と「内蔵(うちぐら)」とよばれる土蔵である。
内蔵は、この地方独特の呼称で、主屋の背面に建てられ、土蔵そのものを鞘となる上屋で覆っている。雪害から保護するためにこのような造りになったともいわれ、雪国に広く所在しているという。
増田の内蔵が注目を集めるのは、通り沿いの狭い範囲に集中して立地し現存していることである。
内蔵は、内部に床の間を配した座敷間を有する「座敷蔵」が最も多く、内蔵全体のおよそ65%を占めている。この内蔵が建てられた始まりは、物品を収納するための「文庫蔵」がほとんどだったと推定されるが、増田地区では明治に入ってから、座敷蔵の数が格段に増加し、文庫蔵を座敷蔵に改装した例も多い。
こうした座敷蔵は、1階の入口を入ると手前に板の間、奥に座敷間を配する2室構成となり、2階は板の間の1部屋構成で、什器類を収納する文庫蔵としての機能を持っている。
内蔵の用途として、他の土蔵との違いは、そこに生活空間を持つという点であり、多くはその家の当主あるいは特定の家族の居室として利用され、冠婚葬祭に利用された例も見られる。こうしたこともあり、内蔵は日常的に不特定多数の人間が立ち入る空間ではなく、家族以外の立ち入りは制限されていた。このため、外から見えない内蔵は、長い間、家長及びその子弟限定の施設として、所在について隣家に知られない場合もあったという極めて特殊な施設として現在に伝えられてきた。
内蔵を所有する家の多くは商家で、明治から戦前期までは家族も含めて多い時には20人前後もの人々が1軒の家で暮らしており、商店街である通りにはその頃の昼間人口は1000人を超えていたという。
まちの駅福蔵(旧佐藤與五兵衛家)。
建築年代は、主屋:明治後期~大正期、座敷蔵:明治12年。旧佐藤與五兵衛家は、代々の地主であり、戊辰戦争では御用金を献納した名家で、明治には増田銀行設立時に監査役の一人となった。大正期に増田勧業社を設立し、セメントやトタンなど建設資材を扱う商いをしていた。
主屋は、棟札から明治18年の上棟であることが確認された。商いを開始するのに合わせ南隣に入母屋造り二階建ての建物を増築し、店舗に改修したのではないかと推測される。座敷蔵は二階建て切妻造りで、棟札から明治12年の上棟であることが確認された。
観光物産センター 蔵の駅(旧石平金物店)。
建築年代は、主屋:明治中期、文庫蔵:明治中期。
明治大正期に金物商などを営んだ石田家から横手市に寄贈され、現在「観光物産センター蔵の駅」として伝統的建造物の公開をはじめとする増田町の観光案内所兼物産販売所として運営されている。入場・見学は無料。
この家屋は、間口が狭く、奥行きが極端に長い増田の町割りの姿が残っており、増田の町屋の特徴を知る格好の家屋となっている。
道路に面した正面に店舗を配し、その奥に神棚のある次の間、座敷、居間、水屋と繋がる部屋割りは、増田の商家家屋の基本的な配置で、各部屋の南側に店舗から裏口まで延びるトオリも残っている。
また、他家と同様に覆い屋に包まれた土蔵が主屋の水屋に繋がり、主屋と土蔵(内蔵)が一体となった増田特有の造りとなっている。
この家屋は内蔵を含め、3回の増改築で現在の姿になっている。
一番古いのは水屋部分で、梁と桁を重ねた小屋組や釿(ちょうな)削りの痕跡を見ることができる。次に古いのが内蔵で、周囲を飾る鞘飾りが素朴であり外壁の水切りに装飾が施されていないことなどから、明治20年代の建築と思われる。
一番新しい部分は店舗から座敷までの前部で、水屋部分よりは柱間が広くなり、天井が張られ、大正の前期に撮られた写真にも現在と同様の姿で写っていることなどから、明治中期以前の主屋を残したまま、内蔵を新築し、後年(明治後期)に水屋部分を残して、店舗を含む主屋前部を新築したものと考えられている。
吉永小百合のポスター。
1階の座敷。
1階の座敷から望む庭。
内蔵2階。
内蔵2階から1階入口を見下ろす。
外蔵。
トオリから外蔵方向。2階部屋への階段がある。
次に、道路を隔てて南向かいにある佐藤又六家(国指定重要文化財)を見学した。