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秋田県湯沢市 皇室献上の稲庭うどん 佐藤養助総本店

2023年09月09日 14時38分04秒 | 秋田県

佐藤養助稲庭うどん店総本店。秋田県湯沢市稲庭町稲庭。

2023年6月2日(金)。

横手市増田町の佐藤養助・漆蔵資料館を見学すると、従来併設されていたうどん店は物販だけになり、40年ほど前に食べた角館の稲庭うどん店も物販だけになったという。ただし、近くの稲庭町に佐藤養助稲庭うどん店の総本店があるというので食べたくなった。これから、川原毛地獄近くの泥湯温泉に行くというと、ちょうどルート上にあるといい、旅行ガイドの記事を思い出した。11時から営業開始なので、ちょうどいい。10時45分ごろに駐車場へ戻り、佐藤養助稲庭うどん店総本店めざして出発すると、開店時刻の11時直後に着いた。店内に入ると、3人の家族連れが先にいただけだった。

席に着くとすぐに、「かけうどん850円」を注文した。余分なものを付けても高いだけだ。稲庭うどんの味だけ味わいたいだけなら、これでいい。

日本三大うどんとは、①稲庭うどん(秋田県稲川町)②讃岐うどん(香川県)をメインに、③五島うどん(長崎県五島列島)④水沢うどん(群馬県渋川市)⑤きしめん(愛知県名古屋市)のうち一つという。④を除けば、いずれも現地で食べたことがある。讃岐うどんは有名店を10店ほど食べ歩いたが、太くてコシがある。稲庭うどんは、細いなりにコシがあるうえに、滑らかな上品さが加わり、最高級といえる。

稲庭うどんは、手延べ製法による干しうどんである。やや黄色味かかった色をしており、冷や麦より太く、断面は平たくなっている。製法としては、うどんというより、そうめんに近い。打ち粉としてデンプンを使う。ひねりながら練るという独特の製法により、麺の内部に気泡が生じ、中空になっている。そのため滑らかな食感が得られる。

レジで会計をすると、「稲庭ふしっこ」をお土産に渡された。売店でも売られている。「ふしっこ」とは「端っこ」のことで、うどんを裁断するため桁に掛けていた部分である。

うどんのように茹でても、油で揚げてチップスにしても食べられるが、帰宅後は、そのまま食べてしまった。

せっかくなので、奥にある工場の見学と史料の展示を見た。

稲庭うどんは、寛文年間以前に久保田藩(秋田藩)領の稲庭村小沢集落の佐藤市兵衛によって始まると伝えられている。藩主が他藩への贈答品としたり、紀行家・菅江真澄が著書に賛辞を記したりなど、古くから名品として知られていた。1972年、それまで稲庭家(佐藤家)の秘伝とされていた製法が公開され、製造量が大幅に増えたことにより、一般市民が口にする機会が増え知名度が向上した。

佐藤養助商店の創業は、万延元年(1860年)である。稲庭干温飩の原形が稲庭に伝わり、当家の宗家である稲庭(佐藤)吉左エ門によってその技術が受け継がれ、研究と改良が重ねられ、製法が確立したのは寛文五年(1665年)と言われている。秋田藩主佐竹侯の御用処となった干温飩の技法は、吉左エ門家の一子相伝、門外不出。しかし、一子相伝の技が絶えることを心配した吉左エ門によって、特別に二代目佐藤養助に伝授され、万延元年(1860年)の創業となる。

明治に入り、当家三代目が、当時の元老院議長で日本赤十字社の創始者である佐野常民と交流した事に始まり、内国勧業博覧会に出品して以来、宮内省御買上げの栄を賜わる事になった。

 

「稲庭干温飩」は、材料の選定から出荷前の検品に至るまで、手抜きを一切許されない完全なる手作業で作られている。子から孫へと伝えられ、160年守り続けてきた伝統の技が、適度な歯ざわりとつるりとした感触の極上のうまさを醸し出している。三日間におよぶ全ての工程は、現在もなお職人による手作業である。

清く澄んだ水と厳選された塩でつくられた塩水、そして専用粉をてのひらで繰り返し繰り返し練り続け、粉から徐々に団子状にまとめる。

一旦寝かされて熟成の時を過ごした後、さらに何度も練り続け生地をつくり上げていく。こうして丹念に練り上げていくと、機械練りでは不可能な、空気穴をたくさん含むうどんができる。この気泡は、ゆでた後も長時間にわたって保たれる事が、秋田県総合食品研究所の研究によって分かり、これこそがコシの強さを生む一因と考えられると発表されている。

熟成を繰り返しながら職人の手作業により、練る、綯う、延ばすの工程を経て、乾燥の作業へと移る。

その日の天候や湿度により乾燥時間は微妙に変わる。それは熟練職人の永年の勘であり、ほんのわずかな湿度や時間の差であっても、でき上がりのうどんの味を左右してしまう。

稲庭うどんは乾麺に仕上げることで、艶のある乳白色にゆで上がり、コシが強く、生麺には無い、喉越しの良い食感となる。伝統の味を守り続けるため、手づくりにこだわり、手間暇をかける必要がここにある。

 

稲庭城跡。湯沢市稲庭町古舘前平。

佐藤養助稲庭うどん総本店を出て、泥湯温泉・小安峡方向へ向かうと、すぐに稲庭城跡の麓に着いた。二の丸跡の模擬天守近くまでスロープカーがある。雨天で眺望もなさそうだし、余分な出費もしたくなかったので写真だけ撮った。

稲庭城は、鎌倉時代の初めから戦国時代にかけての約400年間、仙北地方(現在の秋田県南部)を領有していた小野寺氏が居城としていた城で、標高約704mの大森山の西の尾根にあった典型的な山城である。

東の最も高い場所に主郭が、その西隣に二ノ郭(下館)があった。小野寺氏はもとは下野(現在の栃木県)の武将で、源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功績により羽後国雄勝郡の地頭職に任じられて、この地に根を下ろした。この城を拠点として勢力を広げ、秋田県南部の大勢力となった。室町時代末期、小野寺氏は沼館城、次いで横手城に居城を移した。稲庭城には城代が置かれたが、間もなく当主小野寺泰道の二男の晴道が城主となり、以降稲庭氏を名乗った。1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥羽仕置で、小野寺氏はその領地を大きく削られ、1595年(文禄4)には雄勝郡の領有を主張する最上義光が小野寺領に侵攻し、稲庭城も最上氏の攻撃により1598年(慶長3)に落城し、その後すぐに廃城となった。

12時15分ごろ泥湯温泉奥山旅館に着いて、13時ごろまで日帰り入浴を楽しんだのち、三途川渓谷経由で横手市の道の駅「十文字」へ戻り、売店で横手焼きそばのパックを購入して食べた。

その後、雄物川郷土資料館へ向かった。

秋田県横手市 重伝建・増田地区③まちの駅福蔵 漆蔵資料館