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秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)

2023年09月18日 13時19分46秒 | 秋田県

国史跡・払田柵跡(ほったのさくあと)。復元された外柵西門。秋田県大仙市払田仲谷地95。

2023年6月3日(土)。

角館城跡の見学後、大仙市の秋田県埋蔵文化財センターおよび国史跡・払田柵跡へ向かった。ナビに従い北西の集落道路から進入すると復元された柵列に遭遇して驚いた。これは「真山(しんざん)」の西に建てられていた外柵西門の復元であった。雨がまだ降っていたので、秋田県埋蔵文化財センターの展示を見学したのち、雨が止んだ国史跡・払田柵跡を見学した。

払田柵跡は、秋田県大仙市払田、仙北郡美郷(みさと)町本堂城回にある古代城柵跡で、軍事施設と行政施設とを兼ね備えた、平安時代初期の9世紀初頭から10世紀後半ごろの国の役所であるとともに、儀式の場としての役割を持っていたと考えられている。

また、柵内では鉄の生産や鍛冶、さらには祭祀もとり行われていたと考えられる。

横手盆地北部、硬質泥岩を基盤とする標高65mの真山(しんざん)と54mの長森と呼ばれる低い丘陵を囲むように外柵が築かれ、そのさらに内側には、長森だけを囲むように外郭が築かれていた。自然の丘陵上をそのまま利用していること、三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴である。

外柵と外郭の東西南北には掘立柱による門があり、長森の中央には板塀で囲われた平安時代の政庁と考えられる建物跡が残る。その配置形式と造営技術は律令制下の官衙様式に則っていた。

発掘調査にもとづいて外郭南門・外柵南門や大路、政庁などが復元された。出土品は、近接する払田柵総合案内所(旧仙北町が設置)や秋田県払田柵跡調査事務所(建物は秋田県埋蔵文化財センターと共通)で見学することができる。

外柵(がいさく)とよばれる、角材(高さ3.6m、縦・横30cm)を並べた材木塀は東西約1370m、南北約780mの長楕円形に立ち並び、総延長約3.6km、遺跡の総面積は約87.8haにもなる広大な遺跡で、多賀城跡・秋田城跡と並ぶ東北地方最大級の城柵遺跡といえる。

外柵南門。秋田県埋蔵文化財センターから。

建設当時は外柵の中に川が流れていたことが判明している。現在は流路を変えているが、一部当時の川跡が復元されている。

外柵南門。払田柵総合案内所付近から。

外柵南門、政庁地区、外郭南門東の復元東方官衙。復元東方官衙の東にある駐車場へ向かう途中で。

外郭南門(柱列による復元)、復元東方官衙。その上が政庁地区。

外郭南門(柱列による復元)。

外郭南門から外柵南門方向。

外郭南門から外柵南門方向。

外郭南門前の広場は蝦夷の人々と饗宴をしたり、彼らに米や布を与えた場所と考えられる。

復元東方官衙と駐車場。

板塀の内部は、正殿と東西の脇殿が広場を囲むように、コの字形に整然と配置されていた。

政庁は4回、建て直されていることがわかっている。

政庁地区。西前殿。

政庁(長森)西側地区。鍛冶工房や祭祀用土器の工房が発見された。鍛冶工房が稼働した時期は9世紀後半から10世紀前半の短い時期で、秋田城下の蝦夷が反乱を起こし、秋田城が焼き討ちされた元慶の乱(878年)の時期と重なる。大量の金属加工品の生産は、元慶の乱後の武器や建築工具などの需要に応えたものと推定される。

政庁(長森)東側地区方向。正殿前広場。

正殿。

正殿後方西建物。

政庁(長森)東側地区方向。

政庁(長森)東側地区方向。

掘立柱建物が復元されている。役人たちが執務した建物群があったとされる。

柵跡の名が冠されたのは、外柵が柵木塀(材木塀)であることに由来する。柵木は約30cm角に加工した秋田杉で、1989年に年輪年代法によって、801年(延暦20)ごろに伐採されたものであることが確認された。「嘉祥二年」(849年)と記された木簡も発見されており、年代法の結果とも符合する。

東北地方には、払田柵跡以外にも古代城柵官衙(じょうさくかんが)遺跡が多く存在する。中でも、北東北に築かれた払田柵、秋田城(秋田市)、志波城(しわじょう/岩手県盛岡市)、徳丹城(とくたんじょう/岩手県紫波郡矢巾町)、胆沢城(いさわじょう/岩手県奥州市)は、律令国家勢力の北限を構成し、互いに密接な関係にあったと考えられている。

外郭の柵木は延暦20(801)年に伐採された材であることから、この遺跡はほぼその頃に創建されたものと考えられている。これにより、桓武朝における坂上田村麻呂らによる征夷事業によるものであり、陸奥国側の胆沢城、志波城と一連のものであると考えられる。

払田柵は、歴史書や古文書になどに関連記事がないことから、歴史上の名称が未だ解明されておらず、河辺府説や雄勝城説など様々な説が考えられている。

河辺府説は、宝亀6(775)年に秋田城から遷された出羽国府、すなわち「河辺府」であるとする。801年に、坂上田村麻呂が造胆沢城使となり、出羽権守文室綿麻呂を遣わして、河辺府、すなわち払田柵の造営に着手し、804年に完成したとする。

雄勝城説は、『続日本紀』に天平寶字4年(760年)創建とされる雄勝城であるとする。山形県酒田市にあった出羽国府とされる城輪柵(きのわのさく)や多賀城よりも大規模で、防御も厳重をきわめ、辺境経営の城柵として最大級の大鎮域が文献に記載されないはずがなく、大野東人の出羽遠征記事や元慶の乱(878)年にかかわる記事から類推して、出羽における一府二城のひとつであった雄勝城であろうとする。

ただし、年輪年代測定により創建年代が延暦年間であることがほぼ確定され、年代的に整合しないと否定されてきた。

しかし、近年「官小勝」「小勝城」と書かれた払田柵跡出土の墨書土器が確認されたことで、現在では雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭に払田柵跡の地に移設されたとの「第2次雄勝城説」が現在あらためて注目されている。

秋田県仙北市 角館城跡 新庄藩主家・戸沢氏 蘆名氏 佐竹北家