ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2012年3月27日、中央林間駅

2020年01月21日 00時00分00秒 | まち歩き

 最初にお断りです。今回は、私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の、次の記事の再掲載です。

 第499回:「東急田園都市線途中下車(27) 中央林間駅」(2012年3月27日撮影。2012年10月20日〜30日掲載)

 誤字脱字を除き、内容を修正しておりません。したがいまして、後の事情変更なども一切反映しておりません。御注意ください。

 

 私が田園都市線の沿線に住み始めてから開始した「東急田園都市線途中下車」シリーズも、いよいよ最終回となりました。今回は、途中下車という言葉には相応しくないのですが、まさしく田園都市線の終点である中央林間駅(DT27)を取り上げます。梶が谷駅から続いてきた多摩田園都市も、この駅が終着点です。

 中央林間駅は神奈川県大和市にあり、1984(昭和59)年4月9日に開業しました。純粋な東急線の駅としては最も新しい駅で(こどもの国線を含めれば恩田が最も新しい駅です)、当初から地下駅です。上の写真では5000系が停車していますが、ここから東武伊勢崎線の久喜駅、日光線の南栗橋駅まで直通する電車が走ります。その距離は100キロメートル弱というところですので、私鉄の相互直通運転の距離としては日本で最も長い距離となります。また、以前、何度か東武日光方面まで臨時電車が運転されたこともあります。

 地上に出ます。中央林間駅の改札口は1階にあります。それほど高い建物ではないものの駅ビルとなっており、飲食店や書店も入っています。以前は定期券売場やテコプラザもありました。ここが正面口ですが、北口、南口および西口もあり、西口は小田急江ノ島線の中央林間駅とつながっています。

 駅の正面口を少し離れた所から撮影しました。バスターミナルとタクシー乗り場が展開しており、その奥のほうに大和市役所の中央林間連絡所が入っています。

 私が立っている所は道路の反対側、東急ストアの前です。田園都市線の沿線には東急ストアが多いのですが、その中でも中央林間店は鷺沼店とともに規模の大きな店舗に入ります。街を歩いてから中央林間店に入り、昼食用の弁当を買って食べました。弁当、惣菜、そして八社会のバリュープラスの品々は、スーパーマーケットのオリジナルブランドの中でも美味しいので、時々買っています。

 見ただけでは何を撮影したのかわからないような写真になってしまいました。実は、私も何を撮影したのか、よく覚えていません。駅を出てつきみ野方面に少し歩いた所であることだけは確かです。駅ビルと東急ストアがつながっているので、中央林間駅ビルの裏側を撮影したのでしょう。左側にわずかながら見える橋は東急ストアへの連絡橋であるはずです。

 遠くに中央林間駅の北口が見える位置から撮影してみました。右側のほうに小田急江ノ島線の駅があります。いかにも駅の裏という感じの場所ではあります。

 田園都市線の駅、いや東急線の駅としては最も新しい駅ですが、小田急の中央林間駅は戦前に開業しています。そのためか、この駅は、溝の口駅とともに、田園都市線沿線らしくないというか、同線の他の駅とは異なる空気が流れているように思えてきます。敢えて言うならば、東横線のどこかの駅の近くを歩いているような気もしてくるのです。

 小田急江ノ島線の中央林間駅です。こちらを使えば、下り電車なら大和、湘南台、藤沢、片瀬江ノ島、上り電車なら相模大野、町田、そして新宿に出ることができます。但し、都心方面への直通はないので、田園都市線のほうが利便性が高いとも言えます。小田急江ノ島線の急行は、田園都市線の中央林間駅が開業した後も長らくの間、中央林間を通過していましたが、現在は停車します。

 中央林間という名称は、よく考えると妙なものです。しかも、上り方面の隣が東林間で(但し、地図で見ると中央林間より北西にあります)、下り方面の隣が南林間です。3つも「林間」が続く訳で、どう見ても古くからの地名とは思えないので、不思議に思われた方も少なくないでしょう。

 実は、戦前、この辺りには林間都市計画というものがありました。小田原急行電鉄、すなわち現在の小田急電鉄が、現在の阪急電鉄の母体や東京急行電鉄の母体が進めていた宅地開発(関東では洗足や田園調布が典型です)にならって、一種の計画都市を造ろうとしたのです。そのため、江ノ島線には、1929(昭和4)年4月1日に東林間都市、中央林間都市、南林間都市という駅が開業しました。しかし、時は戦前です。昭和初期の不況にも見舞われていました。また、この場所は、現在であればともかく、当時の電車の性能などを考えると新宿から離れすぎていました。この他にも理由があったのでしょう。林間都市計画は暗礁に乗り上げ、中止されてしまいました。以上の3駅も、1941(昭和16)年10月15日、揃って「都市」が外され、東林間、中央林間、南林間となったのです。住宅地として発展したのは戦後のことで、東急による多摩田園都市計画も進められるようになりました。中央林間都市という駅名は、むしろ田園都市線全通後の現在のほうが相応しいくらいでしょう。

 今度は小田急の中央林間駅の西側を歩いています。昔からある郊外の住宅地という印象を受けます。そのため、ここが田園都市線の沿線であるとは思えないでしょう。南武線の沿線でも、このような場所がいくつか思い当たります。小田急が構想していた林間都市とは、一体どのようなものであったのでしょうか。ちなみに、和歌山県橋本市には、南海電気鉄道が開発した橋本林間田園都市というニュータウンがあり、南海高野線の林間田園都市という駅もあります。関東人の目から見ると、東急と小田急とが合体したような名称です。

 今歩いているのは商店街です。古くからの建物が多く残っており、少しばかり懐かしさを感じました。右の建物に書かれている電話番号を見ると、ここが大和市であることを実感できますが、現在、大和市の市外局番は3桁の046ですので、4桁の0462の時代のままということになります。

 西口の商店街の一角です。きれいに咲いていましたし、私が持っていたカメラが、買ってからまだ2ヶ月弱しか経っていないCanon EOS Kiss X5でしたので、せっかくだからと撮影しました。あざみ野駅の近くにある西勝寺でのようにはいきませんし、まだ使いこなせていません。

 もう少しアップで、花そのものを撮影してみました。一眼レフを買ってよかったと思っています。コンパクトデジタルカメラではここまできれいに撮影できません。私が一眼レフを使いこなせるようになれば、もっと美しく撮影できることでしょう。EOS 60DにするかEOS Kiss X5にするかで迷ったのですが、デジタル一眼レフ初心者にはEOS 60DよりEOS Kiss X5のほうが操作に悩むことが少ないであろう、という判断の下に買いました。勿論、価格も判断の要素です。

 さて、これで「東急田園都市線途中下車」シリーズは終わりました。番外編1としてこどもの国線の恩田駅を取り上げていますので、2としてこどもの国駅を取り上げることとします。そして、今後も、折に触れて田園都市線沿線の風景を紹介していくつもりです。


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