2011年3月25日に歩いてから約13年ぶりに、東急砧線中耕地駅の跡を歩きました。今回は、その時に撮影した写真を掲載しておきます。
実は、中耕地駅跡についてはこのブログの「再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4)」にて取り上げており、砧線の歴史についても少しばかり記しました。今回、若干の事柄を追加するつもりです。
上の写真に「砧線中耕地駅跡」の石碑が登場しています。「人知れず、世田谷区東玉川2丁目に」に登場した「新奥沢駅跡」の石碑と同様のもので、設置者が同じであることは容易に推察できます。手前には隣の駅を示したタイルが埋め込まれていることがわかります。右のほうに向かうと二子玉川駅(砧線廃止時は二子玉川園駅)、左のほうに歩くと吉沢駅です。二子玉川駅は歩いて5分くらいで到着すると思われますが、吉沢駅跡までは歩いて10分以上かかるでしょう。
砧線の跡は「花みず木通り(砧線跡)」と名付けられています。単線の路線であったためか、道幅は狭く、一方通行でないのが不思議なくらいです。ただ、歩道の幅は広く取られています。道の手前は玉川3丁目、奥は玉川4丁目です。ちなみに、砧線の代替バスである玉06系統(何故か高津営業所の所管路線)は、この道路のすぐ南、玉川高島屋本館のすぐ北側の道路を通ります。
歩道にはこのようなタイルも埋め込まれています。当時の中耕地駅の様子ということでしょう。ただ、イメージによるのか、残された写真などに忠実であるのかはわかりません。車両はおそらくデハ60形でしょう。砧線の晩年にはこのデハ60形のみが使用されていたそうです。私は、小学生時代にこどもの国で静態保存されていたデハ60形を見たことがあります。ただ、早くも荒廃してしまい、解体されています。
(なお、東急のホームページに「鉄軌道事業 歴代車両」が紹介されており、デハ60形の写真も掲載されています。)
石碑の側面には設置者として世田谷区と「玉川地団協」の名が彫られています。「玉川地団協」は「新奥沢駅跡」の石碑の設置者でもある玉川地域活動団体連絡協議会のことです。ただ、いつ設置されたのかについての説明は何もありません。
ここで、東急砧線の歴史について「再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4)」への補充をしておきましょう。
砧線は、玉川電気鉄道により、1924年に開業します。玉川線と同様に多摩川で採取された砂利を運搬するために建設された路線であり、当初は軌道であったようです。1938年、玉川電気鉄道(玉電)が東京横浜電鉄に合併され、その数年後には東京急行電鉄の一路線となります。1945年に軌道から鉄道に変更されましたが、実態は軌道のままであり、玉電の車両が使用され続けました。廃止されたのは1969年5月のことで、玉川線と同時でした(世田谷線は残りました)。玉川線の場合は首都高速3号線および東急新玉川線(現在の東急田園都市線渋谷〜二子玉川間。なお、この区間についても実は様々な経緯がありました)の建設のために廃止されたのですが、砧線については詳細がよくわかりません。全線が単線であって距離も短く、あまり需要がなかったのかもしれませんし、玉川線の車両が使われていたために車庫の関係があって廃止されたのかもしれません。
少しばかり「花みず木通り(砧線跡)」を歩きました。吉沢橋付近まで真っ直ぐに伸びています。桜並木も続きます。かつて、砧線の電車はここを進んで吉沢駅および砧本村駅まで走っていました。私は砧本村駅跡を訪れたことがあるのですが、吉沢駅跡はありません。玉06系統のバスで通過しただけです。吉沢橋の近くに吉沢駅跡があるという話を耳にしたので、機会があったら訪れてみたいと考えています。
同じ「花みず木通り(砧線跡)」ですが、方向が逆になります。奥に進むと中耕地駅跡、そして二子玉川駅に向かいます。砧線の電車は、中耕地駅を出ると、現在の新二子橋の下を通って国道246号(二子玉川駅前を通る道路も国道指定がなされています)を横切ると右に大きくカーブし、現在の玉川高島屋東館駐車場の裏を通って玉川線に合流していたようです。そのカーブの痕跡は田園都市線の車窓からでもわかります。
今になってやろうと思ったら馴染みのある場所ばっかし。
何処か知らないところと思っても中々決まらない今日この頃ですねぇ。
初耳地名も沢山あるんですけどね、特に隅田川より東の方に。