ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

溝口三丁目散歩(9)

2015年02月24日 12時05分51秒 | まち歩き

 国道409号に近づきました。しかし、そのまま歩くのも面白くないので、もう少し脇道を歩くこととします。

 前回の最後と同じ地点から、逆の方向を撮影しました。一方通行で、手前の旧大山街道から奥の国道409号に向かうこととなります。

 何度か記しているように、川崎市民の多くは、現在でも国道409号および神奈川県道・東京都道9号川崎府中線を府中街道と呼び慣わしています。しかし、厳密には違う道路なのかもしれません。拡幅の都合などで旧道と新道の双方が存在しても、別におかしな話ではありません。また、歴史散歩などをする際に注意しなければならないのは、戦後の農地改革、土地区画整理事業などです。

 最初の写真は何の変哲もない住宅地に見えるものでしたが、実はここに明治の歴史が隠されていました。

 川崎市の大部分は橘樹(たちばな)郡に属していました。明治の初期に興った自由民権運動の、橘樹郡の拠点がここ溝口であり、そのまさに中核であったのが上田家でした。川崎市のサイトにある「川崎市高津区:大山街道コース」によれば、上田家は江戸にも出店を持っている醤油屋で、質屋も兼ねていました(屋号は「稲毛屋」です)。その7代目である上田忠一郎は、甥に家業を譲り、政界に入り、1879(明治12)年に最初の神奈川県会が開かれた際の議員になりました。彼が民権結社「橘樹郡親睦会」を結成したのは2年後の1881(明治14)年のことですが、それより前から民権運動家が集まる場となっていたようです。また、川崎市市民ミュージアムのサイトにある「近代川崎人物伝 人物紹介 その3上田忠一郎」によれば、1890(明治23)年、忠一郎は立憲自由党に入党しています(ちなみに、そのページでは「上田家は八王子道と大山街道が交差する交通の要衝地に位置していた」と書かれています。「八王子道」はあまり用いられない表現ですが、稲城市大丸で府中街道から分岐する道を進めば、多摩市関戸、日野市高幡を経由して八王子へ向かうことができます)。

 現在も上田家はこの溝口で続いています。ちなみに、この上田家の分家が、溝口二丁目の旧大山街道沿いにある稲毛屋金物店です。

上田家から西の方へ歩きます。真っ直ぐ進めば、「溝口三丁目散歩(5)」の5枚目の写真に登場する交差点に出ます。

 ここで右に曲がり、高津小学校の前にある交差点に向かうこととします。南側は三丁目、北側の高津小学校が四丁目、反対側が五丁目となる場所です。まだ、三丁目で取り上げていない所もありますが、折を見て歩き、撮影します。

 さて、最後に川崎市の歴史などについて若干の補足をしておきましょう。

 先に「川崎市の大部分は橘樹(たちばな)郡に属していました」と記しました。橘樹郡は、川崎市の川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域、麻生区の一部、横浜市の鶴見区と神奈川区の全域、西区、港北区、保土ケ谷区のそれぞれから一部を範囲としていました。他方、麻生区の柿生駅周辺(柿生村であった地域)および岡上は都筑(つづき)郡に属していました〔この郡名が、1994(平成6)年の港北区および緑区の分区の際に都筑区として復活します〕。

 橘樹郡の名称は、高津区子母口富士見台(しぼくちふじみだい)にある古墳に由来すると言われています。この古墳が、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)の陵であると伝える説があるためです。子母口には橘樹神社があり、日本武尊と弟橘媛を御神体としています。また、正確な年代などはわからないのですが、橘樹郡の中心部は現在の千年(ちとせ)にあったとも言われています。高津区の南半分〔千年、千年新町、子母口、子母口富士見台、久末、蟹ヶ谷、明津、末長、新作、および野川(高津区の部分)〕が、千年にある高津区役所橘出張所の所管地域とされているところは、郡名の名残と言えるでしょう。


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