なんだかわからない、奇妙奇天烈な東京五輪2020が終わって、世間はコロナ対策に忙しい。
2020は、最初っからみんな知ってる通り、この時期こそまず大問題で、その核心は、暑いというより、湿ってることがとてつもなく問題なのだと何度か書いたけど、札幌のマラソンがまさにそれだった。気温というより湿度が高い。そして、台風などの気圧配置によってはそれが動かない。これはもう、健康な人でも苦しいかもしれない状況。
出場選手100名中30人が途中棄権だそうだけど100名というのも既に少ない人数で、その上でさらに30%が棄権ってことは、まぁなんというか、参考記録程度のマラソンだったって感じなかろうか。
でもまぁ、他でも、新体操は手具を落としても問題のない競技になった模様だし、自分にとって興味のあるところ以外それほど見てなかったけど、全体として、何か、ほんとに、ポカーンとしてしまうことの多い五輪だったとは思った。
■ 2020の後の不安 by 3ジジ
で、ちょっと前に、佐高・平野・早野の3ジジ対話を見たら、平野さん、佐高さんが、予想通り、この五輪の後が本当に心配だと言っていた。
平野貞夫×佐高信×早野透【3ジジ放談】2021年7月27日配信
つまり、誰でも気づく通り、ムードを使ってもりあげて、若年層を従えて、またぞろ憲法改正問題にもっていくんだろうって話ですね。菅を蹴落としても何にもならない。安部が政治的に生きている状況だから。
で、それはそれとして、この3ジジのうちの、最高齢の平野貞夫さんが、1964年当時の国会のことを話していて、それが興味深かった。
当時、どれぐらいの国が参加してくれるだろう、という思いがあったそうで、1964年東京オリンピック大会組織委員事務総長に外交官の与謝野秀さん(与謝野馨さんのお父さん、または、与謝野晶子の息子)だったのはそのためだそうだ。
すると、朝日新聞OBの早野さんは、そうかぁ、日本の復興というのだけじゃなかったんだな、みたいなボケたことを言う。
すると、佐高信が、だって日本は加害者だったんだから、と間髪入れずつっこむ。早野、わかったようなわからないような、って感じで、ここにある認識の差が非常に興味深く、また、重要だとも思った。
この3ジジ対談をいくつも見ていて思うのは、1945年生まれの朝日新聞OB早野透氏は、日本は敗戦した後民主主義国家として生きることになったので、それだけで何かこう満額の権利を得たみたいな認識でいるんだな、ってところ。
そんな話は、日本国内での作話であって、現実には、単に、片面講和して、西側諸国内でだけいい子になりましょうというのが日本の戦後だというお話なので、実際は危ういところがある、という認識はほぼゼロ。日本は民主主義国になったのにああだ、こうだ、こうでなければならない、といった建てつけでものをいう。
平野貞夫さんは残りの2人より10歳ほど年長なので、終戦時に10歳、記憶があるので、そこらへんは戦後の公式作話に引きずられない契機があるようだ。
この動画でも、平野さんも敗戦時には教科書に墨を塗ったのかと聞かれて、墨どころじゃないですよ、進駐軍が来るとなった時には習字の手本まで調べて捨てたとかなんとか言ってる。
つまり、日本が軍国主義的に国民を動員していた証拠みたいなのは、よくない、とどこかが考えて、目立ちそうな大都市のみならず高知の小さな都市までそんなことを徹底させていた、ということであるようだ。
また、13歳離れたお兄さんが軍人で、そのお兄さんと戦後、負けてよかったんだという趣旨で平野さんが話して怒られたという話をしていた。
■ そんなに安穏でもなかった1964年
で、1964年の東京五輪といえば、戦後の復興を寿いだおめでたい話として語られるのが常だけど、冷静にみれば、1964年というのはそれほど平和の時代という感じでもない。
そもそも、誰でも知ってる通り、東京五輪の最中に中華人民共和国は初の核実験をしている。
中国が初の核実験 1964年10月16日
もちろん、実験したからといって別に直ちにきな臭くなったという話でもないのだが、東アジアの戦後体制にとっては大きな出来事だったでしょう。
今日興味深く思うのは、当時のアメリカはこれについて、驚きはしたものの、怒ったり、騒いだりしている様子がないこと。
そして、蒋介石は軍事行動を取るべきだ、と騒いでいたらしいんだが、アメリカは取り合ってない。
In response to the 596 test, the Chinese Nationalist leadership in Taiwan, including Chiang Kai-shek, called for a military response against Communist Chinese nuclear facilities and the formation of an anti-communist defense organization.[17] However, the United States would not risk strikes in China.
これはつまり、この時点で、あの巨大な中国を支配する中国共産党支配下の中国ではなく、小さな台湾の中国が中国の議席を持っていたことと関係があるんじゃないかと思う。
つまり、中国共産党は核兵器でも持たなければ、真面目に取り合われないと考えていたらしい、というへんな言いぐさは多分本当だったんじゃないかと思う。
で、そう考えてくると、どうして中国がソ連と切れたのかというと、ソ連が味方をしてくれていても、国連、つまり国際社会の表舞台には出られないという考えから、中国の西側べったり路線が始まるのかな、など思ってみたりもする。ボトムラインは、中ソが対立したから、共産中国は国連に入れた、ということではないのかしら。
もちろん、鄧小平みたいに、もともとそっち系の人はいたんだろうが、それだけではないでしょう。
国連という仕組みは結局のところ、ソ連が反対するから話が成り立ってただけで、それがなければ、西側の世界支配の道具として立案されてたんだな、というのはむしろこの30年ぐらいでよーくわかったわけだし。
とはいえ、それはそれとして、台湾、台湾と騒いでいた日本の「軍閥」みたいな集団にとっては、穏やかじゃない状況だったと思う。
■ 2つの東京五輪
通して考えてみるに、東京でやるオリンピックというのは、西側のステルス帝国中央部(仮称)が、日本を抱き込む時にやるイベントのような気がする。
そもそも、このIOCなる組織は一体何者なんだと誰しも怪しむようになったけど、やっぱりここは、東インド会社にほど近い組織集合体なんじゃないですかね。
それを思わせるのは、ソ連は最初、この西側イベントであるオリンピックに参加していなかったこと。させてもらえなかった、とも言うけど、そんなことで意気消沈するソ連さんでもなかった模様で、「スパルタキアーダ」というソ連版オリンピックをやっていた。
ソ連が参加するのは1952年ヘルシンキオリンピックから。ちなみに、日本、ドイツも戦後はここから。また、中国は共産中国初参加。国民党中国は反発して不参加。なかなか興味深い大会だった。
※参考
ソ連版オリンピックは本家を凌いでいた
■ オマケ
ソ連って、要するに、多くの人にとって暇な時間がいっぱいある体制だったんだろうと思うんだよね。だって、アメリカ人の人生の中で、一体何時間、レジメ書いたり、就職試験に備えたり、お金の算段したり、アパートだの保険だのの更新、選択に時間注いでる? これがなければ、余暇は増えるわけよ。だから、ソビエトは人々にスポーツをやらせて、夏になると休暇を取らせてた、と考えると辻褄があうと思う。また、学校行きたいやつは2つも3つも大学行って、踊りたい人は踊らせて、歌いたい奴には歌わせてたと。
体制によって設定された目標が、生活することと、お金を貯めることの違いなのかなとも言えそう。