黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

家が傾くとき

2017-03-05 22:13:23 | 思索系
大河ドラマ「おんな城主 直虎」。このたびの話題は、
運命の桶狭間の戦い。それは今川家もさることながら
井伊家にとっても命運が暗転する契機となったもの
である。時代は1560年5月、直親25歳、松平元康(のちの
家康)18歳、今川氏真23歳である。この戦いで横死した
今川義元は「海道一の弓取り」の異名を持った。当時の
年齢は42。私など、彼のことを今になって多少、勉強
したにすぎないが、ウィキペディアや『この一冊で
よくわかる!女城主・井伊直虎』によると、桶狭間の
戦いにおける実際の彼は「信長の家臣・服部春安が
真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の
膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようと
した時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした
良勝の指を食い千切って絶命した」という奮闘ぶり。
せっかくだから今年の今川義元はそういう武将らしい
死に方を最期に見せてくれるのだろうか――と期待
しながら見ていたのだが、姿さえ現さずいつの間にか
死んでしまった。

気になる点はこの他に二つある。まず、徳川家康に
ついてであるが、ドラマではこのたびのピンチを
抜け目なくチャンスと見抜いて早々に三河に戻ったが、
ウィキペディアの彼の項によれば実際の家康は
「松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようと
したが住職の登誉天室に諭されて考えを改め」たのだ
そうである。後年、本能寺の変にまきこまれた時で
さえ、最初は「狼狽して信長の後を追おうとする」
ような人だ。彼は実際はもう少しフツーの人だったの
ではないだろうか。

ところで、このドラマの舞台の一つ・龍潭寺が「龍潭
寺」と呼ばれるようになったのも、実は井伊直盛が
討死してからのことである。それ以前は「龍泰寺」と
呼ばれていたものが、死んで「龍潭」という法号を得た
直盛の菩提寺となったことで、「龍潭寺」という名に
変わったのである(『この一冊でよくわかる!女城主・
井伊直虎』による)。同書によれば「龍潭」とは「龍の
棲む淵」という意味だそうで、おそらくドラマの「龍宮
小僧」はこの名に関連付けて採用された創作だろう。
それはさておき、問題はこのたび横死した直盛の遺言の
内容である。『井伊家伝記』では、その内容をおおむね
次のように伝えているという:小野但馬は二心あって
心もとないので、井伊一族である中野直由に留守を
頼んできた。これからも但馬守と直親の主従の間が
心もとないので中野直由に井伊谷を預けたい――と。
つまり、同書によれば小野但馬守に猜疑心を向けていた
のは奥山朝利ではなく死んだ直盛の方で、直盛は小野
但馬守を信用してないからこそ、中野直由に後事を
託したのである。ドラマの小野但馬守は、父親こそ
策士であったが彼自身は今のところ特に大きな問題を
起こしてはいない。奥山朝利の猜疑心がどこから来る
のか、イマイチよく分からない感じがする。一方、
ウィキペディアの但馬守の項には「(但馬守)道好と
直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった」と
あるので、『井伊家伝記』の直盛はこれを心配して
中野直由に後事を託したと解釈できる。


ウィキペディアの今川義元の項にある逸話のうち、
桶狭間の戦いの直前に義元の夢の中に玄広恵探が
現れて出陣をやめるよう言ってきたという話を
読んでいただきたい。玄広恵探と義元が骨肉の争いを
したのも今は昔、それでもこの義元は、「兄上、誠に
有り難きご配慮にはございまするが・・・」という
口さえもきけず、かえって目の敵にするばかり。
本当にこんな事があったのか真偽のほどは不明だが
傾いた家の者にふさわしい逸話ではあるまいか。
お家の一大事が起きた時こそ、一族や主従が団結して
守っていかなければならないのに、特に俗世の男どもは
コダワリが強すぎてそれが難しいから、家がますます
傾いていく。早くも離反や家来同士の対立が起き始めて
いる今川家、そして、どうしてなのかイマイチよく
分からないがドラマの井伊家にも、早くもこの兆候が
出始めているところなのだろう。


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