黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

畠山重忠ゆかりの史跡たち

2012-04-04 23:51:49 | 歴史系(ローカル)
平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した
武将、畠山重忠。彼に関する史跡の画像が
いくらか集まった。なかにはだいぶ前に
撮影したものもあるので、思い出せなくなる
前にここで一通りとりあげていきたい。

最初に、以下は埼玉県深谷市の「畠山重忠公
史跡公園」。1164年、畠山重忠の父・重能は
ここ畠山館で三浦義明の娘とのあいだに次男・
氏王丸――のちの重忠をもうけた。下の画像は、
園内に伝わる重忠の産湯の井戸である:



畠山氏は桓武平氏の流れをひく秩父氏の一族で、
重忠の父・重能が秩父から畠山荘(深谷市の
畠山一帯か)に移り住んで開発領主となり、
畠山庄司を称したことから始まったという。
下の画像が同園内に伝わる重能の墓で、
画像の右側にうつっている掲示によれば
重能の墓は「重忠墓の東南、椎の木の下にある
自然石と伝わる」。重能の生没年は不明だが、
ウィキペディアの彼の項によると『吾妻鏡』
(1185年・文治元年7月7日条)に、平家の家人
平貞能が重能・有重兄弟の帰国に尽力した事が
記されているので、1185年の時点では
重能はまだ存命だった可能性がある:



――そして、下の画像が掲示にも記されている
重忠主従の墓で、やはり同園内に建てられている:



ちなみに、下の画像は重忠主従の墓の裏手の
様子である。わずかに地面が盛りあがっている
部分があるが、土塁の名残であろうか??:




畠山氏に限らず、当時の武蔵武士団の多くは
味方する相手を変えながらその命脈を保っていた。
例えば1155年、相模から武蔵への進出を図る
源義朝・義平親子が、源義賢・秩父重隆を相手に
武蔵国の覇権を争ってこれを破ると、
武蔵武士団の多くが源義朝の配下に入った
(以前こちらでとりあげた「大蔵合戦」のこと)。
なおウィキペディアの畠山重能の項によると、
重能は自分の父・秩父重弘を差し置いて
家督を継いでいる秩父重隆(重弘の弟)に不満を
抱いていたため、「大蔵合戦」で源義朝・
義平親子に味方したのだという(ただ重能は、
2歳になる源義賢の子の探索と殺害を義平から
命じられた際、その子の命を見逃している。
それからおよそ30年後の1184年、木曽義仲と
名乗るようになったその子は、六条河原で
重能の子の重忠と戦うことになるという――)。
その後、多くの武蔵武士団は、「大蔵合戦」の
翌年に起こった保元の乱、1159年に起こった
平治の乱の際には源義朝のもとで戦ったが、
平治の乱で源義朝が敗れ、平清盛が勝利すると、
武蔵武士の多くは平氏の支配下に入った。
畠山重忠はこうした時代をへた後の1164年に
産まれたわけだが、当時は平家一門が繁栄を
極めていて、3年後の1167年には平清盛が
太政大臣に就任していた。

平家の全盛期に、平氏一族の子として成長した
畠山重忠であったが、1180年8月17日、
源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵した。
重忠の父・重能はこのとき平氏方の武将として
「京都大番役」(京都御所の警護役)を務める
ために上洛中であり、重忠は畠山館で父の留守を
守っていた。このため、重忠も当初は平氏に
味方し、その関係で、河越重頼や江戸重長
(いずれも重忠と同じ秩父一族)と共に三浦義明
(重忠の母方の祖父で、頼朝に与した武将。
今年の大河ドラマ「平清盛」にもちょこっと
出た)を自刃に追いやった。
しかし、石橋山の合戦で一旦は敗北した頼朝が
安房・上総・下総で勢力を立て直し、
秩父一族にも帰属を勧告すると、
重忠は同族の河越重頼や江戸重長と共に
これに応じて頼朝に従うようになった。
秩父一族は、武蔵国における一大勢力である。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』によると、
重忠は情勢を鑑みた末に頼朝を迎え撃つのは
無理だと判断して頼朝への参陣を決意し、
一方の頼朝としては、平家打倒にはまだまだ
非力であったため、重忠の属する秩父一族を
敵にまわしたくはなかったのだろうという。
ともかく、当時17歳だった重忠はこうして
頼朝配下の武将となり、以後、「治承・
寿永の乱」で大いに活躍するようになった。
なお、ウィキペディアの畠山重能の項で
述べられている推測によれば、重忠の父・
重能個人はあくまで頼朝の軍門には下らずに
平家方の人間として生き続け、後事を重忠に
託して隠居したのではないかという。

ところで、畠山重忠については怪力伝説が
数多く伝えられているようであるが、
なかでも有名なのは、「一の谷の戦い」の際に
重忠が愛馬・三日月を背負って鵯越を下りた、
という逸話であろう。先の「畠山重忠公史跡公園」
には愛馬・三日月を背負う重忠の像があって、
下の画像がその像である:



しかしながら、『嵐山史跡の博物館ガイドブック1
菅谷館の主 畠山重忠』(平成23年)によると、
この逸話は今日では重忠の怪力ぶりと心優しさを
物語るための後世の創作と考えられていて、
その理由は次のごとくであるという:
すなわち、この逸話が成立するためには
源義経が率いた搦め手軍の別働隊(70騎)に
重忠も属してなければならないが、
『吾妻鏡』では重忠は大手の軍を率いていた大将
源範頼に従ったことになっているし、
『平家物語』では、重忠は搦め手軍を率いていた
義経に従ったことになっているものの、
鵯越の場面に重忠の名前はなく、馬を背負った
話も記されていない。
そして、この逸話が登場するのは
『源平盛衰記』という『平家物語』の異本だけで、
重忠の所属についても「範頼を大将の器でないと
見限った重忠が、義経の軍に乗り換えた」という
ふうに記されているからである、と――。
では重忠は一体どこの隊に属していたのか、
という点については、同ガイドブックの推測では
安田義定という武将が率いていた搦め手軍の本隊
(義経が率いた別働隊ではなくて)だろうという。
というのも、『吾妻鏡』や『平家物語』の諸本の
多くに「重忠の家臣が平師盛を討ち取り、それが
安田義定の手柄になった」という記事があるから
だそうである。

畠山重忠、多くの怪力伝説を生ましめる
剛の者かと思えば、音曲の才を持つ者でもあった
らしい。先述のガイドブックによると、例えば
頼朝に命じられた静御前が鶴岡八幡宮で舞を
披露したときには重忠は銅拍子(シンバルのような
楽器)を演奏し、鶴岡八幡宮の別当が主催した
宴会では重忠は今様を披露したという。
同ガイドブックの推測によると、
当時の「京都大番役」は重忠のような御家人が
当番制で務めるものになっていたため、重忠は
そうした機会に今様などの芸を身につけたのでは
ないかということである。
なお、下の画像は鎌倉の畠山重忠邸跡の石碑で、
現在の鶴岡八幡宮の東側の入口に立てられている;



一方、下の画像は重忠の国元の邸宅地とされる
菅谷館跡の縄張である(埼玉県比企郡嵐山町)。
重忠は、1187年11月以前に先述の畠山館から
この菅谷館へと移住し、1205年に北条氏に
謀殺されるまで居を構えたとされている。
ただし、下の画像のような縄張は
戦国時代末期に改修・拡張された末のもので、
重忠時代の縄張ではない。



また、下の画像は武蔵御嶽神社(東京都青梅市)の
宝物殿前にある畠山重忠像である。社伝によれば、
1191年、畠山重忠はこの御嶽神社に
「赤糸威大鎧」を奉納したという。
その大鎧は、現在国宝に指定されている。



武勇と人望ゆえに頼朝に信頼され、
河越重頼が義経に連座して誅殺されたのちは
武蔵武士団を統率する「武蔵留守所惣検校職」を
重頼から引き継いだ畠山重忠。
しかし頼朝の死後、そんな彼にも
北条氏の陰謀の犠牲になる日がやってくる。
1204年11月、重忠の息子・重保と、
平賀朝雅という武士との間で口論がおきた。
畠山重忠が北条時政の先妻の娘婿となって
もうけた子が重保なら、この平賀朝雅は
時政の後妻・牧の方の娘婿にあたる。
口論そのものはその場で収まったものの、
朝雅は恨みを持ち続け、母・牧の方へ讒訴し、
牧の方も朝雅に同情した。そこで、彼女らは
北条時政を動かし、重忠・重保父子を滅ぼす
計画をたてさせたのである。北条時政は、
まず息子の義時に重忠討伐のことを相談する。
義時も、初めは反対したものの結局は
討伐に賛同し、重忠討伐を実行にうつした。
1205年6月22日の寅の刻(午前四時ごろ)、
鎌倉で謀反が起こるという騒ぎを聞きつけた
重保は、何も知らぬまま郎従3人をつれて
由比ガ浜へと様子を見に向かうと、
待ち構えていた三浦義村の郎党に誅殺される。
そして同じ日の正午ごろ、二俣川(現在の
横浜市旭区)で重忠一行は鎌倉軍と衝突し、
4時間ほど奮闘したものの
重忠・重秀(重保の異母兄)以下、主従134騎
みなことごとく討ち死にしてしまった。
重忠の享年は42歳であった。
この日はもともと重忠が鎌倉に参上する日で
あったため、重忠はそのつもりで3日前に
菅谷館から出発したのであるが、その道中で
鎌倉軍の攻撃にあって誅されたかたちである。
別冊歴史読本『北条時宗』によると、
重忠討伐を終えた義時は時政にむかって
「重忠の弟や親類は大略、他所に在りました。
戦場に従うものは、わずかに百余輩。
ですから謀反を企てるという話は虚言です。
やはり讒訴によって誅戮にあったとしか
考えられません。はなはだ不憫でなりません。
陣頭に首を持ってきましたが長年昵懇であった
ことが忘れられず、悲涙禁じがたいものが
あります。」――と、言ったという。
同書では、この義時の言葉について
「義時と重忠の妻は、時政の先妻の子という
関係から両者は親しい間柄であったと
思われる。が、それ以上に剛勇廉直の
典型的な鎌倉武士と賞賛された重忠に対する
同情の念は、他の武士にも影響が見られた」
と記している。

北条時政と後妻・牧の方には、新羅三郎
義光の曾孫でもある娘婿・平賀朝雅を
将軍にすえて自分達が実権を握るという
野望があった。重忠が死した1205年の閏7月、
時政らはちょうど時政の館にいる現将軍・
源実朝を葬ろうと企てたが、これを悟った
息子・義時や娘・政子が実朝を義時の館へと
引き連れて時政らの企てを阻止、
企てがバレた時政は失脚へとおいこまれた。
さらに義時は父・時政に代わって執権職に
つくと、先の平賀朝雅を直ちに誅殺させた。
武蔵国には畠山・平賀・比企という
有力武士が勢力をおいていたのであるが、
比企一族は畠山と平賀が誅される2年前に
既に北条氏に滅ぼされており、かくして
北条氏は武蔵国を版図に加えた次第である。


――最後に、番外編として、埼玉県飯能市で
偶然みつけた畠山重忠の墓と伝わる場所を
一つ紹介したい。
それは「大六天神社」のなかにあるのだが、
この神社、たしか民家と民家の隙間に
たてられていて、見つけるのに
けっこう苦労したことを覚えている
(なお、ウィキペディアでは
「第六天神社(飯能市)」で登録されている)。
下の画像の、鳥居の奥にある樫の木の裏側が
畠山重忠の墓とされているのであるが・・・



その、墓とされる鎌倉期の板石塔婆は
下のような状態で立っていた:



そして、この神社の掲示によれば、
この墓の由緒は次のごとくであるという。
すなわち、1205年に二俣川で討ち死にした
畠山重忠の遺骸を秩父へと移送する際、
一行は「飯能の車返しの坂」に差しかかった。
この時たまたま車が動かなくなったので、
従者は重忠の霊がそうさせたのだと解釈し、
ここに重忠を葬ることに決めたのだ、と――。
だが同じ掲示には、重忠は二俣川に葬られて
いるのでこの塔婆が「畠山重忠の墓」と
いわれているのは伝説であろう、ともある。
また、先述の重忠のガイドブックにも、
別冊歴史読本『北条時宗』にも、この墓は
紹介されていない。ウィキペディアにも、
この墓が畠山重忠のものだとは書かれてない。
以上のことから私も、これは畠山重忠の墓とは
思えない。


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