黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

塞翁が馬

2013-09-15 23:19:49 | 思索系
大河ドラマ「八重の桜」。このたびは、熊本から
迫害を逃れてやってきた転校生たちの話題だった。
時代は、山川浩の友人の竹村幸之進なる男が
思案橋事件を起こした時点で1876年10月。
新島八重31歳、山本覚馬48歳、山川浩31歳であった。
このたび転校してきた熊本県人の「熊本バンド」の
メンバーのなかには、二次大戦前の日本において
オピニオンリーダーとなった徳富蘇峰の他に、
伊勢時雄なる横井小楠の長男もいた。時雄は後に
覚馬の娘・みねを娶る人物で、この時雄からみれば
徳富蘇峰は母方の親戚であったという。
徳富蘇峰に関しては、NHKの歴史番組を見る限り
八重を鵺よばわりした人物としての印象が強く
なるが、『時代を駆ける 新島八重』によれば、
蘇峰は襄の死後も八重の面倒を見た人物の一人でも
あり、八重の墓石の文字も蘇峰の筆によるものだった。
これらのことから、同書では蘇峰と八重の関係は
むしろ良好であったとしている。

ところで、ウィキペディアの熊本バンドの項では、
彼らの特異性の一つとして、「熊本県人気質を強く
持っていた点」を指摘しているが、その「熊本県人
気質」とは一体どういう気質を示すのだろうか。
そこで『県民性の日本地図』を開いてみると、
熊本県人の一面に関しては「曲がったことが大嫌いな
がんこ者で、駆け引きが大の苦手」であるのに加え、
「気が短く他人を説得して自分の意見を通す
根気がない」ともある。実際の「熊本バンド」にも
そういうところがあったのかは分からないが、
少なくともドラマの「熊本バンド」はそんな感じ
だと思ったし、そういう気質なら、ドラマのように
不協和音を生じさせても不思議は無かろう。
ドラマの彼らもそうだったように、同書によれば
熊本県人は本当は人情味があつく親切なのに、
先述のような気質ゆえに損をする場合があるという。


それにしても、このたび気になったのは冒頭で
言及した竹村幸之進なる人物だった。
彼の名は、ウィキペディアの思案橋事件の項で
見ることができるようだが、ウィキペディアに
彼自身の項目はなく、私の手持ちの本にも彼の名は
見つからない。それでもウィキペディア以外の
ネットで彼について調べてみるのだが、上京後
どのようにして暮らしていたのかが分からない。
これは私の想像にすぎないが、彼は山川浩ほど
うまく生きていくことができなくなったので
反政府行為に走ったのではないだろうか。
この時代に反乱を起こした士族にしても、やはり
時代の趨勢によってうまく生きていくことが
できなくなったので反乱をおこしたのだと思われる。
維新の負け組ではあってもうまくやり直しつつある
人間もいれば、維新の勝ち組だったにもかかわらず
国家反逆に身を落とさざるを得なくなった者もいた。


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