歩くたんぽぽ

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ゾンビに会ったら

2018年10月19日 | 空想日記
大学の映画研究部のJ先輩はゾンビが大好きでいつもゾンビのショートムービーばかり撮っていた。

夜な夜な大学の文化サークル棟に集まっては、みんなでやいのやいのやったものだ。

意外に思われるかもしれないけれど、私は彼の映画で何度か主役をつとめたことがある。

当時は声が小さいと注意される度に、軽々しく引き受けるんじゃなかったと後悔していた。

私はJ先輩のことを相当変わった趣味の持ち主だと思っていたけれど、

ゾンビオタクというある一定の趣味層は確かにあるらしい。



リビングデッド、生ける屍なんて呼ばれるゾンビだが、それっていったいどういうことなんだろう。

死んでるの?生きてるの?

昔のゾンビ映画に出てくるゾンビは墓場から出てくる。

死者が棺桶の中で朽ち果て腐った頃なんらかの力が働いてゾンビになるわけだ。

死者が蘇ったバージョンのゾンビはモンスター像として分かりやすい。

つまりゾンビは死んだ人間ということになる。

概念としては中国のキョンシーに近い。




『スリラー』



ではゾンビ映画でよく見られる感染に関してはどうだろう。

ゾンビに噛まれた人もゾンビになるわけだが、それは不思議な話だ。

この場合時間の経過を必要とせず、一瞬にして朽ち果てたゾンビとなる。

人々はゾンビになりたくなくて必死で逃げ惑う。

こうなってくるとゾンビは感染症だ、モンスターというより病に近い。

狂犬病に感染した犬が精神錯乱し凶暴化するなんて話を聞いたことがあるが、それに似ている気がする。


『アイアムアヒーロー』



ゾンビ映画を観ると毎回同じことを思う。

とてつもない恐怖の中一生懸命逃げて少数で抗う主人公が多いけれど、

早々にゾンビになった方が楽なのではないか、ということだ。

怖い話は好きだけど、自分に本物の恐怖が降りかかったら一刻も早くそれから逃れたいと思うはずだ。

私のイメージでは、ゾンビになると自分がなくなっていく。

ゾンビの侵入とそれを拒絶する自我のせめぎあいは確かに辛く苦しいものだが、

それを超えてしまうと靄のかかった生ぬるい感覚の中に身をまかせることになる。

頭が働かないので何も考えなくていい、ただ外側の衝動に任せておけばいいのだ。

一番幸運なのは振り返る間もなく後ろからゾンビに噛まれてよくわからないまま感染するというパターンだ。


ゾンビと戦う代表者アリス



そんな妄想をしばらくお腹の中で寝かせていたが、つい先日夫Kに話してみた。

私:「ゾンビが襲ってきたら早々にゾンビになった方が楽だと思わない。
   逃げ切るのは精神的にも身体的にも相当大変だよ。」

K :「でも、誰も死にたくはないんじゃない。」

はっっっ!!

ゾンビはやっぱり死んでいるという認識なのか。

ゾンビになりたくない、というより死にたくないのか。

初心を忘れていた、というかソンビについて考えすぎて頭がこんがらがっているかもしれない。



でも「ゾンビ=死」で本当にいいのか。

たまに多重人格のように、ゾンビに侵された人格が一瞬出てきて主人公を助けるなんてことがある。

そうなると人格感染みたいな話になるのか。

ゾンビになることを恐れて自ら命を断つ者もいるわけで、もしかしたら死より恐ろしい状態なのかもしれない。

自分がなくなるというより、ゾンビという無間地獄に陥るような感じ。

今日の結論は、ゾンビとは曖昧な概念であり、明確に定義づけるのは難しいということ。

なんとなくゾンビっぽければだいだいゾンビなのだろう。

というわけでゾンビ素人の妄想の時間でした。



言わずと知れたゾンビ映画の名作『ショーン・オブ・ザ・デッド』、ゾンビ嫌いでも観れると思うので是非。



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