歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

おもいつき思考的並行世界論

2016年11月18日 | 空想日記
大学生の時に「自分はたった一人で地球に立っているのだ」と実感したことがある。

それまでは言葉で表面的に分かったフリをしていただけだったから、それは衝撃的な出来事だった。

自分でつくったしがらみから解放された気がしてとても清々しい気分になった。

今、当時の実感を掘り起こそうと試みたところで、輪郭すら掴めない。

それでも頭の中に湧いたお花畑のようなイメージは覚えている。



その時から、個という存在の独立性を強く意識するようになった。

頭の中を共有する装置がない限り、皆違う世界に住んでおりその世界は決して重なる事はない。

そう考えた時に、時空を超えなくともパラレルワールドは存在するのかもしれないなんて想像が膨らむ。

いや、「時空」を時間と空間を合わせて考える単なる物理学用語として捉えるのであれば、時空すら超えるかもしれない。

この妄想に「思考的並行世界論」という名前をつけておく。

今のうちに打ち明けておくけれど、私は特にパラレルワールドについて詳しい訳ではない。

何となく知っている情報の上で、曖昧な妄想を楽しむだけ。

頭の体操だ。



一人一人違う世界を見ている、一人一人が違う世界に住んでいる。

つまりこの地球には独立した並行世界が73億個同時に存在しているという事になる。

人間だけでなく、概念から解放された全ての生物の個を思えばその世界は星の数ほどあるだろう。



後づけの辻褄合わせだが、時間の感じ方が人によって違うのは「時空を超える」ためのヒントになるかもしれない。

以前知り合いのヨガの先生のもとで面白い体験をした。

彼女は「ゆっくり目を閉じて、今から5分間瞑想してください。」と言った。

どうやったら瞑想出来るのか分からなかったけど、とにかく体をリラックスさせぼーっとしてみた。

「それではゆっくり目を開けてください」と言われた時、とても驚いた。

というのも、そのとき感じた5分があまりに短かったからだ。

彼女はその場にいた十数人にこの5分間をどう感じたか聞き、中にはとても長く感じたという人もいた。

時計が刻む時間ですら、共有できずこんなにも不確かなのだ。



パラレルワールドには現世界に住む自分とは違う自分が存在しなければならない。

パラレルワールドを題材にした物語では、たびたび他の世界の自分と会ってはいけないというルールが設けられている。

では思考的並行世界論において、同時に存在する私をどうやって理解するべきなのか。

簡単な話、自分で思う「私」と他人から見た「私」は同一人物でありながら、別の存在でもある。

人の捉え方や、自分の振る舞いには一貫性がなく、それゆえそれぞれが持つ「私」のイメージが厳密に重なる事はない。

ある人は「大人しい」と言い、ある人は「やかましい」と言い、ある人は「ミステリアス」と言い、ある人は「分かりやすい」と言う。

それぞれの世界に違う私が住んでいるのだ。

面白いのは、世界が別れているがゆえそのイメージには正解がないと言う事。

それが例え自分を主体とするこの世界であっても。

この場合、他の自分と会うのは難しそうだ。

ドッペルゲンガーに会うと死ぬって言われているけれど、もしかして他の誰かの世界から飛び出した自分だったりして。

そういえば、以前本気で「君のドッペルゲンガーを見た」と言われた事があったけど、なんだったんだろ。



いまの所、パラレルワールドの「分岐し無数に増えていく」という特徴を思考的並行世界論に組み込むことはできていない。

なんか良いアイディアないかな。

タイムスリップも出来ないし、思いつきも甚だしいな。






この分断された世界において、ひとつ興味深いエピソードがある。

私は子どもの頃に抱いた「色」におけるある疑問を何となく手放せないままでいる。

それは「私が見ている色と他の人が見ている色は同じなのか」と言う問題である。

私が青だと思っているこの色は、ほかの人から見たら赤かもしれない。

この疑問は他の人の目から見ない限り解消されることはない。

つまり証明する手だてはないと言う事になる。

このような疑問を抱いたのは、無意識下にある個に対する不安が原因かもしれない。

こんなばかばかしい疑問など誰も取り合ってくれないだろうと思い口にしたことはなかった。

それが大学生の頃、友人にそのことをぽろりと話したときあっさり共感されて驚いた。

とても感慨深く、友人とのつながりを強く感じたのを覚えている。

その後違う友人にも話してみたが、今度はそれに関する新書まで渡されたものだからさらに驚いた。



隔たれた世においても「共感」なんてものは真偽問わず溢れている。

この話が面白いのは、強烈な世界の分断と強烈な共有体験が共存する点にある。

個への執着がみごとに社会へのつながりを強調しているのだ。

内(個)に向かっているはずの矢印が、知らぬ間に外(全)に向いているような不思議な感覚だ。

「個」に向かう矢印は、同時に「全」にも向かっているのかもしれない。

「個」と「全」は対義語だけど、この2つは支点を中心に両極端に置かれたものでもないのかも。
コメント
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