濁泥水の岡目八目

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新島八重と上坂仙吉(会津小鉄初代)、吉本せいと山口登(山口組二代目)は顔見知りだった

2018-01-18 14:22:00 | 歴史談話

 新島八重は上坂仙吉(会津小鉄初代)と顔見知りであったし、吉本せいは山口登(山口組二代目)と昵懇だった。だが現在では、それは無かったかの様にされる。あまりにも具合が悪いからである。会津小鉄も山口組もいまだに存在する暴力団だからである。たとえば新門辰五郎なら出せる。町火消の頭としてドラマに出ていた。でも上坂仙吉と新門辰五郎にどれほどの違いがあるのか、といえばほとんど無いと言ってもいいはずである。二人とも人足達の元締めであった。山口登も港湾人足の元締めである。そして小泉進次郎の曽祖父である、小泉又次郎も同じ稼業をしていたのだ。

 かつては、気の荒い人足達を多数使う建築や運送などの仕事は博徒との付き合いなしには出来なかったのである。なぜ出来なかったといえば、人足達の娯楽が博打だったからである。飲む、打つ、買うと言うように酒と博打は人足達の最大の楽しみだった。買うのはめったにはやれないが、辛い仕事が終わった後に風呂に入って飯を食い、酒を飲みながら寝るまで博打をする毎日だった。規律の厳しい商家や熟練の技能を要する職人はもちろんそんな事は許されない。同じ職人でも鳶と大工は性格が異なる。大工は技能がすべてである。鳶にももちろん技能は必要だが、それ以上に必要なのが腕力と度胸である。鳶は町内の用心棒なのである。落語で大店の旦那がなにかあると「頭を呼んでおいで。」と鳶の頭に相談する。大工の棟梁や庭師の親方を呼んだりはしない。大工や庭師と違い、鳶人足は暴力の威嚇を使えたのだ。だから鳶の頭が頭を下げれば皆言うことを聞いたのだ。断って鳶の頭に恥をかかせれば、配下の鳶人足達から何をされるか分からないからだ。鳶人足は全身に刺青をいれていたし、娯楽は博打である。明らかに大工とは違う。そうした気の荒い肉体労働者の暮らす人足小屋では毎晩博打が行われていた。だから小屋主である人足の元締めは博徒に挨拶をせざるを得なかったのだ。
 博徒は自分の縄張り内で勝手に博打をするのは絶対に許さない。見つければ殴り込んで潰してしまう。博打は博徒の開く賭場でしかやらせないのが原則である。だから人足の元締めはその地域の博徒の親分に頼んで、博打を打つのを許してもらうのである。客を取らない人足だけの「身内盆」なのでお目こぼしを、と頼み込むのである。もちろん謝礼も出す。博徒の親分も挨拶されたら面子も立つのでそれを許したのである。堅気の仕事をしながら、博徒から博打を打つことを許された人々は「稼業人」と呼ばれた。鳶は稼業人であり、初代山口組組長山口春吉も港湾人足達の元締めである稼業人であった。落語「三軒長屋」で鳶の頭が家主に資金集めのために鳶仲間を集めて花会をやりたいと言う。花会とはもちろん博打大会である。その寺銭で金を集めるのだ。鳶が稼業人だからやれるのであって、大工の棟梁が博打大会などやれば博徒に殴り込まれてつぶされるし、その後始末も容易ではないだろう。大工は堅気であるが、鳶は堅気の看板を掲げてはいるが裏社会に半分足を突っ込んでいたのである。かつては博徒の下にそういう稼業人達が多くいたのである。ただ稼業人の方が博徒より強くなる場合もあった。「浮浪雲」の主人公はもちろん稼業人であり、彼が博徒ともめた時には運送人足の大集団が応援に駆けつけて博徒たちを圧倒している。山口登は親の代から博徒大嶋組の配下だったが、盃を返して独立した。博徒なら「誰に食わせてもらった、恩知らずめ。」と言われるが、港湾人足業の稼業人で博打で飯を食っていたのでは無かったからそれほどの義理は感じなかったのであろう。明治になると厳しい取り締まりを逃れる為に、博徒が建設業になだれ込んだという。そうなるとどっちが博徒でどっちが稼業人だか分からなくなるが、彼等の間では見分けが付いたのだろう。時代が変わり鳶の様に稼業人から堅気に専念する者もいれば、山口組の様に博徒を飲み込む強大な暴力集団になってしまう組織もある。
 日本では博打は常に非合法だった。欧米が全く違うのは映画やドラマを見れば分かる。博打は貴族から庶民に至るまでの娯楽である。アメリカでは警官まで仲間内で博打をして楽しんでいる。博打を社会から無くすのは不可能なのだろう。だから戦後には公営ギャンブルやパチンコが許されたのである。日本で博徒が勢力を伸ばしたのは博打が犯罪とされたからである。アメリカの禁酒法時代にギャングが酒を売って大儲けしたが、塩税が極めて高価だった昔の中国では「塩賊」という犯罪組織が塩の密売で大儲けしていたそうである。犯罪であるがどうしても博打をやりたい多数の人々が、博徒を儲けさしていたのだ。そして博徒の影響力は社会の隅々にまで及んでいた。大名は江戸や京都の屋敷内に賭場を開かせて必要な人足達を確保していた。
 上坂仙吉は京都で会津藩の為に人足を供給していた。もちろん会津藩の屋敷内で賭場を開き大儲けしてその勢力を伸ばした。その恩義を忘れずに「会津の小鉄」を名乗ったのである。新島八重の兄である会津藩士山本覚馬は薩摩の捕虜となったが、その知識と人格の高潔さが西郷隆盛などの人々に感銘を与えて明治になっても京都で職を与えられた。会津の小鉄が山本覚馬のもとを頻繁に訪れたのは言うまでもない。京都の兄と暮らしていた新島八重が会津の小鉄と顔見知りだったのは当然である。
 山口登は1940年に、浪曲師広沢虎造の興行のもつれで籠寅組に刺されて重傷を負った。吉本せいの為に仲裁しようとしたのである。映画「三代目襲名」の冒頭はこの場面である。戦前までは稼業人はもちろん、博徒も日陰者とされても社会の中でいる場所があったらしい。博打で食えなくなり、暴力の威嚇のみで生きていかざるを得なくなった人々は「暴力団」と呼ばれてもしょうがないだろう。

 


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