出場すればWツール制覇は確実と思っていたコンタドールだったが、マリア・ローザを獲得したものの、やはりツール・ド・フランスのスタートラインに立つことすら許されなかったのだ。その鬱憤を晴らすかのようにブエルタ・エスパーニャに出場したコンタドールは、1995年にブエルタが開催時期を現在の開催時期に移行してからは初となる、同一年度におけるジロとブエルタの両レースでの総合優勝達成者となったほか、史上5人目となるグランツール完全制覇の偉業を達成することになる。
ジャック・アンクティル、フェリーチェ・ジモンディ、エディ・メルクス、ベルナール・イノーという偉大な選手達の仲間入りを果たしたコンタドールは翌2009年のツールも征し、UCIワールドランキング初代王者に輝いた。この頃のコンタドールには王者の風格があったように思う。しかし、ドーピングの嵐の中でチーム環境がごたつき、この年、一度は引退したランス・アームストロングが同じアスタナに復帰し共にツールを走ることになるが、翌年、自らチームを立ち上げ、主力選手たちを引き抜いて行った。
2010年は多くのアシストを失いながら、アンディ・シュレックとの死闘を征して2年連続3度目のマイヨジョーヌを獲得するが、翌々年の2012年2月にクレンブテロールの陽性が確定しこの優勝は取り消されることになる。
クレンブテロールは気管支拡張薬で、ドーピング禁止薬物ですが、食肉の肥育目的で家畜に使用されることがあり、その肉を食べることでも検出されるケースもある薬でもあり、WADAは2011年の11月20日の理事会で注意喚起をしている。これはコンタドールがクレンブテロールは食肉からあやまって摂取したものであると主張し続けたことに起因している。
2011年はサクソバンク・サンガードに移籍し、3年ぶりに出場したジロ・デ・イタリアでも総合優勝を果たし、グランツール出場機会6連続優勝を果たしたが、後にドーピング違反の出場停止期間中とされ優勝は剥奪となる。CASによる2年間の出場停止の裁定を受け、違反があった2010年のツール・ド・フランスだけでなくこの年のジロ・デ・イタリアのタイトルも剥奪の対象になってしまったのだ。
出場停止が明けレースに復帰したコンタドールはブエルタ・エスパーニャに出場すると、ホアキン・ロドリゲス、クリス・フルーム、アレハンドロ・バルベルデという強豪を相手に総合首位争いをし、マイヨ・ロホを獲得してみせるもピークは過ぎてしまっていた。グランツールもブエルタとジロでの優勝はあったものの、ツール・ド・フランスでは良いところなく引退を迎えている。
そのコンタドールがイヴァン・バッソと共にUCIプロコンチネンタルチームとして「ポーラテック・コメタ」を立ち上げ、今年のジロにもポルティ・コメタとして出場していた。アンドレア・ピエトロボンの活躍も目を引いた。ゴール後に時々映り込むコンタドールには懐かしさを感じた。ジロ最終日にコンタドールから祝福を受けていたマリア・ローザのポガチャルにも王者の風格が漂い始めているように感じる。今回のジロ・デ・イタリアはまさに王者の走りだったのだから。