弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

「悪質ないたずら」か「悪質な報道」か

2011年05月05日 | 言葉/表現
岡本太郎の壁画に原発事故思わせるいたずら
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110502-OYT1T00705.htm

岡本太郎さんの壁画に悪質ないたずら(TBS)
http://news.tbs.co.jp/20110502/newseye/tbs_newseye4714798.html(動画あり)

 僕にはこの「いたずら」で貼られた絵が、「悪質な」意図を持つものだとは到底思えない。むしろ正常な問題意識に突き動かされた真面目な絵であり、これを「悪質」と安直に断ずる硬直した精神、空洞化した思考こそが社会にとって有害極まりない、と直感する。そして行政権力側のそうしたフレージングを、これまた安直に拡散するメディア報道こそが「悪質」である、と考える。


悪質という認定

 そもそもが悪質とか良質とか、倫理の認定をするのは警察の仕事ではない。警察は刑法に従って判断すればいいのであって、対外的には「いたずらと見て」とか、「軽犯罪法違反の疑いで」捜査を開始した、とか言っていればいいのである。実際昔はそうだったはずだ。漠然としか言えないけれど、警察が「倫理」をチラつかせながら街頭犯罪防止などを強化し始めたのは、ここ10年位のことのように思える。
 そう、なので正直な話、警察がここで「悪質」という言葉を出したからといって、僕は驚かなかった。本来許してはいけないはずだが、その問題は今回に始まったことではない。これからも問題にしていくけど、今回はそれより、報道が安直にそれに乗っかること、いや取材対象からわざわざ「悪質」というような言葉を引き出しているのではないかとすら疑いたくなる、そうした報道姿勢の方により恐ろしさを感じるのだ。
 公共のものにいたずらをしたということは、一定の違法行為であるということは僕も認める。多くの人が、おそらく行為者自身さえもが、認めていよう。しかしそのいたずらの絵自体が「悪質」であるか「真面目」なものであるかなど、見た人それぞれの感じ方に委ねられるべきものである。なのに伝える側の立場の人が、なぜ頭から意図も内容も「悪質なもの」と決定することができるのか。これは良心の自由、思想・心情の自由をないがしろにする行為ではないのか。


誰の感情を「逆なで」するのか

 上記のweb上の記事はまだいい。僕が一番呆気に取られたのは5月2日付読売新聞夕刊(紙版)の記事の書き方である。上記のオンライン版記事よりも、インタビューの中身が踏み込んでいる。以下に問題部分を転記する。

 [・・・・]
 壁画は1960年代末、核の惨禍を人類が乗り越える様子を、岡本氏がメキシコで描いた。2008年11月から現在の場所に飾られている。
 同機構(注:「明日の神話保全継承機構」)の小林幹育理事長は「被災者の感情を逆なでし、人間の尊厳を描いた岡本太郎氏の思いを踏みにじる行為。二度と繰り返されないよう急いで対策を講じたい」と語った。
(太字はレイランダー)

 書き写していて指が震える。なんなんだこの俗悪な言い草は?
 いや、まずその前に、この太字部分は、本当に理事長なる男の言った言葉なんだろうか?
 上のTBSのニュース動画では、「時期が時期でしょう。なにか逆なでするような、ね」という言い方しかしていない。これだと「逆なで」されたのは原発事故の被災者とは限らず、単に事故に不安を抱いている一般市民、ともとれる。あるいは理事長の隠れた本音として、「明日への神話」と「原発事故」を結びつけてほしくない(どうしてそう思うのかは知らないが、仮定として)、その理事長や岡本太郎の美術作品に利害を持つ人たちの気持ちが「逆なで」された、という意味にとれないこともない。どれが正解かわからないが、とにかく「被災者」と限定されていない可能性を頭の片隅に置きながら、一応「被災者の感情を逆なで」がメインだと思っておくことにする。
 とすると、放送されなかった部分で、彼はもっとねちねちと語っているのだろうか?あるいは読売の記者には、太字のような明快な調子で語ったのだろうか?あるいは記者の誘導に乗って出てきた言葉を、記者が整えて作文したのだろうか?日頃から死刑問題においても、「被害者遺族の感情」という言葉をこれでもかというくらい安直に使う大新聞の記者なら、いかにもそんな作文はお安い御用だろうと思う、が、ね。
 どれなのか、わからない。わからないけれど、この理事長から読売新聞へクレームが来たというニュースが今のところないので、太字部分はほぼそのまま理事長の考えと合致しているということにする。そうでないことをむしろ願いたいけど、・・・何も証拠がないので。


尊厳を踏みにじっているのは誰か

 その前提で、僕は反論する。

 まず、岡本太郎がこの「明日への神話」によって「核の惨禍を乗り越える人類の姿」を描いたというなら、今まさに起きていてる核の惨禍、原発事故をこの絵とともに想起することの何が間違っているのか。それは、岡本氏自身が望んでいたことではないのか。
 確かに、それをするにあたって、人の絵の上に新たな絵を貼り付けるという手法の是非は、争点としてあるだろう。法的にであれ、ゲリラ的なストリート・アートの手法の問題としてであれ、それは大いに議論してもらって構わない。僕は特にそれについては意見を持っていない。元の作品が傷んだりとか、損害を被るようなことは駄目じゃん?というくらいしか。
 しかし、絵によって想起させる行為が「被災者の感情を逆なでする」などと、なぜ芸術振興に貢献するべき立場の者が、事なかれ行政に都合のいい一方的な「倫理」をかざして言うのだろうか?起きている現実を直視することを拒み、根拠の不確かな官製の安全デマに迎合する形で、こんなワイドショー向けの俗悪なコメントしかできない男が、「人間の尊厳」だと?
 明日の神話保全継承機構・概要
 http://www.asunoshinwa.or.jp/about.html
 それとも、芸術もくそもない、ただの小役人に過ぎないのだろうか?ならば尊厳もくそもない、このくそコメントにも合点がいく。 

 問題の絵は全体の割合の中では非常に小さく、右下の角の方に貼られていた。いずれ剥がされることを想定していたらしく、壁画に一切損傷はなかったという。それだけでも、細やかな配慮に基づいた行為だったことがわかる(元々、四六時中たくさんの人が通行する低い場所に設置されている壁画なんだから、それ相応の損傷対策は施してあるんだろうが)。
 また、元の絵の色彩・描線をそのまま延長する形で描かれているので、大部分の人は気がつかなかったのではないかと思われる。上から異物が貼られていると気づいた人でさえ、すぐに原発の絵だと分かった人はそんなにいないのではないか。いや、じっくり見てさえ、これは原発か?それとも他の何か?──と意見が分かれてしまう、ただ福島の事故が起こった今だからこそ「原発でしょ、これ」と推測できる、その程度に具象的な絵に過ぎない。
 そして何より、絵は岡本氏の色彩・タッチに溶け込むように描かれていて、これを描いた人が絵を学んでいる、基礎的な技術を持った人だということは明らかだ。「明日への神話」のファンではないか、とすら思える。

 反対に、日頃、渋谷駅で「明日への神話」の前を通り過ぎる人の一体何パーセントが、広島・長崎の犠牲者に、またそれ以外の世界各地の核実験・核事故の犠牲者(*)に、また汚染された自然に対して、思いを馳せることがあるのだろう。僕にはその割合が大きいとはとても思えない。「核」に関しては多くの日本人が被害者意識を持つ一方、自分達も原発を持つことで「加害者」であるという意識には遠く至っていない。「いたずら」の絵が目論んだのは、そんな日本人の心に、核の災厄と自分達の日常が抜き差しならぬ形で結びついている、その結び目を示すことだったに違いない。
 「日々雑感」というブログの人が書いていた。「全く違和感無し。むしろ無いと不完全な感じ」。僕もそう感じる。ずっとそのままでいいかどうかは別問題としても、「いたずら」付きのこの絵の方が、道行く人々を「明日への神話」に振り向かせ、これが絵空事ではない、リアルだと受け止める契機となる力を、ずっと確かに孕んでいるように感じる。

 それをこんなにも丁寧に、かつさりげなくやってのけた芸術的な「いたずら」を前に、「明日の神話」のメッセージを全国民に、いや全世界の人々に伝えていくという組織の理事長が、「管理者としてとても困っている」だの「逆撫でするような」などという、被害者意識丸出しのコメントだけでいいのか。
 だいたいが、 「逆なで」して何が悪いのだ?それは芸術じゃないのか?岡本氏の絵は水爆実験をやらかした連中(それは深いところで日本の原子力政策を推し進めてきた連中とつながっている)の神経を逆なでしなかったのか?それでこそこの絵には意味があった、という面だってあるだろうに(あくまで一面、だけど)。


再び、誰の感情を「逆なで」なのか

 それに、よく考えるとわからないのは、損壊し煙を吐く原発をイメージした絵が街角に貼られると、どうしてそれが「被災者の感情を逆なでする」のだろう?ということ。
 まず、被災者は渋谷あたりにはまずいないので、ニュースが報じない限り、その絵を目にすることもまずない。また、仮に目にしたとして、なぜ感情が「逆なで」されるのだろう?新聞・テレビでは毎日、もっとリアルな現場の写真が露出しまくっている。ニュースならよくて、抽象的な絵・デフォルメされたイラストではダメなのか?
 そんな原理があるはずがない。そんな原理があるなら、岡本氏の「明日への神話」そのものが「被災者の感情を逆なで」しているという批判から、最終的には免れ得ないだろう。「時期が時期だけに」、壁画の展示を自粛する考えでもあるのか?(やりそうだから怖い、という話も・・・)
 いや、おそらくないだろう。ないと信じたい。なぜなら、「明日への神話」が核事故の被災者の感情を逆なでする意図で描かれたものだとは、保全継承機構の人たち自身が思っていないはずだから。同様に、虚心でいたずらの絵を見れば、これもまたそういった悪質な意図で描かれたものではなく、むしろ「人間の尊厳を描いた岡本太郎氏の思い」に、これ以上ないくらい丁寧に寄り添うものであることは、「芸術」の素人でもわかるからだ!

 強いて想定するなら、世の中ではテレビや新聞が原発の写真を自粛していて、その上で「悪質な意図にもとづく悪質な絵です」という刷り込みを受けた状態で福島の人にこの絵を見せたとしたら、ほとんどの人はカチンと来る、傷つく、世界を呪う、という反応を示すだろう。しかし、もちろんそんな想定は非現実的もいいところだ。
 逆に「核の惨禍を描いた絵に、原発の絵をいたずらで付け足した人がいたよ」というだけの情報で、ごくごく素直にこの絵の全体を眺めたとしたら、福島の人であっても、必ずしもネガティヴな反応が起きるだろうか?原発を許容してきた人なら「何よ、都会の人がいい気なもんね」とむかっ腹を立てるかもしれない。逆に原発に反対してきた人なら「そういうことだよ、それでいいんだよ」と賛同してくれるかもしれない。もっと多数の人の場合、「あんまり趣味よくねーな」「なんか可愛い絵で面白いかも」程度の薄い反応で終わってしまうかもしれない。で、実は福島以外の人、たとえば渋谷の道行く人の感想というのも、結局このあたりの反応が(残念ながら)一番多いだろうと思われる。
 というわけで、自然な想定をすると、このいたずらの絵が、先にあげた二つ、「被災者の感情」または「事故に不安を感じる一般の人の感情」のどちらにも、「逆なで」というようなネガティヴなインパクトを与えることができるとは思えないのである。むしろ冷静に考えれば、やはり原発を推進してきた、今でも推進しようとしているエスタブリッシュメントの感情を確実に「逆なで」する、と考える方が理に適っている。

 しかし、「明日の神話保全継承機構」は原発推進のエスタブリッシュメントだろうか?そんなはずはないだろう。では、エスタブリッシュメントからスポンサードを受けているんだろうか?僕は知らない。当面、別に知りたくもない。
 なぜならこの場合僕が深刻に思うのは、原発に反対とか賛成とかではなく、芸術を擁護し振興する立場の人間が、なぜ世間の安易なモラルに従うような言葉でしか語れないのか、ということだ。せめてたとえば、
「芸術を重視する人間の一人として、このような表現で社会に何か訴えようとする人の気持ちは分かる──しかし下の絵が傷む可能性もあるし、何らかの相談をしてほしかった」
くらいの言い方が出てこないのか、ということだ。出てこないということは、この理事長なる男は「芸術」とは何の関係もない小役人に過ぎない、ということではないのか。

 岡本太郎が生きていたら、何と言っただろう。破天荒なことが好きだった岡本氏なら、むしろ貼られた絵を「足りないね。小さくまとまってしまっている」とか、「遠慮してるね。僕の絵に負けている」とか、愛をもって批評したのではないだろうか。あるいは「やるなら人の絵の上に貼らないで、反対側の壁に対抗するものをドーンと貼ればいいんだ」と過激なことを言って、周りの人からおいおいとたしなめられていたかもしれない(そこまではない?)。
 僕は正直なところ、岡本太郎という人がそれほどすごい芸術家だったとは思っていない。その作品は要するにパブロ・ピカソの縮小版ではないか、という思いが昔からしている(ファンの人、間違ってたら御免なさい)。
 ただ、彼は「すごい芸術家」でなくても、「芸術家」という名のすごい人だった、日本の常識には納まらないスケールをもって圧倒する人だった、ことは確かだと思っている。若き日にパリに渡り、奔放な精神の重要性を魂で学んできた岡本氏なら、自分の作品をパロディにされたり、コケにされたりすることすらも面白がり、愉しんで喧嘩もしたのではないかと思う。少なくとも、ゲリラ・アートを「悪質」だの「逆なで」だのと言って排斥するようなセコい精神性は持ち合わせていなかったはずだ、と信じる。


「尊厳」のためにこそ

 「明日への神話」に込められた精神に照らせば、この3.11以降の現実を見て、壁画の全面を福島第一原発1号機~4号機の絵に入れ替えて展示するくらいのことをしたっていいのじゃないか?それは芸術家の精神として当たり前ではないだろうか?今それができないということが、人間の心の叫びをエスタブリッシュメントの秩序維持の観点から、「自粛」という道具で巧みに統制する、震災ファシズムの表れなのである。それに抵抗することこそが、芸術に求められているのではないだろうか?
 別に、すべての芸術家がそれをやれ、とは言わない。ただ少なくとも、芸術を擁護し振興する立場の人間が、ワイドショー並みの浅はかな「倫理」の観点から糾弾し、恫喝する──それが芸術行為から最も程遠い行為であることだけは、疑いを入れない。情けない。
 自分は「芸術」で飯を食っているわけではないけれど、表現に携わる者のはしくれとして、この件には黙っていられない。「悪質」との見出しをつけたTBS、「逆なで」という言葉を安易に使った「明日の神話保全継承機構」理事長に抗議文を送ることにする。くそっ、こんなことにエネルギー使いたくないのに。


*ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸の乗組員、大石又七さんが最近書かれたメッセージ。ビキニ事件なんて、遠い教科書の中の出来事のようにしか感じていなかった。今こうして自分が大人になった時代に、こんな形で還ってくるなんて…。
 http://pekin-media.jugem.jp/?eid=1142


追記(5/19)

絵の作者が判明。「Chim↑Pom」というアート集団。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110518/art11051819500006-n1.htm

数年前、広島の空に「ピカッ」という文字を描いて大目玉食らった人達だとか(これについては『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社)という本が出ているそうです)。
同じサンケイに、岡本太郎記念館の館長さんへのインタビューが。「悪質」はおろか、「いたずら」という言葉さえも使わず、フツーなことを語ってます。しかしこの記事、今頃になって掲載というのも不思議なんだけど…

いたずらと切り捨てられない
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110518/art11051807240002-n1.htm

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5 コメント

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爆発しなきゃ日本人 (BLOG BLUES)
2011-05-06 01:39:04
こんばんは。いいエントリですね。もう何が気持ち悪いかって、デオドラント市民社会ですね。岡本太郎は、そんなセコイ価値観とは対極にいた存在だと思う。

エラン・ヴィタール!生の躍動を求めつづけた、ほんものの芸術家だったと僕は評価している。太陽の塔は、傑作ですよ。どこか子供の工作のような、図抜けた馬鹿馬鹿しさがある。

芸術は爆発だ!理事長は更迭だ!
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>爆発しなきゃ日本人 (レイランダー)
2011-05-06 13:21:30
BLOG BLUESさん

そうでしょ、岡本太郎ご自身だったら、絶対こういういたずら好きだったでしょう?「ただし僕ほど面白くはないがね」みたいなことは言いそうでしたが。
「自粛」とか、そういうイジイジした日本人の性質が誰より嫌いな人だったんですけどね…。
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Unknown (還暦じじい)
2011-05-07 09:51:12
ナイスな記事です。
朝日新聞は『 岡本太郎記念館の平野暁臣館長は「福島原発を描いたのだろう。繰り返されたら困るが、単なるいたずらではなく、芸術としてやろうとしたのではないか」と話していた。』また、『骨組みだけの建物から黒い煙が立ち上っているような様子を描いた絵が付け加えられ、福島第一原発の事故を連想させるとの指摘もある。 と原画に傷をつけるものではなかった事も表現している。』と報道している。
「逆なで」されたのは社主を政界に送り込んでまで原発推進を先導してきた読売だからではないかな。
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Unknown (漂瓶)
2011-05-07 22:27:09
むしろ「そんなすみっこにチマチマ貼ってんじゃない!お前の気持ちはそんなもんか!!」って言いそう。

単純に画力のみを考えると実は結構粗が多い人なんですが、創作行為を「営み」として考えてるうえに実践してる本当に稀有な存在だったんだなと思います。

なんというか当たり前のことを当たり前にやってのけた人というか。
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どうもです (レイランダー)
2011-05-09 19:14:27
>還暦じじいさん

はじめまして。
二つの点で、やっぱりなあ、と思いました。一つは、岡本太郎記念館の方では控えめにではあるけど、芸術として理解する観点を出している。「保全継承機構」の組織概要とか設立趣旨とかを読むと、どうも都市計画行政とかの政治の匂いが強くて、違和感を抱いてたんですが、“本山”とも言うべき記念館の方はまあ普通だな、ってことです。
もう一つは、それを朝日は一応は記事に入れている、ということ。読売より朝日がいつでもマシだとは思いませんが、原発に関しては読売は共同正犯ですからね。ただ今回の事件報道に関しては、「被災者感情」「人間の尊厳」云々は読売の見解として出してないことになってますから(読売ってそういうズルイとこ多いんですが)、抗議を送りつける対象にはしませんでした。


>漂瓶さん

同感です。いたずらをしたことじゃなく、絵の内容に不満を述べただろうと思うんです。
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