弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

マーズ・ヴォルタの衝撃-前編

2006年12月05日 | 音楽
 会期末に向けて国会情勢が緊迫している最中ではあるが、あえて(英気を養う意味で)音楽ネタをひとつ。ちょっと硬い文になってますがご勘弁を。

 近年、システム・オブ・ア・ダウンというバンドに出会ったことは、僕のささやかなロック史の中でも相当にエポックな出来事だった。それは、僕の中では終わったと思っていた、もはや新しいものを生み出すことはないだろうと思っていた(失望していた)英米発のロック・カルチャーが、気づかぬうちに新生を遂げていたことを、遅ればせながら知った、というような意味があった。
 そしてつい先月、これまた遅ればせながら初めてレコードを聴いてぶっ飛んだバンド、それがマーズ・ヴォルタ(Mars Volta)である。ついでに言うと、先月、彼らはちょうど来日ツアーを敢行していた。僕は普段音楽雑誌の類は読まないし、友人たちは世代的に最近のバンドを聴かない傾向にあるので、情報に疎い。後の祭りである。さぞ壮絶なライヴだったろう。たぶん、8曲で2時間とか。
 彼らの名前自体は結構前から知っていた。それも去年のシステム・オブ・ア・ダウンのライヴの前座を務めたバンド、という情報がきっかけである。前座といっても、彼らはポッと出の新人なんかではなく、その頃すでに相当なファンを獲得していた人気バンドである。システムのライヴに参加したのは、おそらくメンバー同士の親交がある(リック・ルービンという共通のプロデューサーの存在もある)ということは別にしても、表現者としての連帯の気持ちからだと思う。

 マーズ・ヴォルタは今年の夏に3作目『アンピュテクチャー』を発表しているが、個人的には去年リリースされた2作目『フランシス・ザ・ミュート』(「唖のフランシス」)の方が、初めに聴いた方だけに、とにかく衝撃は大きかった。今回はとりあえずこの2作目を中心に紹介したい。
 一応ジャンルとしては「ミクスチャー」とか「エモ」とか「エクストリーム」とか、まあ今風のへヴィーなロックにつけるカテゴリー名はなんでも当てはまるのかもしれないが、よくわからないし、僕にはどうでもいい。
 年季の入ったロックのリスナーなら、「プログレっぽい」と必ず言うだろうが、僕に言わせれば「っぽい」のではなく、これこそがプログレなのである。1曲が複雑で長いとか(たいてい10分を超える──最も長い曲は32分強!)、変拍子を多用しているとか、歌も含めて演奏がバカウマであるとかいう、「いかにも」なことばかりではない。世界が崩壊するような大音響から・かすかな衣ずれの音にいたるまで、(ライヴの)本能に任せたような狂おしい即興演奏から・計算され尽くした歌詞カードのデザインにいたるまで、聴き手の意識の底にまで確実に侵入しようとする挑戦的な表現姿勢、それを貫く真摯さが、「プログレッシヴ」の名に恥じないものなのだ。
 確かに楽曲的にはキング・クリムゾンの影響を強く感じさせる部分がある。ピンク・フロイドの「エコーズ」なんかを髣髴とさせるところもある。あるいはツェッペリン的なヴォーカルの絡みつき方や、超パワフルで骨太なドラムもある。かと思えば、哀切なフラメンコかアンデス民謡のような節回し、掃き溜めの酒場に流れるサルサまでが、渾然一体となっている。
 そこにはメンバーたち、とりわけ中心人物である二人──ギターのオマー・ロドリゲス(写真右)、ヴォーカルのセドリック・ビクスラー(同左)(マーズ・ヴォルタはこの二人+バックメンバー、という形式のバンドである)──のチカーノ(メキシコ系米国人)としての背景が見える。ビクスラーの書く詞は、曲名も含め、スペイン語と英語のチャンポンである。それは実際、彼らがそんな風にバイリンガル的に育つ環境にあったからだろう。

 彼らの出身地はテキサスの西の外れ、リオ・グランデ川の北部上流でメキシコと国境を接する街、エル・パソ。川を挟んだメキシコ側には、シウダー・フアレスという都市がある。ここは人身売買組織などの暗躍により、女性の失踪者が後を絶たないという問題をめぐって、アムネスティーが徹底調査を当局に求めていた街だ。メキシコ側のヤバイ組織は、当然アメリカ側のその手の組織と手を組んでいる(というか下請けみたいなものか)。

  これが人生というもの
  ミランダの娘
  名字を変えられた
  これが人生というもの
  深く考えずに
  おまえは母のない子を作ろうとしている

  「L’VIA L’VIAQUEZ」(訳 永田由美子)

 同じ背景の話はレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンの「MARIA」(拙訳参照)でも歌われていた。ナオミ・クラインが『ブランドなんか、いらない』で告発した、多国籍企業による搾取労働の実態に基づいた歌である。言うまでもなく、作詞者であるザック・デ・ラ・ロッチャはチカーノである。
 レイジはもちろんのこと、アルメニア系のメンバーで結成されたシステム・オブ・ア・ダウンにしろ、サンディエゴ出身のパール・ジャムにしろ、ここ10数年のロックの最も戦闘的なスタンスがロンドンでもニューヨークでもなく、アメリカ西部方面から現れていることの意味は、メキシコとの関わり抜きには考えられない。メキシコは、都市部においては(見せかけの)第一世界、だがそれを包み込む全体は第三世界という、グローバリゼーションの虚実をそのまま体現したような国である。この矛盾が、合州国内の第三世界への「照り返し」になっている。多くのアーティスト、とりわけマイノリティーのアーティストはこの「照り返し」を受けて奮い立つ。マーズ・ヴォルタもまた、エル・パソという、第一世界と第三世界にまたがるような街にあって、この「照り返し」を全身に浴びながら生まれたバンドのひとつと言える。
 しかもこれらのバンドはその個性的な活躍で、マイノリティーの共同体内部どころか、全米的なセールスを記録するまでに支持を得ている。このもう一つのアメリカ、「プログレッシヴな」アメリカの姿は、日本の大手メディアが紹介したがらない類のものだが、最近それを嫌でも無視できなくしたのが、マイケル・ムーアの映画の成功という「事件」だった。ただロックに関しては、まだまだ本当の状況が黙殺されているか、あるいは気づかれていない。

 それにしても、・・・レイジの「MARIA」(1999年)とマーズ・ヴォルタの“ミランダ”(アルバムの物語中の女性の主人公)─(2005年)の間には、単なるムードの違いや、表現手法の差、という以上の隔たりを感じてしまう。それはやはりこの間のアメリカ社会が経験したものの差──レイジ全盛の頃の社会運動の高揚感が、「9.11」でへし折られ、終わりのない「対テロ戦争」へとなだれ込んでいった──時代状況の差、なのだろうか。
 ベトナム戦争の頃のドアーズ(ビクスラーは詩作の面で間違いなくジム・モリソンを意識しているが)にだって、こんな重さはなかった。パティ・スミス・グループの『ラジオ・エチオピア』だって、もっとはるかに陽気でファンキーだった。『フランシス・ザ・ミュート』の重さは、アメリカの文化がかつて持ったことのない重さを抱え込んでいるように、感じる。少なくともそう感じさせるくらい、ただごとではない迫力を持った作品であるのは確かだ。
 だがその重さとは、単に葬式のように沈痛で重苦しいのではなく、何か別種の生命がみなぎっている重さでもあるのだ。  (後編へ続く)

 公式サイトはこちら。「VISIT OUR MYSPACE」から、myspacemusic提供のサンプルが数曲聴ける(ダイジェスト・ヴァージョン)。日本発売元ユニヴァーサルのホームページはここ

  


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