弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

藤波心と宮崎駿の適当・不適当

2011年03月30日 | 言葉/表現
 ミクシィのニュース経由で知った。なんて頭のいい女の子だろう。自分が中2の頃なんて、もっと頭が悪くて、多勢に流されがちだった。
 
 中学生アイドル藤波心の主張が話題に

 これに全面的に共感できるということは、僕は中2レベルということかもしれない。いいだろう、一生中2レベルでいよう。何も問題ない。
 ただ、「反原発のジャンヌ・ダルク」なんて持ち上げ方は、無益なのでやめてほしい。「反」原発という言葉が今では悪意のバイアスで染まっているし(「脱」原発と言うべき)、彼女の考え方は本来なんら特殊ではない、一番現実的で自然な人間の発想であるはず。それに、ジャンヌ・ダルクは救国の英雄かもしれないが、脱原発は地球規模のイシューである。


 心ちゃんにひきかえ、宮崎駿にはちょっとがっかりした。
 日経新聞に掲載されたジブリの新作記者会見を伝える記事によると、氏は「放射能の前線に立っているレスキューや自衛隊員や職員のことを思うと、その犠牲に対して感謝と……、誇らしく思います」と、心情を表したという。また、「文明論を軽々しく語る時ではない/敬虔で謙虚な気持ちでいなければならない」、別の言い方では「(今は)文明論的に高所からいろんなことは語りたくない/死者を悼むところにいたい」と語ったという。

 宮崎駿監督「映画が支えになってくれたら」

 前者については、僕は昔からこだわっているのだが、「誇り」という言葉は他人の行為に対して捧げる言葉としては不適当だと思う。また「隠された被曝労働」のエントリーでも触れたように、彼ら「放射能の前線に立っている」人達が被るリスクに、「誇り」などという美辞(少なくとも僕はそう考える)をあてることも、やはり不適当と感じる。
 さらに言うなら、彼ら「前線」のすぐ背後には、30kmの「自主避難」圏の市民が、その後ろにはさらに多数の市民が残っているわけだ。彼らと「前線」の間に放射能を妨げる物理的な境界などない以上、被曝のリスクという点で延長線上に並んでいる人達まで射程に入れて、それでも「誇り」などという言葉が使えるのか、という疑問が沸く。
 好意的に推測すれば、おそらく氏は、犠牲、感謝、…という、引き裂かれた胸の内を表した後に何と続けていいか、そのいたたまれなさをどう表せばいいか、思い浮かばなかったのだろう。
 それなら「…なんと言っていいかわかりません」と言えば良かったのだ、と思う。僕なら「怒り」という言葉を使ってしまいそうになるが、宮崎氏にもそう言ってほしい、わけではない。ただ氏に望むことは、氏にもあの動画(「隠された被曝労働」)を観てほしい、ということだ。

 後者については、「今は」そうしたい、という氏の気持ちはよくわかる。時を経て、自分の中で醸成して、何らかの形になるまで、べらべらと語りたくないという態度には、むしろ親近感を覚える。映画監督はそれでいいと思う。
 だが、それを一般論にまで拡張されたら黙ってはいられない。氏がそうしている、と言うつもりはないが、結果としてその発言に世間の耳目が集まる人物、特に「文明論」に関して一家言も二家言も持っているであろう宮崎氏がそれを言うことで、あたかもすべての日本人が「今文明論を語るのは不適切」あるいは「文明論を語るのは上から目線」である、みたいなメッセージが(伝わる人には)伝わってしまう。もしかしたら記事でそうなっているだけで、会見現場ではもう少し言葉を尽くしているのかもしれないが(あんまりそういうことをする人とも思えないが)、その点、どうしても不満である。
 僕は現在でも、事態が落ち着いた後でも、どっちだろうと脱原発の文明論を語るべきだと思う。なぜなら、日本の支配的な雰囲気は、今もって「事故は許せないけど原発はあっても仕方ない・・・」というものなのである。その形勢が逆であれば、まだしも安心して「今は文明論は控えよう/それより一人でも多く犠牲者を減らすには…」という方向にのみ、考えを向けていられるだろう。だが今はそうなっていない。こんな事態になって、あんな犠牲をあの人達に強いて、まだ目が覚めないのか!?と言いたくなる現実なのである。
 また「事態が落ち着く」のは、一体いつなのか、という問題がある。高レベルの被曝を覚悟で自衛隊員や消防隊員や作業員が立ち働いている「今」というのがいつ終わるのか、誰も確定的なことは言えない。数ヶ月後なのか数年後なのか・・・その間、ずっと文明論を控えていろというのか。冗談ではない。次の原発震災が間近に迫っているかもしれない、というのに(文明論はさておき、とりあえずは全国の原発を早期に停止ということになるなら、ありがたいのだけど)。

 ただ、ひとつ気がついたことがある。もしかしたら氏は、「崖の上のポニョ」で水没した町を奇妙な明るさで描いたことへの、一種の呵責の念のようなもの(あくまで「ようなもの」、としか言いようがない)を感じているのではないか。先週日テレで放映されたジブリの特集番組でも、被災者への配慮か、一番直近の作品で興行収入も一番であった「ポニョ」からのシーンが、ほとんどカットされていた。
 もちろん、そんなことは何ら監督が気に病むべきことではないと、外の人間は言うだろうが、作った本人にしてみれば、あの「ポニョ」の世界観に続けて自分が文明論を語ること──それではまるで脳が液状化したあの知事の「天罰」発言と一緒だ!──への抵抗があったのではないか。
 そうしたこともふまえて、氏が個人として「今は」語りたくないと思うのは、他人がとやかく言える筋合いではない、その意味では「適当」だと僕は思う。

 そしてもう一つの、「文明論的に高所から語る」ことへの抵抗ということでも、やはり氏がその作風においてそう批判されてきたきらいがあることの、本人としての引っ掛かりゆえに、という面はあるような気がする。だからこれもまた、個人レベルの問題として、「今までの語り方をそのまま延長して、この原発震災を語れるのか」という問いを自らに課しているのなら、その限りにおいて、人がとやかくいうことではない、気がする。

 だが僕は僕だ。僕は宮崎駿ではない。
 僕は高所からだろうが低所からだろうが中所からだろうが、語るべき文明論は断じて語る。第一、僕からみれば、今までずっと「電力を作ってやってるのは私たちなんだよ─そのおかげで豊かな文明があるんだよ」と高所から語ってきたのは電力会社や推進派の学者たちである。その高き楼閣がガラガラと崩れていこうとしている今、やっとまっとうに大地の上で議論ができる、その議論を多くの人が同じ高さで目撃できる、だからこそ!と考えるのは不謹慎なのだろうか。
 いや、決してそうは思わない。今決着をつけずに、未来の犠牲者を増やすほうが、掛け値なしに不謹慎だ。僕はそう考える。

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