弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

王様は裸だ、僕も裸だ

2008年08月03日 | 言葉/表現
 前々回、鳥居正宏氏の多神教と一神教 ― 仏教は一神教ではないでしょうか? ―という文章に疑念を呈するエントリーを掲載した(元は先方ブログへのコメント投稿を予定して書かれたもの)。
 鳥居氏のその文章の主旨は、題名のとおり、仏教はキリスト教やイスラム教などと同じく、広い意味で一神教の原理を有しているのではないかということと、それらより先行する多神教の自然に対するまなざし、宗教としての大らかさなどに学ぶところがあるのではないか、という2点である。僕はこれに対して、前者については氏の粗っぽい「一神教の定義」にまつわる疑念がある──けれどまあ別に構わない(あまり興味のわく議論ではないので)、後者についてはむしろ共感する、という立場で意見を書き始めた。しかし、一番の動機は、氏がイスラエル/パレスチナ問題を、一神教のネガティヴな側面が引き起こした宗教問題であるかのように述べているくだりに対して、どうあっても納得できない気持ちになったことであるので、そこはきっぱりと反論した。それが前々回の鳥居正宏さんの「多神教と一神教・・・」に異議がありますである。
 これに対する鳥居氏の返答はすぐさま来た。すぐさま来るとは思わなかったので、僕が気づいたのは3、4日後だったが、彼は僕がエントリー掲載を知らせた7月26日に、すでに「問題点の整理」と題した返答を掲載していた。僕が地元の飲み会に遅れることを気にしながら(笑)慌ててエントリーを書き上げたのが午後8時20分、掲載を知らせるコメントを送ったのが8時35分、対して鳥居氏の返事は午後10時19分。2時間と経っていない間に、ということになる。
 早く返事をいただけるのは、もちろん相手に感謝すべきことなのだが、その中身がどうにもピント外れ。確かに形の上では「整理」になっていないでもないのだが、人の言っていることを、ものすごく大づかみにしか捉えていない(これは後にわかってきたのだが、このコメントだけの話ではなかった)。それに加えて、元のエントリー同様、随所に飛躍の混じった「多神教優越説」を、これまた大づかみに述べ立てている。
 この人は一種の××××ではないか──という危惧を思い切り抱きつつ、物々しい×××の由来に期待を抱きつつ、僕は自分の疑問に思うところを素直にコメントでぶつけてみた。下に掲載するのがその文章である。内容としては最初に書いた反論(異論)と何も変わるものではなく、言葉を変えたり、もう少し詳しく書けば、僕の言いたいニュアンスまで氏に伝わるだろうという期待を込めて「書き直した」ようなものである。
 この中では、部分的に言葉の足りていないところがあることは自覚している。これは、鳥居氏の元エントリーや7月26日の返答を前提に、述べ方を単純化してしまったようなところだ(たとえば、一神教は必ずしも開祖と「同じ宗教体験」ができなければならないとは言っていないということ←→しかしいわゆる「悟りの境地」というのは、その「同じ宗教体験」を求めることではないか、という視点については書き落としている。)
 なので、文脈を押さえずにこの文章だけとして読むと、どうしても不完全な姿になってしまうのだが(そもそも今こんな形で自分のブログに載せようとは思っていなかったし)、あえて加筆はしないで元のコメントのまま掲載する(明らかな誤字・脱字は修正、最初の本論と関係ない部分は省略)。削除されていなければ(笑)、向こう様にも同じ文章が掲載されているはずである。面倒なお願いで恐縮だが、これを読む人は、できるだけ鳥居氏の書かれた方にも目を通しておいてもらいたい。その方がわかりがいいはずなので。

「お返事ありがとうございます」

「問題点の整理」と題されたこのたびのコメントですが、確かに、ますますおかしなところがはっきりしてきたように、僕には思えます。

 まず、一神教が「歴史的に実在の人物」によって始められたのに対し、多神教は(エントリー中では)「自然発生的」とおっしゃっていますが、これはレトリックの問題に過ぎないと思います。
 雷が落ちて、木が裂け、炎が出た。それを見て「畏怖」の感情を抱いたのも、歴史的に実在の人物です。長年に渡ってその畏怖が人々に共有されてきた挙句、徐々に「神」として祭る宗教的な形態を編み出していたとしても、そこにはその都度人間の関与があったわけです。「自然発生的」という言い方をすると、いかにもそこに人為が入り込んでいないように聞こえますが、そんなわけは絶対にない。
 多神教を編み出した「歴史的に実在の人物」が存在しないように見えるのは、それが「歴史」以前の太古の出来事だったから記録に残っていないということに加え、特に有力な1人ではなく、何となく大勢の人間が何世代にも渡ってようやく今で言う「宗教」の形式に整えていったからでしょう。
 太古であり、文字文化の発達以前であるがゆえ、経典のような形で残されづらいということ。裏を返せば、一神教の成立には文字文化という背景があったのでしょう。文字を介して、それまでにはなかった深い思索が可能になった面があるのだと思います。また、鳥居さんは盛んに多神教と自然との結びつきを言われるけれど、太古の昔であれば、条件としてそれだけ濃厚な自然に囲まれていたのですから、当然と言えば当然です。対してセムの一神教の成立地である北アフリカ~メソポタミアは、世界でもっと最も早く都市文明が発達したところです。自然と距離を置くようになった人間の中で生まれた宗教である、ということですね。
 だからこそ、宗教としての基本的な発生構図は、どちらも同じではないか、というのが僕が反論で述べたことです。一神教では、確かに1人の開祖の啓示や悟りが前面に出るわけですが、社会の側にそれを受け入れる下地が十分にあってこそ、つまり似たようなことを感じ・考える人が潜在的にたくさんいてこそ、宗教として成立し、広めることができる。その意味では、一神教だって「自然発生的」だと。

 後にそれをさらに広めるために教団が設立され、権威を高めるために権力と結びつき、異教徒を暴力的に屈従させるようなことが行なわれるとしても、それは一神教だから原理としてそうなる、のとは違います。歴史上そのようなケースが一神教によって行なわれてきたのは、単純に「歴史」時代以降は一神教がそれだけ広まって、力をつけていたからで、「歴史」以前には多神教だって似たような権威志向を持って人々の上に君臨していたはずです。

>「民主主義」という政体は、古代ギリシアが「多神教の世界」であったからこそ、発明されたのです。

 そうでしょうか。アテネの市民は異郷から連れてきた奴隷たちを省みず、神々と交信できるのは自分達だけだという一種の選民思想に酔っていたのではないでしょうか。「ホメーロスやヘシオドスに語られる、「天上での神々の会議」を、そのままそっくり人間世界に移植しただけのもの」が民主主義だなんて、いくら何でも・・・・むしろそれ以前から脈々とあった、共同体の素朴で民主的な運営方法の慣習が、ホメーロスらの文学に反映したのではないでしょうか。
 本題から外れるのでこれ以上はやめておきますが、たとえばアニミズムのシャーマンである卑弥呼はエキセントリックな暴君だったかも知れない、ということもあります。これらはしかし、多神教自体が問題なのではなく、宗教を利用する政治の問題です。逆に一神教の場合、唯一絶対の神を垂直に置くことによって、人間はみな平等であるという思想を萌芽させ、育てるきっかけになったようなところがあるかも知れません。だけど、そんな思想を踏み潰そうとする一神教の権力者はいくらでもいた(いる)わけで、それも結局は政治の問題です。
 宗教の問題と、宗教を利用する政治の問題を分けて考える必要があると思いますが、鳥居さんの書かれている中では、どうもそれがごっちゃになっていて、都合のいいところだけ多神教に牽強付会しているように思えて仕方ないのですが。

 さらに納得がいかないのが、一神教の開祖たちの宗教体験は彼ら「だけ」のものであり、その体験を普通の人間が共有できないということ、なおかつ、それゆえ一神教は「科学的ではない」という部分です。
 開祖の宗教的体験、たとえば天使の訪問を受けたとか空を飛んだとか、その他もろもろの空想じみた経験を、普通の人間が同じようにできなければならないという「教義」が、一神教の聖典に書かれているなんて聞いたことがありません。ただ、開祖らのその体験を「信じよ」と書かれているだけではないでしょうか?今日、何十億もの人間はその「信じる」ことによって体験を共有しているだけではないでしょうか。
 また、宗教的体験とは、そのようなアクロバティックな経験だけを指すのではなく、宗教を通じて人生の意味を知るとか、死の恐怖を和らげるとか、命を慈しむといった行為全般につながるようなものを指すのではないでしょうか。その意味では、多くの一神教の信者は、日々それらを学ぶ機会を、彼らの宗教を通じて持っていると思います。

 また、宗教を論じるのに「科学的でない」などという言葉が出てくること自体、驚きです。宗教の本質は、科学とは一線を画するもののはずです。科学的に説明がつくなら、それは科学的なのではなく、単に「科学」です。宗教ではありません。
 多神教の方が「自然の理に適っている」としたら、それはそのような一種の自然科学だということです。僕はそのような自然科学が好きです。でもその自然科学が、じゃあなぜ鳥居さんというかけがえのない個人がこの世に生を受け、そしてやがて絶対に死ななければならないのか、説明してくれますか?
 宗教とは、そういうことに答えるために生まれたものではないでしょうか。その意味で、多神教は多神教の、一神教は一神教の深い思索の歴史というものが積み重ねられてきました。それらはどちらも、人類の財産ではないでしょうか。


 長々と失礼しました。まだ言い足りているわけではありませんが、長く書いても問題をいたずらに広げるだけかも知れませんので、ここらでやめておきます。

 最後にイスラエル/パレスチナ問題に関して。

>私は、パレスチナ問題を宗教の視点からのみ述べました。

 二つ言います。
 一つは、パレスチナ問題を、宗教の視点からのみ述べるのであれば、本来「問題」など存在しない、ということ。ブログにも書きましたが、パレスチナではイスラエルの建国以前、一神教の三派が平和に暮らしていました。パレスチナ人なら誰もが知っているこの現実を無視するのは、宗教の視点ではなく政治の視点によるものです。そのような視点をばらまくことは、有害です。
 二つに、宗教の視点のみを考えても、「一神教どうし」の抗争という捉え方は間違っています。ユダヤ教徒のすべてがイスラエルの建国を推し進めたシオニズムを肯定しているわけではなく、まさに「ユダヤ教の宗教的原則から」反対するユダヤ教徒もいるからです。創価学会が仏教のすべてを代表しているわけではないのと一緒で、イスラエルやそのシンパがユダヤ人のすべてではないのです。

 という文章を、7月30日にコメントした。すると、またしてもその日のうちに(約3時間後)手早い返答が返ってきた。手早いのはいいのだが、この返答というのが・・・・それまでのものにも増して、ひどい問題を露呈していた。
 正直に言う。僕はこの話を書くのが××である。非常に×××××し、非常に××××××。しかし、ここで出会った問題をうやむやにしてしまったら、何のために表現活動を行なっているのか分からない──そんな気もする。
 個人攻撃は望んでいない。鳥居氏のことを貶めたいのではない。彼は彼の書いたことで勝手に貶められているのだから、僕がそれをする必要はないのだ。
 僕はただ、僕の生き方のこだわりを、自分として検証し、もう一度選び取るために、いくつかの作業をする必要に迫られている。ちょっと大げさかも知れないが(いつも結構大げさだが)、この議論にもなっていない議論の中で、自分にとっての肝心な問題をすくい取っておきたい。そんなところだ。
 他にも書きたいテーマがいろいろあるので、スムーズにははかどらないと思うが、何回かに分けて書いていくつもりだ。

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8 コメント

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そんなバカな (月の子)
2008-08-09 15:04:06
どれどれ、と鳥居某のブログをのぞいて、お二人のやりとりをのぞいてみました♪
パレスチナ問題については冷静なレイランダーさんに譲るとして、鳥居某のキリスト教に関する記述のデタラメの根拠を示すよう彼のブログにコメントとして送りました。

鳥居某の記事にはパウロが西暦200年頃にアテネを訪れていた、という記述があるのですが、パウロが58年頃にローマによって処刑されてるのはキリスト教世界では初歩的常識。その記述について典拠を聖書にしているところからして、この鳥居某なる人物は、キリスト教を全く知らないのみならず、古代文書を読む際の前提を知らないとゆうことでしょう。あれは学者ずらした偽物ではないでしょうか……。
自分としてはパウロ先生が200年まで生きていたと信じていたい、ならば理解できるんだけどね。
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名誉毀損で申告しました。 (鳥居正宏)
2008-08-10 21:40:07
当記事の内容と、礼儀を知らない不躾な「月の子」さんのコメントは、私に対する名誉毀損としてgoo事務局に申告いたしました。

ブログという、不特定多数者の閲覧する媒体で、個人に対して(しかも私の場合「鳥居正宏」は実名ですから、その実名を名指しで)批判されることは、事実・虚偽を問わず、立派な名誉毀損罪にあたります。

私のブログでの論議に負けたからといって、悔しまぎれに自分のブログで私に対して名誉毀損とい「犯罪」行為を行われることは、男らしくない。常識や人間性を疑います。

それに、私のブログに、挨拶もなしにいきなりイヤミのコメントをよこされた「月の子」氏の常識や人間性、親の躾も疑います。

この「弱い文明」は。学識も常識もない、礼儀知らずの人たちの吹きだまりでしょうか?

今回は、goo事務局への申告にとどめておきますが、繰り返されるようでしたら、警察へ告発をいたします(名誉毀損罪は、刑事・民事両方にわたる犯罪です)。

レイランダー氏は、法律の一般常識すらご存知ないのでしょうか?

学識も常識もないのに、その自覚すらなく、研究者に議論を挑むバカな間が、いったいどこに居りましょうや。
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なんだかねえ (レイランダー)
2008-08-11 05:45:12
月の子さん

パウロ云々の話は気づきませんでした。言われてみると、確かに変ですね。
一連のやり取りの中で出てきた鳥居氏の言説には、他にも「んんん?」というところがありました。ただ、僕は基本的に、それを学術的問題として「論争」なんかするつもりはない。そんな技量も暇も、そもそも関心もないことを最初から自覚してますから。ただ、氏の物の書き方があまりに粗雑で、こぼれ落ちている現実が目に余る箇所もあるように感じたから(特にイスラエル/パレスチナの問題について)、それに注意を向けたまでの話で、たとえば宗教学の問題について、氏が言うような「論争」を挑んだ覚えなんかないんです。
その辺のことをこのエントリーの続編で書くつもりだったんですが、どうもとっとと書かないもんだから、向こうさんも余計に疑心暗鬼になっているようで・・・。

鳥居さんにはメールを出しておきました。返事次第で、対応を考えようと思います。
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なんだかねえ02 (月の子)
2008-08-11 10:42:07
余計なコメントをしたばっかりに、お手間をとらせてしまってごめんなさーいm(_ _)m

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>なんだかねえ02 (レイランダー)
2008-08-11 19:05:08
いえいえ、お気になさらず。元々自分で蒔いたタネだし、月の子さんのコメントがなくても結果は同じだったと思います。
しかし、メールの返事は早速もらったんですが、いわゆる「取り付く島もない」というやつで。それで困るというほどでもないんですけど、もしかしたら個人的にご相談することがあるかも知れませんので、よろしく。
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なんだかねえ03 (月の子)
2008-08-11 23:42:59

わたしなりに、宗教部門で「あれれ?」と思うところは議論しようと思ったのだけれど、ダメでした。さっきも、コメント書いたけれど、受け付けてくれなかったー。ワシの操作が悪いのか?

相談はいつでもどうぞ♪ 
るるる~♪
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私は天然ボケですか? (鳥居正宏)
2008-08-12 21:54:19
レイランダーさま
こんばんは。

鳥居正宏でございます。

レイランダーさんは、神学や神話学、宗教学を学ばれたのでしょうか?

私は、大学で神学(といっても、哲学講義でのアリストテレスの神学と、神学概論での東方正教会の神学ですが)、それに古代ギリシア神話学と宗教学を学びました。

私から見ると、レイランダーさんのほうが「天然ボケ」に見えますし、月の子さんのほうが「にせもの」に思えます。

人のことを簡単に「天然ボケ」や「にせもの」と決め付けられるのはいかがなものかと。

はたして、月の子さんは、私の事を社会民主党大阪府連合や、アムネスティ・インターナショナル、ギリシア民族宗教者最高評議会に問い合わせた結果、「にせもの」だと断定されたのでしょうか?

何をもって私を「にせもの」だと断定されたのか!

念のため、本日、この記事内容と、月の子氏のコメントについて、名誉毀損罪が成立するかどうか、大阪府警察本部に相談いたしました。答えは「あなたがお望みならば、所轄の警察署で捜査をして、名誉毀損罪で挙げることもできる可能性は高いでしょう」というものでした。

しかし、私は、現段階では、警察権力などには頼らずに、goo事務局とこのブログ管理者のレイランダーさんの良心を信じています。

2008年8月12日

鳥居正宏 拝
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鳥居さん (レイランダー)
2008-08-13 00:44:45
「一種の天然ボケ」ではないかという危惧を抱いている、と僕は書きました。
その危惧は、まあまあ当たりだったと、いよいよ痛感しています。
といっても、僕にとって、また世間一般においても、「天然ボケ」という言葉はそんなに悪いイメージの言葉ではありません。むしろ「天然なんだから罪がない」「あっけらかんと我が道を行ってる人」というニュアンスで用いられことが多いわけです。だから、人によっては誉め言葉と受け取る人だっているはずです。
嘘だと思うなら、周りの人に聞いてみてください。人を馬鹿にしてもいますが、同時に結構温かみのある言葉だと思います。
もちろん、言葉は文脈によっても変わります。で、僕の上の文章内ではどうだったか。これは読む人の判断に任せる他ありませんが、一応僕の気持ちとしては「天然ボケだったら、同じことを書いても結局こっちのニュアンスを汲んでもらえないかもしれない・・・でも、そういう面があるにしたって、ちゃんと書けばわからない人じゃないだろう」と、大体こんな感じでした。
そして、こういうことを一々説明しなければならないというあたりが、「一種の天然ボケ」の証明ではないかと、今思うわけです。それはパーソナリティの話であって、大学の教養課程とか肩書きとか(もう何回も聞きましたよ…)、そんなこととは関係ない話です。

でも、それがわかってみても、あなたにとって言われて嬉しくない言葉だということに変わりはない、そう言われたら仕方ありません。「言われて嬉しくない言葉」は、他にも僕は言っていると思うのですが、この「天然ボケ」が特にそうだ!というなら、もう謹んで謝罪するしかありません。

傷つけてしまってごめんなさい。これからこの言葉はあなたの前で口にしません。

どうでしょうか?


では、今度は僕の方からお聞きします。
たとえば前回のあなたのコメント中、僕と月の子さんに対してあなたが投げた言葉を列記してみます。

「悔しまぎれ」「犯罪行為」「男らしくない」「常識や人間性を疑う」「イヤミのコメント」「親の躾を疑う」「学識も常識もない、礼儀知らずの人たち」「一般常識すらご存じない」「研究者に議論を挑むバカ」

そして今回のコメントでは、
>私から見ると、レイランダーさんのほうが「天然ボケ」に見えますし、月の子さんのほうが「にせもの」に思えます。

僕と月の子さんが書いたのを合わせたより、誰がどう見たってあなたの方が「名誉毀損」と呼ぶにふさわしい言葉を使ってらっしゃるんじゃないでしょうか。
そんなことにも気づかないくらいだから、ますます一種の・・・、すみません、やめます。あぶないあぶない。

しかし、ここまであなたが落ち着きを失うほどに逆鱗に触れてしまうとは、まったくこちらの本意ではありません。
当エントリーで「今後何回かに分けて書いていく」としましたが、僕がそこで書きたいと思っているのは、あなたという個人に対する批判ではないのです(メールでも説明しましたが)。ただ、今のままだとどうしたって読む人は、僕とあなたとのやりとりとの関連を意識してしまうことは避けられない。
そこで、まずエントリーのタイトルから「-1」を取ります。そして、僕の中であなたとのやりとりの中で浮かび上がってきた問題意識については、少し時間を置いた後、まったく関連がないような形でポツっと書こうと思います。もちろんそれだけでなく、あなたという個人の名前は出さないし、個人への直接の批判というスタイルは取りません(後者は、最初からそのつもりだったんですけど)。
別に「妥協」だとは思ってません。僕にとってもその方が問題点がスッキリしていい。

僕にできることはここまでです。これをもってしても、まだ「名誉毀損」行為を僕がこれからも仕掛ける意志があるなどと怯えるようでしたら、もうどうしようもありません。大阪府警にでもFBIにでも、どうぞご自由に。
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