Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

「超国家主義の論理と心理」の目立った点~森友学園問題に寄せて

2017年03月10日 | 平成日本の風景

 

 

 

 

 

 森友問題にはため息をつかせられる。教育勅語自体はいいものだ、という開き直りにだれも明確な反論を言わない。この問題を追及して安倍政権に打撃を与えるには、もちろん、法的に追求できる問題、払い下げの違法性を問題にするべきだ。だが、この問題は、日本人の内面の暗闇を浮き彫りにしたようにわたしには見えてならない。

 

 ここでちょっと大変なのだが、丸山眞男の名論文、「超国家主義の論理と心理」を読んで、日本の真の病理は何かを突きつけてみたい。

 

 


 

(以下引用文)--------------

 

 


 まずなにより、我が国の国家主義が「超(ウルトラ)」とか「極端(エクストリーム)」とかいう形容詞を頭につけている所以(ゆえん)はどこにあるかということが問題になる。近代国家は国民国家(ネーション・ステート)と言われているように、ナショナリズムはむしろその本質的属性であった。こうしたおよそ近代国家に共通するナショナリズムと「極端なる」それとはいかに区別されるのであろうか。

 

 ひとは直ちに帝国主義ないし軍国主義的傾向を挙げるであろう。しかしそれだけのことなら、国民国家の形成される初期の絶対主義国家からしていずれも露骨な対外的侵略戦争を行っており、いわゆる19世紀末の帝国主義時代を俟たず(またず)とも、武力的膨張の傾向は絶えずナショナリズムの内在的衝動をなしていたと言っていい。我が国家主義は単にそうした衝動がより強度であり、発現の仕方がより露骨であったという以上に、その対外膨張ないし対内抑圧の精神的起動力に質的な相違が見いだされることによってはじめて真に「ウルトラ」的性格を帯びるのである。

 

 

 

(「超国家主義の論理と心理」より第2章の転載 / 丸山眞男・著 / 「世界」1946年5月号への寄稿)

 

 

 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 日本の戦中戦前の国家主義は「超(ウルトラ)国家主義」あるいは「極端(エクストリーム)国家主義」と言われているが、そもそも近代国民国家はナショナリズムをその本質的特性としているのに、なぜ、日本の場合は「超(ウルトラ)」だの「極端(エクストリーム)」などという接頭語をつけられるのでしょうか。侵略戦争ならイギリスをはじめ、ヨーロッパ先進国だってやってきたことです。それにもかかわらず、日本のナショナリズムが「ウルトラ」呼ばわりされるのは、「対外膨張ないし対内抑圧の精神的起動力に質的な相違がある」からなのです。

 

 

 

(以下引用文)--------------


 

 

 ヨーロッパ近代国家はカール・シュミットが言うように、中性国家たることに一つの大きな特色がある。換言すれば、それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)ないしは個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、このような内容的価値から捨象された、純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。

 

 近代国家は周知のごとく、宗教改革につづく16,17世紀に亘る(わたる)長い間の宗教戦争の真っただ中から成長した。信仰と神学をめぐっての果てしない闘争はやがて各宗派をして自らの信条の政治的貫徹を断念せしめ、他方、王権神授説をふりかざして自己の支配の内容的正当性を独占しようとした絶対君主も熾烈な抵抗に面して、漸次その支配根拠を公的秩序の保持という外面的なものに移行せしむるのやむなきに至った。

 

 かくして形式と内容、外部と内部、公的なものと私的なものという形で治者と被治者の間に妥協が行われ、思想信仰の道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系のなかに吸収されたのである。

 

 

 

(同上)


 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 ここの記述は重要だと思います。カール・シュミットについてはwikiで調べてください。ナチス時代のドイツの政治学者らしいです。それによれば、近代国家では、道徳や信仰などの「内容的価値」については個人の内面の問題として国家は介入せず、個人の意向に任せ、また「内容的価値」の選択も個人に委ねて尊重する、個々人が集まって社会生活を営むに必要な秩序維持という外面的な目的のために、国家権力は「法体系に従った手続き」という形式に則って執行される、ということです。

 

 このような考え方は、近代国民国家を生み出したヨーロッパの血まみれの宗教戦争への反省に由来しています。一方の信条が絶対正義で他方は悪とするような考え方で政治を行うことを断念し、思想信条に多様性を認め、尊重する寛容の精神が唱えられるようになりました。政治権力は個々人の内面の支配からはいっさい手を引き、公的秩序の維持だけを目的とする、ということで合意したのでした。

 

 だから、稲田朋美が代表を務める「道義国家云々」の会などは明らかに近代国家の定義に反しているし、塚本幼稚園で行われている「教育プログラム」は明らかに、個々人の内面を当人の自由選択に任せず、一部の大人たちの考え方を押しつけている点でも、近代主義に真っ向から反するものです。

 

 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 ところが日本は、明治以後の近代国家の形成過程においてかつて、このような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとはしなかった。その結果、日本の国家主権は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。幕末に日本に来た外国人はほとんど一様に、この国が精神的(スピリチュアル)君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)との二重統治の下に立っていることを示しているが、維新以後の(日本の)主権国家は、後者およびその他の封建的権力の多元的支配を前者に向かって一元化し、集中化することにおいて成立した。「政令の帰一」とか「政刑一途」とか呼ばれるこの過程において権威は権力と一体化した。しかもこれに対して内面的世界の支配を主張する教会のような勢力は存在しなかった。

 

 やがて自由民権運動が華々しく台頭したが、この民権論と、これに対して「陸軍および警視の勢威を左右にひっさげ、凛然として下に臨み、民心をして戦慄」(岩倉公実記~岩倉具視の著作物)せしめんとした在朝者との抗争は、真理や正義といったものの内容的価値の決定を争ったのではなく、「上(かみ)君権を定め、下(しも)民権を限り」といわれるように、もっぱら個人ないし国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いであった。

 

 およそ近代的人格の前提たる、道徳の内面化の問題が自由民権論者においていかに軽々に片づけられていたかは、かの自由党の闘将河野広中(こうのひろなか;wiki参照)が自らの思想的革命の動機を語っている一文によく表れている。その際、決定的影響を与えたのはやはりミルの「自由論」であったが、彼は、

「馬上ながら之を(「自由論」を)読むに及んでこれまで漢学、国学にて養われ、ややもすれば攘夷をも唱えた従来の思想が一朝にして大革命を起こし、忠孝の道位を除いただけで、従来持っていた思想が木っ端微塵のごとく打ち壊かるると同時に、人の自由、人の権利の重んずべきを知った(河野播州伝、上巻)」
…と言っている。

 主体的自由の確立の途上において真っ先に対決されるべき「忠孝」観念が、そこでは最初からいとも簡単に除外されており、しかもそのことについて何らの問題性も意識されていないのである。このような「民権」論がやがてそれが最初から随伴した「国権」論の中に埋没したのは必然であった。

 

 かくしてこの抗争を通じて個人の自由はついに良心に媒介されることなく、したがって国家権力は自らの形式的妥当性を意識するに至らなかった。そうして第一回帝国議会の招集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることの公然たる宣言であったといっていい。

 

 

 

(同上)


 

--------------(引用終わり)

 

 

 

 日本のナショナリズムが「ウルトラ」あるいは「エクストリーム」と呼ばれるゆえんはまさに、国家が「道義」を決めよう、国家がただ一つの道義を体現しようとするところにあるのです。明治新政権は実権を握っていた幕藩体制の支配(それが「多元的」と書かれているのは、幕府が支配したのは各藩の大名たちであり、藩の領民たちはその各大名たちが支配していたから。こういう複雑な支配のしくみを指して「多元的」と呼んでいる)を天皇のスピリチュアルな「権威」に融合することによって、つまり、「内容的価値」を個々人の内面の自由から引き離して、それを国家によって決められ、与えられるものとし、つまり人間の多様性を否定し、国家にとって都合のよい単一の「人格」を一様に国民に植えつけようとした点がまさに「質的な相違」だった、それゆえに、日本のナショナリズムは「ウルトラ」であり、「エクストリーム」だったのです。20世紀最初の軍事作戦としての自爆攻撃を組織したところまで突き進むともうそれは「エクストリーム」を越えて「エキセントリック」あるいは「ファナティック」といってもいいでしょう。そんな「質的相違」なナショナリズム涵養の意志表明がまさに、第一回の国会開催直前の、教育勅語の発布だったのです。

 

 これは現代でも同じだと、わたしは思っているのですが、自由民権を擁護する、あるいはリベラルを自称する人たちさえその点を理解していないか、実践していないことが、真の近代主義が日本で育たなかった重要な原因となっていると思います。ここに挙げられている例では、河野広中が、自由民権運動を展開しながら、実は「忠孝」といった封建日本のゆがんだ儒教風の道徳観を総括できなかった、そんな風潮がやがて、大正デモクラシーをしてやがて昭和ファシズムの前に霧消せしめた、とされています。

 

 これとまったく同様の事態がわたしたちの眼前で繰り広げられています。教育勅語のなかから、親孝行(まさに「忠孝」の道徳則)、勤勉などの項目を切り出して、「これのどこが悪い」と開き直られたときに、リベラル派コメンテーターたちはもごもごと口ごもるか、反論しても明快とは言えないくどくどしいことしか言えないでいます。戦後、リベラル全盛の時代にも日本では依然と家父長制、年齢序列、子が親に気を遣うことを美徳とする「忠孝」則、体罰美化、根性論的精神主義は称揚されてきました。スポーツやTVドラマを通して。だって、いまだに高校野球は全員丸坊主です。あれは軍隊の習慣でした。個性を忘れさせるためです。それが21世紀のいまだに暗黙の了承とされているのです。

 

 ちなみに親孝行について言えば、子が親に従わなければならないのではない、親が子に気を配り、子どもが高い自尊心を培うよう指導し、真に自立してゆけるよう育てる義務があり、子どもはそういう教育を期待する権利があるのです。「忠孝」則はこの点で主格が転倒しています。さらに、学校のこまごました校則も、生徒の精神的成長とは逆の目的があり、それは、たとえ憲法の内面の自由に抵触していようが、直近の大人たちの脳内に生き残る「子どもらしさ、若者らしさ」観に従え、とにかく直近の権威者の方に従え…という意味の、旧態道徳の押しつけであり、近代的人格の養成というよりは、旧態依然たる「年少者は年長者に文句を言わず従え」式の道徳の押しつけなのだと、わたしは思っており、かつそうした考え方に強い憤りを持って反発を覚えるのです。そんなこんなで日本では近代的自由主義はまったく根づいていなかったといっても過言ではないでしょう。

 

 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 果たして間もなく、あの明治思想界を貫流するキリスト教と国家教育との衝突問題がまさにこの教育勅語をめぐって囂々の論争を惹起したのである。「国家主義」という言葉がこのころから頻繁に登場したということは興味深い。この論争は日清・日露両役の挙国的興奮の波の中にいつしか立ち消えになったけれども、ここに潜んでいた問題は決して解決されたのではなく、それが片づいたように見えたのはキリスト教徒の側で絶えずその対決を回避したからであった。

 

 今年(1946年当時)初頭の詔勅で天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤がなかったのである。信仰のみの問題ではない。国家が「国体」において真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。しかもその依存は決して外部的依存ではなく、むしろ内面的なそれなのだ。

 

 国家のための芸術、国家のための学問という主張の意味は、単に芸術なり学問なりの国家的実用性の要請ばかりではない。何が国家のためかという内容的な決定をさえ「天皇陛下および天皇陛下の政府に対し(管理服務紀律)」忠勤義務を持つところの官吏が下す、という点にその核心があるのである。そこでは、「内面的に自由であり、主観のうちにその定在(ダーザイン)をもっているものは法律の中に入ってきてはならない(ヘーゲル)」という主観的内面性の尊重とは反対に、国法は絶対価値たる「国体」より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによって、いかなる精神領域にも自在に浸透しうるのである。

 

 従って、国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は、およそ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来、いっさい存在しないこととなる。わが国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことがいまだかつてないのである。この点につき「臣民の道」(wiki参照)の著者は「日常われらが『私生活』と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業(=天皇への奉仕という臣民の務め)を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。 ~中略~ かくてわれらは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」といっているが、こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行とともに現れ来ったわけではなく、日本の国家構造そのものに内在していた。したがって私的なものは、すなわち悪であるかもしくは悪に近いものとして、何ほどかのうしろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによってうしろめたさの感じから救われようとするのである。

 

 漱石の「それから」の中に、(主人公の)代助と嫂(あによめ。=兄嫁)とが、
「一体今日は何を叱られたのです」
「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽くす、には驚いた。何でも十八の年から今日までのべつに尽くしてるんだってね」
「それだから、あの位に御成りになったんじゃありませんか」
「国家社会の為に尽くして、金がお父さん位儲かるなら、僕も尽くしても好い」
…という対話を交わすところがあるが、この代助の痛烈な皮肉を浴びた代助の父は日本の資本家のサンプルではないのか。こうして「栄え行く道(野間清治・著)」と国家主義とは手に手をつなぎ合って近代日本を「躍進」せしめ、同時に腐敗せしめた。「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存する、というこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

 

 

 

(「超国家主義の論理と心理」より第2章の転載 / 丸山眞男・著 / 「世界」1946年5月号への寄稿)

 


--------------(引用終わり)

 

 

 

 国家のために考え、国家のために自分のしたいことを抑え、国家のために服従しなければならないだけではない、内面の自由が侵食されきった社会では、「何が国家のためか」ということさえ国家が決めるのです。

 

 ここでドイツの哲学者ヘーゲルの難解な表現の文章が引用されていますが、わたしもヘーゲルが何を言ったのか詳しいことは知りません。しかしここでいわれているのは、近代国家であるなら、個々人の内面を法律で縛ってはならない、という理解でも大きく間違ってはいないでしょう。それとは反対に日本のウルトラナショナリズムは、国家が道徳的倫理的権威の体現であるため(おそらくそれが「國体」の正体だろうと想像します)、哲学、文学の人文学領域だけでなく、科学・芸術からそれこそ日常のルーティンワーク領域まで国家は干渉しうるのです。また事実干渉してきたのです。国家が道徳の体現であるなら、どんなことでも国家がよしとしたことが基準になるからです。これはまさに宗教原理主義というとらえ方が現代のわたしたちには理解しやすいでしょう。イスラム過激派と同様の性質の、そう、旧日本の「超国家主義」はまさに宗教原理主義だったのです。それゆえに「超(ウルトラ)」、「極端(エクストリーム)」だったのです。非合理的な思考、非合理的な判断、非科学的な判断が「八紘一宇」だの「一億総玉砕」だのという無内容な叫喚的スローガンで、根拠のないことを隠ぺいして、行き当たりばったりの政策・軍事作戦が推し進められたのでした。

 

 

 元エホバの証人の方々は、政府による内面干渉ないし指導要綱である「臣民の道」の上記引用文をみて気持ち悪くなったでしょう。まさにエホバの証人の「教育」内容そのものです。
「日常われらが『私生活』と呼ぶものも、畢竟これ臣民の道の実践であり、天業(=天皇への奉仕という臣民の務め)を翼賛し奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである。 ~中略~ かくてわれらは私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」
エホバの証人の日本語教材では「臣民」はその通り使われていましたし、「天業」をエホバへの奉仕、「天皇」をエホバに置き換えれば、そのまんまものみの塔の研究記事かと錯覚します。エホバはいついかなる時も信者を見ている、それを意識して行動せよ、ということで、まさにフーコーのパノプティコン社会を実現させようとしていたのでした(フーコーの「監獄の誕生」についてはwikiで調べてみてください)。わたしはエホバの証人問題とは全体主義の問題だと主張していますが、その根拠は今日ここで述べたことです。だから、元エホバの証人の多くがネトウヨになるのを見るにつけ、こいつらは何にも目覚めていないな、まったく「マインドコントロールは解けて」いないな、と思うのです。

 

 

 丸山眞男に戻りますが、こうした内面の自由の浸食&支配はなにも昭和ファシズム興隆によって生み出されたものではなく、まさに明治維新の時期から日本人に刷り込まれていたものであり、その指針となっていたのが教育勅語なのです。そして内面の自由が国家によって支配されてしまっている中においては、「私的領域」というのは原理的に存在しえず、個人的な欲求についてはその一つ一つについて後ろめたさを感じなければならない、だから、なにかにつけて、「お国のため」という大義名分をこじつけるのです。その例が夏目漱石の小説から引用されていますが、うしろめたさを感じているうちはまだかわいいもので、開き直ってくると逆に「お国のために」等の大義名分で、何でも自分の好きに行おうとするのです。森友学園の園長は「強い日本を背負って立つ人材育成のために教育勅語の精神で育てる」学校開設のために、ありとあらゆるごまかし、国会議員による便宜利用などを平気で行うのです。それが「国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に侵入する結果となる」ということなのです。

 

 この論文の第3章にはもっと衝撃的なこととして、こんな一文もあります。

 


 

 

(以下引用文)--------------

 

 

 

 国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の基準を自らのうちに、國体として持っており、したがって国家の対内および対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的基準には服しない、ということになる。

 

~(中略)~

 

 わが国家主権は決してこのような形式妥当性に甘んじようとしない(=内容的価値の独占&支配・操作をやめようとしない)。国家活動が国家を超えた道義的基準に服そうとしないのは、…主権者(=天皇の権威をかさに着る官僚)自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真善美の極致(「皇国の軍人精神」/ 荒木貞夫・著 8ページ)」とされるからである。

 

 したがってこの論理が延長されるところでは、道義(あるいは正義)は、こうした國体の精華が、中心的実体から渦紋状に世界に向かって広がってゆくところにのみ成り立つのである。「大義を世界に布く」と言われる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。大義と国家活動は常に同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それとともに、行動することがすなわち正義とされるのである。「勝った方が正義」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特性が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるがゆえに、いかなる暴虐なる振る舞いも、いかなる背信的行動も許容されるのである!

 


 

(同上3章)


 

--------------(引用終わり)

 


 

 日本自身が「真善美の極致」の体現であるがゆえに、日本を越えた倫理観道義基準に従わなくていい、だから捕虜の扱いに関する国際条約に頓着しないし、日本の行動はすべて正義の基準なので、南京事件などの戦争犯罪もも「しようがなかった」、戦争犯罪も「当時としてはほかに取るべき道はなかった」などと無責任を鼓吹し、平気で某局せしめようということができるのだと思います。そしてそれは国家による隠ぺいだけでなされるものではなく、明治より刷り込まれてきたものであるがゆえに、まさに国民自身がその無責任の遂行者として率先できるのです。

 

 日本会議も籠池園長も稲田朋美も安倍晋三も、彼ら自身だけが特異なのではない、わたしたち国民のうちに、真の近代人としての資質が十分に育っていないのではないか、だから、教育勅語のなにが悪いと開き直られてすぐに明確に反論できないのだと思います。

 

 

 

 集中力が途切れてきたので、中途半端ですが、ここでいったん、筆をおきます。時間があるときにまた、第3章も読んでみたいと思います。

 

 

 


 

 

 

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「学校が教えないほんとうの政治の話」の目立った点(1)

2016年07月17日 | 「市民」のための基礎知識






政治参加の第一歩は、あなたの「政治的なポジション(立場)」について考えることです。政治的なポジションは、結局のところ、二つしかありません。


「体制派」か「反体制派」か、です。


「体制」とは、その時代時代の社会を支配する政治のこと。したがって「体制派」とはいまの政治を支持し「このままのやり方でいい」と思っている人たち、「反体制派」はいまの政治に不満があって「別のやり方に変えたい」と考えている人たちです。


さて、あなたはどちらでしょう。


どっちでもない?  あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、とくにこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。


先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。


世の人びとはとかく「自分こそが中立で、まわりが偏っているのだ」といいたがります。あるいは「自分こそが正義で、まわりがまちがっているのだ」と考えたがります。とんだ誤解というべきでしょう。民主主義とは多種多様な意見を調整し、よりよい結論を導くためのしくみです。人の意見は多様なものである、という前提に立てば、どんな意見も少しずつ「偏っている」のが当たり前なのです。


とはいうものの、どんな国でも、どんな時代でも、数として多いのは「ゆる体制派」の人たちです。投票で国や自治体の代表者を選ぶ民主主義の下では、「体制派」は「多数派」とほぼ同じといっていいでしょう。政治に関心を持てと大人はいいますが、そんな大人もたいていは政治にたいして関心のない「ゆる体制派」なのです。


体制の側に立つか、反体制の側に立つか。あなたがどちらの立場に近いかは「いまの日本」をどう評価するかにかかっています。
A  豊かとはいえないけれど暮らしてはゆけるし、いまのところ平和だし、インターネットも使えるし、世の中こんなもんでしょ、と考えるか。
B  格差は広がっているし、ブラック企業が平気ではびこっているし、国は戦争をしたそうだし、こんな世の中まちがっているよ、と考えるか。


物事を楽観的にとらえて楽しく暮らすAタイプの人が「(ゆる)体制派」なら、社会のアラをさがし出し、ものごとを悲観的に考え、日本の将来を憂えるBタイプの人は「(ゆる)反体制派」になりやすい傾向がある、とは言えるでしょう。


人生、「ゆる体制派」でいけるなら、それに越したことはありません。政治のことを考えずに暮らせるのは幸せな証拠。本人がそれでよければ、なんの問題もありません。もちろんあなたが幸せでも、誰かを踏みつけている可能性はありますが。


これに対して「反体制派」は、自ら選ぶというよりも「やむをえず選ばされてしまう」立場、というべきでしょう。誰だってお上(体制)になんか、できれば刃向かいたくはありません。ところが「体制派」「ゆる体制派」だった人たちが、突然「反体制派」に転じる場合があります。「政治に目覚める」とは、じつのところ、こういうケースを指す場合が多いのです。




 

 

「学校が教えないほんとうの政治の話」 第1章 p.18-20 / 斎藤美奈子・著




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「国を愛する心/ 『国を愛する心』/ 三浦綾子・著」の目立った点 (1)

2016年04月06日 | 「市民」のための基礎知識






お便り拝見いたしました。

あなたもまた、近頃テレビや新聞でたびたび取り上げられている教科書問題について、若い母親のひとりとして、真剣に心配していられるのですね。

「私はその時まだ生まれておりませんでしたから、日本の国が、ほんとうに他国を侵略したものか、しないものか、よくわからないのです。また、終戦というべきか、敗戦というべきかもわからないのです。私は子どもに真実を教えたいのです。三浦さんは、第二次世界大戦において、日本が中国その他を侵略したと思いますか、ほんとうのところを教えてください」。

このお便りのなかに私は、あなたの謙遜と真実を感じました。私はある人から、「あなたはそれでも日本人ですか。日本が侵略をしたとか、残虐なことをしたとか、いろいろ書いていますが、あなたには愛国心がないのですか」とい手紙をもらったことがあります。困ったことに、これからはますます、「おまえはそれでも日本人か」という言葉が、多く使われるような気がしてなりません。

ところで、この間、澤地久枝(ノンフィクション作家、1930年=昭和5年生まれ)さんの講演会が旭川でありました。850人で満席になる会場に950人も入ったのです。澤地さんの話が終わったとき、ほんとうに嵐のような拍手が、いつまでもいつまでも鳴り響いておりました。誰もが、受けた感動をその拍手に込めたのです。(中略)

澤地さんは「もう一つの満州」というノンフィクションの中に書かれているとおり、少女時代、満州に育った方です。この澤地さんが昨年(=1981年)満州を訪ねられました。一人の抗日青年の生涯と、無残な死を調べるためでした。その取材旅行において、澤地さんは、日本が犯した数々の怖ろしい残虐行為を直接中国人の口からきかされたそうです。肉親の誰彼が、日本人の手によって、目の前で虐殺された話、一つの村が、赤子から老人まで皆殺しにされた話など、身の毛がよだつむごたらしい話であったと言います。

戦後40年にもなろうとして、いまだにそうした忌まわしい記憶を引きずって生きている人々のいることを、澤地さんは改めて知らされたのです。それらの人びとの目に、消しがたい悲しみと恨みを見たとも澤地さんは言われましたが、当然のことでしょう。

私たちは、敗戦後、初めて南京大虐殺の話を聞いたものでした。小さな子どもが串刺しにされたこと、妊婦がその腹を引き裂かれたこと、非戦闘員が一つ建物に閉じ込められて焼き殺された話なども聞きました。もし、私たちの故国に、他国の軍隊が乱入して、このような殺戮をくり返したとしたら、私たちはそれを「進出された」と言うでしょうか。それとも「侵略された」というでしょうか。いいえ、もっと強烈な表現を取るのではないでしょうか。日本政府が「侵略」という言葉をどんなに教科書から消し去ろうとも、いまなお現実に、肉親の無残な死を思い、悲しみ憤っている人々がたくさんいるのです。その人たちの胸から、「侵略」という言葉をどうして消し去ることができるでしょう。

学問は真実でなければなりません。とりわけ歴史は、その時の政府の都合で、勝手に書き改めるべきものではありません。一たす一は二であるはずです。けれども、一たす一は五であるという教科書がもしあったとしたら、あなたはその教科書を子どもさんに与えますか。明らかな侵略を進出などという言葉に置き換えることは、一たす一は五である、というのと同じで、いったい、一たす一は五であると強弁することが愛国心なのでしょうか。私には到底そうは思えないのです。私たちの国が、ほんとうにどんな歩みをしたのか、その真実を私たちは知るべきです。そして誤った歩みをしていたならば、その責任を取るべきです。それともあなたは、自分の子どものすることなら何でもよしよしというのが、親の愛だと思いますか。弱い者いじめをしようと、体の不自由な人も真似をして、そうした人々を辱めようと、他の人に乱暴しようと、人の家に火をつけようと、黙って見ているのが親の愛だと思いますか。


…(中略)…


さて、国を愛するとは、いったいどういうことでしょう。時の政府の言うままに、唯々諾々と従うことなのでしょうか。「侵略ではなかった、進出だった」と政府が言えば「そのとおり、そのとおり」と拍手をし、「戦いは負けたのではない、終わったのだ」と言えば「そうだ、そうだ」とうなずくことなのでしょうか。

あなたはまだ生まれていなかったそうですから、戦争中のことは何もご存じないでしょう。しかし(戦争中)二十代だった私は、当時の国民が、どんなに自分の国を信頼し、誇りに思っていたかを知っています。国のために死ぬということは、男性は無論のこと、私たち女性も、この上ない名誉に思ったことでした。そして、勝利を祈ってしばしば神社に参拝し、慰問袋を戦地に送り、かき消えるように亡くなった食料の乏しさにも愚痴を言いませんでした。いいえ、食料どころか、たった一人の息子を戦死させても、一生の伴侶である夫を戦地に死なせても、「お国のためだ」と歯を食いしばってその悲しみに耐えたのです。そうした純粋な気持ちを、私たち国民は、戦争のために利用されたのでした。そして戦争は負けたのでした。

私たち庶民は、戦争がある種の人びとの儲ける手段であるなどとは、夢にも思わなかったのです。あの時、戦争はいけないと言った人がもしあれば、その人こそ真の意味で愛国者だったのです。そうした人もわずかながらいました。でもその人たちは、国のしていることはいけない、と言ったために獄にとらわれ、拷問され、獄死さえしたのでした。真の愛国者は彼らだったのです。国のすることだから、何でもよしとするのは、国が大事なのではなく、自分が大事な人間のすることです。

もし、第二次大戦のとき、すべての日本人が戦うことを拒んでいたなら、原爆にも遭わず、何百人もの人が死なずにすんだのです。いや、他の国々のさらに多くの人々が殺されずにすんだのです。とにかく、日本の犯した罪を知っている人々が、侵略は侵略だと言い、敗戦は敗戦だと言っているはずです。でもその数が次第に少なくなっていくだろうという予感に、私は戦慄を覚えます


こんなお返事でお分かりいただけたでしょうか。日本と世界の真の幸福を祈りつつ。

 

 

(小学館発行月刊誌「マミイ」1982年11月号初出/ 1982-11-01/ 三浦綾子)

 

 

 

 

 

 

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2014年12月31日 | 一般







来年より、またぼちぼち書いてゆこうと計画しています。



超ヒマがあれば見に来てくださいね。





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慰安婦問題で日本に行動促す・オバマ氏「甚だしい人権侵害」~日本の「オヤジ」考

2014年04月27日 | 「世界」を読む

 
 



 
 
 【ソウル共同】
 アジア4カ国歴訪中のオバマ米大統領は25日、日本に続いて韓国を訪れ、ソウルの青瓦台(大統領官邸)で朴槿恵大統領と会談した。オバマ氏は会談後の共同記者会見で、日本政府による法的責任の認定や賠償を韓国側が求めている従軍慰安婦問題に触れ、「元慰安婦らの声は聴くに値し、尊重されるべきだ」と述べ、暗に日本の行動を促した。



 朴氏は「北朝鮮は4回目の核実験を強行するための準備を完了した状態だ」と明言。両首脳は米韓が結束して対応していくことを確認した。



 オバマ氏は慰安婦問題について、戦時中とはいえ「甚だしい人権侵害だ」とした上で「衝撃を受けた」と表明した。
 
 
 
 
 

共同通信  2014年04月25日20時30分

こちらより転載



 



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「嫌韓」を標榜する人たち、慰安婦バッシングをするハラサー(ハラスメントを行う人、ハラスメントの元凶)の考えかたは、売春はいつの時代にもあるものだから、なぜ日本を非難するような問題にしなければならないか、というものです。
 


売春を容認しているし、売春婦になる人々に落ち度がある、というオヤジ的考えかた。「オヤジ」という言葉はある用語として使われることがあります。それは権力のある側に媚びて取り入り、その権力者の威光によって自分も権力をふるおうとする姿勢で生きるひとを指して使われます。もちろん、わたしもここではそういう意味で使っているわけです。



有無を言わせない力づくで他者を、その他者個々人の気持ちや希望、意向などまったく蹂躙してしまって、自分の思い通りに動かそう、という男を、女や男の子はたいへん嫌います。家族内であればその嫌悪は生理的なレベルです。触られるのももちろんキモイし、同じスリッパをはくことすらキモイ。



ひと昔前、ふた昔くらい前…かな、「キモイから」という理由で、父親とは別の洗濯機で自分の洗濯物を洗う女の子が面白半分に語られたことがあります。その時代には、女の子のわがままという視点で評論されていましたが、実は違います。親しみのある人間関係というのは、相手へ配慮を払う、相手の意向、意見、願望などを尊重する、というところからしか生じません。



でも「オヤジ」男型父親はそういうことをしないのです。男が家族に気を遣うのではなく、家族が家長たる父親・夫に気を遣うべきであり、年長者である親が子どもに気を遣うのではなく、子どもが親に気を使うべき、なぜなら年上の者には従うべきだから、という基準を信じ込んでいるからです。つまり頭から抑えつける方法で家族に接するので、親子間、夫婦間に温かい親しさが生まれません。ある妻は、そんな「オヤジ」的夫への嫌悪、反感、不満を女の子の前でももらすし、子どもに八つ当たりをすることさえするかもしれません。そんな母親から子ども、特に女の子は父親へのいっそうの嫌悪を、学習心理学のいうところの意味で「学習」してゆく、つまり自分の内面に規範として取り入れてゆく。日本は家父長制の意識が根強く残ってきており、専制的な男性支配が容認されてきているので、こんな家庭はけっこう多く、だから「オヤジ」型男嫌いはかなりの多数だとわたしは踏んでいるのですが…。

 




またまた話はそれていったので戻しましょう。



「オヤジ」型の男は権力側に媚びるので、売春をしなければ生きてゆけないような構造になっている社会を変えようとはしません。むしろそんな社会の不公正な制度の上に乗っかってあぐらをかく。そのうえで、売春をしなければならなくなったのはその個人の努力不足であり、その女に何か欠点があるからだ、という見方に立ちます。自分では売春婦を喜んで「消費」するくせに、人間としては彼らを軽蔑します。売春婦だから大きな口はきくな、みたいに扱い、「どうせ売女」と思っています。



でも、「オヤジ」型男たちを議論の末抑え込み、個人をもっと尊重しようという考えかたで社会をまとめることに、一時的ではあっても成功したことのある欧米では、オバマ大統領の言うように、だまし連れてきて「強制売春」をさせた日本帝国陸海軍、ひいては「大」日本帝国のやりかたははなはだしい人権侵害である、と考えるのです。



そこには、「社会の伝統的な制度・思考を維持継続させるために個人個人には犠牲になってもらうことは了解すべし」という日本の伝統的な考えかたとは対極の、「個人個人が豊かな生存・生活を送れるような、個人個人の幸福を保障できる社会制度を編んでゆこう、個々人は生まれながらにして人間として尊重される権利=人権があるのだから」という思想・構想があるのです。こういう考え方を持っている男性は、決して「オヤジ」とは言われないでしょう。たとえいい年齢になっても「素敵な男性」と見られます。その娘も、「そばにいると息がくせぇから寄るな」とはいわないのです。



でも日本では男たちは「オヤジ」と呼ばれて嫌われている。飽和脂肪酸の摂取しすぎと深酒による皮膚の焼け、またアルコール過剰摂取によって首のうしろが赤黒くこわばった、象の皮膚のようになってしまった見た目にも醜い生き物が肩で風を切って、いまにも襲いかからんばかりの攻撃性をオーラのように放ち、がにまたでのっしのっしと歩く。それが男らしさ、かっこよさ、強さだと勘違いして思い込んでいるんです。



こんな男たちが政界、役人、財界で、日本のリーダーシップをとっている。「オヤジ」型の男たちが娘たちに毛嫌いされているように、「オヤジ」型男のような方針をとる日本も、人権への配慮が強い「先進国」からは異質、異物とみなされているでしょう。いや、事実、国連からは人権の問題で頻繁に日本に警告を出していますが、やはり「オヤジ」型男たちに経営されているマスコミは、そんな事実は報道しません。



だから慰安婦バッシングをしても、靖国参拝でサンフランシスコ講和条約体制打破への挑発をしても、「国際社会の理解は得られている」などと信じ込めるのです。相手への配慮をしたことがないから、他人の気持ちを推し量る能力が委縮してしまっているのです。

 


 

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秘密保全法採決強行:アメリカ・CIAは、すべてをまるっとお見通しだった…

2013年11月27日 | 一般






日米安保の問題が浮上したとき、だれもが反対をした。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するときに、日米安保条約と講和条約はセットにされていて、アメリカは、安保条約を結ばない限りは、講和条約を結ばないと言ってきた。安保条約を結ぶということは同時に地位協定をも結ぶということだった。それを結んでアメリカは何をしたかったかというと…、


講和条約締結・発効で、日本を占領していた進駐軍は90日以内に撤去しなければいけない。これはポツダム宣言でもそう決まっていました。ところが講和条約発効後も進駐軍の駐留は延長される。講和条約で変わったのは、「進駐軍」という名称が「駐留軍」という名称になっただけだった。


これについて当時の政治家は、「こんなことでは、これ(講和条約発効)をもって国家の独立達成とは言えない」と、実際に宮澤喜一さんは苦言を呈していて、当時の自由党の吉田茂首相も、「こんなのはおかしい」と、異議申し立てをしている。


ところが、安保条約(⊃ 地位協定)を日本が結ばないなら、アメリカは講和条約を決して結ばない、と言われて、しぶしぶ安保条約にもサインをする。そのとき、講和条約は吉田首相ほか日本側代表団の複数で署名したが、安保条約については、吉田首相が「(代表団のメンバーは)これには署名するな。こんな(不公平な)条約に署名するのはおれだけでいい」と言って、ほかのメンバーの署名を拒んで、吉田首相がひとりでサインをした。それは日米安保条約の屈辱的な内容に強い反発を抱いていたからこその対応だった。

 

 

1960年安保改定当時、日本国民は国会を取り巻き、猛烈な反対運動をした。ところがアメリカは「強行すればだいじょうぶ」と踏みます。当時の首相の岸信介さんは、だから安保改定を強行した。その次、1970年安保のとき、岸さんの弟の佐藤栄作首相も同じく強行した。


当時の様子を取材していた西山太吉元毎日新聞記者はこう証言している。


「このときにも、アメリカのCIAは強行しろと佐藤政権に迫った。佐藤政権は、『強行してだいじょうぶか』と懸念するが、CIAはだいじょうぶだと断言した。


なぜなら、60年安保のときに反対運動の中心になっていたのは学生たちで、その主役だった彼らはみんなサラリーマンになっていて、安保のことなんか忘れている。日本国民というのは、いったん強行されてしまえば、強行成立直前には猛烈に反対していても、時がたってそれが既成事実になってしまえば、黙って受け入れてゆく習性がある。だから強行しなさい、とCIAは過去の日本人の行動パターンまで調査したうえで確信をもって佐藤政権にGoサインを下したのだった。

 

 事実、日本はアメリカCIAの予想どおりに、現在まで安保条約は自動延長されてきている」。

 

 


 

前泊博盛・沖縄国際大学院教授・談/ 「SIGHT」2013年 Summer号より

 

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わたし的に心に残った点。


① サンフランシスコ講和条約は形式上は日本の主権回復という体だが、内実では決して独立を達成できたのではなかった、ということ。


② なぜなら、講和条約は日米安保条約と抱き合わせに結ばされたから。アメリカはそれでなければサンフランシスコ講和条約にサインしないと、日本を強硬に脅しつけて、講和条約を結んだ。日本にはそれ以外の選択肢が許されなかった。


③ 当時の政権のトップ、官僚たちは、安保条約を屈辱的ととらえており、吉田首相は単独署名という形で強い反感を表明した。


④ それは当時の日本国民も同様に感じていて、だから1960年安保改定に猛反対した。安保条約延長は事実上の占領状態を継続するものだということをきちんと理解していた。だが、日本国民には深層心理の根っこに自発的隷従感情が刷り込まれており、アメリカはアジア太平洋戦争当時の日本人のブレイン・スキャンによってそれを見抜いていた。だから強行突破して、既成事実化させてしまえば、あとは黙って隷従すると踏んでいた。事実それはそのとおりになった。

 

 


 

今回の秘密保全法も、国民は猛反対しているが、安倍政権は強行突破の様相を露骨に見せている。それは岸信介~佐藤栄作~安倍晋三といった血筋からくる経験知なのかもしれない。もともと今回の秘密保全法は日米軍事同盟強化にあたって、軍事機密を日本においてもアメリカ国内並みにきちんと保護されるように、とのアメリカ側の意向から始まったものだ。その機につけ込んで、戦後民主主義体制を憎悪する安倍晋三一派が前近代的反動体制構築のために、平成版治安維持法並みの内容の法律に仕上げたのだ。アメリカは佐藤政権の時と同じように、「だいじょうぶ、強行突破しなさい」と命じているのだろう。

 

わたしは、学者からそれこそ芸能人まで国民ぐるみの反対運動が行われているのを見て、60年安保の反対運動の盛り上がりとオーバーラップするように感じる。もちろん、自分の目で見たわけではないが。だがこうして大きく盛り上がれば盛り上がるほど、強行突破された後の日本国民に与える影響が怖い。こちら側の運動が猛烈であればあるほど、カウンターパンチを受けた時のダメージは大きいだろう。

 

 日本人はアメリカをバックにした右派政権への無力感に打ちひしがれ、一切の、社会への、そして政治参加への関心を失ってしまうのではないだろうか。いずれにせよ、秘密保全法が、教育基本法改悪と同様に強行成立させられてしまえば、日本の民主主義は事実上崩壊過程に入る。やはり、おおもとの間違いは、2012年年末と今年の夏の衆参選挙において、安倍晋三の自民党を国民が承認したことにある。あの時点で日本の針路はほぼ決定したのだろうと思う。

 秘密保全法に反対する気持ちがもし、本気だというなら、日本人よ、ほんとうの勝負は、法案が強行成立したあとから始まるんだと心得よ。既成事実になってしまえば別の話題に向かうのであれば、おまえたちは自分の将来を真剣に考えているのではなかったということであり、ただ高度な話題で騒いでお祭りがしたかっただけ、ということになる。のちの成り行きに対して重大な責任を持つことになる、ということを心得よ。

 

 

秘密保全法が強行成立まで至った場合、わたしたちはどんな予想をしなければならいか。最後に、加藤周一さんのことばを引用しておこうと思う。

 

「法律はどんなにひどいものであっても、その使い方で害のない場合もある。そもそもその法律を使わないこともできる。しかし、使い方によっては非常に悪い影響を及ぼすことになる。

たとえば大正デモクラシーの時代、1920年代に通った治安維持法です。治安維持法はこれをすぐには使わなかった。しかし、それから10年、20年たつと、それを使って言論と集会の自由を弾圧した。これはもうファシズム国家です。その悪名高い日本軍国主義の柱の一つは治安維持法だった。

それはまるで時限爆弾だった。できたときはたいしたことはなかった。使わなければ別に心配ない、と言われていた。できた当時はだれも逮捕されなかった。だがしばらくたつと、それが極限まで使われてひどいことになった。1925年に成立した時限爆弾が主として1930年代以降に “爆発” したのです。

1936年には2・26事件が起こって、その後、国民の大部分にとってはあまりよくわからないままに、さりげなく静かに「軍部大臣現役武官制」というものが復活した。だからといってすぐにどうってことはなかったわけで、市民生活には何の影響もなかった。だからみんな安心していたのです。

ところが、ちょっと時間がたつと、陸軍は自分たちの望まない内閣を、その法律を使って “流産” させた。それはまったく合法的な行動であって、陸軍の気に入らない人が、いわゆる大命降下(天皇が重臣の推薦する総理大臣候補を直接に総理に任命し、組閣を命じること)で総理大臣指名を受けると、その指名された総理は組閣のための名簿を作る。そのとき陸軍は、陸軍大臣を擁立しなければ、閣僚名簿ができずに組閣不可能になり、内閣は流れる。次の指名される総理大臣もまた陸軍の気に入らない人物ならまた同じ手を使って組閣妨害する。結局、そうやって陸軍の言いなりになる総理大臣ができる、ということになった。なぜこんなことが起きたのか。大きな理由は、1936年に成立した「軍部大臣現役武官制」という法律だった」(「私にとっての20世紀」/ 加藤周一・著)。

 


作られた法律が誰の目にもたちの悪いものであったなら、それはある機を境に、大きな災禍をもたらすようになるのです。わたしたち市民は、だから、選挙には周到な思考をもってあたらなければならなかったのです。安倍晋三みたいな軍国オタクにやすやすと政権をゆだねるとどんなことになるか、あんな「改正憲法草案」みたいなものを読めば容易に想像できたはずですし、秘密保全法はそんなに時を経ずとも大爆発を引き起こすことは容易に予想できることなのです。つくづく日本人は愚かな決定を下したものです。もういまさら何を言っても遅いのでしょうけれど。



 

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ビッグ・ブラザーの正体は? 「琉球新報」コラムより

2013年07月07日 | 平成日本の風景



 
 
 
 
 テレスクリーンという双方向のテレビで市民の行動は全て政府に監視されている。正体不明の「ビッグ・ブラザー」が率いる党が国を独占、思想や言語、結婚まで統制し国民の私生活は存在しない。
 

 1948年に英国の作家ジョージ・オーウェルが小説「1984」で近未来を予言的に描いた社会だ。日々歴史を改ざんする役人である主人公の男はある日、抹殺されたはずの人物が載る新聞記事を偶然見つける。以来、体制に不信を抱き、隠された真実を探り始める。
 

 米当局がネット上の個人情報を広範に収集してきたことを暴露した元CIA職員が、この小説の主人公と重なった。米政府が世界中の人々のプライバシーやネットの自由、人権などを壊すのが許せなかったという。
 

 だが米政府は「テロ対策だ」と強調するばかりで実態を明かさない。それが世界のネット市民の間に不安を広げている。
 

 問題発覚後「1984」のアマゾン・ドットコムでの売り上げが約70倍に急増したという。元職員の人物像や行方についての報道が多いが、市民が一番知りたいのは監視の真の姿、すなわち “ビッグ・ブラザー” の正体に違いない。
 

 今日はオーウェル生誕からちょうど110年。「1984」の発刊翌年に46歳で世を去った。政府に監視される恐怖を描き、65年たった今も輝きを放つ遺作に込めた彼の警告を、あらためて胸に刻みたい。
 
 
 
 
 
 
琉球新報 2013年6月25日
 


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日本においては、「ビッグ・ブラザー」の正体は、アメリカよりはずっとはっきりしている。それはアメリカのネオコンに自らへつらう官僚たちであり、そういう官僚に依存せざるを得ない右派政治家たちであろう。
 


小説「1984」で歴史改ざんを行う省庁である「真理省」は、事実を報せない、という形でウソをつく企業としてのマスコミ業界の隠喩であるとみなす研究者が多い。情報操作は、「1984」の作者が名づけた「ダブル・シンク=二重思考」という一種の思考停止による国民の精神統制に必要不可欠のものだ。
 


ダブル・シンクとは、「1984」によれば、
 「ひとつの精神が(つまり国民個々人の思いのなかで)、同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力のことをいう」。(「1984」/ 新庄哲夫・訳/ ハヤカワ文庫版、p275~p276)
 


たとえば、独裁国家を維持するためは、国民が現実に起きていることを批判的に見てはならないわけで、そのために現実を曲げて解釈するよう党(小説の中の、ビッグ・ブラザーを総裁とする政権党)のエリートたちは国民を指導教育しなければならない。もちろん、党のエリート官僚たちは自らをもダブル・シンクによって歴史の改ざん、出来事を歪曲して解釈したことを自ら受け入れて信じるのだ。
 


「党の知識人たちは、いかなる方向に自分の記憶を変造しなければならないかを熟知している。したがって、自分が『現実』をごまかしていることも承知の上である。それにもかかわらず、ダブル・シンク=二重思考を自らに施すことにより、彼らも、彼らに指導教育される国民も、現実は侵されてはいない(=歪曲されていない)と納得させているのである。
 


「その過程は意識的なものである。さもなければ充分な精確さによって実行されはしないだろう。しかし同時にそれは無意識的なものでなければならない。さもなければ虚構を捏造したという感情、さらには罪悪感にさいなまれるであろう。
 


「二重思考=ダブル・シンク」はイングソック(イングランド・ソーシャリズムをつくりかえた新言語、ニュー・スピークの語彙であり、ビッグ・ブラザー政権の、思考改造プログラムを含む指導方法)の核心である。
 


「なぜなら党の本質的な行動は、意識的な欺瞞手段を用いながら、『完全な誠実さに裏打ちされた堅固な目的を保持すること』であるからだ。
 


「一方で、心から信じていながら意識的なウソをつくこと、不都合になった事実は何でも忘れ去ること、ついで再びそれ(さっき忘れ去った不都合な事実)が必要となれば、必要なあいだだけ忘却の彼方から記憶を呼び戻すこと、
 


「客観的事実の存在を否定すること、それでいて自分が否定した事実を考慮に入れること…。以上はすべて不可欠な必須要件なのだ。
 


「『ダブル・シンク=二重思考』という用語を用いることそのものについても二重思考による脳内操作を施さなければならぬ。その言葉を用いるだけでも、現実を変造しているという事実を認めることになるからだ。
 


「かくて虚構はつねに事実の一歩前に先行しながら(=歴史の改ざん、現実の出来事の歪曲によって事実を国民から隠しおおせながら)、無限に繰り返される。結局、二重思考の方法によってこそ党は歴史の流れを阻止できたのである。そしておそらくは今後何千年ものあいだ、阻止し続けられるかもしれぬ」。(上掲書より)
 





こんな手法は決して特別なものではなく、わたしがかつて所属していた「エホバの証人」という宗教団体でも普通に行われていたし、いまでも、沖縄県民の集団自決といった歴史事実、従軍慰安婦の歴史事実、南京大量虐殺強姦事件…の消去を図るのにつかわれている手法だ。
 


そしてこんな手法が功を奏することができるのは、欺かれるほうにも、「欺かれていたい」、「現実の不安から目をそらせていたい」というとても強い欲求があるからだ。インターネットで匿名で自己の意見を書くことができるようになってからは、「自分探し」の目的で右左翼思想に入ってゆく人もおり、彼らは自分の価値を信じたいばかりに、インターネットの生半可な知識をかじって、自分と同じような弱い立場にいる人をバッシングして、強くて賢い自分というイメージに酔いたいばかりに、敵を見いだしやすい右派に染まってゆく場合もあるだろうと、わたしは感じている。
 


「1984」のビッグ・ブラザーは敵を明確にして国民の不安と憎悪をかきたてるという古典的な手法もフル稼働させている。また、上記引用文に、ビッグ・ブラザー政党が「ニュー・スピーク」という新しい言語を創造して使用している、とあったが、それはひとつの語彙にただ一つの意味を与えた、簡略化された言語だ。この手法は、単純なフレーズを繰り返し使うマスコミの手法に通じている。小泉郵政選挙では、世耕議員率いるスタッフが、スピン・ドクターなる言語操作技術に長けた技術者を使って、「B層」と名づけられた、保守系主婦・老人、低学歴貧困層の若者をターゲットにして宣伝攻勢をかけた結果、大勝したという記事も見たことがある。
 


中国脅威論をはじめ、領土問題で国民の不安を煽り、国民の精神状態を「だましてほしい」モードに追い込んで、そこへ単純化されたメッセージを繰り返し刷り込み、偉大な日本、美しい日本、とてつもない日本への希求を作り出し、自民党への帰依を促すここしばらくの政権運営を、「1984」に重ねてみてしまう。参院選も自民圧勝の予想がマスコミの口々に見え隠れし始めている。
 




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孫崎享‏ツイート
  
 
 
自民党:不思議だ。自民党に投票して、原発再稼働させたいの。消費税上げたいの。TPPに参加して国家主権をなくし、国民健康保険を実質破壊したいの、消費税上げたいの。30日読売「参院選投票先、自民42%・民主9%…読売調査」
 
 
 
2013-06-30-sun.
 


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わたしたちの将来は真っ暗だ。



 

 

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「事大主義」という心理

2013年05月05日 | 「心の闇」を解読してみよう







人の深層心理を見極める情報のひとつをスクラップしておこう。



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その日9時ごろ、私は家を出た。学生服の下にパンツではなく下帯をつけていた。これが当時の徴兵検査の “正装” である。検査場は杉並区下高井戸の小学校の雨天体操場、家から歩いて40分くらいの距離である。その古い木造校舎は、戦後もしばらく残っていた。校門の近くの塀に白紙がはられ、筆太に矢印で検査場への道筋が示されている。殆どが学生服の三々五々が、手に書類を持ってその方へ行く。



雨天体操場にはゴザが敷かれ、壁ぎわがついたてで仕切られ、その各区画を順々に通って検査を受ける。周囲をつい立てで囲まれた中央のゴザの広間がいわば待合室で、その正面が講壇、終わった者はその前に裸で並び、順々に呼び出されて壇の上から検査の結果が宣告されるらしい。



そんな光景を、開け放たれた雨天体操場の入り口を通して横目で見つつ、その入り口の横に机を並べて書類の受付をしている兵事係らしい人びとの方へと私は向かった。その前には十数人の学生服が、無言で群れていた。



そのとき私は、机の向こうの兵事係とは別に、こちら側の学生の中で、声高で威圧的な軍隊調で、つっけんどんに学生たちに指示を与えている一人の男を認めた。在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度のため一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまふうの言葉でいえばセールスマン兼配達人であった。



いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いているときもそういった顔つきをしている彼。人あたりがよく、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売っていく彼。それでいて評判は上々、だれからも悪く言われなかった彼。その彼と今目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人とは…。



あとで思い返すと、あまりの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジィーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからざる(ありえない、の意。自分の知っていた御用聞きと今の彼との落差を見たときの、「ありえない!」といった驚き)奇怪な情景に、われ知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると(=いつも御用伺いに行っていた家の子だと気づくと)、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン(この文章の筆者はこのころキリスト教徒だったらしい)、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。



そして以後、検査が終わるまで終始一貫この男につきまとわれ、何やかやと罵倒といやがらせの言葉を浴びせつづけられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。



軍隊との初対面におけるこの驚きは、その後長く私の心に残った。






そのためか大分まえ、ある教授に、

 ある状態で、 “ある役つきの位置” におかれると一瞬にして態度が変わる、
…という、この不思議な人間心理について話したところ、それは少しも珍しくない日本人的現象だと、その教授は言った。



(その教授の経験だが、)学生に何とか執行委員長とかいった肩書がつくと一瞬にして教授への態度が変わる。次いで就職となれば、一瞬にしてまた変わる。社員になればまた一瞬にして変わる。それは少しも珍しい現象ではない。



そして…、と教授は続けた、…その人がその後に(再びあなたの家に) “御用聞き” として現れたときは、また一瞬にして変わっていたでしょう、そしてそのことを、矛盾とも不思議とも恥ずかしいとも感じていなかったでしょう、と。



「その通りでした。でも、どうしておわかりですか」と私はたずねた。



「わかりますよ。今の学生がそうですから(この文章が書かれたのは学生運動の最高潮の時代からほんのわずか時期の下ったころ。1974~5年ころ)。昨日まで“テメェ”呼ばわりしていた学生が、平気で、就職の推薦状をもらいに来るんですから。そして就職すれば平気で社長のような口をきくんですから(対等であるかのような口のきき方をする)。この傾向は、一部の人が言うように戦後の特徴ではなく、戦前から一貫しているわけですよ」。



「どうしてそんなふうなのでしょうね」、私は思わず言った。



するとその教授は答えた。

「これが事大主義、すなわち “大に事える(つかえる、と読むらしい=仕える、の意)主義” です。この点で彼ら(先の “御用聞き” と、その教授の言う “今どきの学生” の態度の変化)は一貫しているわけです。



御用聞きにとって顧客は “大” でしょう。だからこれに “つかえる” わけです。ただその頃も彼は、自分より“小”な人に対しては、徴兵検査場であなたに対してとったと同じ態度をとっていたはずだと思われます。



あなたがすごい落差だと感ぜられたのは、御用聞き氏とあなたの立場が逆転したからで、その人の方ではむしろ、事大主義という原則で一貫しているのです。



ですから、徴兵検査場では、徴兵官に対して、かつてあなたに対してとったと同じ態度を取っていたはずです、そうだったでしょう」。






「そういえばその通りでした」、私はあの時の情景を思い出しながら言った。あの時の場で見た、中佐の徴兵官に対する彼の態度はまさに、もみ手・小走り・ごますり・お愛想笑い、と、自分を認めてほしいという過大なジェスチュアの連続であった。



そしてこの、事大主義にもとづく一瞬の豹変は、日本人捕虜にも見られ、また日本軍による捕虜への扱い方にも見られた。したがって、この “素質” を単位として構成された帝国陸軍が、徹頭徹尾“事大主義”的であったのは、むしろ当然の帰結であり、それ以外のことが望めるはずがなかった。

 

 

 

 

(「一下級将校の見た帝国陸軍」/ 山本七平・著/ 第1章より)






 

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新刊書案内  「あなたのおじいさまはねぇ」

2013年04月15日 | トリビア






最新刊をご紹介します。自民党と民主党タッグでの壊憲に反感を持たれる方々にぜひとも読んでいただきたいブックレットです。

 

(以下引用文)-------------------------




今日は、昔、私の親しんだ方のお話をしようと思って伺ったわけでございます。昔々、われわれ日本人は戦争をしておりました。まわり近所に背を向けて戦争をしていた。それでなんとかして平和を取り戻さなければいけないというのが私の夫(三木武夫元首相)やそのお友だちの意見でございました。


一所懸命平和を唱えておりますと、官憲の目が光って、特高警察なんていうのが跡をつけ回すんですね。それで、それをまいて、真夜中になってから家にいらして、こそこそっと握り飯などを食べて、また闇の中へ消えていくというようなお友だちもございました。


でも私は、数少ない、そういう平和を願うお友だちは非常に大事にしなければいけないと思って、真夜中でも急いで何かお腹にたまるものをと心がけていたものでございます。ほんとうに、ほんとうに苦労して一所懸命に、平和のために働いている方が多うございました。


いま総理大臣をやってらっしゃる安倍晋三さんのおじいさまの安倍寛さんという人も、ほんとうに熱心に平和を説いていらしたのです。


でも、安倍晋三さんが総理大臣になると、すぐにその系図が出ましたけれども、安倍家のほうは一つも書いていなくて、お母さまのお里のことばっかり。岸家の孫だとかなんとかって書いてあるんですね。私にとっては、どうも何かが足りない。反対なんじゃないか。やっぱり、安倍(寛)さんのお孫さんなのだから、安倍(晋三)さんのお父さま、おじいさまのことをもっと語るべきではないかと思ったわけでございます。


けれども、新聞はそれを書きませんでした。そうなったのは、発表がなかったのではないかと思います。新聞社の人は、そんなに嗅ぎまわってものを書こうという態度ではない、発表されたままを書く。ということは、安倍家のほうはもうご先祖さまではなくて、岸家だけがご先祖として堂々とつながっている、という感じだったのかもしれません。


でも、私は、今の安倍総理のおじいさま(安倍寛氏)と親しゅうございました。仲良しにしていただいておりました。というのは、あの方は一所懸命平和を説かれたのです。日本中で、こんな戦争をしてはいけないのだ、平和でなくてはいけないのだ、ということを一所懸命説いていらっしゃいました。特高警察などが跡をつけ狙って、演説会では何かっていうと「弁士注意!」なんて、大きな声をお巡りさんがあげるんですね。でも、そんなことをかまっちゃいないで、一所懸命、一所懸命、大衆に向かって、いま日本はどうあるべきかということを説いていらした安倍寛さんという人の姿を思い浮かべます。


背がすらりと高くって、あんまり肉付きはよくなかったのですけれども、がっちりした体つきの方でございました。安倍寛さんには奥さまがいなかった。だから、ご自分のお家へ帰っても誰もいないから、夜遅くなって、「ああ、お腹すいた。奥さん、頼む」なんて言って入ってらっしゃるんです。私のところにいらっしゃれば、すぐ三木が迎えて、二人で非戦論を語ることができるというので、よく来てくださったんですね。三木と二人で、戦争をしないためにはどうしたらよいか、この戦争を避けるためにはどうしたらよいか、ということを相談しておりました。


歳にすれば、私と安倍さんはいくつくらい違ったんでしょうか。二十歳くらい違ったのかもしれません。安倍寛さんの立派なお話を聞いていると、おっしゃることはとってもわかりやすくて、すばらしい方に思いました。立派なことをおっしゃっているなと思いながら、一所懸命に聞いておりました。そして、少しでもあるものをとっておいて、明日いらしたら、安倍さんに食べさせたいと思ったくらいです。


というのは、その頃はだんだん食料が少なくなってきておりまして、なかなか美味しい牛肉も手に入らないし、新鮮なお魚も手に入りにくくなっておりました。少しでも栄養のあるものは、安倍さんのために、あるいは三木武夫のために、そして夜中にこそこそっと食事をして、また闇の中に消えて行く人たちのために、取っておきたかった。


私は歳がだいぶ隔たっておりましたから、話が分かったような、分からないような、なんでございますけれども、何かそうしたお方たちのやることに共感を覚えるというか、敬意を表して、せめてなんとかしてお腹の足しになるようなものをと思って、一所懸命心がけていたものでございます。


安倍寛さんは、いつも何にも不服をおっしゃらずに、食べたらすぐに「さあ行こう」と言って、また闇の中に消えておしまいになりました。私は、ご苦労さまだなあと思いながら、どうぞまた今晩、また明日、というようにしてお見送りをしたものでございます。あの方がいったん口をついたらほんとうに凛々しくて、素敵な演説をなさっているのはよくわかっておりましたから、安倍先生のいらっしゃるときには、本当にできるだけのことをして差し上げなければいけないと思っておりました。


安倍さんは奥さまもいらっしゃらず、孤独で一所懸命日本中を走り回って、国民のために、あるいは、将来の日本のために働いていらした人でございます。帝国議会の衆議院議員でしたが、1942年の翼賛選挙では、三木と同じく翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選し、当時の軍部主導の議会を厳しく批判してがんばられた方です。


それを、今の新聞は何も書いてくれない。私はもう、腹が立って仕方ありません。もっともっと、新聞社の人がそこまで書いてくれれば…おじいさまの安倍寛さんがこういう方だったということを、この平和な日本をつくるためにどんなにかご苦労なさったのかということを、書いてほしかったのです。


今の私たちに、戦争も知らない、ほんとうに平和な時代をつくってくださったのは、安倍寛さんたちだったと思うのですけれども、それを新聞は一つも書かない。私は、新聞社の人は若いから何も知らないんだ、どうしてこれを教えてあげる人がいなかったか、と考えてみました。でも、いまや新聞社の社長だって何だって、みんな戦後に生まれた若い人ばっかりなのですね。戦後60年ですから、そろそろもう定年退職しなければいけない人たちが、新聞社を支配している。それじゃどうにもならない。


私は、少しでも声を大にして安倍寛さんのことを申し上げたい。こういう人が立派な言葉で、国民のために平和を説いたことを、皆さまにも知っていただきたいと、心から思います。

 

 

 

 

(「あなたのおじいさまはねぇ」/ 三木睦子・談/ 「いま、憲法の魂を選び取る」・岩波ブックレット№867 より)



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新聞社は嗅ぎまわって何かを書くのではなく、発表されたことをそのまま書く、っていう感想が、3・11原発災害以降のわたしたちには、ずしんと響く言葉ですよね。



この文章は、2007年6月9日、安倍さんの最初の政権時代に、9条の会の学習会で語られた、三木武夫元首相の奥さまのお話です。



このブックレットは、税込み525円のたいへんに財布にやさしい刊行物です。「壊憲」に向けて濠を埋めて行く第二次安倍政権の対米隷属外交への強烈な怒りを込めて、ぜひお勧めしたいです。大きな本屋さんでしか購入できないかもしれません。セブンイレブンで受け取れば送料、手数料なしで買えますので、ぜひネットでご注文ください。






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四月に想う

2013年04月03日 | 一般







■ 出発の季節




言葉の持つ ふしぎな響き


たとえば… 出発


なんという明るい匂いだろう

 




けれど 遠いむかし


暗い響きを帯びる出発もあった

 




この地球が砲煙弾雨に包まれた日だ


… ひとびとは死への道を出発し続けた

 




出発 という心打つ言葉に


いつでも 明るさを持たせたい


さわやかな喜びと光を担わせたい

 




未知なるもの に向かう道を


四月 あなたが出発する


わたしも 花を求めて出発する


目立たぬ草木にも 


春は花を恵むのだ

 

 

 



「行為の意味」/ 宮澤章二・作


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ひとは誰のために生きるのだろう。

 

ひとはみな自分のために生きる。


どこかよその軍事大国のためじゃない、


会社のためでもない、


誰かの利益のために、自分を犠牲にしてはならない。


悲壮な死に美を見いだすひとたちは、


死ななければ自分は認めてもらえないことを、内心ではとても怒っている。


そんな暗い人生を送ってはならない。


誰に認められなくても、ひとはみな偉大な存在だ。


人間といういのちを一生けんめい生きるひとはみな、


未知なるものに、怖れをふり切って立ち向かうひとはみな、


すごい存在だよ。


だから、


わたしたちを、犠牲の死を遂げたり、


英雄的な殺人を行うよう追い込む社会を作ってはならない。


すごいわたしたちをむだに死なせてはならないから。




 

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TPP 国民が知らなければならないほんとうのこと (2)

2013年03月31日 | 反アメリカンスタンダード宣言

 

 




「…それから最後にこのことを強調しておきたい。国内には『TPPに参加すれば有事の際に、米国に守ってもらえる』との声があるが、米国の対外政策の歴史を見てほしい。幻想から覚醒し、次世代のために全力で守るべきこの国の宝(例:世界にまれにみる国民皆保険制度など)のほうに目を向けてほしい(堤未果・ジャーナリスト/ 「まだ知らされていない壊国TPP・主権侵害の正体を暴く」/ 日本農業新聞・編)」。


安倍さんの政策はみなアメリカに迎合するのを主な動機としています。TPP交渉参加もそうです。新聞は数少ないメリットと思しきことしか伝えません。推進しようとしているひとたちの腹の底には、緊張を高めることしかできない中国外交で、これからも緊張を高め続けることができるように、アメリカの軍事力の応援を期待している事があるかもしれない。


対中、対韓強硬派の右翼たちは少なくとも、いざ中国との軍事衝突となったらアメリカ軍に頼ろうという気持ちがあったのだろう、少なくとも安倍さんたちには。だがアメリカ軍は少なくとも尖閣をめぐる衝突で日本に加勢する気持ちはない。最近ようやく安倍さんにもそれが理解できつつあるようだが。が、TPP交渉参加は、軍事同盟強化を謳う安倍さんの真骨頂だ。


右翼に扇動されない、いまや少数の市民派の人びとはよもやアメリカ軍が日本を助けるなどというヨタ話に希望を置いたりはしないだろう。日米軍事同盟とは何か、それをはっきりさせておくのに役立つ文章を二つ三つ紹介しておこう。

 



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なぜ在日米軍があるのかと言えば、日本国民は当然「日本を守るためだろう」と思います。では、米国人はどのように思っているのでしょうか。2010年12月24日付け朝日新聞は「米軍は何のために日本にいるのか?」という世論調査を行いました。回答結果は次の通りです。音国務長官の


・日本の防衛のため          日本42%     米国 9%

・米国の世界世界戦略のため    日本36%     米国59%
・日本の軍事大国化を防ぐため    日本14%     米国24%


この調査結果はある意味で驚きです。歴史的なことを少し見ていきたいと思います。


日本は1951年講和条約を結びます。この時、吉田茂首相は講和条約を早期に締結するために、「米軍の駐留を認めてもよい」と米国側に述べています。元国務長官のダレス特使は日米安保条約の締結交渉で、米国の方針を「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保できるだろうか、これが根本問題である」と指摘しています。


この意志は、日米行政協定(後、基本的に同じ内容で日米地位協定に引き継がれている)に巧妙に組み込まれています。ダレスは「フォーリン・アフェアーズ」1952年1月号で、「米国は日本を守る義務をもっていない。間接侵略に対応する権利はもっているが、義務はない」と書いています。


米国が日本に自国の軍隊を置いているのですから、質問の答えは当然、米国人の方がより正解に近いと思われます。その米国人が、「日本の防衛のため」は9%です。ところが、日本人は42%もいるのです。これは明らかに、日本人が操作され、誘導された結果です。


1960年の安保条約では「日本国の施政下への武力攻撃のときには、自国の憲法上の規定および手続きにしたがって対処する」としています。米国の憲法では交戦権は議会にありますから、この約束は「議会にお伺いを立てます」以上の意味はありません。


歴史的経緯を踏まえれば、米国の日本駐留は「日本の防衛のため」ではなくて、「米国の世界戦略のため」なのです。しかし、日本は「思いやり予算」で、基地受け入れ国負担では全世界の半分以上を負担しています。さらに自衛隊を米国戦略の一環に使う動きが強化されています。「米軍の駐留は日本の防衛のため」という宣伝が行われてきた理由は、ここにあります。

 

 




(「これから世界はどうなるか」/ 孫崎享・著)


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アメリカ自身には積極的に日本を防衛しようという気持ちはないけれども、お花畑な日本人右派が日本国民に対して、アメリカは日本防衛をしてくれると期待するよう宣伝するのを放置してきた。それは「自衛隊を米国戦略の一環として使役する」意図があるからです。たとえば1990年代には、このような報告書がアメリカ議会で作成されました。



 

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アメリカの対日戦略会議の内容は次のようになっています。アメリカの対日戦略会議というのは、いわゆる “ジャパン・ハンドラーズ” です。ジョゼフ・ナイ(ハーバード大学名誉教授、元国務次官補)が興味深い報告書を知らせています。「対日超党派報告書」と呼ばれているものです。


①東シナ海、日本海近辺には未開発の石油、天然ガスが眠っており、その総量は世界最大の産油国サウジアラビアを凌駕する分量である。アメリカは何としてもその東シナ海のエネルギー資源を入手し寝ければならない。


②チャンスは台湾と中国が軍事衝突を起こした時である。当初、米軍は台湾側に立ち、中国と戦闘を開始する。日米安保条約に基づき、日本の自衛隊もその戦闘に参加させる。中国軍は米日軍の補給基地である日本の米軍基地、自衛隊基地を本土攻撃するであろう。本土を攻撃された日本人は逆上し、本格的な日中戦争が開始される。


③米軍は戦争が進行するに従い、徐々に戦争から手を引き、自衛隊と中国軍との戦争が中心となるように誘導する。


④日中戦争が激化したところで、アメリカが和平交渉に介入し、東シナ海、日本海でのPKO(平和維持活動)を米軍が中心となって行う。


⑤東シナ海と日本海での軍事的、政治的主導権をアメリカが入手することで、この地域での資源開発に圧倒的に優位な権利を入手することができる。


⑥(この)戦略の前提として、日本の自衛隊が自由に海外で軍事活動できるような状況を形成しておくことが必要不可欠である。




実に怖ろしい内容です。このアメリカ政府の戦略文書は、クリントン政権時代、CIAを統括する大統領直属の国家安全保障会議NSCの議長で、東アジア担当者でもあったジョゼフ・ナイが上院下院の200名以上の国会議員を集めて作成したものです。対日本への戦略会議の報告書です。

 

 




(「今、『国を守る』ということ」/ 池田整治・元自衛隊陸将補・著)



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どうです、アメリカの右派というのは人間味あふれるひとたちではないですか。わたしは中国共産党や北朝鮮などよりもアメリカ右派の方が何倍も怖ろしいです。ところがこんな連中に安倍さんはなんと媚を売った演説をしているのです。




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2月、安倍首相は訪米した。このとき、首相訪米の性格を如実に示す出来事があった。


2月22日、安倍首相は米国のシンクタンク、戦略国家問題研究所(CSIS)で、「日本は戻ってきた」と題する講演を行った。その場で安倍首相は、「ジャパンハンドラー」に媚を売る以外の何物でもない態度を恥ずかしげもなく晒したのである。


「ハムレさん、ご親切な紹介ありがとうございます。アーミテージさん、ありがとうございます。グリーンさんもありがとうございました。そしてみなさん方本日は、おいでくださいましてありがとうございます。昨年、リチャード・アーミテージ、ジョセフ・ナイ、マイケル・グリーンやほかのいろんな人たちが、日本についての報告書を出しました。そこで彼らが問うたのは、日本はもしかして、二級国家になってしまうのではないだろうかということでした。アーミテージさん、わたしからお答えします」…と。


ジャパンハンドラーとして知られるアーミテージ氏に報告するという形で演説を始めている。この神経はいったい何だろう。演説の冒頭は、ふつう重要な来客に向けて発するものであり、安倍首相の言説は、今回の演説の主要なゲストがCSIS所長のハムレ氏、アーミテージ氏やグリーン氏だったことを示している。とても一国の首脳による演説の主要ゲストのレベルではない。一方で、現役の政治家や政権担当者は出てこない。つまり、オバマ政権の中枢にある人々は、安倍首相には重要な聴衆ではなかったのだ。


ハムレ氏はCSIS所長といっても、元米国防副長官レベルである。


アーミテージ氏は元米国務副長官ではあるが、2003年7月にCIAリーク事件で糾弾された人物である。CIAリーク事件とは、ウィルソン元駐イラク大使代理が、イラク戦争に関して2003年7月6日付けニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報がねじ曲げられていると寄稿して世論に訴えたことに端を発する。これを受け、2003年7月14日、ウィルソンの妻がCIAエージェントであるとの報道がなされた。露骨な報復である。CIA工作員であることが表向きにされれば活動はできなくなる。(ブログ主註;たしかナオミ・ワッツ主演で映画にもなったと思う。タイトルは忘れた)このリークにアーミテージ氏が関与したことを認めたため、米国内での同氏の威信は著しく低下した。


マイケル・グリーン氏はジョージタウン大学准教授に過ぎず、ジョセフ・ナイ氏もハーバード大学名誉教授であっても、公的には国務次官補経験者に過ぎない。


このレベルの人びとに、一国の首相が演説の冒頭でお礼を言わなければならないほど、来場者のレベルが低かったのだろう。


しかし、ハムレ氏、アーミテージ氏、グリーン氏には共通点がある。それは彼らが「日本を操る人びと」、すなわちジャパンハンドラーと呼ばれるグループに属していることである。こうした人びとに一国の首相が米国の公けの研究所でお礼を述べるというのは、“ご主人” さまにお礼を言うようなものである。

 




 

(「国家主権投げ捨てる安倍政権」/ 孫崎享・著/ 「世界」2013年4月号より)


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右翼のみなさん、冒頭のへつらいの文句を言う相手が、中国の最高権力者である習近平さんだったら、どう思いますか。まずまちがいなく、こめかみの血管が見る見るうちに膨張して破裂するでしょう。ところがこのセリフが言われたのはアメリカのオバマ大統領でもなく、その側近でもない、日本の自衛隊を道具にして、戦争を引き起こし、日本近海のエネルギー資源への優先権を獲得しようというアイディアを打ち出した、下級クラスの人びとに対してだったのです。


わたしたち日本人はこんな人に政権をゆずったのです。安倍さんの「ご主君」であるアーミテージ氏やナイ氏は二級クラスの人びとではあるが、対中国強硬派でもあります。日本の右派の人びとや安倍さんとはこの点で気持ちが通じ合うのでしょう。アジアへの偏見と、個人的な劣等感を埋め合わせる民族主義的優越感を達成しようとする人びとによる対中国強行突破路線を選択したあげくの売国行為です、TPP参加も自衛隊の集団的自衛権行使解禁も。池田さんの文章の⑥にあったように、自衛隊をつかった対中国代理戦争を実現させるためにも、自衛隊が海外で戦争ができるように環境を整える必要があり、安倍政権と自民党、民主党右派と石原慎太郎と維新塾の橋下が憲法改正をもくろんでいます。


だますひとたちは確かに悪い。無慈悲で他人の痛みに何の同情も持つことができない。社会人の失敗作のような人たちです、だますひとたちは。だが、だまされる人たちはじゃあかわいそうなのかと言えば、それはちがう。だまされる人たちはただただ愚かなのだ。知力が低いのだ。木ばかり見て森を俯瞰できないのだ。これはひょっとしたら、人間界における「自然淘汰」の特殊な形態なのかもしれない。自然界では弱者が淘汰されてゆく。人間界では愚か者たちが食い物にされたあげく捨てられて、淘汰されてゆくのだ…。






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TPP 国民と国会議員が知らなければならないほんとうのこと (1)

2013年03月13日 | 反アメリカンスタンダード宣言






毎日新聞の大阪版2013年3月18日付朝刊一面に、こんな記事が掲載されていた。


「毎日新聞世論調査:TPP交渉、支持63% 内閣支持、70%に上昇」


会社の食堂で読んだから今は手元にないので正確には書けないが、2面には、1500世帯ほどにランダムに電話をかけ、六十数パーセントの有効回答を得た、という。およそ1000人弱だ。

内訳は、
「毎日新聞は16、17両日、全国世論調査を実施した。安倍晋三首相が環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への交渉参加を正式表明したことについて
「支持する」との回答は63%で、
「支持しない」の27%を大きく上回った。
 安倍首相の経済政策により、景気回復が
「期待できる」と答えた人は65%に上り、
「期待できない」は30%にとどまった。
安倍内閣の支持率は70%に達し、2月の前回調査から7ポイント上昇。
「支持しない」は5ポイント低下し、14%だった。


 TPP交渉参加の支持は30代以上の世代で6割前後に及び、不支持を上回った。一方、20代では不支持が50%を占め、支持の47%と逆転。市場開放で雇用機会が奪われることに警戒感もうかがえる。地域別にみると、北海道の不支持は53%に上り、支持40%より高い」。

 

 

みなさん、こんな数字を見せられて、「ああ、TPPは参加がトレンドだな、ま、いいか」などと思わないでください。「世界」の今月号に、ずっとTPPの危険性を訴え続けてこられた鈴木宣弘東京大学助教授の魂を絞り出すような訴えが掲載されています。今回、それをご紹介します。


まず、世論調査の数字をどう読むかについて、鈴木助教授はこのように述べておられます。

 

 

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各種世論調査では、TPP推進の声が多いかのように出ているが、人口の4割が集中する首都圏中心に行われる、わずか1000人程度の世論調査の結果は誤解を生む。首都圏の人口を支えているのも、北海道から沖縄までの全国の地域の力である。人口は都市部に多くても、単純に人の数だけで評価されるべきではない。


全国の多くの地域がTPPに反対している。都道府県知事で賛成と言っている方は6人しかいないし、都道府県議会の47分の44(44/47)が反対または慎重の決議をし、市町村議会の9割が反対の決議をし、地方新聞紙はほぼ100パーセントが反対の社論を展開している。


だから、都道府県ごとに世論調査をして47の結果を並べてみれば、圧倒的に反対の声が大きいはずである。だからこそ自民党議員の6割以上がTPP反対を唱えているのである。


しかし、このような全国各地の地域社会の声が、東京中心のメディアの発信では伝わらない。全国の真の声を共有しなくてはならない。

 

 

 

(「世界」2013年4月号/ 「許しがたい背信行為」/ 鈴木宣弘・著)

 

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現に、安倍首相の参加表明後、山形県では850人の反対集会が行われた。毎日新聞の世論調査の賛成派600人ほど(1000人中の60パーセント強)よりも多い人数だ。第一、大手新聞社は企業役人サイドに立った情報しか流さないのに、国民がどうして正確な判断を下せるだろうか。鈴木助教授は国民に隠されてきた情報をいくらか紹介してくださっている。

 

 

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安倍総理は、オバマ大統領から「聖域なき関税撤廃を前提としないことを明示的に確認した」としているがしかし、共同声明は、「全品目を対象として、高い水準の協定をめざす」ことを確認したうえで、「交渉に入る前に全品目の関税撤廃の確約を一方的に求めるものではない」と形式的には当たり前のことを述べているだけで、「例外がありうる」とは言っていない。

 


「早く入れば交渉が有利になる」、「交渉力で例外も作れるし、嫌なら脱退すればいい」というのもきわめて困難である。そもそも米国は、「日本の承認手続きと言9か国による協定の策定は別々に進められる」と言っている。最近、米国がメキシコやカナダの参加を認めたときも、屈辱的な「念書」が交わされ、「すでに合意されたTPPの内容については変更を求めることはできないし、今後、決められる協定の内容についても口を挟ませない」ことを約束させられている。つまり、日本がどの段階で交渉に参加しようが、法外な「入場料」だけ払わされて、ただ、できあがった協定を受け入れるだけで、交渉の余地も、脱退で逃げる余地もない。

 


共同声明では「自動車部門や保険部門に関する残された懸案事項」について日本が早急に「入場料」を支払うよう明記された。「その他の非関税措置」についても対処を求められた。例外品目確保の保証を得られず、「入場料」だけを一方的に求められるようなものだ。この「入場料」交渉については、国民にも国会議員にも隠されてきたが、今回の共同声明で「公然の秘密」になった。国民には「情報収集のための事前協議」とウソを言い続け、水面下では、自動車、郵政、BSE(狂牛病)の規制緩和など、米国の要求する「入場料」に対して必死で応えようとする裏交渉を進めてきた。

 

 


(上掲書より)

 


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一番めのことについては、わたしたち素人でも見当がついていました。二番めについては、安倍さんは交渉作りリードも撤退もできないことを知っているのです。それはこのあと引用する「しんぶん赤旗」の記事にある安倍首相の反応を読めばわかります。三番めについて、みなさんはどう思われたでしょうか。「保険部門」の規制撤廃を「入場料」として決めるようにという交渉が、アメリカの要求にこたえようとする方針で裏で進められてきており、それが国民と、そして国会議員から隠されてきた、というのです。いったい、TPP導入を推進しているのはだれなんでしょう。


みなさん、日本を愛する人たち、右翼の人は読みたくない「世界」ですが、この記事と続く孫崎さんの記事だけは目を通してください。買うのが嫌なら図書館で読むなどして。この記事と孫崎さんの記事はつづけてわたしのブログで紹介してゆきます。


以下、しんぶん赤旗の記事2本を引用しておきます。

 

 


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■首相“合意ずみルール変更できぬ”

 


 安倍晋三首相は会見で、「TPPが目指すものは太平洋を自由にモノやサービス、投資などが行き交う海とすることだ。世界経済の3分の1を占める大きな経済圏が生まれる」と強調。中国、韓国、インドネシアなどアジアの主要国がTPPに参加していないことには触れず、「日本だけが内向きになったら成長の可能性もない、優秀な人材も集まらない」とし、「アジア太平洋の未来の繁栄を約束する枠組み」とTPPを絶賛しました。


 安倍首相は、農業や医療保険制度などへの深刻な影響が懸念されていることに対しては、「だからこそ衆院選挙で聖域なき関税撤廃を前提とする限りTPP交渉参加に反対すると明確にし、国民皆保険制度を守るなど、五つの判断基準を掲げた」と強弁。交渉参加表明によって公約を踏み破っているという批判には耳を貸さず、「交渉力を駆使し、守るべきものは守り、国益にかなう最善の道を追求する」とのべるだけで、何の担保も示しませんでした。しかも、「すでに合意されたルールがあれば、遅れて参加した日本がそれをひっくり返すことが難しいのは厳然たる事実」と述べ、不利益な条件を受け入れざるを得ないことを認めました。


 また記者団から、「国益に反する場合、交渉から撤退するのか」との問いに明言を避けました。

 安倍首相は、TPPの意義は経済効果だけにとどまらないとし、「同盟国である米国と共に、新しい経済圏をつくる。そして自由、民主主義、法の支配といった普遍的価値を共有する国々が加わり、アジア太平洋地域における新たなルールを作り上げていく」と述べました。

 

 

 


■安倍首相のTPP交渉参加表明に強く抗議し、撤回を求める
日本共産党幹部会委員長 志位 和夫
   

 


 一、本日、安倍首相は、TPP交渉参加を表明した。安倍首相は、交渉のなかで「守るべきは守る」などとしているが、いったん参加したら「守るべきものが守れない」のがTPP交渉である。日本共産党は、安倍政権にたいし、TPP交渉参加表明を行ったことに抗議するとともに、参加表明の撤回を、強く求めるものである。


 一、TPP交渉で、「守るべきものが守れない」ことは、さきの日米首脳会談と共同声明からも明らかである。安倍首相は、日米首脳会談で「聖域なき関税撤廃が前提ではないことが明確になった」というが、これは国民を欺く偽りである。


 首脳会談で発表された共同声明では、「TPPのアウトライン」に示された「高い水準の協定を達成」する――関税と非関税障壁の撤廃を原則とし、これまで「聖域」とされてきたコメ、小麦、砂糖、乳製品、牛肉、豚肉、水産物などの農林水産品についても関税撤廃の対象とする協定を達成することを明記している。「聖域なき関税撤廃」をアメリカに誓約してきたのが日米首脳会談の真相である。


 国民皆保険、食の安全、ISD条項など、自民党が総選挙で掲げた「関税」以外の5項目についても、安倍首相は一方的に説明しただけで、米側から何の保証も得ていない。TPPに参加すれば、非関税障壁の問題でも、アメリカのルールをそのまま日本に押し付けられることになることは、明らかである。


 一、さらにTPP交渉では、新規参入国には対等な交渉権が保障されず、「守るべきものを守る」交渉の余地さえ奪われている。

 昨年、新たにTPPに参加したカナダ、メキシコは、
(1)「現行の交渉参加9カ国がすでに合意した条文はすべて受け入れる」、
(2)「将来、ある交渉分野について現行9カ国が合意した場合、拒否権を有さず、その合意に従う」、
(3)「交渉を打ち切る権利は9カ国にあって、遅れて交渉入りした国には認められない」
――という三つのきわめて不利な条件を承諾したうえで、参加を認められたと伝えられている。日本政府も、この事実を否定できず、安倍首相は、「(交渉参加条件は)判然としない」「ぼやっとしている」と、真相をごまかす答弁をおこなっている。


 「ルールづくりに参加する」どころか、アメリカなど9カ国で「合意」したことの「丸のみ」を迫られるのがTPP交渉である。


 一、今回の交渉参加表明は、自民党の総選挙公約――「聖域なき関税撤廃を前提とするTPP交渉に反対する」「関税以外の5項目でも国益を守る」――を、ことごとく踏みにじるものである。国民への公約を踏み破るものがどういう運命をたどるかは、前政権が示していることを、自民党は銘記すべきである。


 日本共産党は、農林水産業、医療、雇用、食の安全など、日本経済を土台から壊し、経済主権をアメリカに売り渡すTPPの実態を国民に広く知らせ、TPP参加反対の一点で国民的共同を広げるために、力を尽くす決意である。

 

 

 


しんぶん赤旗2012年3月16日、17日付より


 


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原発のコストのからくり

2012年12月02日 | 反アメリカンスタンダード宣言







ヤフーブログで、石原慎太郎フリークに、原発がなければ日本経済は立ち行かない、とボケている人物に絡まれています。しかしそのような言説がそれらしく広まっているのであれば問題だと思います。もちろん、多くの人びとはそんな言説に振り回されてはいないでしょう。しかし、うちのヤフーのほうのブログに絡んでいる人物のように本気で思い込んでいる人びともおり、橋下の「ファシス党」が人気を得ている日本の現状ですから、ちょっとこんな資料を提供しておこうと思います。以下はヤフーのほうでアップした記事のコピーです。







 日本の火力発電はほとんどが天然ガス、LPガスで動いている。天然ガス火力の発電は、発電単価でみれば一目瞭然だが、圧倒的に原子力発電より安い。さらに安いのは石炭火力。日本では高騰する石油ではほとんど火力発電に使われていない。


ではなぜ、日本の発電で燃料費が増えているのだろうか。また、日本の電気料金が世界で最も高額なレベルだと言われるのはなぜだろうか。それは国家による電力会社優遇制度があるからだ。「総括原価方式」といわれている。



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アメリカでは、原発よりLNG(ガス)火力のほうがはるかにコストが安い。だからアメリカでは、電力会社がコスト高の原発よりも、石炭火力とガス・コンバインドサイクル(ガス火力発電システム)が大普及してきたのである。


その後、アメリカで新規の原発建設計画が打ち出されてニュースになったが、それも政府の補助金が付かなければ電力会社は原発を建設できない、というのが実情だ。さらにいまアメリカでは、「シェール・ガス革命」によるガス価格の急落が起こっており、現在ではコストの安さではガスが圧倒的に優位になっていて、原発建設は論外になっている。

ところが、低価格のはずのガスが日本では、アメリカでの価格の8倍の値段で輸入している。これは国際市場原理を無視した日本の電力会社の怠慢経営が原因である。

その原因とは「総括原価方式」にある。電力会社は公益事業者であるという理由から、、国家から保護を受けており、今もって3%の利益率(事業報酬率、あるいは適正報酬率とも呼ばれている)が保障されているのだ。

一般企業であれば、原価を圧縮して利益率を高めようとする。
(註:原価が100、利益が12だったとする。原価を90に圧縮すれば利益12の原価に対する割合は大きくなる。)

ところが日本の電力会社は、原価に対して一律3%の利益率が政府によって保証されている。
(註:つまり、原価が100であるよりも200であった方が、原価に対する3%の利益率により、利益は3から6に増える。これが日本の電力料金が世界一高い事情をつくっている原因。)

かつては、この利益率が8パーセントだった。だから、原発建設費 + 運転・維持費 + ウラン燃料費 + 使用済み核燃料(高レベル放射性廃棄物)の処分費用 + 廃炉費用 + 地元への交付金・寄付金+メディアによる「安全神話」宣伝費などで出費がかさめばかさむほど、浪費すればするほど利益額が増えて儲かる仕組みになっている。

したがって電力会社は、一般企業が必死になって払っている原価を縮小しようという努力をまったくしないでも、寝ていても利益が転がり込んでくる。そのため、アメリカの8倍もの輸入価格で天然ガスを購入しても、痛くもかゆくもない。痛いどころか、出費がかさめばかさむほど利益額が増えるのだ。

だからガス料金を下げる努力をしなくても、その出費分は消費者の電気料金に転嫁するのである。われわれ消費者が、電力会社の怠慢のツケを支払っている、というわけだ。これによって関連業界が潤うというのだから、ネズミ講の詐欺と呼ばずになんというか。

なぜガスを世界市場価格の8倍で買うのかといえば、石油価格との連動性になっていて、ガスを石油の値段で買う仕組みになっているのだ。

こうして電気の原価が高くなればなるほど、電力会社は利益を増やしてきた。これが安いはずのガス火力発電の焚き増しのために費用がかさばった理由だ。そしてこれが電気料金の値上げに直結した。



原発推進者たちが二言めには、「原発がなければ、電力コストは上昇する」と主張して、この脅しを受けたかなりの企業が「原発必要論」に傾斜している。いわく、「全国の原子力発電所の運転停止が長引いた際、来年の夏は、全国的に電気料金が10パーセントほど上がる。経営合理化ではこのコストを吸収できない(2012年5月21日、枝野幸男経済産業相)」などというのは、もちろんこの「総括原価方式」を知ってのことだから、私は電力会社とメディアと経産省と政治家はグルだというのである。

逆に、原発を維持していることが、どれほど電力会社の経営を圧迫しているか。

電力会社が一年間に原発の維持・運転に要する費用は、2011年3月の有価証券報告書によれば、電力会社9社合計(原発のない沖縄電力を除く)で1兆7040億円にも達する。電気料金の燃料費というのは、原発のために数年先のウラン燃料まで買いつけてあるので、その維持管理費の分の費用が運転停止中の原子力発電所でもコストにかかって、大量の無駄な出費が決算にでているのである。

2011年2月27日、日本産業医療ガス協会の豊田昌洋会長が記者会見して、東電が4月から1kw時あたり平均2・51円(17%)の電気料金値上げをしようとしていることに対して、「電気料金を算定する原価から原子力発電にかかわる費用をすべて除けば、値上げ幅を0.9円程度に圧縮できる」と主張し、「燃料の増加など理屈に合う部分は受け入れるが、発電していない原発費用まで含めるのは、ビジネスの原理としておかしい」と東電を強く批判したのはそのためである。

また、原発依存度が高い電力会社ほど純損益が悪化していて赤字が巨額になっている。東電は福島事故によって破たんしているので現状では赤字は無限大だが、東電を除外すれば、関西電力、九州電力といった原発にどっぷりつかっている会社が、純損益▲2500億、九電が▲1700億である。原発のない沖縄電力は500億ほどの黒字になっている。

過日、同志社大学の室田武教授が、電源別の発電コストを正しく比較して教えてくれた。室田教授は、もともとわが国で最初に、電力会社の「総括原価方式」のトリックを明らかにした先駆者である。福島原発事故の後、大手メディアが室田教授をほとんど取材しないのは、まったくおかしなことである。

室田教授によれば、電力会社に電気を売る卸電気事業者として日本原子力発電(日本原電)は敦賀原発と東海大二原発を運営していて、原子力発電所しか運転していない。それに対して卸電気事業者の電源開発(社名。Jパワーとも呼ばれる)はこれまでのところ、火力と水力がほとんどで、火力はすべて石炭火力である。この両社の卸電力単価を調べると、

           原子力        石炭火力

2006年     10円/kw時     7円/kw時
2007年     13円/kw時     7円弱/kw時
2008年     14.5円/kw時   9円強/kw時
2009年     12円/kw時     7.5円/kw時
2010年     11円/kw時     7.5円/kw時

…というように、石炭火力に比べて、原子力が非常に高い卸電力単価で電気を売っている。つまり、日本の実際の市場で原子力がコスト高であることは明らかである。むしろ、原発がなくなれば、電気料金は値下げされる運命にあるということだ。また、この調査から、石炭火力がコスト面での優等生であることがわかるだろう。


今夏の関西地方で電力不足が起こらなかったことが実証されたため、経団連や日本政府などが、言うに事欠いて、「原発がなければ、電気料金値上げのため、日本企業が海外手逃避する」といった新たな脅しをかけ始めてているが、ほとんどの日本企業の海外移転は原発が54基も猛烈に運転されていた時代に起こった現象である。原発に依存する日本が世界一高い電気料金だったからなのだ。





(「原発ゼロ社会へ・新エネルギー論」/ 広瀬隆・著)


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新聞、TVメディアとは全然違いますよね、この情報。原発以外で頼れるのは火力発電のみ、とまるで火力発電が原発よりコスト高であるかのようにいう、マスコミと政府と官僚を抱き込んだ電力マフィアの情報に洗脳された人々が言うのですが、火力発電のほうが安く電気を提供してきているのです。


それに、頼れるのは火力発電のみ、という認識もメディアに踊らされています。私が小学生だった時代は高度経済成長期末期でしたが、その時代は水力発電が主力でした。小学校の社会の授業では、水力発電が主力だと書かれていました。日本の高度経済成長は主に水力発電と火力発電によって賄われてきたのでした。いまほど家庭への普及はなかったものの、オフィスや、公共の建物ではクーラーはガンガン効いていました。これはあのアホ右翼の小林よしのりも同じ証言をしています。

今度はやはりメディアに騙されていない経済学者の書いたものをご紹介しましょう。




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まず原子力から離脱すると経済に悪影響を及ぼすという懸念についてみよう。最もポピュラーなのは、原発を停止すると、その分火力発電所を稼働させる時間が長くなり、化石燃料の焚き増しが増え、燃料費が増えて発電コストが上昇し、結果的に電気料金が上がるとする考え方である。

典型的なものは、革新的エネルギー・環境政策を策定するために設置されたエネルギー・環境会議(構成員は関係閣僚)の決定(2011年7月29日)で示されている試算である。これによれば、原発が定期検査で次々と停止し、このまま再稼働できない場合、2012年には原子力発電がゼロになる。その足りない分を石炭やLNG、石油などの火力発電所に依存すれば、火力発電の燃料費が増大し、全国で3兆1600億円ほど負担が増えるというのである。

ここにはいくつか検討すべき点が残されている。まず、燃料の焚き増しがどれだけあるかは、電力需要に依存しているという点である。省エネ投資、省エネ危機の購入などにより、電力需要を抜本的に引き下げることができれば、焚き増しはその分少なくなり、追加費用も減少する。したがって、節電をセットにして、焚き増しによる費用を考える必要がある。

仮に、節電がまったく行われず、電力需要が従来通りであるとした場合、再生可能エネルギー普及がまったく進んでいない現状では火力の焚き増しがあることは確かである。ただしここでも注意すべき点がある。それは原子力発電をなくせば(=廃炉にすれば)、火力用の燃料費が増える半面、原子力発電に罹っていた費用を節約できる。原子力発電をなくすことのコストのみを強調し、便益を見ないのでは一面的な議論に陥ってしまう。




(「原発のコスト」/ 大島堅一・著)


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さて、大島立命館大学教授の文章にあるとおり、再生可能エネルギーでは、日本は大きく立ち遅れています。意図的にそうしているのではないかと、わたしは個人的に疑っておりますが、実際に再生可能エネルギーはどれほどのポテンシャルを持っているのでしょうか。また折を見て、再生可能エネルギーについて、資料をご紹介します。


急に選挙が行われることになって、候補者を見れば、経済右翼と反動右翼ばかりが目について誰に投票していいかわからない状況です。顔ぶれを見る限り、だれが政権を取ってもわたしたちの暮らしのことを本気で顧みてくれるとは想像できません。でも、選ばなければならない。ただ、情報がきちんと伝えられていないのは深刻な現状です。原発報道がその典型です。石原のように尖閣騒ぎを起こして、地方の庶民の暮らしをどん底に陥れるわ、原発を再稼働させようとするわ、の、あたかもわたしたちが身分制度における下級庶民であるかのようなものの見方には心底憤りを覚えます。

とにかく、原発についての政府や産経新聞の情報は偏向であることが暴露されてきていますから、原発についてどういう方針かを見ることで投票行動の基準にできるかもしれません。候補者の原発に対する態度は、その候補者の目が黒いか濁っているかを見分けるバロメーターになるのではないかと思います。どうか産経=石原慎太郎派に洗脳されてしまった人々に踊らされないようにしてください。国家が大事だから、国民は国家のために死ね、といったのは戦前の日本の精神思考でした。みなさんは本当にそんな時代に戻っていいんですか。

近代立憲主義は、国民が生きることのための国家である、という前提に立っています。土台はわたしたちです。尖閣を守るために国民は血を流せと言う石原慎太郎や山谷えり子の考えは、たとえていえば土台を壊した高層建築物です。そんな建築物は立っていられません。だからそんな考えは空想の産物なのです。わたしたちはもう小泉郵政選挙のような失敗をしてはならない、東京都民や大阪府市民が人物を判断する基準としてもっている、「乱暴な口をきく人物、強気の発言をびしっと言ってくれる人物が頼りがいがある人物だ」というような、ゆがんだ考え方をしてはならないのです。







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洗脳殺人

2012年10月29日 | 一般
 
 
 
 
 
 ハチの中で最も凶暴とされるオオスズメバチの巣は幾層にも地中に連なり、専門家も幼虫の数と底の見えない姿に驚くことがあるそうだ。近づけば、命を失う場合もある。危険度の高さに身の毛がよだつ。

 今、世間を騒がしている兵庫県尼崎市の連続変死事件も、別の死体遺棄で起訴された女(64)の周辺で新たな事実や疑惑が次々と浮かび、驚く。家族や類縁が複雑に絡み、事件は幾層にも連なって見える。

 報道によると女は豪華な自宅で集団生活し、暴力で支配。介入された家族は崩壊、資産が消えたという。7年前は沖縄で義妹の夫が転落死して保険金が動いた。身近にもあった事件に恐ろしくなる。

 女の周辺では民家の床下から3人の遺体が発見され、別の遺体のコンクリート詰めも明らかになっている。事件では8人が死亡・行方不明とされる。女が首謀者であるならば、まさに「鬼の所業」である。

 謎めくのはなぜ周囲をマインドコントロールすることができ、犯罪が連鎖していったかだ。普通の日常に潜んでいた深い闇。捜査の目が十分だったかも含め疑問がわく。

 ハチの世界では、働きバチを得て生きる女王バチは絶対的で、駆除では奥に続く巣を徹底的に掘り起こすという。第二の事件を未然に防ぐ意味でも、警察や司直は事件の徹底解明を急いでほしい。(中島一人)
 
 
 
 
 

沖縄タイムス 2012年10月28日 09時30分



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「謎めくのはなぜ周囲をマインドコントロールすることができ、犯罪が連鎖していったか」。

20世紀の終わりに起きた、北九州家族監禁殺害事件でもこのような疑問が聞かれた。

「なぜ」と聞くのは、家族同士が暴力をふるいあって、殺害するように仕向けさせる、なんてことが、人間に起きうるはずがない、という考え方を信じているからだ。

逆なのだ。人間は本来非常に弱い存在であり、常識人に備わっている倫理観などは、平和で安定した環境に置かれている、という条件のもとでのみ機能しているのであって、異なる環境、異なる処遇という条件下ではそんなものはもろく崩れてしまうのだ。

人間の倫理観、常識感覚という内面性が他人にまったく乗っ取られてしまい、他人の思うままにコントロールされる、というようなおどろおどろしいことは信じたくないだろう。だがそれは古い時代から当たり前に行われてきたことなのである。

20世紀に入って、中国共産党が西側の捕虜の「思想改造=共産主義への転向」を目的として編み出した説得プログラムがある。それが「洗脳 (Brainwashing) 」だ。名づけたのはアメリカ人のジャーナリストだという。朝鮮戦争で捕虜になったアメリカ人兵士が受けた尋問と教化を取材して、中国共産党による思想改造の一連のプログラムを指して使った言葉だとされている。

個人の自由意思もアイデンティティも破壊してしまう「魔術的な奥義」というイメージで人々に広まりショックを与えたため、社会心理学者たちによって、詳細に研究された。その研究にはアメリカ軍も「軍事的価値」を認めて協賛したという。

洗脳の手法については、
①解凍
②変革
③再凍結
という手続きが取られたのだという。

「解凍」とは、洗脳される対象の人間がそれまでの生活体験、教育などで培われた人となり、その人らしさ(個性)などを壊してしまう過程をいう。「解凍」の操作方法は、食事制限、睡眠制限、プライバシーの剥奪(トイレやオナニーも監視されながら行われる)、果てしなく続く苦痛(暴行、拷問、尋問)、独房での監禁、仲間からの非難、仲間を裏切らせられ、そのことへの自責、問いかけには一切答えてもらえないことなどが加えられる。

「解凍」手続きの効果がまさに自分の人となり、自分らしさを作っている信条・信念への自信喪失、さらに進んで自己概念(アイデンティティ)喪失に至らせられるのである。そうした自己概念の喪失からくる強度の不安に、不慣れな環境からくるストレスも相まって、捕虜は絶望と恐怖に陥れられる。同じ捕虜仲間への非難が始まり、それが自己のプライドを傷つける。仲間を裏切ったという恥の気持ち、罪悪感の気持ちによって、自分で自分のプライドを破壊し始める。

人間にとってもっとも避けたいものは、恐怖でもなく、不幸でもない、実は「不安」だ。人は不安から逃れるためならば不幸な環境で生きるほうを選ぶ。「解凍」の最終段階では捕虜たちは自分を全く喪失するという極度の不安に陥れられている。こうなれば捕虜たちはどんな自白も始めるという。



話が脱線するが、日本の警察もこの手法を使って自白を引き出してきた。被疑者がいくらほんとうの主張を繰り返しても一切聞き入れられない。いつ帰れるかわからない、会社にも行けない、そんな状況に置かれたうえで、ただただ警察が書いたシナリオ通りに喋らなければ罵倒や侮辱が延々と続けられ、それが被疑者のアイデンティティを傷つけ、自己喪失に誘導されるのだ。これが冤罪の生じる根本原因だ。



話を元に戻そう。捕虜がそこまで追い詰められた時点で、今度はやさしい処遇がはさまれるようになる。手錠や鎖などの身体的拘束が解かれ、睡眠時間が与えられる。褒められたり、食事がふやされたりする。この段階から「変革」手続きに入る。完全な自己喪失に陥っている捕虜は自分らしさを与える何かにすがりつきたい心理状況にあるときに、思わぬ寛容が示され、相手にその寛容にすがるようになる。それとともに、相手が主張する共産主義イデオロギーを自分らしさの土台として受け入れるようとするのだ。そうすることによってアイデンティティーを獲得しようとするのだ。人間は自分が「透明(酒鬼薔薇聖斗・談)」であり続ける不安(=アイデンティティを喪失した不安)には決して耐えられない生き物なのだ。

そして「再凍結」段階で共産党員たちは、新しい価値観を受け入れた捕虜に積極的に支持と快適な応対を与える。それによって捕虜たちは、世界が一気に広がり、解放されたような気持になるのだという。

このような人格改造プログラムはどんな人間であっても有効な手法だ。それは頻繁に起こる冤罪の自白、カルト宗教事件、自己啓発セミナー詐欺、そしてこのような犯罪が起こり続けていることから明らかにわかるだろう。人間はこれほどに弱い生き物なのだ。だからこそ安定した生活環境がすべての国民に保障されなければならない。そのためにも戦争による極限状況を回避し、社会保障を十分に整備しなければならない。そして教育をすべての国民にいきわたらせるためにできるだけ無償で提供して、平等に教育の機会を提供する。それは人間が理性的に行動し続けるのに、また文化的な暮らしを続けるために最低限必要な条件なのだ。だからこそ日本国憲法は生存権の保障をしたのだ。人間が文化的に生きるために必要な保障を与える義務が日本国家にはある。「義務」を自覚しなければならないのはわたしたち国民ではなく、国なのだ。





こういう事件は決して異常ではない。いや、むしろ、人間が理知的で常識人であり続けられる条件というのはかなり狭い範囲に限られているということだ。その範囲から外れた条件下では人間は理性を保つことができなくなるものだ、ということを、この手の事件からわたしたちは思い知ることにしよう。ちょっとニュースで流れ始めた情報によれば、角田美代子は子どもの見ている前でその親を罵倒し、侮辱し、その一方で角田自身が子どもにやさしく接したという。子どもを自分に取り込むためだ。

子どもの心に築かれてきた親へのそれまでの考え方=親をたてる気持ちの土台、あるいは根拠を破壊したのだ。そして家族自身に家族へ暴行を加えさせ、それによる罪悪感、自己嫌悪感を植え込んでいったようだ。まさに「洗脳」の手続きが施されている。遠くからこのニュースを聞けば異常に思えるかもしれないが、これは単に「洗脳」の効果に過ぎない。決して異常な出来事ではない。「洗脳」という手法の前ではすべての人間がこのようになってしまうのだ。



ただ、ひとつ希望を言っておくと、社会心理学者による研究の結果、「洗脳」という手法は、洗脳を受けた被害者の人格を永久に変えさせる効果については決して安定的ではなかった。被害者の多くは元の暮らしに戻ると、洗脳以前のその人らしさを取り戻した。冤罪の自白をした人は裁判で主張を覆したりすることがあるが、それも「洗脳」という手法が、特殊な状況下においてのみ効果を持つことの表れだ。このことからも、平和と安定という環境が人間には必要不可欠であることがわかろうというものだ。





最後に気分をまた落そう。

じつは20世紀の後半、人間の感情や行動、思考を半永久的にコントロールする手法が開発された。この手法では身体的暴力はもはや使用されない。社会心理学の知見、生理学の知見、脳生理学の知見を効果的に活用した「マインド・コントロール」という手法がそれだ…。










「信じるこころの科学」/ 西田公昭・著参照





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【刑務所実験=二木一夫】

 

 参加者に精神的苦痛を与え、倫理性が問題となった心理実験が41年前、米スタンフォード大で実施された。大学生を看守役と囚人役に振り分けた「刑務所実験」などと呼ばれるものだ。開始の次の日、囚人役が抵抗を示したことから変化が出始める。


 看守役が鎮圧し、罰を科す一方、加担しなかった囚人役を厚遇すると、囚人役は互いに疑心暗鬼となった。看守役は理不尽な要求をし、腕立て伏せなどの罰を次々と加えるようになり、精神的に変調をきたす囚人役も出た。そのため、実験は6日間で中止される。心身の健康な学生がたまたまもらった役割にたやすく没入していく過程は、衝撃を与えた。


 知人の犯罪心理学者は「人間は状況の力に支配されてしまうことを、この実験は示した。常識ではありえないと思っても、置かれた立場に甘んじてしまう。人間は弱い」と解説する。そして、人間の最も弱い面と凶暴な面が出たのが、兵庫県尼崎市の連続変死事件ではないかと言う。


 暴力によって心とカネを支配され、命まで失ったのは、それまでまっとうに生きてきた、私たちの身近にいるような人たちだ。家族は分断され、逃げ切ることもできなかった。どれほど過酷な状況に置かれていたのかは、想像を絶する。


 この心理学者が「尼崎と同じ構図だ」と言う北九州市の連続監禁殺人事件で、7人殺害の共犯とされた被告の女は、主犯によるDV(ドメスティックバイオレンス)被害の強い影響を受け、正常な判断力が低下していたと控訴審で認定された。被害者が加害者になり、その逆の役割になりうるのも暴力支配だ。尼崎の事件を解明するには、そういう視点も必要だろう。(社会部)






毎日新聞 2012年11月01日 大阪朝刊






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無期限更新停止

2011年12月04日 | 一般





たそがれの臨海工場の風景。


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