弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

インターネットは不幸なメディア、でもある、ということ─②

2010年05月10日 | 言葉/表現
 たとえば、このブログを訪れる否定的なコメンテーターの面々というのは、大体において僕のことを、自分とは違うある種の社会勢力──俗に言うリベラル、サヨク的な──に属する者と考えている。特定の運動団体に所属はしていなくても、それらのシンパである市民層の一部、くらいには思っているだろう。
 実際、客観的に見て、僕はそういう層に属しているはずだ。ただ年がら年中、そういう層の人間たる使命に燃えて生活しているわけではない──どころか、そんなことをしたり・考えたりしている時間は、他のことをしている時間に比べて圧倒的に少ない。なので、そういう層に属している「だけ」の人間と見られることには、相当な抵抗を感じてしまう。自分をどう見られ「たい」かという話とは別に、単純にそれは事実と違うのだから。僕は今時の人間の例に漏れず、多層的に生きている人間だ。そうありたいと願っているし、自然とそうなっている面も大きい。
 ともあれ、いわゆるサヨク・リベラル層の人間であるとしても、日常そういう層の人間であることに満足しているか、自己達成感を得ているかと問われたら、まずそんなことはない、と答えるほかない。僕は良くも悪くも、この国に何百万人(へたをしたら何千万?)もいるであろう、悩める孤独な男の一人に過ぎない。一日、ため息をつかずに過ごせたと思い出せる日がないくらいの。
 あるいは日常、「そういう層」の人達と実際に出会って、付き合って、行動して、楽しいかと聞かれたら「ええと、・・・」と口を濁してしまう。当たり前のことだけど、「そういう層」の人だから、必ず気が合うとか、友達になれるわけではない。ムカつく人だって、とっつきにくい人だって、やっぱりいる。食べものの好み、音楽の好み、異性の好み、何をとってみても、「どうも違うな・・・」「全然違うな・・・」という人はいる。社会思想的な部分で共感する、尊敬する、あるいは連帯意識を持っていても、人間としてはどうも付き合いづらい、そういうタイプの人はいくらでもいるのだ(相手からすれば、僕こそがその筆頭だという話だろうが)。

 で、それが問題かといえば、問題ではない。世の中とはそういうもの、普通の話である。逆に、たとえばパレスチナや死刑の問題については意見が合わなくても、またそれ以前に知識を共有できなくても、仲良く付き合える友達もいる。これも普通のことだ。
 しかし加藤被告やその同類、同世代の「ネット中心生活者」=中毒者(*)の場合、こんな当たり前のことがわかっていないのではないか?と疑いたくなる場面が多い。僕が「ネットぼけ」という言葉を使いたくなるのはこういう場面である。
 若い彼らはあまりに「ネットぼけ」していて、生身の人間同士の在りよう、法則などに鈍感である。あるいは、若いなりに最初はわかっていたのに、長らく顔のないネットの世界の居心地の良さになじんでいるうちに、頭から抜けてしまった、それを感じ取るセンサーが不調になってしまった、のかも知れない。いずれにしろ、そういう状態を「ネットぼけ」と呼ぶ。

 しばしば僕が、否定的なコメンテーターとのやり取りの中で感じていた違和感(応じている自分自身に対するものも含めた)、やるせなさの根本に、この「ネットぼけ」の問題があった。こちらは感じているのに向こうは感じていない、その「ぼけ」をめぐるギャップのようなものも含めて。
 ぶっちゃけ、こういうことがある。誰かが今、僕の書いたものを読んで、僕という人間に否定的なコメントを書いてきたとする。
→①その内容の間違い、的外れぶりを取り上げて反論することはできる。
 だが、そんな的外れなコメントを熟慮もせずに書いてくるような輩というのは、反論しても「わかった、自分が間違ってた、すまん」などとは絶対に認めない。そもそも通りすがりの自分は「謝る」必要などない、それがネットの慣習だ、と開き直っている輩さえいる。
→②それで、その不誠実な応答をなじることもできる。おまえはそのように不誠実なやつだと指摘することもできる。
 しかし、なしのつぶてに終わるだろう。顔の見えないネットの世界では、こうした相手をどこまでも追いかけて誠実な対応を引き出すのはまず無理だ(というか、時間の無駄だ)。それにまた、そういう相手というのは、言っていることが正しいとか議論として意味があるとかいうことより、ブログオーナーに不愉快な思いをさせる→自分の生活のストレスが少しスカッと和らぐ、という目的を第一にやっているわけで、ブログの書き手から反応をいただいた時点で「勝利」と言えなくもないのだ。
 こういう、まったくもって不毛な構造があるから、僕を含めて多くのブロガーはまともに反論するのがバカバカしくなり、否定的なコメントは一律「削除」して済ませる、という手段に落ち着くほかないのである。残念と言われようと、ブログオーナーの立場としては、倫理的に何も間違っていない。

 ・・・なんだけど、僕は同時にこんな風に考えるようにもなった。
 こいつと、直接会って話せればな。コーヒーとか、酒でも飲みながら、ざっくばらんにいろんなことが話せたらな。・・・自分はこいつを、フナムシとかネットゴキブリとかあざけって、挙句は面倒くさいから無視したりしてるけど、こいつだってそんなに悪いやつじゃないのかも知れない。世の中に、もっとあからさまに悪いことをしているやつをたくさん知っているだけに、そう思う。・・・俺がブログに書いたこのネタではまったく意見が合わないんだろうけど、他のネタだったら意外と合うことが多いかもしれない。そんなはずはない、なんて誰に言える?
 いや、今回のコメントをしてきたネタについてだって、直に会って、お互いの顔を見ながら、話し言葉でゆっくりと、途中好きなだけ脱線したりしながら、お互い納得の行くまでダラダラと語り合えたら、「ああ、なんかわかってきました・・・」「確かにそれは(この点とこの点と・・・だけは)言えてますね」くらいの同意は引き出せるんじゃないか。自分にしても、頭からこいつをバカにしたりせずによく話を聞けば、「そうか、いろいろ勉強してるんだな・・・」「○○で□□でああなってこうなって・・・それでこういう考えになるわけか。うん、少しわかるなあ・・・」というくらいの認識には至れるのではないか。もちろん、結局考えの合わない、よく分からないところは大いに残した上で。
 何より同じ人間同士、あるものについては好みが一致したりして、それで大いに話がはずむことだってありえる。向こうも、レイランダーって、キザで嫌味なサヨクオヤジだと思ってたけど、会ってみたら意外とフワフワした、テキトーなやつで結構面白かったな、と思ってくれるかも知れない、とか。

 そんなこと考えても仕方ない、のはわかっている。ネットという場で書いているのは、自分で勝手に決めてやっていることなんだから、「会って話す方が楽なのに」なんて愚痴を言うのはばかげてる、幼稚な逃げ口上だ。そんなに会いたいならオフ会でもやればいいだろうが(笑)、という話。まったくまったくその通りだ。
 だけど僕は、己が能力不足に対する逃げ口上ではなく、ネットという場でできる限りの手を尽くす、その一方で「これがすべてではない──PCの電源を切った後に、人間が現れる」という感覚をなくしたくない。その感覚だけは、ネット上で敵対している相手にも共有してもらいたい。実際、その感覚さえあるなら、敵対することは別に悪いことではない。
 だからその感覚を念頭に知恵をしぼり、表現を磨かねば、と思う。相手を思いやる「情」の問題もゼロではないけれど、もっとはるかに構造の問題として、構造の中で働かざるを得ない表現者の矜持の問題として。

 ネットで否定されたからといって、あなたのすべてが否定されたわけではない。
 あなたの人格の一部が否定されたからといって、それはしょせん一部のことだ。
 あなたのすべては大きすぎて、ネットなんかに登場できるはずがない。登場したと思っているのは錯覚だ。
 あなたはネット以外の場所で、やりたいことが、やれることがたくさんあったはずだ。
 加藤被告に僕が何か言えるとしたら、とりあえずこういうことだ。今となっては、加藤に続く道を歩いている別の誰かに伝えたいこと、になるのかも知れないが。僕がそれを伝えるにふさわしいかどうかは別にして。

* 僕自身の想像では、おそらくこの「中毒」は、ネットと向き合う回数、時間の長さに必ずしも比例しない。ある種の思考形態へ簡単に自己を委ねてしまうその「軽さ」によって、依存度の深さが測られる類のものではないか。その「軽さ」は何に由来するのかと考えると、一概には言えない、様々なメディアからの影響の複合によってではないか──したがってネットと付き会う時間の長さばかりが問題なのではない、という気がする・・・。


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