弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

インターネットは不幸なメディア、でもある、ということ─①

2010年05月10日 | 言葉/表現
(☆告知エントリーの方が上に来るようにしたいので、また実際こちらのエントリーの内容を書いたのは実はだいぶ前のことなので、投稿の日付を少し古く設定させてもらっています。ご了承のほど。)

 わりと最近のこと、とある雑誌の広告を見た。その雑誌のツイッターに関する特集記事の中で、「(辛口)ITメディア評論家」みたいな人がツイッターのことを、「バカと暇人と中毒者のためのツール」というような激しい言い方で評しているのを知って、ちょっと驚いた。
 はあ、そうかも知れないよなあ、と半ば思いつつ、でもそれは「ツイッターが」じゃなくて、インターネットというのがそもそもそんなものじゃないの?わりと初期の頃からそういう批判があったんじゃないの?という疑問も同時に浮かんだ。実際後で調べてみたら、その中川淳一郎という人も、やはりもともとウェブ自体をそういう線で批判していて(その名の通りの著作もある)、とりわけツイッターはお手軽さゆえにタチが悪い、という話らしい。
 その雑誌記事の実物を読んでいないし、僕自身はツイッターを使ったことがないので、中川氏の展開している論旨が妥当かどうか判断できないし、特にする気もない。ただ、彼に言われるまでもなく、もともと僕にとってインターネット自体の持つ「バカと暇人と中毒者のためのツール」という側面は、結構大きな問題であり続けている。
 あくまでネットにはそういう「側面がある」ということであって、全面的に廃棄されるべきものとはもちろん思わない。むしろネガティヴな側面よりそうでない側面の方が大きいと、一貫して実感している。その「そうでない側面」のメリットを活用するためなら、ある程度まで「バカ」で「暇人」で「中毒者」である自分ということを認めるにやぶさかでない。だがそれでも、否定的な側面は無視できない、いや、無視してはいけない、という思いを同時に強く持っている。

 以前にも取り上げたことのある、橋本治の「インターネットは不幸なメディア」という言葉は、使われている文脈が違うのだけど、僕は僕で「不幸」と感じる面は、たとえばこんなブログというやつを長くやっていると多々ある。いわゆる「荒らし」やそれに類する悪意のコメントを送ってくる人間の存在を目の当たりにすると、またどこそこでブログが「炎上」したなんて話を聞くと、いちいち思ってしまう、「不幸なメディアだな、これは」と。

 断っておくと、別にそうしたコメンテーター(大げさな呼び方だけど、ここでは「コメント書き込みする人」というだけの意味)の行為に、日頃悩まされている、というわけではない。数としては微々たるものだし。
 ただ、彼ら実際に書き込みしてくる人の存在を通して、もっと多数の同じ思考形式を備えたご同輩がワンサカいるんだろうなあという、そのことが透けて見えることがある。それは一般的な“ネット社会”の常識に照らしてもそうだし、ある特定の話題について自分が何か書いた時に、アクセス数が急激に跳ね上がったりする現象からもわかる。ある話題とは、たとえば捕鯨であったり、死刑制度であったり、白リン弾であったり(笑)、中国・韓国との関係の話であったり──ひとくくりにするのは一見難しいが、およそは日本人としてのプライドに関わること・もしくは軍事ネタ(どちらかといえばオタクに需要のあるネタ)、とまとめてしまえそうなネタだ。
 ある時期まで、そうしたコメントに対しては、売られたケンカは買う式に、いちいちなんらかのリアクションをしていた。必ずしも丁寧な返答の仕方ではないし、ケンカに「勝つ」というものでもなかった(大体、相手が勝手にいなくなってしまい、勝ったか負けたか判定できないことも多いのだが)。それでも、返答をすることは一応「言論の世界」のようなところに身を置いている以上、やらなければ筋が通らないことだし、そうすることが自分自身の勉強にもなると考えていた。
 ただし、あまりに低レベルな雑言の類は、いちいち表示してやること自体無意味なので、途中から「コメント選択表示制」に切り換えたわけである。送られてきたコメントのうち、どれに答えどれに答えないかは俺の勝手だ。俺のブログなのだから俺がルールを設定する。それで取り上げられないことが不満ならもう来るな。他所で俺の悪口をさんざん言いふらすがいい。俺はちっとも困らない。──そう考えていた。

 今も基本的には同じ考えだ。ただ、そのうえで近頃は、なんだかやるせない気分になることが多い。考えても仕方ないかな、ということを考えてしまう──これしかやりようがないのか?と思ってしまう。
 というのは、よくよく考えると、否定的な感想を持たれるにせよ何にせよ、自分がせっせと時間を費やして書いたものを読みに来てくれる人がいるという現実は、どういう経緯でそうなったにせよ、良いことに違いないのだ。なのに、その人達と自分とが、このインターネットという平面的な世界を通してしか知らない情報を頼りに、お互いを○だ×だ、右だ左だ、正義だ悪だと判定し、さっさと記憶のファイルにつっこんで置き去りにしていくような、そんな「関係」を固定化し・再生産し続けている現実の方は、間違いなく不幸ではないか、と感じるからだ。

 こういうことを強く意識し出したのは、たぶん「秋葉原通り魔殺人」の加藤被告の言葉を知ってからだと思う。
 加藤は、自分が殺した人達の遺族に向けて「謝罪」の手紙を送った。その中で、正直にも、自分には愛する人を殺される悲しみを本当のところ理解できないかもしれないとほのめかしつつ、強いて想像するなら「ネットの掲示板で発言を削除された」時の(自分を全否定されたような)気持ちに近いのではないかと思う、というようなことを書いているのだ(*)。
 僕はこれを読んで少なからずショックを受けた。なんてこった──こんなバカヤロウが存在できるのか、と。
 この場合の「バカヤロウ」は、怒りや憎しみから来るそれではない。なんてもったいないことをしてしまったんだ、自分の人生なのに、という悲しみからである。と同時に、こんなバカヤロウが存在できるのが“ネット社会”であり、自分もそれに一枚かんでいるのだと思い当たって、今さらながらにズズーンと気が滅入ってしまったのである。
 以来、自分のブログに筋の通らないイチャモンをつけるコメントに接すると、加藤被告と重なる、とまでは行かないまでも、加藤のあの言葉が頭をよぎるようになった。それでもっと丁寧な対応をしてあげよう、とかいう慈悲心が起こるわけではないけれど、これは(お互いにとって)不幸な有様なんだよな、という苦い気持ちが尾を引くようになったのだった。
(つづく)


* 最初にその話を読んだのは新聞でだが、その後作家・星野智幸氏のブログで取り上げられていた、この記事が僕にはとても心に残っている(情報はBlogBluesさまより)。
 http://hoshinot.exblog.jp/12882761/

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