没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史48 贈与の経済(26) 金を使わずに質素に生きる

2013年10月27日 14時09分12秒 | 逆説の未来史

■進歩する未来も黙示録的に崩壊する未来も幻想である

 ほとんどの米国人は、いま、高額の医療費を支払い、子どもたちのために大学教育やアメニティーを提供し、快適な定年退職するというライフスタイルのことを懸念し始めて入る。けれども、衣食住といった基本的な必需品にアクセスできず、地域経済やコミュニティが瓦解し、立憲政治や法の統治すらも深刻な脅威となるという最悪の夢には入っていない。今日の景気後退が、世界恐慌よりもさらに深刻なレベルにまで落ち込むと警告する人たちの間ですら、何百万人もの米国人たちがスラム街に住み、日々の食を確保するために苦闘する近未来はごくわずかしかイメージしていない(3-7)。進歩への信頼、経済を重視する文化。このバイアスによって、米国がその帝国時代に採用していたほとんどの社会的習慣をする余裕がもはやないという確たる事実について語ることをほとんど不可能にしている(3-5)

 多くの人々が無限の進歩の未来にとらわれている一方で、サバイバリストの過激な黙示録の世界がある。例えば、ピューリッツァー賞を受賞した小説家、コーマック・マッカーシー(Cormac McCarthy,1933~)は、『ザ・ロード』(2006)で、ほとんどの動植物種が絶滅し、文明が消滅し、人類は人食い部族として生き残る世界を描いている(4)。けれども、ここで空想される完全崩壊する未来と現実の未来とは一致しない。無限の進歩と黙示録の崩壊の空想。豊かな現在の以降の世界の意味をわかるには、超えなければならないギャップがある(3-7)

■シューマッハーのオルタナティブ・エコノミー

 現在の工業化社会は、経済的な要因によって苦しめられており、経済学は同時に現在の苦境から抜け出るためのいかなる建設的な試みも阻むうえで、さらに本質的な役割を果たしている。それ以外の科学と同じく経済学は観察される現実の世界を反映させようと試みる一連の仮説モデルだが、モデルと現実が混同されることによって、このモデルに基づいて、次には現在の経済政策はリアリティから乖離する機能を果たしている。見当違いの経済概念に基づく今日の政府の政策が、危機に対して苦闘する社会に対する重い負債となっている。したがって、現在の苦境の意味を理解し、それに対応した建設的なことを行うためには、現実とのかかわりを失っている現在の経済理論、近代経済学の根本概念のいくつかを修正することが欠かせない。

 産業が衰退していく時代において、持続性のための謎を解くにあたって見失われているひとつが、E・E・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher,1911~1977年)の提案である。シューマッハーが「中間技術」の概念で提唱したオルタナティブな道、そして、シューマッハー以来にその概念を実用化した多くは、数少ない選択肢となっている。

 逆説の未来史28「家政学から職人へ」で書いたように、シューマッハーは、地元で利用可能なエネルギー源で動力供給され、地元で利用可能な原料上に依存する比較的シンプルな技術が、第三世界の至る所で労働する人たちに賃金仕事を提供でき、生活水準を改善できると主張していた。構造的な失業が浸透している現代において、生計を立てる人たちの数を計画的に増やす経済政策がよいアイデアであることを今日の先進国政府が理解する先見性を持ち、さらに言えば、常識とすることはまったくありえそうもなく思える。産業化時代が解体していく限られた時間内においては、もはやその選択枝がハイテクとローテクのどちらかではなく、ローテクかゼロかのどちらかにしかないことを理解することも同じだ。けれども、政府は、ゲームにおける唯一のプレーヤーではない(3-5)

■雄大な計画よりも小さく行う

 例えば、シューマッハーは「補完性機能の原則(Principle of Subsidiary Function)」と呼ばれる対応策を提唱していた。これは、あることをするにあたって、実際にそれを行える最小で最もローカルな「ユニット」にその機能を割り振ることが、最も効率的であるという原則である。けれども、シューマッハーは単なる机上の理論家ではなかった。ビジネスの世界でほぼ一生働いてきたエコノミストしての経験から、この結論を引き出した。シューマッハーは、経済や政治システムがより大規模でより集中化されると、現実世界のローカルなニーズに効果的な対応ができないことに気づいた。

 この原則は、産業化社会のあらゆる苦境に適用できる。例えば、国際交渉は気候変動に対するグローバルな対応を確立することに失敗しているし、全国レベルで同じことを試みることもさほど成功しまい。一方、より梯子を下って、自分の生活上の課題に直面する個人や家族に近づいていけば、多くのサクセスストーリーを見出すことができる。これは、シューマッハーの主張を立証する証拠となっている。すなわち、複雑さを解きほぐすためのベストな場所は、日々の暮らしの中にある。一人ひとりが個人レベルで複雑なシステムから離反していけば、社会を複雑さにするための根拠もなくなり、よりシンプルで持続可能なニーズを満たすためのフレームワークを構築できる。

 ①あるニーズを満たすためにあなたが依存しているシステムは複雑なものだろうか。
 ②もし、複雑であれば、よりローカルなシステムに依存するようにかえる。
 ③あるいは、自分自身で満たす。あるいは、まったく何もしないことへとシフトする(3-6)

 こうした個人的な対応は、伝統的に別の種類の壮大なスキームに賛同する人たちから排撃され続けて来た。けれども、過去半世紀の持続性のための雄大な計画のほぼすべてが機能しなかったことからして、実際になされる小さなステップの方が役立つことは記憶されるべきである。トップダウンで産業社会の危機に取り組むことは、数十年も活動家によって何度も繰り返して試みられ、今、顕著な結果を得ていない。おそらく、それ以外の何かを試みる時なのである。抽象的なグローバルな考察よりも、個人の選択やローカルな可能性からスタートすることが、すべてをよりよく発展させる。

 シューマッハーのやり方にはさらにメリットがある。国際協定や政府の対応措置が機能し始めることを待つ必要もない(3-6)。政府や社会のどのような集団的行動も待つ必要がなく、個人、家族、コミュニティ、様々なワーキンググループによってまさにいま実践に移せることだ。ゲームはすでに手遅れである。けれども、追求する価値のある変化がある。例えば、マシンの神話を疑うことを学んだ異端の少数者が、不足の夜明けとして、そのことを心にとどめ、人々を教育することが機械を構築するよりもはるかに有用なプロジェクトであり、個人、家族、そして、コミュニティが生産的に働くために彼らが必要とするスキルやシンプルなツールを手に持てることを担保するために、可能な限り多くをしていることは、私たちに先立つ未来に対して最も有望な対応かもしれない(3-5)。すなわち、自身の暮らしに変化を作ることで、今まさにここで始まることが可能なのである(3-6)

■マネーからの脱却がマネー経済解体への安全弁となる

 マネーは、モノやサービスの実体経済を支えるために発展してきた。けれども、現在は実体経済を窒息させる抽象的フィクションとなっている。一方、非市場経済においては、習慣、相互性、そして、集合的な利益が交換を管理してきた。市場を中心としたイデオロギーが作りだしてきた価値尺度は、この非市場経済では成り立たない。したがって、マネーはさほど適切でなくなるであろう。未来のエコテクな社会の中で、どのような形式が成り立つのかを現時点で推測することはおそらく不可能である。けれども、市場を越えた未来を思い描くことはいままさに価値がある。そして、リニューアルされた家事経済が、未来のエコノミーが根付いて成長できる苗床となろう(2-7)

 すなわち、今後、ほとんどの人たちにとっては、マネーの世界は適切なものではなくなろう。けれども、同時に、私たちのほとんどは、マネー経済から完全に自分を切り離す選択肢を手にしてはいないであろう。例えば、現在の政府が機能し続ける限りは、政府は納税用のマネーを要求するだろうし、それ以外にもマネーなしでやりくりすることが非常に困難となる多くの財やサービスがあるために、マネーはネックとなろう。けれども、第三次経済から距離を置いておくことは、一か八かの選択肢とならなければならない理由はない。自分で直接管理できる資源を用いて、自分の労働を通じて、自分が必要とする財やサービスを自分で生産することに向けたどのようなステップも、マネー時代以降の世界に向けた一ステップとなる。そして、それは、私たちの身のまわりで解体しつつある第三次経済に対する安全のクッションでもある(3-6)

■年金の時代は終わり、高齢者も年金で遊んでいるゆとりがなくなる

 豊かなエネルギー時代が終焉すれば、世界のどこでも残された最も豊富なエネルギー源は人間の労働力となるであろう。それ以外の資源がより高価になるにつれ、労働費、すなわち、労働から稼げる賃金も落ちていくであろう。けれども、エネルギーが不足し、経済が収縮して没落していく世界においては、人間の労働力は決定的な強みを持つ。それ以外の技術とは違い、人間の労働力は、ソーラーエネルギー、すなわち、食料から燃料供給されているからだ。
 現代の農業は化石燃料を用いることで食料を生産しているが、これはエネルギーが豊かな時代の習慣である。燃料価格が上がり、賃金が低下すれば、シンプルな道具を用いた人間による農作業が増えていく。人口密度が高く、わずかのエネルギー資源しか持たない社会の農業は、いずれも土地を大規模に用いず、集約的に使用し、エネルギー集約的な方法ではなく手道具での人間労働に依存し、大量の野菜や作物、そして、比較的適度な動物性蛋白質を生産してきた。未来の農業もそうなるであろう。

 現在の産業化社会のほとんどの人たちは、大学を卒業し、デスクに座った仕事に就職するという概念を抱いているが、それは放棄されなければならないであろう(3-5)。そして、家庭菜園が広がることにつながる社会の変化は、今日の産業化社会の人たちが期待する最も基礎的なもののひとつにも終止符を打つ。それは年金である(3-6)
 
 現在では定年が社会的な習慣となっているが、それは、失業率を低く維持するために、年金を支払っても一定年齢を超えた人々を労働市場から引退させることが、先進諸国においては財政的・政治的意味をもっていたからである。けれども、定年は豊かなエネルギー時代の産物だった。近代以前には、工業化社会においてすら、あらゆる経済活動のほぼ半分は、なんら市場とは関連がなかった。正規雇用される年齢以外の多くの男性、そして、ほとんどの女性は、市場ではなく、慣習にしたがった交換や家庭内での家事経済で働いていた。そこでは、定年退職する人々も含まれスキルを手にした高齢者は財やサービスを供給していた。

 経済が収縮し、限りあるエネルギーや資源を緊急用途に優先しなければならなくなれば、家庭内経済が再び必要とされ、実施可能になっていく。テークアウトの食事やコンビニエンス・ストアーは消えていく。ほとんどの食事は再び原材料から家庭で作られるようになるだろうし、グローバルな搾取工場が海外で作って輸入している衣服も、輸送エネルギー費の値上がりで立ち行かなくなれば、衣類も生の繊維から再び家庭で縫われるであろう。このいずれにも人間の労働力が必要だ。すなわち、人間の労働力の方が機械よりも価値を持つことになる。人間の資源が活かされないわけがない。したがって、豊かなエネルギーがもはや供給されない社会においては、高齢者も家庭内で労働力として活躍し、高齢者が怠けて放置されるゆとりはなくなろう(3-6)

■定年まで10年以上あるならば、投資ビジネスは無駄になる

 もちろん、そうした社会には一夜にしてはたどり着かない。現在の退職者や近々退職する予定の人々も今の既得権益にしがみつくこうとしばらくはもがくであろう。けれども、もし、定年後のライフプランについてのアドバイスを求められるとしたら、こんなふうに申し上げたい。

①プランA:もし、既に引退されているか、あるいは、数年以内に退職される予定であって、安心できる投資先が見つけられるならば、自分のマネーをそれに投資されることがおそらく有益であろう。
②プランB:けれども、その投資が今後詳細にもずっと価値があると想定することは賢くない。そこで、まだ退職されるまで10年かそれ以上の時間があるならば、別のプランを立てることが欠かせない。どのような種類が最も適切であるかは、個人の資質や住んでいる地元の条件に依存するため、詳細はプランを立てることは難しい。けれども、もし、あなたの家族が多く、今から10年先に、子どもとその配偶者と4人の孫がひとつのマンションに住んでいるとして、おばあちゃんやおじいちゃんが食事の支度や孫の世話、菜園仕事をすることは、あなたにとって非常に価値があるであろう。もし、あなたに家族がいないか、大家族での生活に耐えられないのであれば、もっと若い人との友人関係を育み、高齢になっても続けられる第二のキャリアに向けて準備をすることだ。
③プランC:そして、私がそうであるように引退するまで(注:おいおい、『私がそうであるように』って書いているが、グリア、あなたは定職についていないヒモではないか!)、30年かそれ以上があるならば、①のプランについては一切忘れることだ。ひとたび、新たな経済秩序が形をとり始めれば、未来へのオルタナティブな投資を探すことができるが、おそらく決して引退はできないであろう(3-6)

■豊かさを手にできる人は限られた特権階級だけになる

 このように、複雑な技術システムへの依存度を減らし、可能な限りエネルギー消費を減らし、自分自身で食料を育て、少なくとも家族の一人をマネー経済のためのフルタイムの仕事に従事することから解放することは、大きな意味をなす。けれども、このすべてには別の意味がある。過去300年、そして、とりわけ、過去50年では多くのモノやサービスがよい生活であるとの定義が一般的となった。匹敵するものがないだけの豊かさの時代には、いかなる問題に対しても物的な富によって解決することが容易であった。それは、たしかにいくつかの問題を解決はした。そして、この定義は、現代の思考様式に完全に組み入れられているため、それを超えて思考することは極めて困難となっている。

 けれども、豊かさの時代が終焉することで、ごく近い将来には、人間の存在の核である不確実性を消費財を追い求めることで回避しようと試みる選択肢を手にできるのは、世界のなかでごくわずかの人たちだけとなろう(3-7)。私たちの大多数は、たとえ、それが質の急激な縮小を意味したとしても、あるモノを買わずにやりくりできないかを調べるようになるであろう。とてもわずかのもので間にあわせたり、あまりにも医療費がかかるために家で重症を治療したりしなければならなくなろう。というのは、本質的なこと以上には支払うマネーがもはやないからだ(3-5)。私たちは、余命六カ月しかない不治の病に侵された高齢者に25万ドルを費やすことがなにかの意味をなすという考えを放棄しなければならないであろう(3-5)。私たち残りの多くの人々は、私たちの偉大な祖父母がしてきたように、私たちの人生をその家庭で終えるであろう(3-7)

■逆説の未来史への教訓~人生の意味を考えるときが来る

 複雑な生命支援装置につながれてその死の最後の数カ月をすごせる特権は、金持ちだけしか持てなくなろう。けれども、その金持ちにも人間の存在そのもの手がつけられない抜本的な苦しみは残されている。重い病にかかりながら、高額の療法を続けることで、数カ月の余命を悲惨なまでに伸ばすことで、避け難い「死」という抜本的な人間の苦しみを回避できたと装うことができただろうか?。それがなければ、よい生活ができないベーシックな物的ニーズがあることは確かだ。けれども、ベーシックなニーズは現代の生活が想定するよりも、はるかに少なくシンプルである。そして、自分の人生に安全をもたらすベーシックな物的ニーズを持てることを幸運と見なし、人生の意味や価値への抜本的な問いかけに再び対処しなければならなくなろう(3-7)。つまるところ、ニーズや欠乏に対処する最もシンプルなやり方は、それが生物として可能であれば、それを必要としたり、望むことを止めることなのである(3-6)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4)ウィキペディア
マッカーシーの写真はこのサイトから
シューマッハーの写真はウィキペディアから


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