没落屋

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逆説の未来史58 進歩教の洗脳(9) プチ反対者がいればいるほど強くなる進歩教

2013年11月14日 23時35分54秒 | 逆説の未来史

【はじめに】
 グリアのように、進歩や経済成長に、ベイトソンのダブルバインドの理論を当てはめれば、誰もが、経済成長すればすばらしい未来があるという信仰と、そうはいっても暮らしは良くなっていないのではないかという語られない現実の狭間でがんじがらめにされていることになる。けれども、進歩教は圧倒的に強い。エコロジー運動も没落教も主流にはなりえていない。それはなぜなのか。グリアは、今度は社会学の逸脱理論を動員する。けれども、グリアは、そのトンデモぶりを発揮して、原理主義とニューエイジとエコロジーを一緒くたにして同じ遡上にあげてしまう。グリアのハチャメチャぶりを今回も大笑いしていただきたい。

■コロンブスのアメリカ発見の物語は捏造されている

 クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus,1451年頃~1506年)の時代には、ほとんどのヨーロッパ人は地球が水平だと信じていた。このため、コロンブスが「ヨーロッパから西方へ航海することでアジアに到達できる」と主張しても、それは否定された。このように言われている。けれども、これは実は19世紀になってから捏造された物語である。コロンブスの時代のヨーロッパの中学校の天文学の教科書、「De Sphaera of John of Sacrobosco」を見れば、中世後期のヨーロッパ人たちが、地球が丸いことを知っていただけでなく、その大きさもかなり正確に把握していたことがわかる。すなわち、15世紀の地理学者たちが、コロンブスの主張を否定したのは、すでにわかっていた地球の広さからこの提案を評価して、当時の海事技術によって到達するにはあまりにもアジアが遠すぎたからであった。この批判はまさに正しかった。コロンブスがアジアへといく途上で悲惨な死を遂げなかったのは、コロンブスが無知であって死ぬまでリアリティを受け入れることを拒絶したこと。そして、ヨーロッパ人たちにはまだ知られていなかった大陸が、その途上に偶然にあったからにすぎない。

 それでは、世界が水平だと考える人たちがコロンブスを批判したと近代産業文化において信じられ続けているのはなぜなのだろうか。それは、進歩の神話にとって、進歩主義的だとされる出来事のすべてが反啓蒙主義との苦闘の中から産まれたという物語が必要だからである。かくして、歴史は必要な物語をフォローするために書き直されていく(4-4)

■核融合研究も頭が固い保守派との戦いとして描かれている

 このことは、過去の歴史が架空の進歩の物語によってねじ曲げられている一例にすぎない。そして、科学、文化、芸術史のポピュラーな作品は、過去にこの物語を課している。歴史を書き直す同じ力は、現在や未来の概念にも同じく働いている。架空の進歩の物語の中心となるのは、未来のための英雄的な旗手として描かれた改革的な少数の人々と過去にこだわって反啓蒙主義を支持する無知な大多数の人々とのステレオタイプの対立である。

 核融合の研究開発もその一例である。50年以上も失敗が繰り返された後も、いまだに誰も過去の教訓に学ぼうとはせず、核融合の研究者たちは、コロンブスに反対して反啓蒙主義を演じた地理学者を見出している。すなわち、研究者たちは、政府から膨大な援助を受けているにもかかわらず、メディアを通じて英雄的なコロンブスとしての姿を演じ、自分たちへの財政支援がいまだに不足していると批判することを好んでいる(4-4)

■本当に斬新なものはごく少ない

 このように、進歩の神話には、ある種のステレオタイプの敵が必要である。そして、その敵役は、対立する技術の提案者、対立する政治や芸術、文化運動が演じている。例えば、核エネルギーの提案者と風力発電のような「グリーン・エネルギー」技術の支持者との議論では、いずれの側も、自分の側がより進歩的な好ましい技術であり、相手側を時代遅れで、退行した技術として描写するために努力している。こうした主張は、技術の領域外ではさらに一般的である。政治的なイデオロギー、文化的な流行、マーケティングと、今日の世界では、どれもがライバルよりも進歩的で、よりアバンギャルドで、自分が最先端だと主張しあっている。けれども、皮肉なことは、こうした分野のいずれにおいても本当に新しいものはほとんどない。1890年代以来約30年毎に、それらが再構築されたものにすぎない事実を幸いなことに知らない評論家たちが最先端のアバンギャルドなものとしてパーフォーマンスを演じて、最新のものとしてリバイバルするマスターベーションがなされているにすぎない(4-4)

■進歩教をより強化するには対立する異教徒の存在が必要である

 そして、進歩の市民宗教には、それと対立する宗派や異教徒もいる。進歩の市民宗教は、社会的な圧力や制度上のインセンティブを通じて支持されているとはいえ、近代産業社会の構成員の全員が敬虔な進歩教の信者になっているわけではない。進歩への信仰を頭から拒絶する背教者がいる。それ以外の宗教と同じように、信者間においても、その信仰内容に関する論争は不足してはいない。

 ポストモダンの理論家は、社会的な慣習や価値観は、それに対する反論によって再定義されると指摘しているが、神話の構造における彼らの存在は、社会心理学を学ぶものにとっては、なじみ深い。すなわち、逸脱者の心理学を一瞥することが、進歩の時代の意味やその黄昏で果たす役割を理解するうえで必要となる(4-4)

■逸脱者は社会がレッテルを貼ることによって作り出されている

 19世紀後期から20世紀前半にかけ「社会的な逸脱」の問題が、最初に科学的に研究された時には、極度に単純化したモデルが席巻していた。社会病理学によれば、ある行動は個人と社会の双方に悪いものであって禁止されるべきものであった(4-4)。例えば、「髪を染めている者=不良」と定義し「不良は客観的に成立する」と非常に単純に考えてきた(5)。解決すべき疑問は、なぜ、こうした行動が起こるのかであった(4-4)

 けれども、その後、研究者たちは、このモデルでは、逸脱行動をうまく説明できないことに気づく。そして、20世紀の半ばには、新たな理論的なアプローチが出現する。従来の社会病理学の研究では、逸脱行動に着目してきたが、この新たなアプローチでは、逸脱行動や逸脱者をより幅広い社会から捉えなおした(4-4)。例えば、米国の社会学者、ハワード・ベッカー(Howard Saul Becker, 1928年~)は1963年の「アウトサイダーズ(Outsiders)」において逸脱行為は、他者からのレッテル貼りによって生み出されるとの「ラベリング理論(Labeling theory)」を提唱する。従来の逸脱論は逸脱者に着目して逸脱行動を単なる社会病理現象として扱ってきた。けれども、ベッカーは、「逸脱」は行為者の内的な属性ではなく、規則を設け、それを執行する周囲からのレッテル貼りによって逸脱者が生み出されると捉えたのである(5)。逸脱行為や逸脱者は、それを逸脱であると決めつける社会の構造や集団心理から産み出されるとの見解は、逸脱者の役割をさらに問いかけるための重要な架け橋となった。この洞察からコミュニティにとって、逸脱には、二つの本質な役割があることが見えてくるからである(4-4)

■私たちは逸脱者によって自分を理解している

 第一は、コミュニティがその「境界」を定めるうえで最も重要な方法の一つが「逸脱」であることだ。社会学では、一般の常識や偏見とは異なり、ある社会で逸脱とされる行為が別の社会では必ずしもそうではないことに着目する。1938年に、米国の社会学者ロバート・キング・マートン(Robert King Merton, 1910~2003年)は、「逸脱行動(deviant behavior)」を提唱し、逸脱現象を見ることで、逆に「正常な」社会の特性が見えてくると考えた(5)。すなわち、私たちは、私たちではない表現をする他者を識別することによって、私たちが誰であるのかを理解している。シカゴ大学の社会学者エドワード・シルズ(Edward Shils, 1910~1995年)は、共通して受け入れられる価値観や行動、慣習を中心に、逸脱行為まで、社会現象が連続してマップ化でき、その「中心の価値体系(central value system)」観を中心に周囲が逸脱した異常者と定義できるとしている。この境界設定の機能は、重要である。それは、個人と同じく、集団のアイデンテティとして中心となっている。もし、自己ではないものを明らかに表す候補者が現われなければ、誰かがその役割を担い、それを演じることを強いられるであろう(4-4)

■魔女狩り、ユダヤ、ゲイから超能力科学まで

 後期中世から近代初期にかけて、ヨーロッパでは「魔女狩り」が起きた。十字軍が失敗し黒死病のトラウマを受けた結果、集合的なアイデンテティの崩壊を防ぐには、キリスト教が発明したのがイメージ上の邪悪な他者であった。熱心な異端審問所の審問官は、魔女の行動をチェックリスト化し、全項目に正しく答えられるまで疑いのある人々を拷問し、何万人もがそのうえで殺された。これは、社会が必要とする逸脱者をどれほど自ら供給できるかの記憶として役立つ。

 けれども、これほど極端な事例をあげなくても、逸脱者としてのアイデンテティが科された個人がそれを嬉々として受け入れるケースは、ごく普通に見出せる。そして、この役割を果たす人を産み出すためには無数の理由づけができる。例えば、社会に現実にある欠点やイメージされた欠陥に対して常に反対する人々がいる。逸脱者として親や教師といった権威者が期待する役割を押し付けられる人々もいる。

 そして、ある人物や集団者が逸脱者としてのレッテルをひとたび貼られてしまうと、その人物や集団がどれほど社会的な慣習と一致しようと努力しても、否定的な反応を喚起するだけとなる。社会学者、C・ライト・ミルズ(C. Wright Mills, 1916~1962年)は、この反応をステータス・パニック(status panic)と記述した。

多数派から逸脱者との距離を縮める試みは、どのようなものであっても、逸脱者が排除される集団のアイデンテティの集合意識を脅かす。排除によって、その集団は自分自身を規定しているからである。そして、逸脱者が自分たちを除外するコミュニティと慣習を一致させることに成功すればするほど、ステータス・パニック(status panic)は一般的となり、その表現手段も猛烈となっていく。

したがって、19世紀後期から20世紀初期にかけて、どのヨーロッパの国よりも、ユダヤ人たちが一般社会への完全な同化を達成したドイツで、まもなくユダヤ人に対する大量虐殺の熱狂が起きたことは決して偶然ではない。

 一方、米国ではゲイは社会的な存在権を与えられてこなかったことから、自分たちの性的嗜好を隠してきたが、1969年にストーンウォールの反乱が起こる(4-4)。ストーンウォールの反乱とは、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」が警察の踏み込み捜査を受けた際に、同性愛者らが初めて警官に立ち向かって暴動を引き起こした事件である。この事件が同性愛者らの権利獲得運動の転換点となり(5)、ゲイは自分たちのファッションや習慣を通じて、ゲイであることが一目で識別されることを可能とし始めた。こうして、多数派への同化で産み出されたステータス・パニックは崩壊し始める。明らかに異質な存在であると自分を規定することによって、ゲイに対する社会的な差別を高めることが不要となったのである。

 超心理学(parapsychology)の扱いでも、主流の科学がステータス・パニックを繰り返して引き起こすことがわかる。ジェームズ・マックレノン(James McClenon)は、超心理学の研究者たちが、科学的な規準に従って注意深く主流の科学の期待に応えようと努力しても、確立された科学分野の科学者たちが、それに異常というレッテルが張って、排除し非難したことを明らかにしている。心霊現象(psychic phenomena)に関する研究は、科学が進歩するための次のステップであると超心理学者たちが主張したのに対して、反対側が、それは中世の反啓蒙主義(medieval obscurantism)への逆戻りであると猛烈に反論した。本当の未来は永久に不確定のままである。したがって、この種の論争を解決する客観的な方法はない。けれども、進歩が聖なるものと考えられる時代には、こうした主張に対して反対の主張がなされることは、むしろ、体制側の立場を維持するための有力なツールとなる(4-4)

■キリスト教原理主義は科学的唯物論と無神論の普及の反動で誕生した

 キリスト教原理主義は、近代工業社会において、こうしたサブカルチャーでは単独では最大のグループをなしている。最近ではめったに意識されることがないが、キリスト教原理主義がどれほど最近の運動であり、かつ、キリスト教の歴史を決定的に切り捨てて来た。キリスト教原理主義は、西洋世界において科学的唯物論や無神論が隆盛すると同時に誕生した。それ以外の宗教、例えば、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教における原理主義も、同じく世界の他の地域に科学唯物論と無神論が広まったことと歩調をあわせていた。

 例えば、キリスト教原理主義で問題とされるダーウィンの進化論は、それがベースとなった伝統的な宗教よりも、進歩の市民宗教とはるかに関連している。キリスト教には、進化論と関連するものがほとんどない。キリスト教の教会の歴史的な信仰を厳密に文字どおり解釈すれば、「起源論」はどこでも求められていない。しかも、キリスト教の伝統には、豊富な聖書の解釈の仕方があり、ダーウィン学派の自然史への見解は、キリスト教と共存できる。それでは、なぜ聖書の「創造科学」を支持して、進化論を拒絶することが、現在のキリスト教原理主義者たちの間では大切な信条となっているのだろうか。

 それ以外の議論を呼ぶ問題に関しても同じ問いかけができよう。それは、伝統的な信仰とはなんら関連性を持っていない。すなわち、こうした宗教運動を再製するために、非常に奇妙なやり方で複雑な力が動いていることは疑いがない。けれども、進歩の神話の敵の役割を果たすため、この宗教的なイメージと一致した原理主義者に対する社会的な圧力が、その変容に決定的な役割を果たしたに違いない(4-4)

■ニューエイジ運動は進歩教のヒーロー科学者を際立たせる反対者の役割を果たしている

 このように徹底的に変容させられた社会運動は、キリスト教原理主義だけではなく、ニューエイジ運動もそうである。ニューエイジ運動は、1960年代に一般的であった神秘主義を複雑に混ぜ合わせる中から、1970年代に出現したが、新たな思想として、オルタナティブなスピリチュアル・ムーブメント、様々な科学のアバンギャルド運動、進歩の神話を包含し、かつ、進歩的な現象も重視していた。けれども、その運動が成熟するにつれて、社会的に受け入れ可能な逸脱モデルに一致するためのプレッシャーが働き始める。ニューエイジ・グループは、この社会的な圧力に対応して、環境保護主義等の科学やアバンギャルドの文化運動との関係を断ち、神智学といった古めかしい思想にその内容を一新し、片隅でのスピリチュアリズムというパブリックな期待に適合するために自分たちを再定義した。結果として、ニューエイジ運動には、目新しいものはほとんどない。その経過で運動が参考としたオリジナルのインスピレーションにもさらに目新しいものはない。進歩の神話におけるヒーロー、科学界が成功者としての役割を維持するためには、それに対する反対者が安定的に必要だが、ニューエイジ運動はその物語の機能を満たすようになったのである(4-4)

■環境保護運動は逸脱運動としてのレッテルを張られ変貌した

 現代のもうひとつの社会運動、環境保護主義も、現在では、同じ役割を果たしている。キリスト教原理主義やニューエイジ運動と同じく、1960年代末のカウンターカルチャーの中から特殊なアジェンダを持って出現した。環境保護運動は、産業化社会に対して人々が感じていた不満をもとに、進歩批判の先頭を切っていた。当時、米国の産業中核地域の河川のいくつかは極端に汚染され、夏の暑い夏には燃えたことから、環境保護運動の批判は無視できず、その思想は広く認められ、一時的には流行さえした。

 産業社会の多くの知識人も、進行の市民宗教に挑戦し(例えば、Roszak, 1972)、この路線に沿ったさらなる進歩は、ユートピアではなく災害に結びつくと示唆した(例えば、Meadows, Meadows, Randers, & Behrens, 1972)。多くの産業化社会において、若者たちは、環境保護思想を支持し、進歩教がプロテスタント的な改良に遭遇することは可能に思えた。けれども、環境保護主義よりも寿命が長かったのは進歩教の方だった。進歩教は、直ちに、環境保護主義を「逸脱した運動」としてのその初期のステータスに戻してしまう。こうして、原理主義やニューエイジ運動に見られたのと同じ再定義が始まる。

 環境運動グループや個々の活動家は、進歩に対する批判やオルタナティブなライフスタイルを放棄し、消費社会に参加していく。そして、自分たちの目標を達成するため、実際には効果がない手段を追求することで、メディアから好意的に描かれ、リベラル政党のパートナーとして十分な資金調達を受ける道を選択する。

 この転向は、省エネや環境倫理が、エコロジーを無視し誇示的な浪費と変る社会全体の雰囲気のシフトに沿って起きた。工業化社会の多くの政府は、1970年代にはそのエネルギー危機に対応して省エネプログラムを支援していた。けれども、1980年代には消費推進が支援されるように社会は変わる。1980年代になって多くの人々が『強欲は善だ(Greed is good)』という反社会的な態度を取り入れたことも驚くべきことではない。社会慣習が突然にシフトしたことによって、そうした転向を拒絶した人々は、社会だけからでなく、環境保護論者からも急速に疎外される。1970年代に信仰されていた行動を取り入れ、政府やメディアから注目されていた人々は、80年代になると自分たちが、同じ政府やメディアから、逸脱した信仰と行動をとる人々との役割を割り当てられていることを見出したのである(4-4)

■逆説の未来史への教訓~逸脱者は次の時代のオルタナティブを用意している

 第二の「逸脱」の役割は、不確実な世界において、コミュニティが独力でオルタナティブな選択肢を準備する際に最も重要な方法のひとつであることである。現代では、逸脱しているとされる信仰体系や行動も、未来には、コミュニティに必要か、あるいは、有用なことを産み出すかもしれない。この二番目の機能は、最近の歴史でもたやすくトレースできる。例えば、どれほど、多くの中流の米国の女性たちが職場に入ったことか。一世紀前の逸脱行為は、今日では標準となっている。したがって、社会は、自らオルタナティブな選択肢を探求するかわりに、逸脱者に報いることで逸脱行為を促進したり、あるいは、少なくとも、「健全な市民はそうではない」との定義を明確化させるという逸脱者が割り当てられた機能を実施するゆとりを持って、逸脱者が生計を立てられるようにすることが珍しくはない。

 この展望からすれば、環境保護運動は、逸脱のこの機能の事例であり、社会に対して提示すべき多くのものを持っていた。そして、環境保護運動を産み出した問題はさらに悪化している。また、環境保護の活動家たちが対処すべきだと考える問題の性質も重要性も変わってはいない。けれども、過去数十年のこうした変化の結果、環境行動主義は失敗に終わり、現代社会の既存秩序を支える源として、逸脱者の役割を果たすようになった。すなわち、英雄的な進歩の行進に反対し、失敗する機能を担うようになってしまったのである(4-4)

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) John Michael Greer, In Not The Future We Ordered: Peak Oil, Psychology, and The Myth of Progress, Karnac Books,2013.
(5)ウィキペディア
ベッカーの写真はウィキペディアより
マートンの写真はウィキペディアより
シリズの写真はこのサイトより
ミルズの写真はウィキペディアより


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