没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

逆説の未来史50 進歩教の洗脳(1) ハバート曲線とピーク・オイル

2013年11月07日 01時00分43秒 | 逆説の未来史

【はじめに】
 11月3日に、群馬県の中医研でキューバの話をする機会があった。「福岡正信さんと自然農法を愛する会」のメンバーも参加されたこともあって、蛇足として、グリアに啓発され、現在最も関心を抱いている「没落教」の話もさせていただいた。食事も兼ねた交流会では、「いま自分から見ても異常(注:認知的不協和(cognitive dissonance))に見える人が増えている。世の中全体が狂ってくると、真っ当な感覚でい続けることが逆に異常者(社会的逸脱者)に見えてくる」という趣旨の発言があって、多いに感銘を受けた。認知的不協和とは米国の心理学者レオン・フェスティンガーが提唱した社会心理学用語で(5)、まさにグリアが2013年に上梓した『望む未来はない:ピークオイル、その心理と進歩の神話(In Not The Future We Ordered: Peak Oil, Psychology, and The Myth of Progress)』のメインテーマなのだ。

 マネー経済の次にグリアが、取り組んだのは、なぜ多くの人々が進歩と経済成長の神話、すなわち、「進歩教」に洗脳され、かつ、そこから脱洗脳できないのか、であった。結論から言うと、グリアは、エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間―死とその過程について」を持ち出し、「どないあがいても近代文明はもう終わりや、あきらめなはれ」と気違いじみた発想を展開してみせてくれる。

 さて、11月8日からはいよいよ核燃料棒の取り出しが始まる。福島原発問題はもう終焉しているようにも思えるのだが、カレイド・スコープの10月28日の記事「11月8日から燃料取り出し-日本は前人未到の領域に入る」を見ると、大変にスリリングで痛快な日々がこれから始まることがわかる。こんなブログのコンテンツは妄想にすぎないと切って捨ててしまえばいいのだが、1%でも信じてみれば「どないあがいても福島原発はもう終わりや、あきらめなはれ」と気違いじみた発想が想い浮かんで来てワクワクできる。グリアの悲観論ともシンクロして楽しい。さらに、おおいに笑えるのは、その結論を導くまでに動員される諸理論や諸事例だ。フロイトからユングはもちろん、UFO教から2012年人類滅亡説まで登場させる。なんというグリアのトンデモぶりであろう。ということで、グリア本の抄訳を続けてみよう。グリア本の第四弾は「進歩教の洗脳」と題してみた。彼の精神分裂病的な破天荒な発想を多いに楽しみ、腹を抱えて笑っていただきたい。

■1950年代に米国は世界最大の産油国だった

 現代社会の窮境の中心となる物語と現実とのギャップを探り始めるには、テキサス州のサン・アントニオ(San Antonio)にある米国石油研究所(American Petroleum Institute)の1956年のさほど目立たなかった会議から始めることが有用だろう。この会議で、シェル石油に勤務する地質学者マリオン・キング・ハバート(Marion King Hubbert, 1903~1989年)は、米国の石油生産がピークに達し、1970年前後に永久に衰退していくとの趣旨の論文を発表した。

 この論文の文脈は、再度、振り返っておく必要がある。第二次世界大戦以降の数十年の米国の異常なまでの繁栄には多くの原因があったが、アパラチア山脈やイギリスの巨大な石炭鉱床が初期の産業繁栄時代を動かしていたように、ペンシルバニア州、テキサス州、オクラホマ州、カリフォルニア州他の各州からの莫大な石油の直接的・間接的なインパクトが、この好景気時代を産み出す際に巨大な役割を果たしていた。1950年代に米国は、地球上の他のどの国よりも大量の石油を生産していた。1950年代のある時期には、地球上のそれ以外の国の産出量すべてあわせたよりも多く生産していた。

 米国の製油産業は、既に巨大な油田を発見しており、さらに、新たな油田を発見するための世界最高の革新技術も手にしていた。石油を発見、生産することがあまりにも容易であったことから、連邦政府は、テキサス鉄道委員会(Texas Railroad Commission)が管理する価格操作を密かに認め、法的には違法ではあったが、石油価格が暴落せずに維持されるよう、石油企業に対して生産の上限を設けたほどである。

■稀代の予言者~的中した米国産石油のピーク

 こうした状況では、近い将来に米国の石油生産が限界に達するなどというアイデアは馬鹿げていた。シェル石油のハバートの上司は、会議でその発見をプレゼンさせないようにしたほどだった。けれども、ハバートはそれで引き下がるような人物ではなかった。既に最も進んだ石油地質学者の一人として評価され、現代でも製油産業で用いられる様々な数学モデルを開発していた。例えば、ハバート曲線ある油井の生産が始まってから最初の数ケ月でその油井の産出を寿命を正確に予想できる。

 ハバートの1956年の論文は、油井だけではなく、油田の産出量でも同様の計算が適用できることを示していた。米国石油研究所の会議でのプレゼンで、ハバートは、米国全体の将来の産出量を概算するため同じ論理を適用した。最もハバートが最も重要視していたのは、最終的に生産される石油の量よりも、一本の油井、一カ所の油田、あるいは一国全体であれ、どのスケールであっても、石油の生産が、時間とともに高まり、ピークを迎え、その後低下していくことだった。

 ハバートの論理は、私たち誰もがまもなく暮らすことになる未来を規定するうえで、決定的な役割を果たす。そして、ハバートの予測が意味することを却下する現在の議論のほとんどは、その基礎となる推論を誤って述べることから始まっている。そこで、ハバートの予測の背後にある論理を理解することが重要である。ハバート曲線は、地中の透水層に発見された石油は、岩を通って急速に移動できるという単純な事実から出発する。その詳細、油田によって様々だが、どの油井も最適な抽出レートがある。その率を超えて汲み上げると全量のかなりが岩中にトラップされて残され、短期的に利益があがっても長期的には損することになる。したがって、適切に管理された油井からの産出曲線は、ピークのある高原の形に似る。その生産は、スタートのゼロポイントから急速に高まり、数カ月~数年間そこにとどまり、次に、徐々に先細りとなって干上がる。

 ある油田の生産寿命は、その油田にある油井すべての産出曲線の合計である。最初に試掘井が石油を掘りあて、多くの油井へと広げるにまではある時間がかかるが、その曲線は、数学的には若干異なるものの、統計のベル曲線に似ている。同様の地質パターンを備えた油田群を石油地質学者は油州(an oil province)と呼ぶが、その生産曲線も同様のパターンに従う。したがって、油田と同じく、油州の生産も次第に高まりピークに達し、その後、徐々にゼロへと枯渇していく。
ハバートの1956年の論文は、この原則をさらに一歩先に進め、米国全体の石油生産のカーブを予測したものだった。1859年にペンシルバニア州のタイタスヴィル(Titusville)での最初の油井が掘削されて以来、全国の生産速度も一つの油田や一カ所の油州の生産と同じ軌道に続いた。米国の石油生産がピークに達し、永久に減り始める時期を見出すため、ハバートはそのカーブに自分の計算式を適用した。その日付は、論文では1968~1972年の間に確実に入っていた。

 この予測はきちんと受け止められなかった。当時のほとんどの石油地質学者は、ハバートの予測を不必要な悲観主義と脇にやり、石油業界以外では誰も関心すら払わなかった。米国では、大量の石油やそれ以外の化石燃料を浪費するライフスタイルを維持できるだけの石油があるとの信仰のもとに、高速道路や郊外が建設され続けた。その信仰は、ハバートの予測どおりになった1970年には米国の心理としてまとめあげられ続けていた。

■輸入石油の依存が米国経済を混乱させた

 なるほど、1970年以降も石油が生産され続けたことは確かだった。生産を拡大するために熱狂的な努力が注がれ、既存の油州では新たな由井が掘削され、新たな油田や油州が発見された。ノーススロープ油田の石油を不凍港に運ぶためアラスカにはパイプラインが敷かれ、環境問題は脇におかれた。けれども、こうした手段のいずれも、1970年のピーク以上に米国の石油生産量を増やすことはできなかった。もちろん、不足する石油は、外国、とりわけ、急発展するペルシャ湾岸の産油諸国から大量に輸入することに埋められた。すなわち、問題は、米国が石油を使い果たしたことではなく、テキサス鉄道委員会が統制できない価格で、絶えず増える石油需要を満たすには、産油国に多くを支払わなければならなければならないことだった。米国経済は、エネルギー消費を絶えず成長させるように適応していたから、これは、物価上昇と景気停滞、政治的混乱の10年へと米国を突入させるのには十分だった。

■世界の石油のピークは2000年前後に起こる

 1972年、米国のピークオイルの困難な結果が起こり始めると、ハバートは次の分析へと取りかかり、1974年には全世界の石油生産のピークを上院委員会(Senate committee)で証言してみせた。ハバートの手法では、ターゲットとする油田や油州の生産量や推定埋蔵量の正確な数値が必要である。これらは、米国では簡単に入手できた。けれども、それ以外の国々、とりわけ、ロシアやペルシャ湾岸諸国は、この種の情報を国家機密として扱い、いまだにそうである。このため、これはずっと困難なプロジェクトで、地域の限られた地質学の情報に基づき、大雑把な推測をできるだけであった。それをもとに、ハバートは世界的な石油生産のピークが2000年前後におそらく起こるであろうと示唆した。

■枯渇する石油に依存すれば産業文明は存続できない

 この予測は、極端に単純化された形で述べられたが、その後の10年でオルタナティブエネルギー運動やカウンターカルチャー運動の中心的な関心事になった。1970年代のエネルギー費の高騰は、様々な新エネルギー技術開発へのインセンティブにはなったが、そのバックにはしっかりとした認識も広がっていた。1970年代に出版された環境やエネルギー問題を扱う書物は、長期的には枯渇する石油に依存できず、産業文明の存続を担保するには、一時しのぎ以上のモノが必要である証拠として、ハバートの予測を参考文献として掲載していたのである(例えば、Ehrlich, Ehrlich, & Holdren, 1977)。

 こうした警告には効果があった。1970年代には、ほとんどの産業国で環境に対する懸念が大きく高まる。戦後のエコロジーのコストは無視するにはあまりにも高くなりすぎていた。資源の枯渇と環境汚染。この一対の挑戦が、非再生資源を浪費したり毒性の汚染物質を産み出さないライフスタイルに向けた努力の多くをインスパイアーした。1960年代から残された運動の理想主義も、工業化社会そのものを徹底的に再構築し、ハバートの予測をふまえて、化石燃料によってもたらされる枯渇に対する脆弱性と長期的な環境コストを伴わずに、産業主義のメリットの多くを人々のもたらす新たな社会が構築できるとの希望をインスパイアーした。

■70年代には原子力にも未来がないことが認識されていた

 どのプロジェクトでも中心となったのは、産業国のエネルギーの大半を提供していた石油以外の化石燃料を発見するという挑戦だった。石油は、輸送燃料のほぼすべて、そして、石油以外のエネルギー資源の採掘に用いられるエネルギのほぼすべてをまかない、世界のエネルギー源のほぼ40%と単独では最大の割合を占めていたからである。さらに、当時は、ウランやそれ以外の化石燃料も石油と同じくハバート曲線に従う非再生可能資源で、いずれ別の資源に交換されなければならないことが広く認識されていた。1970年代には、いま論じられている選択枝のほとんどが試され、ほぼすべてが実施不可能であることが判明していた。そして、1970年代末には将来のエネルギーに関する議論は、残された二つの可能性に集約されるようになっていた。

 第一の選択肢は、省エネとエネルギーの効率化を重視し、産業社会のほぼ全面的な再建を提案するものであった。エネルギー需要が減れば、ソーラーや風力といった拡散した自然エネルギーでは満たせないエネルギー需要も残された濃縮されたエネルギー源で満たせる。現在のエネルギー需要量のごく一部で世界は何とかやりくりできるであろう。そこで、1970年代には、エネルギー供給が制約される世界に対応するためにライフスタイルの変化が探究され(例えば、Callenbach, 1975; Johnson, 1978)、同じく、こうした路線での数多くの技術的な革新が目にされたのである(例えば、deMoll, 1977; Todd & Todd, 1980)。

 第二は、エネルギー需要を減らすアイデアを拒絶するかわりに、経済成長に見合ったエネルギー供給量の増加を維持するための唯一の方策として原子力を選択するものであった。そのプロジェクトの最初のステージは原発の急建設であった。けれども、ウランの供給にも地質学的な限界があり、原発が暫定的な措置にすぎないことが当時は広く認識されていた。したがって、長期的には、既存の反応炉の残された燃料が枯渇する前に、長期的なエネルギー供給を担保するため、増殖炉と核融合技術の研究に大規模な投資をするというものであった。

 とはいえ、いずれの提案も、著しいリスクや潜在的なデメリットがあり、かつ、かなりのコストが必要であった。いずれも、子孫のためによりよい未来を達成するには、工業化社会全体の人々が自分の人生の時間内で、エネルギーや繁栄の鋭い制限を受け入れることを必要としていたからである。にもかかわらず、1970年代末には、当時の技術的な文献で一般的であったこの二つのプランに対して活発な議論がなされ、それが産業化社会の未来のエネルギーを形づくるとほとんどの見解が想定していた。けれども、当時誰も予想できなかったことに、第三の選択肢が選ばれることになったのである。

■新たな油田開発はトランジションのための暫定措置であった

 第三の選択枝はレーガン大統領の反革命から始まった。米国、イギリス、そして、他のいくつかの国々では、1970年代の「緑の十年」で懸念された資源の枯渇や汚染他は問題ではなく、エネルギーの供給やエコロジー的なダメージのどの難題も市場の力によって解決できると主張することによって、選挙に勝利することに保守政党は賭けた。そして、その賭けは投票で劇的な成果をあげた。というのは、犠牲は必要ではない、すべてが良くなると主張した政治家を選挙民が選んだからである。これを根拠に政権の座に返り咲いた政府は、アラスカのノーススロープや北海油田の開発に転じ、それは経済的にさらに劇的な成果をあげた。もっとも初期の計画は、こうした新たな油田も、濃縮されずさほど豊富にはないエネルギー資源へのトランジションを緩和するために、何十年かの不足を補完するためのものだとの構想を描いていた。

■かりそめの石油ラッシュでピークオイルは忘却の彼方へ

 けれども、サッチャーやレーガン、そして、彼らの後継者たちの下で、新たな油田は、市場に石油を溢れさせ、その価格を引き下げた。長期的な結果を考慮することなく、目先の繁栄を産み出すために、地質学的な限界まで猛スピードで採掘された。1970年代の石油不足の結果、すでに省エネ対策によって世界の石油消費量は約15%も低下していた。この需要減退が、ノーススロープと北海油田から生産の急増とあいまって、石油価格を急落させる。そして、1980年代の半ばには、1バレル10ドル前後に落ち着いた。インフレを調節しても、歴史上記録的な低価格で、かつ、それが、10年以上もそのままとどまったのである。

 1970年代と1980年代初期までの困難な歳月は、工業社会の中流階級が消費したいだけの輸入石油代を支払えるほどの好景気へと一変した。ハバートのカーブやそれに基づく懸念は、人々の意識から遠ざかり、1980年代初期以降のエネルギー絵図は、全世界の石油が枯渇するかなり前に、ピークオイルが到来し、石油生産が減少することを忘れてしまった(例えば、Ramage, 1997)。

■逆説の未来史への教訓~ピーク・オイルの混乱を防ぐにはもう手遅れである

 けれども、こうした変化は、工業化社会が化石燃料、とりわけ、石油に依存しているという現実には影響しなかった。それは、その依存を数十年だけ長く無視することを可能にしただけだった。そして、工業化社会は避け難い隘路に自ら入り込むことになる。1980年代の初めの政治的な操作によって買われた、数十年は、化石燃料から幾分かは持続するエネルギー源へのトランジションを成功させるうえで必要であった時間であったことは、まさに最近の歴史の皮肉であった。米国エネルギー省が委任し、2005年に公表されたハーシュ・レポート(The Hirsch Report)は、深刻な経済社会的な混乱を避けるには、グローバルなピークオイルへの準備は、少なくともピークの20年前に着手されていなければならないことを示した(Hirsch, Bezdek, & Wendling, 2005)。1980年には、この20年はまだ利用可能だったし、それ以前の十年間のハードな仕事は、再生可能エネルギー源で動力供給され、よりエネルギー効率が良い社会にトランジションするための多くの基礎を築きつつあった。けれども、1980年代に、こうした未来のための一歩を放棄したことによって、工業化社会は、ハバートの予測が正確であれば、悲惨な結末を保証された軌道へとその身をゆだねてしまったのである(4-1)。

【引用文献】
(1) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(2) John Michael Greer, The Ecotechnic Future: Envisioning a Post-Peak World, New Society Publishers, 2009.
(3) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(4) John Michael Greer, In Not The Future We Ordered: Peak Oil, Psychology, and The Myth of Progress, Karnac Books,2013.
(5)ウィキペディア
ハバートの写真はこのサイトより


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