没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

中世化する世界~ロシアから愛を込めて(9)

2012年11月29日 23時20分04秒 | インポート


統計が産み出した壮大な論理

  レーニンは驚嘆すべき大秀才であった。演説の名手で語学にも秀でているうえ、数学的能力でも卓越していた。そして、この天賦の才を駆使し、統計的数学処理に基づき、壮大な論理体系を構築してみせた。不破哲三氏は、マルクスを悩ませた課題をレーニンが見事に解決してみせたと絶賛し、こう語っている。

 「再生産論のレーニンの理論展開を見ていると、彼の理論的才能の大きさにくわえて、レーニンが数字に強かったことを感じますね。レーニンは、数字や統計が好きで、『資本論』への書き込みをみても、マルクスが工業統計など合計を出さないまま、項目別の数字だけを羅列したりしている個所に出会うと、たいてい自分で合計を計算して書きこんでいます。また、『資本論』に残っている数字のミス、計算や校正のミスは手書きで訂正しています。再生産表式でも、マルクスはコツコツ計算に苦労しながら表式をつくりあげてゆくのですが、レーニンは、簡潔で要領のいい計算方式をあみだすんですね(略)。マルクスの到達した最前線をしっかりふまえ、さらにそこから前にすすむ仕事ができたと思います」

 そして、レーニンが統計処理にも秀でていたと指摘する。

「レーニンの最初の亡命のときの話ですが、ロシアにいる母に本を送ってくれるようたのんだ手紙があるんです。そのなかで「統計にかんするものは別の箱で送ってください、統計がすこし恋しくなりはじめたので、全部計算しなおしてみようと思っていますから」といっている。気分転換に統計を読んだり、いろいろ計算のしなおしをしたりする、というんですから、この統計好きは相当なものですよ(略)。だから、レーニンの研究には、経済学以外にも統計を縦横に使ったものが、いろいろあるでしょう(略)。レーニンの統計好きは、どんな問題でも、徹底した事実の分析を議論の根底におく研究ぶりと結びついて、レーニンの理論活動の大きな特徴になったんですよ」(1)

 ああ、なんというレーニンの能力であろう。なんという端倪すべからざる頭脳の持ち主であろう。驚くべき能力といっていい。このレーニンの頭脳を持って構築された論理体系をもってして、ソ連は4000万人もの農民の暮らしと生命を奪うという悲劇を引き起こしてしまった。だが、レーニンとまったく同じ統計データを用いながら、まったく別の結論を出した人物がいる。チャヤーノフである。

マルクス主義は搾取国家を産むだけである

 レーニンの見解に対し、チャヤーノフは、原則から挑戦してみせた。チャヤーノフは、必然的たるべき資本家階級の極性化をレーニンが用いた農業統計は示していないことを実証し、ソ連において将来社会主義が構築されるとすれば、そこでは、小規模農民が重要な役割を果たすであろうと主張してみせた(2)。農民の中には豊かな者がいて、それ以外の農民を労働者として賃金雇用していることは事実である。だが、その事実があるとしても、小規模農民の経済には、資本主義の論理では対応できないそれ自身の論理を持つと、チャヤーノフは主張した。ロシアの小規模農民の中には資本家の胎児がいる。したがって、革命の同胞としては頼りにならない。ボルシェビキのこの主張に対し(3)、チャヤーノフは、小規模農民は協同組合に基づき、社会主義社会を発展させることが可能であり(2,3)、そのためにも、小規模農民は個人農家として近代化のための支援を受けるべきであって、都市のプロレタリアート階級の敵として見なすべきではないと主張した(2)

 レーニンを批判しただけではない。チャヤーノフは、マルクス主義者たちの農民の見方に対して、ことごとく挑戦してみせた。例えば、マルクスは、小規模農民のことを「文明内における野蛮を代表する階級」と呼び、小規模な農民社会を不安定なものと見ていた。マルクスの枠組みによれば、それ以外のあらゆる経済活動と同じく小規模農民たちもお互いに搾取しあい、ある農民が土地や関連する生産手段を資本主義的に蓄積すれば、それ以外の農民は資産を失い農村プロレタリアートに陥っていくのであった。そして、封建制度が終焉した以降も生きのびている小規模農民は、資本主義の発展が不十分な証にすぎず、階級として家族農家は死滅すべき存在であった。未来の選択肢として残されているのは、ただ大規模アグリビジネスか大規模社会主義型農業のいずれかしかないのであった。

 だが、チャヤーノフによれば、小規模農民は互いに搾取しあってなどはしていなかった。小規模農民の生産形態は十分に成功しており、「小規模農民の家族農場は常に状況に適応し残るであろう」と述べている(4)。小規模農業は大規模農業よりも効率的であって、大規模工業型農業への転換がロシアにおいては経済的意味をなさないのであった(5)。なればこそ、社会主義の指令型経済(command economy)も批判し、集産化の「水平的統合(horizontal cooperation)」は、地元農村の指導力を破壊し、官僚的惰性へと結びつき、国家主義経済は新たなヒエラルキー化を産み、そのオリジナルの高い理想を失い、新たな盗奪政治(kleptocracy)、国民から収奪し私腹をこやす政治形態を産むだけだと予言した(4)。ソ連が都市化に向けた努力を前から、高度に都市化された工業化社会が、それに呼応する権力集中もあいまって、地方分権化された農民社会よりも、残忍な全体主義的統治に向かうであろうことは明らかなのであった(5)

 チャヤーノフのビジョンや小規模農民、農地に関する見解や理論はレーニンとは劇的なまでに対照的であった。以下のレオニド・シャラシュキン博士がまとめた表がそのことをよく示している。


 歴史家ダニエル・ターナー(Daniel Thorner)はこう述べている。

「家族農場をロシアの典型的な単位とみなし、家族農場のサバイバル力を評価するチャヤーノフのアプローチはまったくレーニンと正反対のものであった」(4)

古典派自由主義経済の見方は一面的

 チャヤーノフの経済学は、複雑な数式、曲線と交差する直線や入念なグラフと、近代経済学と関連するあらゆるものを備えていた。「主観的評価(subjective evaluation)」「限界労働支出(marginal labor expenditure)」、「限界効用」といったスキームすら使っていた。チャヤーノフは自分や同僚が「組織や生産学派は、マルクス主義的やり方を用いず、本質的にオーストリアの限界効用学派の子孫だ」と共産主義から批判されていると述べ、新古典派の自由主義経済学、オーストリア学派の影響を受けていたことを認める。だが、同時にチャヤーノフは決定的な点でオーストリア学派からは距離を置いていた。それは、金融資本主義に対するチャヤーノフの次のコメントからもわかる。

「もし、ロシアの子どもたちが、ある農業国へと逃れたならば...、そして、その地で小作労働に従事しなければならないとすれば、彼に心理的にはブルジョア的取得欲があったとしても、組織と生産学派により確立された行動ルールに従うように思える」

 組織と生産学派とは、チャヤーノフらが確立した学派のことだ。チャヤーノフは言う。

「マンチェスターの自由主義(Manchester liberalism)」は資本主義に基づいており、科学的調査には適切である。とはいえ、それ以外の経済生活の組織的形式にまで拡充することはできないし、拡充すべきではない」

 チャヤーノフは、新古典派のホモ・エコノミカス(homo economicus)の理解は一面的なものにすぎず、ミクロ経済学における「効用の主観的な評価」を「国家経済の全システム」へと拡張したり、小規模農民たちの農場に新古典主義の分析を課すことも深遠な誤りだと指摘した。

 チャヤーノフは、慣行の経済理論では不可解な合理的な小規模農民の多くの行動事例を提示し、「自然な家族農場」の上で暮らしている大多数のロシア人には、スミスやリカードの新古典派経済学もマルクス主義も適用できないと主張する。チャヤーノフによれば、小規模農民が姿を消すこともなければ、歴史は資本主義にも共産主義にも向かっていないのであった(4)

農業経済学の第一人者

 ここで、チャヤーノフがどのような人物であったのか、改めてそのキャリアを確認しておこう。アレグサンダー・チャヤーノフ(Alexander V. Chayanov:1888~1937年)は1888年にモスクワで生まれた。幼少や青年期のことについてはほとんど知られていない(4)。だが、1906年にモスクワ農業研究所(Moscow Agricultural Institute)に入学してからのキャリアははっきりしている。モスクワ農業研究所とは1917~1923年にはサンクトペテルブルク農業アカデミー(Petrovsky Agricultural Academy)、1923年以降にはチミリャーゼフ農業アカデミー(Timiryazev Agricultural Academy)となる名門大学である。同学では、農業経済学を専攻し1911年に卒業している(6)。そして、21歳となった1909年には農業経済学の最初の論文を出版。翌年には「20世紀の始まりでの小規模農民圃場の3つのコース・システムの南側の限界(The Southern Limit of the Three-Course System of Peasant Fields at the Start of the Twentieth Century)」の学位論文で、モスクワ農業研究所から博士号を授与されている。また「民衆にアドバイスする農学者(Agronomists Advising the Public)」(1911)や「農業技術系公務員の育成課題(The Problem of Training Agricultural Officers)」(1914)を執筆(4)、1913年に準教授となり、1918年には終身教授となった。1911年から外国を旅し、国際的にも認められる専門家となり、60カ国以上と交流を結んだ(6)。1919年には、チミリャーゼフ農科大学(Timiryazov Agricultural College)の農業経済セミナーの責任者となり、1922年に、このセミナーは、シンクタンク農業経済政治研究所となった(4,6)。所長として、著名な研究者を集め(6)、ソ連の農業経済学の第一人者となっていたのである(4)

 チャヤーノフは、ロシアの農民たちの未来ビジョンを『私の兄弟アレクセイの小規模農民のユートピアの地への旅(Journey of My Brother Alexei to the Land of Peasant Utopia)(1920)』というユートピアで小説に述べた(6)。このユートピア小説には登場する人物のあだ名は、彼が同僚たちから借用したものであった。A.N.Chelintsev、N.P.マカーロフ(N.P. Makarov)、A.A.Rybinkov、G.A.Stundenski、A.N.Minin等だ。さらに、チャヤーノフは、コンドラチャフの波で知られるマクロ経済学者ニコライ・ドミートリエヴィチ・コンドラチエフ(N.D.Kondratiev)とも仕事をしている。チャヤーノフが「小規模農民の生産と組織の分析学派(School for Analysis of Peasant Production and Organization)」、すなわち、「組織と生産学派(Organization and Production School)」として知られる新人民主義の知的運動(neo-Populist intellectual movement)をリードし、最も卓越した理論家となっていたのはこの時期であった(4,6)

事実をして語らしめる

 チャヤーノフが用いたのも、レーニンと同じ基礎的統計データである。だが、チャヤーノフは、農村における資本主義の発展の証としてレーニンが見た分化パターンを全く別の切り口から説明してみせた(3)。そして、レーニンが見た農村での格差拡大にはもっと別の自然な説明ができるとした(4)。では、同じ統計データを用いながら、まったく正反対の二人の見解の差はなぜ生じたのであろうか。

 「地球を救う新世紀農業」でも書いたのだが、私流に解釈すれば、これは、マインド・マップ型思考法を取るか、Idea Fragment2型思考法を取るかによる。別の言い方をすれば、トップダウン型の演繹的な思考法を取るか、ボトムアップ型のKJ法的な思考法を取るかによるであろう。統計データ処理は帰納法的手法といえる。とはいえ、当初の仮説設定の段階が違っていれば、いくら統計データを用いても、結論が変わってしまうのだ。

 故川喜田二郎博士は「データをまとめる」ではなく、「データがまとまる」と語られていた。より哲学的には「己を虚しゅうして事実をして語らしめる」となる。

 これは極めて本質的なことである。己が虚しゅうなければ、自分のイデオロギーに都合がいい事実だけを構築することになる。あるいは、事実すら消滅させてしまうことができる。

 レーニンはマルクス主義者であり、かつ、プロの革命家だった。主な関心事は、ボルシェビキ党の戦略・戦術として、ロシアにおける革命の条件や見通しを分析することであった。なればこそ、レーニンは、『ロシアにおける資本主義の発展』(1899)は、古典的なマルクス主義に基づいて、産業資本主義を中心に周辺後進国でいかに資本主義を発展させるかを説明してみせた。すなわち、レーニンには、マルクスの体系が刷り込まれていた。したがって、それに基づき、都合がいいデーター解釈をしてしまったのではあるまいか。

 一方、チャヤーノフは、類まれな知的教養と独創力を持ち、具体的な活動にもかかわっていたが、ある種のテクノクラート、組織・生産学派の中心的な農業経済学者ではあった(7)。すなわち、イデオロギストではなく、観察に基づいて分析する科学者であった(4)。その見解は、マルクス主義者とは異なり、ある種のイデオロギーによるものではなく、20年以上にわたる経験的な観察に基づくものであった。『農地問題とはなにか(Chto takoe agrarnyi vopros), 1917)』他の仕事を通じて、小規模農民を残す農業改革を提案したが、それもロシア農民に対する幅広い知識と理解に基づいていた。農業統計に関する広範な研究や経済計算からの実証的証拠に基づいていた(5)。1910年にロシア西部スタロベリスク(Starobel’sk=現在ウクライナ)において、101戸の小規模農民世帯を詳細に調査していたし(4)、1925年に研究した地域においては、亜麻や小麦等は市場向けに発展していたが、ジャガイモ、野菜、ライ麦、エンバク、ミルク、肉を含めた作物の90%以上は、家族自給のためにだけ生産されていた。チャヤーノフは『小規模農民の経済に関する理論(Organizatsiia krest'ianskogo khoziaistva)』(1925)において、自給経済の機能や小規模農民と非資本主義的な市場とのかかわりを記述して分析してみせたが(5)、その前提として、チャヤーノフは市場にかかわる農民たちと様々なやり方で語り合っていたのである(3)

 要するに、革命以前のロシアの農民たちに共通していた特性は、経済的な自給と高度な自立性だった。1920年までのロシアの農民は、無料の家族労働力、家族やコミュニティによる土地所有、住居に付随する自給地、資本的動機づけの弱さ、大半の作物における自給志向といった価値観で特徴づけられていた(5)

 事実、帝政ロシア政府は1870年代から、小規模農民の社会経済的な生活の多くの統計を集めていた。そして1910年には、すでに農業経済学者は、ロシアの農村における小規模農民の経済行動が、古典経済学のシンプルな配分モデルと一致していないことを知った。小規模農民は利益を最大化したり、「限界効用」を認識しているようには思えなかったのだ(4)

 マルクス主義者は、農民たちが疎外されていると主張した。そして、チャヤーノフも同じことを主張した。だが、チャヤーノフが、小規模な家族農業と大地と共生関係にある暮らしの中心と見ていたが、マルクス主義者も封建制の擁護者のいずれもが、伝統的家族を破壊し、小規模農民がいない農業を考えていた。マルクス主義者や教会にとっては、自ら食料を生産しない人を養う余剰を生むのが農業なのであった。しかし、実証的証拠から、チャヤーノフは、小規模農民たちがキリスト教の到来以前の時代特性をいまだに保持していることをから目の当たりにしていた。例えば、家族が耕作する以上の土地を「資産」としての所有できるという概念は、キリスト教徒以前には存在しなかった。スラブ部族によれば、土地は家族や家族のクランに「所有」されるものであった。チャヤーノフが見た農民たちの生産の原動力は、古代スラブ人と同じく、自給だった。何世紀に及ぶ農奴制を受けて、小規模農民たちは自分の土地では勤勉に働きながら、領主や地主の土地で働くときは怠惰だった。チャヤーノフは1925年に調査した地区において、小規模農民の多くが、年にたった118日しか働いていないことを見出す。農民たちは、小規模農民たちは農作業を美徳として見ていた。だが、暮らしに必要な仕事は認めても、ハードな仕事自体は、苦役(drudgery)や不運であって、美徳とはならないとみなした。農業に美徳を産み出すのは、仕事のハードさではなく、農作業の多様性と創造性なのであった。そして、この特性は、ソ連の集産化農業において再出現してしまうのである(5)

 さて、話がいきなり現代に飛ぶ。素人の乱5号店・店主日記で松本哉氏は、2012年08月30日に「ボブ・ブラックの『労働廃絶論』を読むしかない!。知る人ぞ知る、『労働廃絶論』。どこの馬の骨かわからない、謎のアメリカ人が書いたとんでもない論文!出だしと、最後がすばらしすぎる!」と書いている。
 そして、このボブ・ブラックが書いた労働廃絶論(1985年)をひも解くと、シューマッハー、ウィリアム・モリス、シャルル・フーリエ、イワン・イリイチらと並び、こんなフレーズに出くわす。

「搾取される小作農さえ、地主からかなりの労働時間を奪い返している。チャヤーノフが調べたツァーリズム下のロシアの村―ほとんど進歩から取り残された社会―の数字も同じように、貧農の日々の4分の1から5分の1は休息の日であった。生産性至上主義のために、我々が、彼らよりはるかに遅れた社会にいることは明白ではないか。搾取されるロシアの貧農は、なんのためにこんなに働くのかと思ったであろう。我々もそう考えるべきなのだ」

 ああっ、チャヤーノフの新しさはこんなところにも飛び出す。では、チャヤーノフは具体的にどんな理論を構築したのであろうか。

【引用文献】
(1) 雑誌『経済』連載の「レーニンと資本論」をめぐって、不破哲三さんに聞く(5)再生産論の展開でのレーニンの貢献、『しんぶん赤旗』1998年9月20日
(2) John Gledhill,Classical Marxism and the Agrarian Question
(3) John Gledhill, The Chayanovian Alternative, The Family Labour Farm
(4) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(5) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(6) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(7) Henry Bernstein, V.I. Lenin and A.V. Chayanov: looking back, looking forward, Journal of Peasant Studies, 36 (1). pp. 55-81,2009.


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(8)

2012年11月25日 23時01分42秒 | ロシア

 京王線には「芦花公園」という名前が付いた駅がある。徳冨蘆花(1868~1927年)の住宅であった蘆花恒春園が近くにあることからこの名が付いた。蘆花は、今流に言えば、田舎暮らし、農的暮らしの元祖の一人と言えるだろう。

 蘆花以上に、本格的な百姓生活を実践したインテリには、江渡狄嶺(1880~1944年)もいる。狄嶺は、仙台の第二高等学校で学んだ後、東京帝国大学法科大学に入学する。当時の帝大である。エリートへの道は保証されていたといい。だが、狄嶺は同学を退学すると千歳村船橋(現在世田谷区)、その後は、上高井戸(現・杉並区高井戸東)に農場を開き、実践と思索を重ねた(1)。蘆花や狄嶺が田舎暮らしにあこがれたのは、トルストイに心酔していたからであった。

 たしかに、ロシアには、バクーニンの伝統もあれば、クロポトキンもいた。1840年代には、ロマン主義のスラブ主義(Romantic Slavophilism)によって、農村における小規模農民の美徳が強調されていたし、1880年代のロシアの人民主義運動(Populist Movement)は、インテリたちが農村を訪れ、自然と再びつながることを熱望していた(2)。ソ連が誕生する以前のロシアは、混沌としていたとはいえ、日本のインテリたちを魅了するだけの農的思想の宝庫だったのだ。だが、その後のソ連は、大規模農業と近代農業の実践場と化してしまった。どこで、路線が食い違ったのか。今日は、レーニンの思想を辿ってみよう。

農村がプロレタリアート化すれば資本主義社会が到来する

 資本主義はいかにして発展するか。マルクス主義者たちの初期の議論で重要課題となったのは「農地問題」だった。ここで、資本主義が発展するために、農業、あるいは農地がどのように寄与するかを確認しておこう。端的にいって、農業は以下の四つのやり方を通じて資本主義化に欠かせない資源をもたらす。

①余剰労働力
 農業だけで生活できない農村住民は、産業化に欠かせない「賃金労働」をもたらす。
②余剰農産物
 マルクスによれば、賃金労働は、製造業を発展させるのと同じく、農業生産性を向上させるためにも同じく重要である。産業が発展すれば、多くの労働者が必要となり、余剰農産物も増すからだ。
③国内市場の発展
 農民は生産者であると同時に消費者でもある。だが、彼らがプロレタリアートになれば、自分たちの必需品を必ず市場で買わなければならない。国内市場に基づく産業を発展させるためには、農民たちに自給自足を止めてもらわなければならない。
④投資剰余金
 余剰労働力と売買できる余剰(marketable surplus)と同じく、農業は出資剰余金(investment surplus)も産み出す。

 ちなみに、革命前後のロシアにおいては、出資余剰金の可能性も着目された。ロシア帝国の大臣であったセルゲイ・ヴィッテ(Sergei Witte)によって19世紀末に提唱され、新経済政策やソ連の産業化を巡る1920年代の戦略論の中で、ソ連の経済学者や指導的ボルシェビキ、エフゲニー・プレオブラジェンスキー(E. Preobrazhenski)によって社会主義発展のためのモデルとして継承された(3)。だが、この路線は、その後途絶えた。プレオブラジェンスキーは1936年12月20日に逮捕され、スターリンによって翌年、非公開処刑されてしまうのである。その復党が許可されたのは1988年、公式に名誉回復されたのは1990年になってからであった(4)

 さて、資本主義を発展させるこの4つの要素のうち、マルクスが最も強調した要素が余剰労働力であった。また、マルクスは余剰農産物も重視した。農村がプロレタリアート化すれば、資本主義な農業の発展の条件を産み出すからである。マルクスの見解によれば、資本主義が発展するには、まず、小規模農民がプロレタリアート化することが不可欠であった(3)。そして、当時の英国やドイツの状況を受け、農村プロレタリアートは、都市プロレタリアートと違いがなく、産業の発展と同じ基本法則が農業の発展にも当てはめられるにちがいない、とマルクスは想定していた(5)。逆にプレ資本主義農業は、農業生産性を高めて市場向けの余剰農産物を増やせないことから、産業発展の障壁となるであろう。したがって、プロレタリアート化を邪魔するいかなるプロセスも、搾取に対して人間性を完全に解放できるであろう、その日の到来を先送りしているのであった。なんとなれば、自分たちの農地にしがみつく小規模農民は、古い支配や搾取の形態、あるいは地主階級の支配も維持し、必ず達成されるべき社会主義の到来を遅らせるべき邪魔な存在に他ならないのであった(3)

自作農をコアに封建的ロシアを資本主義化する

 だが、19世紀後半から20世紀前半にかけてのロシア社会は、マルクスが想定した西ヨーロッパのそれとは根本的に異なっていた。レーニンのみたところ、ロシア農業は、いまだに資本主義に至らぬ封建制のままであった。確かに、当時のロシア国民の圧倒的多数は農民だった(5)。1910年には、ロシア帝国全体の1億5800万人のうち、1億3500万人が小規模農民であった。ヨーロッパ・ロシアだけで、小規模農民は9300万人もいて、人口の84%を形成し(2)、かつ、その農業は自給志向のものだった。例えば、19世紀前半には、過剰農産物、とりわけ、穀物を生産することを小規模農民に強いるうえでは農奴制が不可欠であったことが認識された。この強制がなければ、多くの農民や農村全体が自給生産に戻りがちなのであった(5)

 ロシアにおいて農奴制が廃止されたのはようやく1861年にもなってのことであった。それも、1856年のクリミア戦争で敗北し、近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、農奴解放令を出したことによる外圧であった(4)。とはいえ、公的に農奴解放がなされた後でさえ、小規模農民たちは、地主から農地を買い入れることに猛烈に反対した。新たな土地憲章に署名することを小規模農民に強いるため軍事力を用いられなければならないケースがほとんどであった。おまけに、小規模農民の多くは地主に支払う資金を手にしていなかった。土地を買い入れても借金を返済し終えるまで地主に付随し続けた。要するに、「解放」から数十年後も農民たちの大半の暮らしにはほとんど変化がなかった。古いcorvéeや現物での年貢が金銭での重税に変わっただけであった(5)

 だが、農奴解放には二つの大きな結果があった。厳しい農村から農民たちが都市へと逃れ、都市労働力に加わるようになったこと。そして、起業的な小規模農民が農地を購入し農地を買い入れることが可能になったことであった(5)。この農奴解放を受け、ニコライ2世の下で、個人農家創設のための改革を促進したのが、ピョートル・ストルイピン(Pyotr Stolypin)である。ストルイピンは、セルゲイ・ヴィッテと並ぶ有能な政治家で、1906年に首相に就任。社会不安が高まりテロも多発し、帝政が危機的状況を呈する中、国民の不満を解決するため、帝政の支持階層となる自作農階級の育成を試みた。だが、伝統的な農村コミュニティ(ミール)の解体を嫌悪する農民層は反発し、ストルイピンはアナーキストによって暗殺されてしまう(4)。そして、ストルイピンの農地改革にもかかわらず、農民たちの90%は、伝統的なままで、機械類を用い、賃金労働者を雇用し、市場に向けの生産を行うことに適応した近代的な農民は10%ほどにすぎなかったのであった(5)

 こうした状況を受け、レーニンは、マルクスの論理をさらに練り上げたうえで、ロシアに適用する必要性があると考え、著書『ロシアにおける資本主義の発展(The Development of Capitalism in Russia)』において、マルクスのオリジナル・モデルに修正を加えた。

 マルクスは、小規模農業が長期的には生き残ることができない、と考えてきた。同じく、レーニンも小規模農業は完全な産業型資本主義の発展にそぐわないと考えていた。そして、レーニンは、マルクス以上に、農業の資本主義的発展と資本主義産業の発展との関係を理論的に明確化した。そして、上述した四つの要素のうち、レーニンにとっては三番目の国内市場の発展が鍵であった。そして、国内市場の発展において小規模農民の分化が果たす役割に、とりわけ、着目した。

 マルクスと同じく、レーニンも農民の階層分化が避けられないと見ていた。そして、ストルイピンの改革によって、ロシアではクラーク(kulaks)と呼ばれる新たな裕福な自作農が誕生していた。何人かの農民はより豊かな地主となり、別の農民はより貧しくなっていた。すなわち、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ロシアの農村においては、社会経済的分化が起こっていた。レーニンはこれを「富農階層クラーク」、「中流農民」、「貧しい農民」と三階層に分類した。

 豊かなクラークは、農村のプロレタリアートである貧しい農民を賃金労働者として雇用し、農村におけるブルジョアとなっていた。ブルジョア農民は、利益志向の商業的農業の発展に対応し、賃金雇用される労働者を搾取することによって資本を蓄積している。おまけに、役畜や鋤他の生産手段の大半も所有し、貧困に陥った貧しい小規模農民たちの土地を購入したり、借りたりしていた。レーニンによれば、この新たな農民のブルジョア階級であるクラークが増えることが市場発展の刺激となるのであった。さらに、クラークは、自分たちの消費水準が高いだけでなく、農具等の生産手段のために市場を提供する。そして、商業的農業の発展と農村への貨幣経済の広がりを促進していた。一方で、レーニンの見解では、伝統的な地主は、商品開発を阻害しがちであった。

 地主階級は農民を封建的なcorvée労働のやり方を通じて、搾取し続けていた。また、そうすることには利益があったことから、村の商人も小規模農民を利用し続けた。地主や商人資本の支配が続けば、農業における十分な発展、すなわち、「賃金労働」に基づく生産、農業生産性のポテンシャルを最大に発揮することができない、そうレーニンは判断した(3)

アメリカ型の道とプロイセン型の道

 もう一度、確認しておく。マルクスもレーニンも、大規模な賃金労働に基づく資本主義型農業が長期的に成功すると考えていた。現実的に見れば、大規模な賃金労働に基づく資本主義型農業が、どの条件下においても経済的に有利であるとは限らない。次回に詳述するように、小規模な家族農業の方が、資本主義型大規模農業よりも有利なケースもある。また、農業には工業とは違う論理があるはずである。

 だが、レーニンは、資本主義型大規模農業が家族農業に取り替えわってしまうという可能性は一切認識していなかった。また、農業も工業化とまったく同じパターンに続くはずであるという前提の下に論理を展開した。なんとなれば、「封建制の領主制」が資本主義型農業へと転換し、発展していくための方策を考えればいい。それには、どのようなルートがあるのであろうか。レーニンは『ロシアにおける資本主義の発展』のやや短絡的な図式をその後改め、以下の二つの道があると主張した。

●プロイセン型(ユンカー)の道
 当時、中央ヨーロッパ農業における趨勢に基づいてレーニンが考えたもので、伝統的な封建制のもとで、地主階層が残りながら、借地農民が賃金労働者へと変わり、過剰となる借地農民が追い払らわれることによって、徐々に内的に転換していく。

●アメリカ型の道
 このモデルとは、小規模農民が社会経済的に分化する過程を通じて、地主階級が存在しないか、地主階級が革命によって破壊されたところで誕生する。

 とはいえ、プロイセン型の道は、次のアメリカ型の道に比べて進歩的ではないとレーニンは考えた。なぜなら、アメリカ型の道では迅速な技術開発がもたらされ、自由な資本主義の発展の道を切り開ける一方で、プロイセン型の道は古い労働搾取の農奴制の遺物をいつまでも残してしまうからである(3)

キリスト教とシンクロする共産主義革命

 さて、ロシアの農村において、農民の三層構造が生じていることについてはふれた。これは事実であった。そして、レーニンはこれが、さらに二極化していくと見た。貧しい農民たちの何人かは土地なしで、それ以外の農民もわずかな土地を耕作し続けていたが、誰もが賃金のために働かなければ生き残れなかった。一方、農村が経済的に商業化されたことから、中流の小規模農民も搾取されていた。彼らは、自給志向の農民であったが、新たなブルジョア階級の農民から借金をしなければならなかった(3)

 では、はたして、小規模農民は、社会主義革命を実現するための闘争における同盟者となるであろうか。それとも、反動的な反革命的な分子であろうか(3)。革命以前から、レーニンは、ロシア農民が、革命シンパとなるか、そうではないかを判断すべく「農地問題」の著作を多く執筆していた。そして、レーニンにとっては、地主階級の小規模農民のメンタリティはプロレタリアートではなく、ブルジョアのそれに近かった。レーニンが例外とみたのは、土地を所有しないか、より裕福な村民の世帯で賃貸用に働く農村の貧しい農民だけであった(5)

 レーニンはこう指摘する。
「すべての凶作は、プロレタリアート階級へと多くの中流の小規模農民を放り込む」
「プロレタリアート農民は、中流の農民とは違い、それほど消費をしたりはしない。だが、多くを買う」(3)

 以上のことから、レーニンらは、革命以降にロシア農業が発展するためには、以下のことを実施することが欠かせないとの結論を下した。

・土地所有の国有化(国営農場は、家族消費のためではなく、社会主義計画下の社会主義市場のために生産を行う)
・自立した小規模な農民を大規模国営農場の賃金労働者へ転換(大規模ほど効率的で、それによって産業化や都市化に必要な労働力が解放される)
・自発的な集産化によって小規模から大規模農業への転換

 すなわち、ボルシェビキ政権の農業改革とは、土地所有を個々の小規模な地主から国家へと変換し、家族労働を集産化された農場における労働に転換し、農業生産の近代化を目指すものであった。それには、人民を農地から引き離し、プロレタリアート化し、社会や家族の絆を断ち切り、村を都市に依存するようにし、農村人口への統制の容易さを保証し、伝統的な価値観を根絶することが必要であった。さらに、土地所有も含めて、ブルジョア」の利益を根絶し、産業化と都市化のために人間やそれ以外の資源を担保することも欠かせなかった。しかも、レーニンは、村における経済的社会革命には、イデオロギー的な文化的革命によって、封建制の千年を通じて継承されてきた自給農業に根ざす伝統的価値観を破壊する必要があることもはっきりと理解していた(5)

 シャラシュキン博士は言う。

「このことは、伝統的な自給自足経済の植民地化のレシピを再び思い出させる。農業に関する限り、マルクス主義者の見解が、900年以前のキリスト教や封建制度とどれほど同じであるか。それは、驚くべきほどだ」

 教会や領主によって圧制を受けていた小規模農民は、プロレタリアートによって「解放」されたのであった。だが、再び、革命の力を養うために穀物を差し出すという同じ圧制を受けることになってしまったのであった。そして、小規模農民たちの伝統文化を破壊するためのキリスト教のイデオロギーが、マルクス・レーニン主義というイデオロギーに変わっただけなのであった(3)

集産化のもたらせしもの

 前述したとおり、当初、レーニンは農村における自作農を重視していた。だが、その後事情が変わる。スラブ部族のもとに、ルスたちがやってきたとき、まず必要としたのは、食料であったと前回のブログで述べた。これは、ボルシェビキ政権にとってもまったく同じだった。軍と「労働者階級」、すなわち、産業プロレタリアートに食料を供給する必要があった。そして、その食料は農民を除いてどこからももたらされることはなかった。ところが、1920年代末には、裕福な小規模農民たちクラークは、価格があがるのを待ち、余剰穀物を売ることを差し控えることが一般的だった。自給する小規模農民は、再び新たな社会、「共産主義社会」の建築の前に立ちふさがっていた。この理由から、パン、すなわち、穀物供給を統制化することが最優先事項となった。ボルシェビキ政権は、穀物に対して現物重課税を行い、武力(prodrazverstka)を用いることで、それを農民たちから引き出した。

 すなわち、ソ連を集産化へと動かすことになったひとつは、食料事情であった。同時に、集産化は、農村に対する統制を獲得するために試みられたのであった。

「集産化と農民文化の抵抗(Peasant rebels under Stalin: Collectivization and the culture of peasant resistance)」の中で、ビオラ(Viola, L. 1996)はその結果をこう指摘する。

「集産化は小規模農民たちのコミュニティを破壊し、威圧的な企業、名前だけの社会主義者を残した。共産党は、農民を文化的経済的な植民地に転換しようと試み、それを用いた。集団農場は統制の道具であり、国家はそれにより、穀物やそれ以外の生産物の形で小規模農民たちから年貢を強要し、農村に対する政治的な管理支配を広げられるであろう。植民地化の目標を達成するために、共産党は、小規模農民たちの文化や自立の根絶をまさに目的としていた」(5)

 レーニンがやったことをスターリンはより過激に試みる。スターリンは、農村の集団化を目指し(6)、1930年代には強制的な集産化が農村で急速に進んだ。公式統計によれば、集産化された世帯数は、1931年の4%から1929年に53%、1955年には99.6%まで及んだ(5)。その結果は、アラン・カールソン(Allan Carlson)が、20世紀の人間の最大の悲劇のひとつと呼ぶウクライナの小規模農民の破壊であった(2)

 肥沃な黒土を持つウクライナは、かつては、ロシア皇帝に統治されていた。だが、その支配は1917年の3月に終わり、レーニンの支配下におかれた。その後、「クラーク」として知られていたウクライナの裕福な農民は、人民の敵、革命にとっての障害とされ、私財・所有物はすべて没収され、私有の農地、家畜と穀物のすべてが奪い取られ、政府が所有者であると宣言した(5,7)。コルホーズとして設営された土地に農民を送り込んで耕作させるためであり、これに抵抗する農民はクラーク、つまり富農と名指しされ、次々と処刑された。さらに、何百万人もの農民が土地を負われシベリアにおくられ死に追いやられた(6)

 ウクライナでは1932年には約75%の農場が集産化されていた。そのうえ、スターリンは穀物分担の目標をかかげ、1932年にはウクライナの穀物獲得の分担は44%にあがっていた。そこで、凶作が起き1933年にはウクライナ人の食料は決定的に不足していた。だが、ウクライナの穀物は海外に販売され、5カ年計画の資金として使用されなければならないものであった。もし、他国に販売された穀物がウクライナ人たちに与えられていれば、ゆうに人口を2年間も支える事ができたという。その結果は、飢餓であった。人々は、猫、鳥、鼠、カエルをつかまえて食べ始め、何人かの親は生き残るために自分たちの子どもまで食べた(7)。だが、モロトフ書記は、農民が来年度用に持っている種子も取りあげればよいだろうと地方幹部を叱責した。その結果、1932~1933年の餓死者は500~700万人にも及んだ(6)

 レーニンは、神童と称される程の秀才だった。中高等学校では全学科全学年を通じて首席であったし、サンクトペテルブルク大学への入学を許可された国家検定試験でも134人中1位だった。大学時代でも成績はトップクラスで、ギリシャ語・ラテン語、ドイツ語、英語、フランス語を習得している。そして、農民の暮らしを改善するため、革命を目指した(4)。だが、レーニンがもたらした結果は悲惨だった。ソ連全体では、1945年に第二次大戦が終結したとき、ボルシェビキ革命、戦時共産主義(War Commonism)、脱クラーク主義(de-Kulakization)、そして、集産化によって、4000万人もの農民が死んでしまったのである(2)

【引用文献】
(1) 青森県近代文学館、江渡狄嶺
(2) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(3) John Gledhill,Classical Marxism and the Agrarian Question
(4) ウィキペディア
(5) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(6) ロシア史・第11回スターリンの独裁
(7)飢えた国々、一粒一粒が重要である所、ウクライナ飢饉


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(7)

2012年11月24日 18時15分07秒 | ロシア

 ずっとブログが中断している。本来業務の仕事が忙しくゆとりがなかったのだ。

 さて、10月30日にはkanzan氏から次のようなコメントをいただいていた。

 『シャラシュキンやチャヤーノフといった人たちが「トンデモ」でなく「本物」らしいというのは理解できます。もともとロシアには、バクーニンやクロポトキンなどアナーキズムの系譜もあるわけで、共産主義に圧倒されて日陰に追いやられていたものが、ソ連崩壊で復活してくるというのは十分ありそうな気がします。中沢新一などもそんなことを言ってるようです。機会があれば調べてみようと思っているのですが』

 アナスタシアがロシアで爆発的に受けて売れたことはわかる気がする。「懐かしい未来」という言葉を作られた鎌田陽司氏の言葉を借用すれば、それはまさに「懐かしさというデジャブ感を呼び起こすストーリーだからだ。キリスト教とボルシェビキ革命という千年にも及ぶ迫害と弾圧を受けてても、ずっとロシア人たちが信じ続けてきた懐かしい過去。その過去を思い出させてくれる未来だからだ、と私は思っている。

 シャラシュキン博士は、100年前はおろか、千年前からもロシアの農業生産の大半は、個人菜園からもたらされてきた。各家族が食料を自給するという歴史文化の長い伝統をたどらなければ、現在のロシアのダーチャやエコビレッジ運動の本質は理解できない。はるか古代の狩猟採集、中世の農業、19世紀から20世紀前半にかけての小規模農民経済、ソ連時代の補完地(subsidiary)やダーチャ、そして、いま広がりつつあるロシアの帰農運動には、社会文化的にみて驚くほどの連続性があると指摘する。千年に及ぶ伝統と比べれば、現代の大規模工業型農業やグローバル経済は、ごく最近の現象にすぎない。
そこで、チャヤーノフやアナスタシアのメッセージにどのような現代的な意味があるのか、今日はロシアの農業史をたどってみることとしよう。

伝統的自給コミュニティを破壊し余剰食料を生産させる

 ヨーロッパ・ロシアの定住史は驚くほど古い。例えば、中部ウラジミール市近郊のSungir遺跡は2万2000~2万5000年前の上部旧石器時代のもので、狩猟器具や宝石が見つかっており、既にかなりの文化が発展し、工芸や芸術を行えるだけのゆとりをもっていたことがわかる。

 だが、Sungir遺跡からは農業の痕跡は見つかっていない。農業は紀元前3000年には始まっていた。その後、5~10世紀にかけては、小麦、大麦、雑穀、豆、エンドウ、亜麻、麻、ライ麦が栽培され始める。最も初期の農作物は小麦で、次にライ麦が重要となり、エンバクは11世紀以降にはライ麦に次いで重要となったし、13~15世紀には蕎麦も登場する。そして、野菜や塊茎類も初期から栽培されたかもしれない。さらに、5~15世紀にかけては家畜も重要となっていった。

 だが、ロシアにおいては農業が盛んになるには10世紀半ばまで待たなければならない。意外に思えるが、ロシアにおいては、それまでは狩猟採集や漁撈の方が盛んで、驚くべきことに20世紀までは狩猟採集が農畜産業と共存していた。

 少なくとも2万年はロシアの領域では採集狩猟や漁業の村が存在していたはずだが、彼らは考古学上の痕跡を残さないようなライフスタイルを送っており、人々の需要もほぼ環境収容力内にあって、定住の跡さえほとんど残されていない。しかも、家族や部族のニーズを満たすことが、農業や狩猟採集、漁撈の目的であって、部族間、あるいは、種族内のクラン間でさえも交換は限られていた(1)

 ロシアで農業が盛んになったのは、北方から「ルス(Rus)」と呼ばれたノルマン人、リューリックがやってきて以降のことだった。それは都市の誕生とも並列する。リューリックによって、862年に初めての交易都市、ノヴゴロド公国が誕生し、リューリク一族が東スラヴに支配を広げていく中で、いくつかの都市国家が形成されていく。こうした国々があったこの地域は、リューリクの部族名「ルス」にちなみ、ルーシと呼ばれるようになる。この「ルス」という言葉を語源に「ロシア=Russia」という言葉が生まれた。

 882年には、リューリックの息子イーゴリが、一族のオレーグの助けを受けて、ドニエプル中流域の交易都市キエフを征服し、キエフをルーシの中心に定める。こうして、キエフからノヴゴロドにわたる統一国家、キエフ・ルーシが産まれた(2)

 では、自らを「大公」を称したルスがやってきたことで農業が盛んになったのはなぜなのだろうか。それは、ルスたちは自ら食料を生産していなかったため、農業を盛んにすることで、農民から食料を調達する必要があったからだった。

 だが、これは容易なことではなかった。スラブ部族は、狩猟採集をメインに自然生態系から食料他の生活物資を得ていたため、余剰生産を行うためのインセンティブがほとんどなかったし、農業生産性も低かった。そこで、ルスがスラブ部族に対して行ったのは、年貢を科すことで商業化を促進し、自分たちが必要とする以上の労働をさせることであった。

 当然のことながら、この年貢徴収という搾取にスラブ部族たちは抵抗し、それに対抗するため、大公側も傭兵を養い、軍事力を高めなければならなかった。これが、さらに年貢を増やしていく。もともと年貢は農作物ではなく、自然生態系から得られる産物でまかなわれていた。例えば、10世紀に大公によって徴収された最初の年貢は、農作物ではなく、野生動物の毛皮や野生の蜂蜜だった。だが、年貢が増えれば、生態系にプレッシャーがかかり、野生生物他の資源が枯渇することにつながる。増え続ける年貢を支払うため、自給のための狩猟採集活動は抜本的に変わっていく。それが、農業への依存を産み出した。それは、自給よりもずっと労働集約的なやり方だった。森林生態系は、豊かな森の恵みを幅広く提供していたのに比較し、農業は食料を得るためには極めて非能率的で多くの労力を要したからである。

 13世紀の食料システムについてロシアにおける農業の起源(The origins of farming in Russia, 1959)で、R. E. F. Smithはこう記述している。

「この時期に、食料の確保やその関連活動は、国民の労働時間の大半を占めていた。13世紀の町の住民たちの多くは、農地を持ち、食用家畜を飼育し続けた。食料の交易は贅沢品、最も重要な塩を除いて、比較的狭いエリア内に限定され続けていた」
13世紀のこの都市農業は、20世紀や現在のダーチャと著しい類似点を持つ。

 そして、この年貢の賦課が、スラブ人たちが自由ではなくなり、段階的に農奴へと転換していく始まりであった。R. E. F. Smithは「私財の概念を私有地として土地にまで拡張したことが、封建制度や農奴制につながった」との結論を下している(1)

伝統的世界観の破壊

 だが、武力だけでは、土地を支配したり、住民を統制するには不十分だった。早くも10世紀には小規模農民たちの反乱が起こり始め、それは20世紀まで継続する。したがって、古い伝統を打ち壊し、集合的な記憶を消し去り、民衆を心理面からも統制するためのイデオロギーが必要であった。この武器がキリスト教であった。では、古い伝統とはなんであったのか。次にロシアの宗教を見てみよう。

 Sungir遺跡からは、太陽から八つの光線が放射されるイメージを刻んだ儀式に用の小板が見つかっている。そして、驚くべきことに、この初期文化の太陽のイメージは、二万年後にスラブ人たちが描いた太陽のデザインと驚くほど類似している。

 スラブ人という言葉そのものが宗教と関連している。スラブという単語は、動詞「slavit」に由来し、文字通り「神をたたえる」を意味する。つまり、スラブはもともと民族名ではなく、宗教の言葉だったのである。

 考古学や民族誌学から見た古代スラブ人たちのライフスタイルや宗教観は、今日の理解されるものとはかなり違っていた。ロシアの古代宗教には、聖職者もいなければ、宗教的儀式もなく、一神教の「神」もいなかった。彼らの世界観は、誕生、成長、成熟、死、そして、再誕生というサイクルの中で、人間も自然もともに循環するという世界観だった。それは、言葉からもわかる。

 「家族」(sem'ia)を意味するロシア語は「種子」(semia)とほぼ同じで、「親族」(kin)を意味する言葉は、現在の家族だけではなく、先祖や未来の家族の子孫もすべてを含まれ、人間と自然の双方が誕生する力を意味していた。したがって、祖先や先祖の叡智を尊重することが、スラブ的世界観では重きをなしていた。さらに、宇宙に生命をもたらす原理、「Rod」がスラブ民族の究極の先祖と見なされ、この原理が自分たちの親であるだけでなく、全生命の親として認識されていた。

 そして、大地の肥沃さは、女性と結び付けられ、「母なる地球(Mother Earth)」として神聖視された。一方、肥沃さが女性原理と関係する一方、男性原理は、太陽、ラー(Ra)、あるいは、エネルギー「火」とされ、それが女性の肥沃さを可能にしていた。伝統的な儀式は、年間の太陽のサイクル(冬至、春分、夏至)と結びつき、音楽、踊り、歌によってこの肥沃さをたたえるものだった。

 例えば、キリスト教の年代記はスラブ人についてこう指摘している。

「スラブ部族はまるで獣のように森に住み、不潔なものを食べていた。恥ずべき言葉を平気で口にし、結婚もしていないのに踊り、極悪非道な歌を歌って村祭りに集まった。ここで、彼らは合意の後、自分たちの妻を得た。彼らは、2人または3人すら妻帯している」
スラブ部族が森に住んでいたことはそのとおりであった。だが、「獣」という表現は、誇張だった。考古学的証拠からすれば、彼らが鍛冶や宝石づくりを含めて高度な文化を手にしていたことは明らかだった。「不潔なもの」という表現もキリスト教たちと食習慣が一致していなかっただけだ。「恥ずべき言葉」はおそらく、男性生殖器のことである。さらに、村祭りは、若者たちが自分の伴侶を見つけるための重要な社会的機能があった。「結婚」は、毎年の肥沃さの儀式や祝賀のサイクルと編み込まれ、ダンス、歌、民衆の演劇、占星学(農業計画の鍵)とセットとなっていた。

 キリスト教にとっては、女性の肥沃さやセクシュアリティを神聖なものとあがめ、「母なる大地」と結びつけることは、キリスト教にとっては、不潔で、罪深く、洗礼する必要がある異教そのものであった(1)

 988年にキエフ・ロシアのウラジーミル大公は洗礼を受け、ビザンティン帝国の皇帝の妹と結婚し、キリスト教を公式宗教として採用する。以降ロシアは、キリスト教文化の導入に際してビザンティン帝国の東方正教文化がロシア文化の基盤となっていく(2)。大公は逆らう人々を迫害すると脅迫し、キエフ全市民にドニエプル川で洗礼をうけるよう命じた。異教の人々は、この迫害を避けるため、キエフから逃げ、森林や湿原に隠れることを強いられた。だが、国家権力をもって導入されたこの新たなイデオロギーを人々が簡単に受け入れず、「剣と火」によって洗礼を強制しなければならなかった。

 だが、それでも、人々はなかなか自分たちのライフスタイルや信仰を捨て去らなかった。異教の世界観や価値観は、とりわけ、農業、家族生活、儀式、信仰、歌、遊戯に残り続けた。事実、2~4世紀後も以前の信仰は活発だった。異教の完全な根絶に失敗したことから、教会は異教のシンボルや信仰を吸収し始めた。スラブの神々は「悪魔」とされたが、例えば、妊婦と肥沃さ一般を保護する精霊ロジャニツァ(rozhanitsy)は聖母マリアに形を変え、雷神ペルーン(Perun)は、キリスト教の聖人エリア(St. Ilia)となるように、人々はキリスト教の聖人になぞらえることで、信仰を続けた。

伝統農業の喪失と飢餓の発生

 また、古代宗教の儀式は、家族の最年長のメンバーが取り行い、聖職者がいなかった一方、volkhvy(魔法使い、あるいは賢人)と呼ばれる階級があった。伝統宗教の根絶運動は、当然のことながら、異教の指導者、volkhvyの殺戮にかかわっていく。キエフ・ルーシの大公、ウラジーミル1世の息子、ヤロスラフ1世(978年頃~1054年)は、1024年にvolkhvを処刑した。また、1071年にはvolkhvsに率いられた300人の人民の反乱が記録され、この際にも、volkhvsは処刑された。volkhvsの指導力は大公の権威にとって脅威であり、この処刑は国家によってなされたが、その罪状は宗教的なものであった。彼らは教会によって「悪魔の召使」されたからだ。キリスト教を通じて、古い儀式等を含めた以前の世界観や価値体系を一掃する。伝統を体系的に破壊するため、国家は教会と協力しあっていた。

 殺害されることを避けて、volkhvsたちは、北へ、東へ、あるいは、森の中へと向かったが、その後も数世紀にわたって、人々は火刑に処され続けた。だが、volkhvsは単なる伝統宗教の指導者、コミュニティのリーダーであるだけではなかった。彼らは、自然の働きに対して特別な洞察力を持つ、知恵の人であり、その特別なステータスは、ハーブ薬品の適用を含めた、自然に対する深遠な理解から生じていた。そして、このVolkhvsの古代農業の智恵が消え失せると、農業の循環や肥沃の儀式の理解も失われる。13世紀には、民衆はいまだに秘密に古い神を崇拝していたが、古い儀式の意味は徐々に忘れられていった。儀式やシンボルの多くは残存したものの、その内面的意味が失われたその結果は、ロシア史上最初に記録された飢饉なのであった。

 だが、Volkhvsがいなくなったことは、教会にとって決定的な勝利とは言えなかった。異教の信仰は根づよく20世紀まで、迫害は続いた。異教徒、魔女等は生きたまま焼き殺され続けた。しかも、教会は、大公と同じ収入源、農民たちからの年貢に依存していた。1761~1767年にかけて、農村人口の13.8%が教会に所有されるまでに至ったが、そこでの搾取は、とりわけ、厳しかった。なぜなら、農民たちは、国から科されるさらに増える年貢に加え、領主のためのアンペイドワークcorvéeに加え、教会からも課された義務を支払うことを求めらたからだ。農民たちの生活水準は最低のものとなり、自由と自立を失い、農奴となっていた。さらに、キリスト教化以降、住民たちは商品として国際的奴隷売買の対象ともなった。

 ロシアの村での記憶の物語(Solovyovo: The story of memory in a Russian village, 2005)で、M.Paxonはこう指摘している。

「ロシア帝国の宮殿はベルサイユ宮殿と同じほど贅沢だった。だが、ロシアは確実にフランスとは違う。土壌と気候の違いのため、ロシア人民からベルサイユを搾取するために必要とされる力は指数関数的に大きかった。税は法外だった。暴行と性的放縦があたりまえだった」

 国と教会による圧政で、村の全住民が一団となってシベリアへと逃亡し、老人を除き、誰もいないからっぽの村。真っ赤に焼けた鉄のピンセットで拷問される農民。若い小規模農民の娘でハレムを形成する領主。農民たちの大量逃亡や反乱、集団自殺がロシアの習慣となったのも無理からぬことであった(1)

ナマケモノ革命

 ここで、大前提に立ち返り、食料が人間の社会構造にもたらす影響について考えてみよう。当然のことながら、食料なくしては人間は命を保てない。したがって、採集狩猟であれ、漁撈であれ、農作物の栽培であれ、家畜飼育であれ、食料確保はずっと人々の中心課題だった。そして、長い歴史を見れば多くの人々はずっと自給してきた。しかも、数多くの伝統社会は、スピリチャルな活力の源を地球に見出していた。必要以上な消費欲を持たず、かつ、他人を養うために食料を増産するインセンティブを持たない自由で自立した家族ほど扱いにくいモノはない。そして、自ら何ら生産しない人が、生産者から農産物を強制的に徴収することが矛盾を誘発することはあたりまえであろう。大公とキリスト教が到来して以降のロシア史は、圧制、限りなき暴動と反乱、小作農民の戦争、残忍な処刑、統治者の「神の権威」とキリスト教のイデオロギーの押しつけで彩られ続けた。

大公が用いた手段は以下の二つだった。
●先住民であるスラブ族の家族の絆や社会的つながりを解体し、自給自足型経済を破壊することで、余剰生産を強い、彼らを労働力へと変える
●地球を聖なるものとしてあがめる信仰を根絶し、先住民であるスラブ族を心の面でも自由でなくし、新たな秩序の下で、奴隷となれるように、新たな宗教キリスト教を課すことで、古い習慣や伝統、信仰、そして、世界観を根絶する

 だが、このロシアの物語は、決してユニークなものではない。以前には独立し、自給していた人々を統制するための手段は、中世英国のエンクロージャーから、アメリカの征服、今日の第三世界における「開発」まで、歴史や世界を通じて類似しているからだ。私有地や所有権の概念の導入、家族の絆を解体することで移動性の労働力へと人々を変える、様々な税と欲望の創出を通じてマネーへの需要創出、そして、これらを正当化するためのイデオロギーの導入。これらは、持続可能で自給志向の伝統社会を破壊するための共通のレシピだった。

 一方、奇妙なことがある。当時の小規模農民たちは、農業機械も化学肥料も用いることなく、有機農業だった。だが、この時期の農村は「遅れ」ていたはずであるにもかかわらず、貿易もできるほどの莫大な余剰を産み出し、かつ、集産化されたソビエト近代農業が1950年代までは匹敵できなかったほどの産出水準に到達していたのだ。

 さらに、ロシアの多くの民話は、生活必需品のすべてが、さほど努力をしなくても供給されることを示唆している。そして、興味深いことに、現在のパーマカルチャーの実践者も、農業での集約労働を農業生態系の機能の理解度の低さとみなしている。ロシアには、今も都市的暮らしが農村にとって有害だ、という考え方がある。これは、ロシアにおける都市の起源や目的が搾取のためであったという集合記憶に根ざしているのである(1)

 こうしたことをふまえると、生きていくために必要以上の欲望を持たず、自給自足を志し、マネーへの依存を極力減らし、企業的農業も目指さず、地球を聖なるものとして崇拝するというアナスタシアが目指す態度こそが、近代社会にとって最も危険極まりない反国家的な革命行動であることがわかる。なぜならば、それは国家の存在そのものを否定しかねないからだ。だが、ロシアは、その後、アナスタシアとは違うレーニンによる「社会主義革命」を経験してしまうのである。

【引用文献】
(1) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(2) ウィキペディア


中世化する世界~ロシアから愛を込めて(6)

2012年11月05日 01時20分55秒 | ロシア

大丈夫なニッポン

 2012年9月25日のブログで、韓国では、多くの女性が米軍の性的暴力に悩み、多くの女性が米軍に殺されていても、米国軍人の裁判はまったくなされず、なんら責任も取らずに、ただ帰国しているという状況に対して「わははは。なんというみじめさであろう。自国民が米軍に殺されても文句ひとついえないのだ。これでは、とうてい独立国とはいえず、米国の属国そのものではないか。米国と完全に対等な我が日本国中央政府との違いがあまりにも際立っている」とブログで書いた。

 これに対して、2012年10月29日に在沖縄の加力謙一氏から「沖縄に住んでいますが、このような意見には賛成しかねます(略)。大学へのヘリ墜落も、オスプレイの配備も、米兵によるレイプ事件も、まだ属国ではないかという感覚が沖縄にはありますね」というご批判をいただいた。

 在沖縄の方すらも、このブログを訪れてくださっているのか、という事実にまず感動する。本当にありがとうございます。とはいえ、このブログを訪れている方はおわかりかと思うが、沖縄でどのような状況が生じていたとしても、「米国と完全に対等な我が日本国中央政府には何ひとつとして問題がない」としか申し上げようがない。

 なぜなら、日本国中央政府の意向に反することをブログで書けば逮捕される危険性が高まっているからだ。例えば、鈴木傾城氏のブログ、Darknessの2012年11月3日の記事「あなたが今持っている5つのものは、すべて奪われてしまう」には「インターネットで自由に発言できるのは、もうしばらくの間だけだという声もある(略)。ありとあらゆる言論規制が動き出して、非親告罪化によって反体制の人間が続々と逮捕されていく可能性がある(略)。インターネットで好きなことを書いて為政者の逆鱗に触れると、翌日にはいきなり逮捕されるような事件が続出する可能性が高いのである」と書かれている。

 ダンディ・ハリマオ氏のカレイド・スコープの2012年11月4日の「福島第一原発と日本の運命と全国の子供の救出」をお読みになれば、かなり憂鬱な気分になってくるが、なればこそ、以下のような屈折した表現しか私はできないのである。




 ヘレン・カルディコット医学博士の「放射能汚染下における日本への14の提言、原子力の犠牲になっている私達の子供達」は、のっけからキューバから始まっている。

「1979年にキューバを訪問した際、私は、道路脇にある『私たちの子どもたちは国の宝です』と宣言をしている看板の数の多さに驚きました。小児科医の私にとって、それは共鳴に値することであり、そしてもちろん、真実でもあります」と書いている。

 キューバは去る2012年10月25日のハリケーン・サンディの打撃を受け11人もの死者を出してしまった。キューバからの私信によれば「何万人もが家を失ったが避難をして場所によっては学校の授業も始まっているという。だが、これまではどんなハリケーンでもこれほど多くの死者が出なかっため、今回の被害の大きさに市民は、ショックを受けているという」

 わははは。なんというみじめさであろう。なまじっか「私たちの子どもたちは国の宝です」等という哲学をいだいているために、たかが11人程度が死んだだけでショックを受けているというのだ。

 我が国は違う。何よりも重要なのは経済力である。人命よりもはるかに大切にしなければならないのはマネーである。なればこそ、大丈夫である。

 キューバでは、ハリケーンのような非常事態が起きた時には、一時的に統治権を軍隊に移行するシステム、戒厳令を持つ。米国でもハリケーン・カトリーナの時も、今回のサンディの際にも「非常事態宣言」がなされた。Canada de Nihongoの2012年10月30日の記事「ハリケーン・サンディその後と原発への影響」では「サンディによって、ニュージャージー州とニューヨーク州の原子力発電所計4か所で原子炉停止などの影響が出たという。冷却水用の運河の水位が上昇したため手動で原子炉を停止したり、外部電源系統が不安定になったのが原因だという」と述べているし、前日の10月29日の「大西洋海岸に建つ26基の原発をハリケーン・サンディが襲ったら」では「私が最も恐れているのは、ハリケーン・サンディが通り過ぎる大西洋沿岸一帯に建つ26基に及ぶ原発の行方だ。アーニー・ガンダーセン氏によれば、電源喪失したら、福島で起こったように、電気でポンプでの水が供給できなくなり、核燃料プールが燃え上がる可能性がでてくるそうだ。それ以前に、強風で原発の建物自体が吹き飛ばされるということなどもありえるかもしれない。そんなことになったら、福島以上にとんでもない事態になるに違いない。自然界では何が起こるかわからない。だから、原発はいますぐ全て廃止するのが全人類のためだと思う」と書いておられる。

 わははは。なんというみじめさであろう。原子力大国米国にしてからに、たかがハリケーン程度でびくびくしているというのだ。

 だが、日本は大丈夫である。キューバや米国のように有事の場合に国民を安全圏に避難させる「戒厳令」すらも設ける必要はないであろう。なぜならば、大飯原発にしても日本国中央政府の総理が「東京電力福島第1原発事故の時のような地震や津波が起きても事故は防止できる」と自信をもって再稼働したからである。活断層如きの存在がなにほどのことがあろう。だから、大丈夫なのである。

 信じられないか。ならば、ゲッペルスの例のフレーズをやってみよう。

 大丈夫である。大丈夫である。大丈夫である。大丈夫である。。。。。。。

 ほら、大丈夫ではないか。なればこそ、私ども国民は随喜の涙を流しながら、100%の安心感を持って日本国中央政府と総理の政策を信じ、どこまでのついていくことができる。新聞記事等をご覧になれば、日本国中央政権の支持率が圧倒的なまでの高支持率であることがわかる。




二つの1984年

 さて、話を続いているロシアの話題へと移す。神州の泉の2012年11月 1日 の記事「野田暴政政権が、反対閣僚を抹殺してでも成立させたい監視国家法『人権委員会設置法案』」には、パロディスト、マッド・アマノ氏が、G・オーウェル作「1984」と映画「ゼイリブ」からヒントを得て作成した画像も乗っている。

 オーウェル(George Orwell:1903~1950年)が描いたディストピア、1984年では、超大国オセアニアは、ビッグ・ブラザーによって統制されている。政府には、歴史記録や新聞を、党の最新の発表に基づき改竄し、常に党の言うことが正しい状態を作り出す「真理省」と反体制分子に対して拷問を行い、最終的に党を愛させるようにし、その後処刑する「愛情省」を持ち、真理・愛情の両省を通じて「思想・良心の自由」に対する統制を実施している。

 さて、オーウェルが書名として「1984年」という年号を描いた理由としては、執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的だ。だが、他にも、舞台を1984年に設定した作家ジャック・ロンドン(Jack London)のディストピア小説『鉄の踵』(The Iron Heel, 1908年)を意識したという説もある(1)

 米国のハワード・センター(Howard Center)の代表、で「第三の道:20世紀のオルタナティブ経済のための模索(Third Ways: The Troubled Search For An Alternative Economy In The 20th Century)」の著者アラン・カールソン(Allan Carlson)博士は、後者の説を取り、次のように述べる。

「オーウェルと反ユートピア的小説のタイトルのために、チャヤーノフと同じ年を選んだことは、おそらく偶然ではない。ジャック・ロンドンの『鉄の踵』から、チャヤーノフとオーウェルのいずれもが、この未来の年を借りていることはかなり確かだ。さらに、チャヤーノフが1922年にイギリスを訪問し、彼自身のユートピアについて語ったことが、口伝えで残り、それがオーウェルにその日付を思い出させたのかもしれない」と憶測している。

 ロシアの経済学者アレキサンダー・V・チャヤーノフがイワン・クレムネフ(Ivan Kremnev)のペンネームで書いたユートピア小説とは、1920年に出版された『兄アレクセイ・クレムネフの小規模農民ユートピアの地への旅(Puteshestvie moego brata Alekseia v stranu krest'ianskoi utopii)』である。

 主人公のアレクセイ・クレムネフは、小規模農民根絶の責任を負うボルシェビキの工作員だ。そして、物語は1921年の秋から始まる(2)

 その後の1930年代に始まるソ連の集産化に先立ち、チャヤーノフはその後の政策の意図を見抜き、当時の三つのスローガンを引用することから始める(3)

「家族の炉床を破壊することによって、我々は、ブルジョア体制の墓の上に、最後の鋤を投げ付けている」
「家庭で食事をとることを禁止する我々の法令によって、我々の暮らしからブルジョア家族の誘惑的な毒の喜びを排除し、恒久的な社会主義の原則を堅持している」
「家族生活の暖かさと居心地の良さは所有欲へと結びつく。ささやかな所有者の喜びは、ひそかに資本主義の種を蒔く」(2,3)

 アレクセイは、たった今、この家族の炉床を破壊する法令に投票し「一週間で完全に破壊される運命が定まった半分破壊された家族の炉床」へと戻り、ウィリアム・モリス(William Morris)、トマス・モア卿、エドワード・ベラミー(Edward Bellamy)等のユートピアの小説がある本棚を検査しつつ、社会主義体制への違和感を抱く。では、別の未来は何か。そう熟考始めると、硫黄の臭いが部屋を満たし、腕時計が消え失せ、壁がねじ曲がり震動し、ソファーに倒れかかって意識を失う。

 そして、アレクセイはモスクワで目覚めるのだが、世界は変わっていた。窓から、クレムリンがそこにあることはわかるが、それ以外はことごとくなじみがない。広大な建物群はありとあらゆる菜園に交換されて消え失せ、町には木々やきれいな川が流れている。部屋を検査したアレクセイが新聞の日付を見ると「1984年9月」と書かれている。60年も先の未来へと移動していたのだ。「過去の都市文化の時代」「国家集産主義の悲しき記憶」も、これが別の世界であることを示唆する。

 アレクセイは16世紀に建てられたシンプルな家、Minin一家に手当てを受けていた。そして、白髪の家の長老が別の世界のことをアレクセイに明らかにしていく。

 別の世界では1920年代に「小規模農農民を共産化することが困難であることが証明され、小規模農民たちは、着実にソビエトの委員会内での力を高め、1934年に権力を掌握する。そして、巨大都市の危険性を1917年の革命から学び、小規模農民たちは、2万人以上の町を廃止する法令を押し通す。都市側の反乱が1937年に起きたが、それは鎮圧され、都市の超高層ビル街は何百人もの人々によって破壊され、モスクワの通りは空っぽになってしまう。

 今やモスクワ周囲の何百マイルもの全エリアは、農業集落や共有林、協同牧場、巨大な公園となっている。そして、夫婦やその子どもたちは、30~40aの家庭菜園を保持し、人々の住宅は道に沿って立てられている。そして、町には、地元の学校、図書館、演芸場他のコミュニティ施設がある。

 長老は、社会主義の失敗を説明していく。

「社会主義は、ドイツの資本家の工場の牢獄の中で、強制労働に取りつかれた都市プロレタリアートの心の中で育まれたのです。賃金の奴隷と化した労働者は、奴隷状態にある未来システムの信仰を作り出しました。それは、すべての人がただ言われたことを実行するだけで、創造的な活動の権利を所有するのは、ごく少数の個人しかいない経済だったのです」

 これは当時のロシアの共産主義であった。

「そこで、私たちははるか太古の時代から小規模な農民経済に基づく数世紀も前の昔の原則を復活させたのです。私たちの経済システムは、古代のRusのように、小規模な個人農場に基づいています」

 人々は、人間は自然と対峙し、あらゆる宇宙の力と創造的にふれあい、あらゆる労働者が創造者となり、一人ひとりの個性は仕事の芸術となっている。各家族は、シンプルな道具だけを用いて自給し、エーカー当たり3トン以上の収量をあげているのだ。

 長老は、農村に住み働くことが、最も多様で最も健康的な生き方であり、「これが人間の自然な状態だ」と述べる。

 政治も変わった。

「私たちは、あらゆる社会や経済機能を丸裸にしました。そして、小規模農民の委員会に責任やタスクをゆだねるあらゆる努力をしたのです。その結果、協同組合、リーグ、新聞、アカデミー、クラブ等で必要とされる仕事の10分の9は政府以外でなされるようになったのです」

 とはいえ、小規模農民のユートピアには、資本主義システムでも必要な要素は保持していた。純粋な資本主義では産業は病理学的な奇怪な要件を前提とし、人々は餓えの恐れと人間の貪欲さによって突き動かされていた。一方、共産党は、賃金を定めたが、それによって、あらゆるインセンティブが仕事から失われた。そこで、小規模農民たちは、マネージャーのためのボーナス、望まれる農産物用のためのプレミアム価格といった個人の経済活動を刺激するメカニズムを回復し、「社会資本資金」や信用組合を形成するため協同組合を奨励した。資本家の工場には重税が課せられる一方、協同企業の市場では競争をしなくても、起業家精神が発揮できるようになっていた。

 アレクセイは、こうした小規模農民のユートピアの創立者が、農村に分散移住した人々によって高い文化の創造が可能かどうかを悩んだと説明を受ける。農民たちは、農村に劇場、博物館、人民大学、音楽同好会、スポーツ活動を行うようにした。さらに、中世のギルドを参考に義務的な旅も設け、若者や女性が世界を旅し、自分たちの視野と見分を広めることを可能とした。さらに、軍事と労働サービスのための2年の徴兵制度も設けられ、それがモラルをもたらした。小規模な農民たちの芸術は高まっている。

 だが、この1984年に舞台設定された分権型で、かつ、風変わりに進歩的な民主主義ロシアの小規模農民国家は、幻想だった。最後にアレクセイの正体が明かされる。人智学を信奉し、刑務所にいたのだ。釈放され、彼は孤独に無一文で一人立ち去っていく(2)

ユートピア小説の波紋

 アラン・カールソンは、チャヤーノフをこう評価する。

「この空想的な物語を活気づけているのは、小規模農民や家族農場のダイナミックなミクロ経済学だった。アダム・スミスやデービッド・リカルドの新古典派経済学もカール・マルクスの社会主義のいずれもを拒否し、チャヤーノフは、科学的に『モラル経済』を追求した」

 経済史学者マーク・ハリソン(Mark Harrison)は「チャヤーノフは農業社会学のニュートンだった」と評価する(2)

 そして、レオニド・シュラシュキン博士もこう絶賛する。

「チャヤーノフは驚くほどソ連農業の発展を詳細に予知していた。1917年のボルシェビキ革命後の最初の年に既に従来の小規模農民たちの農地の強制的な国有化や農業を工業化するイデオロギーの悲劇を目にしていた。チャヤーノフは、資本主義も共産主義体制もロシアの小規模農民たちの伝統とは無縁なものと見なし、共産主義支配の破壊の時期がすぎた後には、再び小規模農民に基づく社会に回帰と考えていた。小規模農民の伝統に関する深遠な理解に基づき、大規模なダーチャ運動や補完地の形での自給農業の再現、そして、さらに共産主義崩壊以降のロシアの大地へ帰れ運動の誕生を予言できた」

 チャヤーノフが「ユートピア」小説の形を取ったのは、ソ連において出版を可能とするためであった。共産主義体制の崩壊や集団農場の終焉を予言する作品を革命のたった3年後に出版するには、フィクションの形でしか不可能だった。ペンネーム、イワン・クレムネフのうち、イワンは最も一般的な農民の名であり、クレムネフは火打石を意味するロシア語で、この小説の起爆性を暗示していた(3)。となれば、イワン・クレムネフの日本流の表現は、いかにヒューマニズムに溢れ、光輝いていようとも、「星飛馬」ではなく、「花形豊作」ともいうべきものになってしまうではないか。

 チャヤーノフは、小規模農民に余剰生産を強いることが困難であることを、ソ連政府が理解すると信じていた(4)。だが、チャヤーノフは甘かった。いくらSF小説であったとしても、内容はボルシェビキ政権にとって脅威であり、ヨゼフ・スターリンの怒りを招いた(2)。スターリンは集産化を進めるため、私有農地、家畜と穀物の全てを政府の所有者だと宣言していた。ウクライナの裕福な農民は「kulaks」として知られ、人民の敵とみなされていた。スターリンはkulaksの全ての所有物の押収し、kulaksを助けることは違法となっていた(6)。したがって、チャヤーノフの見解は、スターリンから「kulaksを守るもの」として非難されたのだ(4)

 チャヤーノフは1930年に内務人民委員部(NKVD)によって「小規模農民党(Toiling Peasant Party)」の党首として告訴され、逮捕された(5)。この党名は、チャヤーノフが書いたユートピア小説から取ったもので、見せしめ裁判であった(4)。そして、1931年には秘密裁判で懲役5年が宣告され、カザフスタンの労働キャンプへと追放された。釈放されたときには、チャヤーノフは健康を害していたが、さらに、1937年3月に再逮捕され、1937年10月3日に死刑が宣告され、同日、アルマアタにおいて射殺された(5)。そして、チャヤーノフの妻も同様に抑制され、強制労働収容所で18年を送った(4)。しかも、この悲劇的な運命の詳細が知られるようになったのは、ソ連で自由化が進んだ1987年以降のことなのである(5)

 今日の教訓。たとえ、小説の形であっても、中央政府を批判することは危険です。歴史は私に無罪を宣告してくれるとは限りません。批判する場合には死刑と名誉剥奪を覚悟のうえやりましょう。

【引用文献】
(1)ウィキペディア 1984年
(2) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(3) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(4) ウィキペディア、Alexander Chayanov
(5) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(6) 飢えた国々、一粒一粒が重要である所

写真の出典はこのサイト。チャヤーノフがマハトマ・ガンディーだけでなく、ヴァンダナ・シヴァ、スローフードのカルロ・ペトリーニ、パーマカルチャーのビル・モリソン、そして、福岡正信と並んでいることがわかる。