没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

中世化する世界~ロシアから愛を込めて(11)

2012年12月06日 00時55分15秒 | ロシア

小規模農業の強さ~市場価格が低下すれば、産出量が増える 

 では、チャヤーノフの言う小規模農民の経済論理は、資本主義経済の論理とどこが違うのであろうか。考えてみよう。まず、小規模の農民の「家族農場」においては労働に賃金が伴わない。基本的にタダだ(1,2)。だから、どれほど残業しても経費は増えない。もし、コストが測定されるとしても、くたびれる仕事が困難だと主観的に感じられるだけであろう(2)。このことを受け、新古典派のエコノミストたちは、家族農家は、雇用者であり、かつ、同時に労働者とも見なすべきだと主張した。だが、チャヤーノフは、こうした理論は「フィクション」だと述べる。賃金が欠落している以上、新古典派経済学の枠組みによる分析そのものが崩れているとみなす(1)

 そして、チャヤーノフは、ここから小規模農民の経済的メリットを見出した。エコロジー的に持続性があるだけでなく(1)、資本主義がかなり発展した経済においても、小規模農民がサバイバルできることを理論化してみせた(2)。例えば、農民が必需品を得るために収穫物の一部を売却したり、納税のために金銭を必要とするケースを想定してみてほしい。農作物の価格が下落すれば収入は下がる。同じ所得を稼ぐには消費を削減するかさらに増産するしかない。資本主義の論理からすれば、農業経営上で損失が出ることになり、労働者に賃金を払った後でも利潤をあげなければならないビジネスには明らかに不利だ。だが、小規模農民は違う。チャヤーノフは、資本主義経済の基準からは逸脱した行為を行なうことで、農民はこうした問題に対処できると指摘する(2)。例えば、価格が低下し、経営が悪化しても農民たちは、労働集約化を強化することで資本不足をカバーし、さらに生産するであろう(1,2)

 経済史家のダニエル・ターナー(Daniel Thorner)はこう説明する。

「資本主義的農場が破産する条件下においても、小規模農民はより長時間働き、より低価格で販売できる。年々、純剰余金を得ずになんとか農場を管理運営していける」

 小規模農民は独立していて、自分の農場の経済活動を自己責任で管理しているから(1)、チャヤーノフが言う自己搾取率を高めることによって、困難な経済事情の中でも生き残れる(2)。ある条件下では、賃金労働者を用いる資本主義農場が不利益となるレベルまで農産物価格をコストダウンさせ、ビジネスから追い出すことにすら成功する(1,2)

 もちろん、これは、納税や地代がそれを可能とする条件下という留保付きではある。植民地下の南東アジアの数カ所では、農産物価格があまりに安すぎ、それに対して税や地代が高く、小規模農民は破綻した。だが、ヨーロッパ大陸の大半では、違っていた。例えば、19世紀後半に多くの製造業者が米国、アルゼンチン、ロシアからの穀物輸入品に対する関税を引き下げるよう政府に圧力をかけると、大規模な資本主義型借地農業は廉価な農産物攻勢に耐えきれず破綻した。これが、20世紀の初めにヨーロッパ農業の多くが大規模な賃金労働農場ではなく小規模な家族農場に席捲された理由なのだ(2)

 そして、このことは、第三世界諸国の厳しい貧困状態においても、なぜ、小規模農民がサバイバルできるのかという問題と関係している(2)。チャヤーノフは、小規模農業の可能性やサバイバル能力を重視し、家族労働力に依存する小規模農民の経済活動を特別なものとした。農業の最適規模に関する彼の研究は今日でさえも興味深い(4)

自然経済から文化へ

 チャヤーノフにとって、小規模農民の農場を理解する鍵は、それが生産ユニットと同様に消費ユニットであるという事実だった。そこでは、生産に家族の労働力が用いられ、資本と労働との間には分離がない(1,2)。これをもとに、チャヤーノフは「自然経済」の概念を提案した。自然経済は、チャヤーノフが「完全に自然な家族農場」と称するもののうえで普及しているが、そこでは、利益や賃金はさして意味をなさない。チャヤーノフは、この「自然な家族経済」を資本主義、共産主義、奴隷制度と並ぶ4タイプの別個の経済のひとつとみなす。そして、チャヤーノフによれば、小規模農民の農場に見出せる家族経済は、それ以外の三つの経済システムと共存しうるのであった。チャヤーノフの『小作農民の組織(Peasant Farm Organization)がベルリンで出版されたのは1923年のことだが、小規模農民経済に関する理論は、より幅広い「家族経済に関する理論(Theory of Family Economy)」の一部とみなされるに違いない。例えば、資本主義と「自然な家族経済」は「生産手段の再生」については共通するものがあるが、利益、賃金、小作料に関してはまったく共通するものがない。新古典派の概念を前提として成立する簿記さえも、そこでは成立しない(1)

 さらに、チャヤーノフは、文化、精神面から見た小規模農民たちのライフスタイルの重要性を強調する。小規模農業の伝統的なライフスタイルが文化的に大切であることは広く認められてきたが、チャヤーノフは、この文化面を重視する。チャヤーノフによれば、ロシア経済の基盤は、古代と同じく個々の小規模農民世帯だった。しかも、農民たちの伝統的な生活を継承するうえで鍵となるのが農業であった。

「多様性に富む農的暮らしや農作業は最も健康的なものだ」とチャヤーノフは言う(7)

 そして、家族のニーズが農場からの所得でまかなえなければ、小規模農民は、経済的なバランスを保つため、様々な商売に従事し、衣服作りや木彫他の兼業を行うであろう(1)。小規模農民たちの工芸や芸術性のバラエティさから、チャヤーノフは「手仕事の農業においては労働は創造性と不可分である」との結論を下す(7)

協同組合によるマーケティングとアグリビジネス

 都市化には、経済的、社会的、環境的コストがかかる。チャヤーノフは、都市化の問題点を認めていた。だが、同時に、チャヤーノフは都市生活がすべて不自然で悪いものだとは見ない。むしろ、分散化された都市化や小規模な都市の発展が、農村を発展させ、伝統的なライフスタイルを破壊することなく、小規模農民たちに、市場や文化的機会等の都市のメリットをもたらすと見ていた。チャヤーノフは、ロシアの農村の近代化の必要性を認識していた(7)。将来的に経済発展するためには農村に変化が必要なことも鋭く意識していた。そこで、チャヤーノフが着目したのが、農業改良普及事業だった。農学者は農民たちに新技術をもたらし、「地区の社会農学者(District Social Agronomist)」が、農業改善のための触媒となる(1)。そして、土地所有問題に関しては、チャヤーノフは、大規模農場の非能率には懐疑的で(6)、耕し続けられる限りは、農地は小規模農民に所有されるべきで、純粋に用途に基づき農地が割り付けられるべきだと考えていた(7)

 だが、小規模農民のユートピアのテーマが「スモール・イズ・ビューティフル」であるとはいえ、チャヤーノフは現実的には強力な組合の結成に目を向けていた(1)。チャヤーノフは、小規模農民をゆっくりと全国経済へと統合する実践的で信頼できる手段として、ボランタリーな農業協同組合に期待していた(7)。協同組合を構築することによってのみ、小規模農民の経済システムが生き伸びられると考えていた(1)。発展していく資本主義や社会主義の一部としてではなく、農業の改良普及や協同組合の組織化を通じて、農業生産の技術水準を高めることで、伝統的な小規模農業の近代化の構想を描いていた(2)

 チャヤーノフは言う。

「協同組合によって強化された家族農場が、かつてそうであったように、大規模な資本主義型農場に対してその立場を防衛できることを望まなければならない」

 そして、協働組合の原則は、マーケティングや加工技術処理まで広げられると述べる。

「...より高度な新たな形態における農業生産の集中と組織化によって、協働のマーケティング政策にしたがい、小規模農民はその経営計画を変えることになる。技術を改善し、耕種農業や畜産で完全な方法を採択し、製品の一定水準が担保される。各世帯におけるこの根本的な変化で、小規模農業システムは、公的に協力しあう農村経済システムへと村の暮らしの量的転換がもたらされる」(1)

 チャヤーノフは、オルタナティブな未来のビジョンのため、ロシア西部国境に出現したサトウダイコン・コントラクト農業農工業(sugar-beet contract farming agroindustry)に着目する。これは、大規模農業の水平的な集団化化よりも、加工やマーケティングの垂直的な集団化(vertical concentration)の方がより有益だとのアイデアに基づいていた(2)。このアイデアから、チャヤーノフは、農民たちの地元についての知識と土地の生産能力を結合するマイクロマネジメントによって、家族農場はアグリビジネスよりも優位に立てると見ていた。製品の加工や交換、資金等をもたらす「垂直的な協同」を通じて、家族スケールでの生産を維持しつつ、小規模農民は大規模組織の恩恵を享受できると判断した。チャヤーノフは、協働組合による資本の社会化、生産者自身が管理する数十億ドルの企業、現在のミネソタ州での大規模なランドオレイクス協同組合(Land O’Lakes cooperative)やスペインのモントラゴン組合(Mondragon combine)といった組織を期待していたのである(1)

 未来予測として、垂直的な集団化を通じたアグリビジネス発展の重要性を認識した、チャヤーノフのこの分析には、確かに先見性があった(2)。それは、小規模農民たちが管理する協同組合によって導かれる平和的な経済革命のビジョンであり(1)、資本主義国の大規模な資本の機能を有する人々の自己管理による協同組合型の非資本主義的なソ連農業の発展を夢見ることで、チャヤーノフは、マルクス主義に挑戦していたのである(2)。だが、チャヤーノフは、自給農業を実践する小作農民たちに余剰生産を強いることが困難であることをソ連政府が理解するだろうと信じていた(6)

レーニンからスターリンへ

 ソ連政府が理解するだと。なんというたわごとだ、と読者諸兄は思われるかもしれない。だが、チャヤーノフにはそう感じてしまうツキの悪さもあったのである。

 ここで、ロシア革命時の歴史をもう一度振り返ってみておこう。ロシアでは1917年の2月革命によって、ロマノフ王朝は倒れた。チャヤーノフは、ボルシェビキではなかったが、1917年のロシア革命には活発に参加していた(1)。また、ロシアの協同運動にも積極的に参加し、第一次世界大戦中や革命後に指導的な立場となっていた。1917年からは、農業政策づくりに参加し、農業人民委員会(Peoples Commissariat for Agriculture)や国家計画委員会(State Planning Commission)のために農業開発計画を起草していた(4)。そして、臨時政府の農業次官となっていた(8)。つまり、チャヤーノフは評論家ではなく、実際に高く評価されていたのである。ここにまず不幸の根のひとつがある。

 そして、この時、チャヤーノフが次官をしていた臨時政府を倒したのが、レーニンの10月革命である。

「テロに対してはテロで答える」。レーニンは、敵対者への暴力を善であると考えていた(8)

「選ばれた非凡人は、新たな世界の成長のためにならば、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の理論をもとに、強欲な金貸しを殺害し、奪った金で世間のために善行を企てたのが、頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフだった。ドストエフスキーの「罪と罰」(1866)の主人公ラスコーリニコフは、しかし、罪の意識が増長し、自分より惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの自己犠牲的な生き方に心をうたれ、最後には自首する(5)

「選ばれた前衛は社会主義の実現のためには、テロをも辞さない権利を持つ」。独自の理論をもとに、豊かな農民クラークを殺害し、奪った金で貧民の救済という善行を企てた頭脳明晰なレーニンは、どうなったのだろうか。

 レーニンは遺言的な文章として1923年1月4~6日に口述した「協同組合について」を残している。レーニンは「協同組合のことを考えることを忘れたとし、生産手段の社会的共有の下での、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの階級的勝利の下での、文明化された協同組合員の体制、これこそが社会主義の体制だ」とまで言い切っている。

 では、晩年のレーニンは、この発想をどこから得たのだろうか。レーニンはこの口述に先立ち、妻クルプスカヤからある本を取り寄せさせている。チャヤーノフの『農民協同組合の基本思想と組織形態(1919)』である。同1919年、チャヤーノフは全ロシア農業協同組合買付連盟(セリスコサユース)と農業協同組合合同評議会(セリスコサヴェート)の議長を兼務していた(8)。しかも、1920年代の初めには、さらに政治的なチャンスも得ていた。「戦時共産主義」の後、破産に陥ったソ連の危機を乗り越えるため、レーニンはネップ(新経済政策)の下、小規模農民の土地所有を集産化する計画を延期し、市場メカニズムの一部導入を試みる(1)。後のぺロストロイカを思わせる市場経済の導入は、革命後わずか4年目に試みられていたのである(8)。まさに、小規模農民のユートピアに描かれたロシアの未来の可能性が見えていたのである(1)

 レーニンからも評価されてしまった。ここに不幸の二つの根がある。チャヤーノフはまことにのんきであった。1927年には農民協同組合論の再販にあたり、レーニンの協同組合論を言及し「レーニンのあの論文の後、協同組合は我が国の経済政策のひとつとなった」と楽天的に書いてしまっている(8)。だが、同じ1927年、穀物調達の危機を受け、スターリンはネップを事実上破棄していた。スターリンは、ロシアの小規模農民に対して暴力的な「水平の連合(horizontal consolidation)」を立ち上げる。この時点で、チャヤーノフはスターリンにとって大敵となってしまった。すでにチャヤーノフの味方であったであろうレーニンは1924年に死んでいてこの世にいない。

 1929年12月27日のスピーチにおいて、スターリンは「マルクスとレーニンによって考案された借地料の理論(theory of ground rent)を受け入れることを拒絶した」と名ざしでチャヤーノフを攻撃した。数カ月後にチャヤーノフはコンドラチェフらとともに、逮捕される。スターリンの検察官は、チャヤーノフが秘密の反革命的組織、勤労農民党のメンバーだと非難した(1)。その後にチャヤーノフは処刑されるのだが、それは、レーニンからスターリンへの政治的変化という世間の情勢が読めなかったうかつさにもあったのである。

【引用文献】
(1) Allan C. Carlson, Alexander Chayanov, Peasant Utopia, "The Family in America" Volume 20 Number 12, December 2006.
(2) John Gledhill, The Chayanovian Alternative, The Family Labour Farm
(4) Gale Encyclopedia of Russian History: Alexander Vasilievich Chayanov
(5)ウィキペディア
(6)ウィキペディアAlexander Chayanov
(7) Leonid Sharashkin, The socioeconomic and Cultural Significance of Food Gardening in The Vladimir Region of Russia, May 2008.
(8) 和田春樹、下斗米伸夫他『社会主義の20世紀』第四巻「歴史の空白は埋まるか」(1991)NHK出版


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1 コメント

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Unknown (kanzan)
2012-12-06 20:57:19
 今回の記事を読んで、チャヤーノフ自身も現実との狭間でいろいろ葛藤があったのではないかと思いました。

 すでにこの時代には、単なる自給農業だけでなく、商品経済がかなり浸透して商品作物で家計をまかなうようになっていたわけですね。
その中で小規模農家がいかにサバイバルするかが課題となっていた。
たしかに賃労働前提の資本主義的農業に比べたら、家族経営は労働にコストがかからないから有利だというのはわかりますが、過重な労働を余儀無くされるという意味では、ユートピアとはかけ離れたものになりつつあったんでしょうね。
家族経営のコンビニ経営がしんどいのと同じような感じでしょうか。

 すでに都市と農村を別々にではなく、ワンパッケージで考えなければならなくなっていたということでしょう。
するとどうしても都市と農村の経済格差、賃金格差が問題になってくる。
協同組合という発想もそこからでてきたのでは。
技術の共有化、農機具の共同利用、販売ルートの確保などは、工業化、都市化、市場経済への対応策という感じがします。
都市と農村を媒介する機能を求められたのが協同組合だった。
加工、販売を含めた垂直統合といった話を聞くと、昨今の六次産業化の議論を思い起こします。
すでに現代と同様な先進的な取り組みが行われていたともいえますが、現代と同様な「あがき」と言えないこともない。

 共産主義がラスコーリニコフとすれば、資本主義はスヴィドリガイロフでしょうか。はたしてその先にソーニャ的世界はあるんでしょうか。
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