没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

どうせ人生は活動写真

2008年10月30日 23時21分05秒 | 日記
 作家、井上 尚登さんの名作に「T.R.Y」という小説がある。時は戦前、革命の機運高まる上海を舞台に、革命蜂起のための武器を確保するため、一点の隙すらない旧帝国陸軍の参謀次長、東正信中将を相手どり、希代の詐欺師、伊沢修が頭脳戦を仕掛けるという血沸き肉踊る壮大な物語だ。日本、中国、韓国と、世界をまたに駆けたこの国際小説は、2002年には映画化される。主役の伊沢は織田祐二、ライバル東中将は渡辺謙が演じた。

渡辺謙といえば、『ラスト・サムライ』の「勝元盛次」や『硫黄島からの手紙』の「栗林忠道中将」役とシビアな演技で定評があるが、「T.R.Y」で演じた東中将も圧倒なまでの重圧感を持っていた。だが、最後のどんでん返しで伊沢に騙されるときの表情が、これまた素晴らしい。目の前で人が死んでも眉ひとつ動かさないであろうはずの冷徹無比な中将が、みっともないまでにアングリと口を開け、ペテンにかかったことを悔しがる。この凄まじい表情の落差から、詐欺の成功がより一層際立つのだ。この演技ひとつで映画は原作を超えたと言っていい。
 実は、渡辺謙は、出世作「独眼流正宗」を皮切りに二枚目役ばかりを演じてきたのだが、白血病を契機に、40代からそれまでのイメージにはなかったダメ男役も積極的に演じるようになる。テレビ時代劇『御家人斬九郎』の松平斬九郎がその代表だ。岸田今日子演じるグルメな母君のとどめを知らぬ美食と散財。膨大な借金は、御家人の安月給ではとても補填できない。残九郎はしぶしぶ「片手技」と称する副業に手を出さざるを得ないのだが、この悲哀は、副業を生かすライフスタイルとか森長卓郎氏の薄給サラリーマン向けの処世術にも相通ずるところがあって、笑える。そして、こうした演技の蓄積があったればこそ、この東中将のコミカルな一瞬も演じきれたと思うのだ。

さて、本題。いささか前置きが長くなったが、「T.R.Y」と並ぶ井上 尚登さんの代表作に「C.H.E. 」という作品もある。
まず、のっけからいきなり登場するのがフィデル・カストロだ。そう、タイトルの「C.H.E. 」とは、あのチェ・ゲバラのことなのだ。時は、ソ連崩壊後の90年代の経済危機の最中。国民の意志を鼓舞するため、ゲバラの遺骨発見作戦をフィデルが仕掛けるという妙なまでにリアルな社会状況から出発する。だが、この小説はあくまでもフィクションだ。舞台となるのは、南米の架空の小国リベルタ。シルビオ・ロドリゲスを想起させるリベルタの人気歌手「シルビオ」も登場し、
「さあ、いこう君が愛する緑のカイマンへ」
という歌詞がチェがフィデルに寄せたメッセージであることがわかり、どうやらチェがこの小説の中心テーマでありそうなことを匂わせていくあたりの筆は、見事としか言いようがない。
チェそのものは死んでいる。だが、謎の頭蓋骨をめぐって、偶然か必然か、誰しもが何らかのゲバラと関係しているらしい登場人物が次々と登場する。旅行会社に勤める日本人。元革命家らしい謎の老女。そして、リベルタ警察軍の執拗な攻撃。インディ・ジョーンズの「レイダース」よろしく、ひたすら争奪戦が繰り広げられる謎の「しゃれこうべ」は果たしてチェのものなのか。祖国か死か。圧倒的なまでのノンストップ・エンターテインメント。
冒頭で厳格な歴史的事実を設定した後は、自由奔放に登場人物が動き回る舞台設定は、どこか山田風太郎の忍者小説を思わせる活劇ぶりだ。そして、最後は、再びフィデルのゲバラへの想いを込めた独白で静かに幕を閉じるのだが、興奮はさめやらない。読後感の爽快感はたまらない。さて、この「C.H.E. 」は映画化できるのだろうか。

さらに、話題をかえる。実は、ずっと読みたいと思っていて、アマゾンに注文していた筒井康隆氏の『美藝公』の古本がやっと来た。『美藝公』とは、筒井康隆氏が書いたSF小説だ。いや、果たしてこれがSF小説といえるものか。
舞台は戦後の仮想日本。しかし、敗戦後に日本が歩んだ道は、なぜか、高度成長・大量消費社会ではなかった。だから、いまだに先進国にもなれず、中進国にとどまっている。だが、餓死者が出るほどの開発途上国ではない。

では、日本はなんで食っているのかというと、映画立国なのだ。だから、その国家目標は、経済成長でも金稼ぎでもなく、ただひたすら良い映画、なんとなれば、よりよき芸術を生み出すことを至上命題としている。だから、一番難しいのは芸術大学だし、総理以上の権限を持ち、国民から圧倒的支持を得ているのは、最高の銀幕の映画スター、『美藝公』なのだ。
おまけに、この社会は平等ではない。
「社会的階級はなくなりゃしないね。社会的階級は役割、職業は役割と考えてそれを楽しむことがどうしてできないのかな。どうせ人生は活動写真なのに、ほとんど全員が自分の役割に不満を持っていては、いい映画は作れない」

みながそれぞれの役割をまっとうする階級社会。筒井が描く世界には、夢を諦める美徳、幸福をむさぼらない品性、分際と節度を守る禁欲がある。実は、この本の存在は、浅羽通明さんの「昭和30年代主義~もう成長しない日本」という本の中で知った。

つまり、経済成長を目標としない日本のもうひとつの可能性としては、筒井が描いたように芸術と文化を至上目的とした国家があるとすれば、これは、ジョン・ラスキンの文化経済学にもあい通じるものがある。そして、経済成長を至上目標とせず、社会福祉と教育と医療に最も力を入れ、そして、何よりも音楽とダンスと映画に興じている国ともどこか似ている。そして、筒井の『美藝公』の中で、炭鉱で事故があれば、美藝公自らが現場で炭鉱夫を救うのと同じく、ハリケーンがあれば、首相自らが真っ先に現場に駆けつけるのもどこか似ている。そう、この国は、最も演説がうまく大衆をわかせることができる最大の「役者」が半世紀にわたって独裁をしている。

さて、私はフィデル本人は聖人でも君子でもなければ、その本性は、かなり権力欲の強い、アクの強い人間だと思っている。革命前には、ニューヨークすら出かけている。だが、革命後は、あくまでも「理想としての君主」を演じきることを強いられた。それも中途半端な演じ方ではない。ほぼ半世紀にあたり、首相という芸を演じ抜いている。
そして、ヨーロッパにはギリシア以来、芸を演じぬくことから、人間に人間になれるという発想がある。パーソナリティという言葉自体が、仮面を意味するペルソナから来ているのだ。


ペットを救う国家

2008年10月27日 01時11分48秒 | 日記
 昨日は、長野市内で開催された第21回「全国看護講座」でキューバ医療について話をさせていただいた。とはいえ、だいたい、どこでも話をしているとワンパターンとなる。つまり、60分とか90分とか与えられた時間枠の中では、「キューバはすばらしいですよ」だけで終わってしまう。しかも、知られているようで、まだまだキューバは知られていない。

 懇親会の場では、「知らなかった。そんな国であったなんて」「キューバがうらやましくなりました」「是非、視察団を組んで現地を見てみたい」という感想を寄せていただくことになる。

 それは、教育についても同じだ。ユニセフも絶賛するモデル国であることも、まだまだ知られていない。ネットで検索すると、「キューバにおける教育と平和」という拙著の率直な読書感想が載っていた。まさに、願ったり、かなったりである。

 が、一方で、「北欧の次はキューバ礼賛が来る…かも?」というブログでは、私は「キューバ教」の宣教師的な存在となっており、「その国の不都合な実情は隠蔽するのも、北欧マンセー報道でさんざんやってきたことなわけで。まあ暑いときはキューバ礼賛、涼しくなったら北欧礼賛でしばらく左巻き連中も食っていけそうですね…」と称していただいている。

 本音を言うと、実のところ、こうした批判コメントの方が嬉しい。議論があればあるほど、より真実に肉薄できるからだ。

 だが、ここに講演の難しさがある。つまり、キューバをきちんと理解するためには、①「カストロが人民を弾圧する自由なき独裁国」→②「独裁者カストロが人民の奴隷となってまで尽くす自由なきパラダイス」→③「独裁者カストロが人民の奴隷となってまで尽くしているが、経済含め様々な問題を抱えて模索中」→④「されど、グローバリゼーションで資本主義国にも未来がなき中、あるべき未来のモデルとしてどこまで評価できるのか」という4ステップくらいを踏まなければならない。

 と、私自身は勝手に思っている。で、大学の授業ではないが、一学期くらいのスパンをいただければ、④までいけるのだが、一回の講演では、どうしても「米国が発信しているような単純な独裁国ではありませんよ」という、①のイメージを払拭するだけで終わってしまう。①~④までを一挙に話すと、「こいつはいったい何が言いたいのだ。自己矛盾しているではないか」ということになってしまう。

 だから「そうか。シッコで描かれていたようにやっぱり医療の楽園なんだ」との印象をとりあえずもっていただくことで満足していただいている。となると、これは、確信犯以外の何者でもない。

 だが、講演という性格上からして、それは仕方がないのではないだろうか。例えば、「キューバにおける社会主義の人民統治のあり方と個人の自由制約が果たす各個人のフラストレーションと民主化の今後の方向性について」等と題する大学の授業ならば、難解な話をしてもいい。

 だが、講演とは、わざわざ時間を割いてまで会場にまで足を運んで来ていただいているお客様へのサービスなのである。

 となれば、「まあ、おもろかったな」と知的好奇心を満足させるか、「ああ、こんな国もあるんだ。ちょっと元気をもらったかな」という反応をいただけなければ、講師失格ということとなる。

 さらに、あえて言えば、話を聴いてそのまま終わってしまうのではなく、「一言でも二言でも、なんだってさ」という他人に要旨を話したくなるほどのメッセージ性がなければ、それは講演としては二流なのだという。

 実は、これは先週の神戸での講演で、私の話を聞いた方からいただいた実に前向きな批判なのだ。

 そこで、キューバについて興味をもっていただいた方には、このブログやウェブサイトを通じて、より深い情報を提供していきたいと思っている。いわば、キューバ補完計画だ。

 だが、調べれば、調べるほど、この国はつくずく面白いと感じてしまう。例えば、今、興味を持って調べているのは、防災対策なのだが、他の中南米で被災者が続出している中、キューバではほとんど人災がでていない。それは、事前の避難体制がシステム化されているからだ。
ところが、ウェブサイトを読んでいるとこんな表現がでてくる。

「それ以外の場所のように、キューバでも避難は自発的だ」

 そう、独裁国家が強要しているわけではないのだ。

「それでも、政府はいくつかの革新的なサービスを提供している。ペットのためにも避難所を設けているのだ」
 そう、1100万人の人口の中で、100万人とかのオーダーで大量避難をしながらも、獣医が避難所に確保され、ペットと一緒に避難しているというのだ。

 その一方で、エル・サルバドルでは、ハリケーンによる増水でダムが決壊しそうになったため、政府はダムから放水をしたのだが、その情報を下流の集落に周知しなかったため、村人はダムの放流水の巻き添えを食って死んだ、という記事もあった。

 では、この哀れな村人を殺したのは誰か。直接の原因は、ハリケーンである。だが、様々な批判があるにせよ、地球温暖化と異常気象が二酸化炭素の増加によるものであるとするならば、まさに先進国が黒幕といえるだろう。だが、実際に手を下している真犯人は、ガバナンスもろくにできない無能な国家ということになる。

 老人、妊婦、子ども、障害者。社会的弱者を何よりも優先して避難させ、家を空けたままにしていても、革命防衛委員会と警察の働きによって盗難や空き巣に入られることもなく、ゆとりあらば、ペットすらも救う国家。それは教養水準が高き人々が住む国といっていい。

 さて、これは、ハバナのレーニン公園内にあるベジタブル・レストラン、エル・バンブで昼食をとっていた際に、私の膝元に擦り寄ってきた猫だ。実に人懐こく、外国人だといって差別しない。実は、このレストランは、オーナーが猫好きなのか、この写真を撮る前年に訪ねたときには、別の白黒がいた。
 もしかしたら、この猫もハリケーンの際には、国家防災計画に基づき、獣医のケアを受けながら、避難生活をしていたのかもしれない。そう想像すると、ふと、この猫にまたあいたくなってきた。
 


格差社会是正は愛国主義の素

2008年10月24日 23時34分51秒 | 日記
 2008年10月30日の『週刊新潮』に拙著が紹介された。「世の中間違っとるよ」というワイド特集の「格差社会が悪いで済ませていいのか」という中で、作家日垣隆氏が「格差なき楽園!?」と称して、拙著への感想を載せてくれたのだ。
 以下、紹介部分をそのまま抜粋するとこうなる。



 ところでつい先日、吉田太郎著『世界がキューバの高学力に注目するわけ』(築地書館)という珍奇な本が出た。その広告には《「格差なき教育大国」キューバ》云々とある。北朝鮮やキューバに私も何度か実際に行ってみて、出来の悪いPRマンかスパイでもない限り、これらの国々の「格差なき」人々が、そもそも給与など無に等しく、配給物資さえ滞り、路上で外国人観光客に現金を乞うのを日常とせざるをえない一方で、移動の自由や進学先を選ぶ自由をもっているのは党幹部一族だけ――という根源的事実に目をつむり、キューバや北朝鮮を日本のお手本にとのたまう図太い神経は、さすがに大したものだと感心させられる。

 日本で格差が小さかったのは、昭和20年代から30年代にかけての特殊な一時期でしかない。日本史および世界史は、度し難い差別と格差に満ち溢れていた。
 自国を批判的にチェックしようという試みは良い。
 しかし、どこかに「地上の楽園」があるとか、政策をイジったら日本にだけ「格差なき楽園」が訪れると妄想する人々には、「大丈夫ですか」と穏やかな気持ちでお尋ねするしかない。
 「格差なし」がPRされている超独裁国家の恐ろしさを、まだ学習しようとしない人々は論外としても、格差解消と称して、平均以下層の収入を上げようとすれば、(1)インフレを起こして実質的な収入減となるか、(2)平均以上層の勤労意欲が削がれて日本全体がワーキングプア化するか、(3)他国を犠牲にして「日本だけ良ければいい」という排外主義に陥らざるをえない。
 想像してみよう。独裁者一族以外すべての人々に格差のない、創意や工夫が認められぬ、冷酷な社会を。


 そう、自由なきキューバを日本のお手本とのたまう図太い神経を、さすがに大したものだと、褒めてくれたのだ。これについては、ある意味では、私は確信犯でもある。
 というのは、フランス革命に端を発する「自由」を突き詰めた結果が、20世紀がどうなったかについては、保守本流たる佐伯啓志京大教授らをはじめ、多くの社会学者が根源的な疑問を提唱しているからだ。つまり、私は、コミュニタリアリズムの信奉者であっても、リバータリアリズムの信者ではない。
 
 ホセ・マルティは「人間は自由になるためには教養が必要だ」と述べている。だが、ここでいう自由とは、おそらく自分だけが手前勝手にする自由ではなかったろう。自分の分を知り、この世に生まれてきた役割を知り、たとえ、脇役であっても同時代に生きる人々の集団の中で、与えられた役を精一杯演じ切る。その役割を自覚し、必要以上の欲を自ら律し、決し去る「自由」。それこそが、マルティのいう「教養」ではなかったか、と思うのだ。


 では、格差社会の是正と称して平均以下層の収入をあげることには、どんな意味があるのだろうか。実は、それは国力の強化にもつながるのだ。これについては、和田秀樹氏が「新中流の誕生」中公新書ラクレ(2006)で、面白い論理を展開している。和田氏はビジネスでの競争力については、米国がフィンランドやデンマーク、スウェーデンといった北欧グループに対して負けている理由として、格差が開いたためだと結論づける。その原理は実にシンプルで、格差が開いた結果、米国の金持ちは欧州のブランド品を買い、貧乏人はアジア製品を買うために、国内製品の売れ行きがすっぽりと抜け落ちてしまうからだとする。逆に、デンマークやフィンランドが強いのは、税金が高くても、しっかりとした所得を稼ぐ中間層が、値段が高く質の良い国産品を買っているからなのだ。

 また、税金を高くしても、平均以上層の勤労意欲を削がない手段として、北欧諸国では、お金以上の重要な動機付けとして「尊敬」があることも和田氏は指摘している。
 この論理は、私が拙著の中で、キューバの平均以上の人々がなぜ働くのかの理由として指摘したポイントと同じで、いたく共鳴できる点だ。
 そして、和田氏はこの本のあとがきでこうも書いている。

「私が誤解を恐れるのは、私は貧しい人、負け組の人が可哀想だから格差社会を是正すべきだというヒューマニストだという誤解である(略)。要するに、そのほうが国が強くなると考えているから新中流社会を提言したのである」

 これも、いたく共感する発言だ。日本に生まれた以上、私もこの国を愛しているし、国力が落ち、没落していくことは悲しい。キューバの医療援助を見ていて悔しくなるのは、たとえば、パキスタンの地震にしても、キューバ国旗が掲げられた野外診療所を多くの病人や被災者が訪れ、まさに国威掲揚そのもののディスプレイ空間となっている点だ。

 軍事制圧を行えば、一時は力で抑えつけられた民族も未来永劫その恨みを忘れないが、医療援助で命を救われれば、その感謝の気持ちは一族郎党に至るまで未来永劫消えない。

 ならば、遅くはない。今からでもキューバのまねをして医者と看護師を大量育成し、世界の被災現場に派遣してみたらどうだろう。それも、被災地の真ん中に、どうどうと日章旗を掲げ、治療テントの中には天皇皇后両陛下の御真影をば奉り、君が代もテーマソングで流すのだ。どんなに過酷な環境であっても、他国のNGOが逃げ帰るような惨状であっても、大和魂をもって、菊水の旗のもと、七生報国。たとえ、命をば落としても日本の名誉のために尽くすのだ。

 これならば、社会主義キューバのパクリであっても、ウヨも文句はあるまい。というか、戦前のウヨは、大川周明にせよ、玄洋社・黒竜会の頭山満にせよ、かなりの大アジアストラテジーを持っていたのだ。

 なんとなれば、どうなるか。そう、ハリケーン・アイクに見舞われたキューバにベネズエラやロシアや東ティモールから援助の手が差し伸べられたように、国力が落ち込むだけ落ち、日本が食糧危機に陥ったとしても、どこかの国が支援の施しをしてくれるかもしれないではないか。ふと、そんなことを思ったりもした。





キューバと防災

2008年10月24日 00時19分58秒 | 日記

 どうもブログというメディア媒体の性質を間違っていたらしい。時系列で見る分にはいいのだが、過去の記事をざっと目で見るとなると、やはりウェブ・サイトの方が格段に見やすいのだ。というわけで、このブログのコンテンツも随時、ウェブ・サイトの方に移す作業をしていく。とはいえ、肝心要のウェブ本体のほうも、デザイン修復作業中で遅々として進まないのだが。。。。。
 だが、そうはいっても、毎日100名弱ものアクセス数がある、このブログ。やはり、なんら更新せずにずっと放置するというのも気が引ける。ということで、ブログ本来の持つ機能を活かし、日々感じたこと、体験したことを日記風にまとめていくこととしよう。
 という気になったのも、先週の土曜日に神戸の講演会で、K氏というこのブログの愛読者にお会いしたからだ。
 氏はキューバ革命があったときからのキューバ・ファンでもあるのだが、実は九死に一生を得ている。神戸といえば、阪神淡路大震災だが、このK氏自身も被災した。一瞬で身体を仰向けからうつぶせにすることはできたのだが、家屋が倒壊し、腕に大怪我を負ったという。このような貴重な体験をしたさまざまな人と出会えるのも、講演の醍醐味である。まことに交通費をいただきながら、タダで勉強をさせていただいているといってよい。今回、お招きいただいたのは、映画「シッコ」を普及しようという神戸の市民グループだったのだが、講演では、僭越ながら堤美果さんのベストセラー「ルポ・貧困大国アメリカ」を種本に、「ルポ脱貧困大国キューバ」と題した話をさせていただいた。

 では、本題に入ろう。そもそもこのブログにアクセスしてこられるような方であれば、堤さんの「ルポ・貧困大国アメリカ」は、とっくに読了済みだと思うのだが、再度ここでポイントをまとめておくと、①食、②災害、③医療、④教育、⑤戦争と平和という5つの柱で、民営化にひた走る米国の病理を余すところなく描き出しているわけだ。本のカバーには『教育、医療、防災、そして戦争まで……極端な「民営化」の果てにあるものは? 米国の後を追う日本へ、海の向こうから警告する!』とのキャッチフレーズが付いている。

 そうなれば、ちょうどこの裏返しで、『教育、医療、防災、そして平和まで……極端な「国営化」の果てにあるものは? キューバの後を追えばどうなるか、海の向こうから希望をなげかける!』という話もできるのではないかと思ったのだ。実際に話した内容は若干違うのだが、堤さんの本の目次をそっくりパクって、若干筆に手を入れれば、以下のようなコンテンツの本が書けることになる。



第1章 有機農業が生み出す健康国民
 有機農業の登場によって改善されたキューバの食卓。なぜ貧困家庭にも肥満児がいないのか。配給手帳で暮らす人々。

第2章 国営化による人命救助と反自由化による雇用創出と失業者の解消
 数人しか死なないハリケーン襲来。「国営化」で棄民とならない被災者たち、人民動員で「再建」される被災地域。学校の国営化「助け合い競争エムラシオン」が生み出すトップクラスの学力を備えた子どもたち

第3章 プライマリケアで120歳の長寿を目指す人々
 無料の医療を享受する人々。受胎時から胎教とケアを受ける妊婦たち。競争なき効率主義に追いつめられない医師たち。外貨獲得につながるキューバの公的医療。起業化し世界に廉価で医薬品を提供する研究所。ドクターを目指す看護師たち。

第4章 未来に夢を抱く若者たち
 「思想の戦い」という名の全人民教養涵養政策。思想的な徴兵制。ゲバラをモデルとした小中高校生「革命家」育成システム。国営化された学校と奨学金を受ける海外留学生たち。魅惑の国際医療援助隊「ヘンリー・リーブ」。入隊すると英雄に。帰還後は愛国主義者に

第5章 世界中からワーキングプアをなくす「国営化された平和運動」
 「たった三ヶ月で読み書きができるようになるスキルがあるんですがね」。「人間が自由になるためには教養が必要です」。ターゲットは世界中の貧困層。平和運動のルーツとして広島を訪れたキューバ人:「これはジェノサイドだ」という実感

 低い乳児死亡率。学校給食で地場産の有機野菜食を強要される育ち盛りの子どもたち。無料の医療と充実した年金制度で病気や怪我に脅えない労働者たち。様々な選択肢の中から国際医療援助へと駆り立てられていく若者たち。革命後に尋常ならざるペースで進んだ社会の平等化の足元でいったい何が起きたのか?人民から自由を奪うという悪政の上でなおも半世紀も続く独裁政権の実相とはいかなるものか。守られる側の人々の肉声を通して、その現状に迫る。



 さて、これまで、農業と医療については、築地書館から「わけ」シリーズで出してきた。このカテゴリーで言えば、第一章と第三章を網羅したことになる。そして、最新刊の「世界がキューバの高学力に注目するわけ」は、このカテゴリーで言うと、教育・雇用・平和をとりあげてあるから、第四章と第五章がカバーできることとなる。となると、この中で残されたテーマが第二章の「防災」であることがわかる。

 堤さんの著作を紐解けば、カトリーナ・ハリケーンがまさに人災であったことがわかる。だが、キューバはそれを上回るハリケーンの襲来を何度も受けていながらも、命を落とす人がほとんど皆無に近いのだ。

 この秋にキューバに襲来した「イケ」と「グスタフ」はまことに痛々しいまでの被害をだした。が、、、

「それでも人命はほとんど失われていません。防災の面でもキューバは注目に値する取り組みをしているのです」

 そう語ってくれたのは、ホセ・ヘルナンデス・デ・コーシオ在日本キューバ大使だった。

 リバータリアリズムという米国発の思想がある。いわゆる国家をことごとく否定していく思想だ。そのゆきつく先には、アナルコ・キャピタリズムというアナーキズムがある。だが、夜警国家という言葉もあるように、どんなに優れた個人であれ、どうにもならない非常事態。すなわち、地震、雷、火事に直面すれば、最終的になんらかのオヤジことパターナリズムの権化たる「国家」ことフィデルが必要となる。もちろん、この中間領域として、アソシエーションといういわゆるNPOを想定する場合もある。だが、欧米発のコミュニタリアリズムの本を読んでいても、社会学者の自由論を読んでいても、あまりに観念的すぎて、どうもしっくりこない。隔靴掻痒なのだ。無論、紙の上での論理展開は面白い。だが、長年行政の実務畑を本業に飯を食っているせいか、斬新な理論を耳にしても「だから、現実にどう使えばいいんだよぉ」と問いかける習慣が身についてしまっている。

 農業、医療、教育とキューバの現場の取り組みにはまってしまったのも、マルキシズムがどうたらとか、ゲバラが偉かったからというよりも、どうすれば飯が食えるのか、どうすれば害虫が防げるのか、どうすれば子どもが病気にかからないのか、どうすれば長生きができるのか、どうすれば読み書きができるのか、どうすれば失業しないですむのか、という日常問題の解決にフィデルが心血を注いでいるからに他ならない。つまり、具体的な答えが見えるのだ。

 実は、防災についてもそれがいえる。堤さんの「ルポ貧困大国アメリカ」では、貧乏人は逃げられなかったから死んだ。だが、キューバは違う。米国に比べれば格段に交通手段は乏しい。だが、非常時ともなれば、国家がそれを統制確保する。まず、最初に起動するのは国家気象情報センター。センターの情報をもとに、ハリケーンが察知されれば、非常時体制がとられ、接近に応じて、ボランティアで家畜から何から高台に移動させていく。しかも、風速が一定以上になると国家命令によって電力会社は電気を切ってしまう。倒れた電柱やケーブルに触れて感電死することを避けるためだ。当然のことながら、人々は電気がない中で暮らすことになる。だが、ところがどっこい、こうした非常のための防災訓練を繰り返しているから、慣れているのだ。そして、疫病や病人が発生しないように革命防衛委員会とファミリー・ドクターがタッグを組んで地域を守る。まさに、コミュニタリアリズムの地をいく世界だ。
 というか、その一方で、この防災という戦いに向けた一糸乱れぬ統制体制がなんともカッコいい。

「使途発見」「あと後数時間で襲来します」「非常時体制発令」「初号機発信準備よし」と、ネルフの司令室をイメージしてしまうのだ。

 このテーマについても今後、ウェブ・サイトを充実させていくつもりだ。

 だが、記事を読んでいて思わず涙がこぼれそうになった情報がある。

 ハリケーン被害に苦しむキューバに対し、被災者を助けようとの意志を表明した国の中に、ロシアやスペイン、ベネズエラと並んで、東ティモールがあったのだ。
 東ティモールには、キューバは医師を派遣してきたし、識字力の向上でもサポートしてきた。だが、こんな貧しい国からの支援があったとは。やはり、人間捨てたものではない。

前述の堤さんのパクリ本を想定すれば、第五章には、

「国際援助が取り結ぶ貧困の連帯。キューバのハリケーン・アイクに援助を申し出た東チモールの人々」という一節が付け加えられることになる。少しだけ心が明るくなった。