5月29日付のブログでは、先進国の脱成長への流れを見てきた。今日は、南からの胎動と論理を見てみよう。実は成長批判と脱成長には南が深く関係する。前日に続いて、廣田鉄斎氏のブログ、さて何処へ行かう風が吹くの「脱成長論の系譜」シリーズのまとめを続け、私なりの頭の再整理につなげたい。
シューマッハーと中間技術
カウンターカルチャー運動は人間性の頽廃、エコロジー派は資源・環境問題を重視していたが、その両方を視野に入れつつ、成長主義的な経済体制を批判して、大きな反響を呼び起こしたのが、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー(1911~1977年)の『スモール・イズ・ビューティフル』(1973年)だ。
シューマッハーのポイントは三つある。
①生産力と「経済効率」をあげるよりも、むしろ、下げる方が、人間の幸せにつながる
②経済開発においては「中間技術」を重視し、それによる雇用の創出を提唱
③草の根民主主義を支持
シューマッハーがこうしたアイデアを得たきっかけは、1955年にビルマ政府の経済顧問としてビルマに赴いたことだった。シューマッハーは、そこで、仏教経済学と中間技術の着想を得た。
仏教経済学は功利主義的なケインズ経済学に対する批判だし、中間技術論はヨーゼフ・アーロイス・シュンペーター(1883~1950年)のイノベーション論に対する批判だった。シューマッハーは、シュンペーターの企業家精神の理論を評価しながらも、民主主義に対して冷笑的であったシュンペーターとは違いガンジーに倣って民衆の創意に信頼をおいていた。このシューマッハーの思想はサティシュ・クマールをはじめとするシューマッハー学派に継承されていく(3)。
ちなみに、シュンペーターについては2011年2月19日付けのアグロエコロジーブログ、『レリジアンスな人々』でも少しだけ書いた。この理解から、私は、イノベーションは決してどこまでも続く成長を担保するものではなく、むしろ、①資源の利用(exploitation)、②システムの保全(conservation)、③資源の開放(release)、④システムの再組織化(reorganization)という4段階で繰り返されるサイクルの中で、双六が振り出しに戻る中で再び繰り返されるゲームの一局面でしかないと考えている。御関心がある方はリンク先に飛んでいただきたい。
途上国からの批判~「モラル・エコノミー論」
19世紀にイギリスでは、暴徒が暴利を貪る者をうち倒し、生活必需品を適正価格で売れという民衆暴動が起こった。資本主義経済では、需要と供給の関係で稀少なものは高価格で販売されるのは当然だ。けれども、生活者の支援からすれば、生きるための必需品が適切価格で手に入らないことは困る。E.P.トムスン(Thompson,1971)は、この態度に着目し、これを「モラル・エコノミー」と呼んだ。
このモラル・エコノミー論はジェームズ・スコット(James C. Scott,1936年~)の『モーラル・エコノミー―東南アジアの農民叛乱と生存維持』(高橋彰訳,勁草書房, 1999年)』(The Moral Economy of the Peasant: Subsistence and Rebellion in Southeast Asia, 1976)」によってさらに有名になる。マレーシアの村を調査していたスコットは、逮捕や治安政策等国家による日々抑圧に貧しい農民たちがさらされていることに気づいた。こうした状況下では表立って政治的な抵抗をしても失敗するだけだ。そこで、農民たちは、遅刻をしたり、口先だけで同意をしたり、放火やサボタージュを通じて、国家権力に抵抗していた。
抵抗は、進歩的な農業技術を否定することにもつながっていた。例えば、貧しい農民たちはコンバインを受け入れようとはしない。豊かな農民は、彼らが「未開」だからだと非難する。けれども、貧しい農民たちは、農業技術が進歩することが、田畑を傷つけ、伝統的な価値観が失われ、経済的にも採算があわないことを知っている。つまり、貧しい農民たちは、モラル・エコノミーの観点から、国家や経済的な豊かさを独占する人たちを批判している。進歩への非協力な態度はその倫理性の表れである。そうスコットは判断した(2)。
最も根源的なイリイチの批判
シューマッハーも第三世界での経験がその思想形成に大きな影響を与えたが、イリイチは第三世界そのもの、プエルト・リコやメキシコでずっと活動を続けた(3)。
「脱成長」は目新しい言葉として扱われている。けれども、セルジュ・ラトゥーシュによれば「脱成長」の理念そのものはかなり古く、文化主義者たちやエコロジストたちの経済批判の伝統に根ざしている。1960年代末にはいまの脱成長とほぼ近い概念が構想されていた。
初期の社会主義のようなユートピアに戻るわけでもなく、アナーキズムの伝統に立ち戻るわけでもなく、こともなく、自律的でシンプルな社会を求める。この立役者となったのは、アンドレ・ゴルツ、フランソワ・バルタン、ジャック・エリュール、ベルナール・シャルボノーたちだが、なかでもコルネリュウス・カストリアディスとイヴァン・イリイチの影響が大きい(4)。
イリイチによれば、19世紀末から20世紀半ばにかけて整えられつつあった学校、医療、福祉等々のシステムは、「専門家」によってパッケージされた「サービス」を人びとに押しつけるもので、人間の自律と自由を奪うものだ。すなわち、「ゆりかごから墓場まで」保障してくれる「福祉国家」とは、民衆が要求し、実現すべき目標ではなく、忌避し拒絶すべきものであり、むしろ、「コンヴィヴィアルな自由(自立共生)」と「ヴァナキュラーな価値」を剥奪する侵害である。
イリイチは、近代産業主義、とりわけ、「福祉国家」にその批判の焦点をあてた。この思想は、当時流行していたサヨのテクノストラクチュア(テクノクラシー)批判、専門家主義・エリート主義批判と同一視された。このため、1980年代以降には、ウヨ的な市場経済万能主義(フリードマン)とリバターリアニズム(ノージック)、すなわち、新たな「経済成長至上主義」に絡め取られてしまった(2)。
けれども、イリイチの思想は、近代産業=勤勉社会にとっては最もラディカルな批判だ。マルクスも資本主義社会には批判してみたもののイリイチの思想はそれをはるかに凌駕する。なぜなら、イリイチは、20世紀に「社会主義・共産主義」と「自由主義・資本主義」という二つの形をとった、近現代という時代精神の「共通の土俵」、産業=勤勉主義(経済パラダイム)をトータルに否定するからだ。見方によっては、イリイチの思想はきわめて「反動的」な思想にも見える。じっさい、近代産業=勤勉主義の立場から見れば、イリイチの思想は明らかに「ウルトラ反動思想」であろう(3)。かくして、イリイチは後述するドイツのヴォルフガング・ザックスやフランスのセルジュ・ラトゥーシュ、そして、米国の元津田塾大学教授のダグラス・ラミスなどの「脱開発派」「脱成長派」に大きな影響を与えることになる(2)。
サヨに対抗するために作られた開発論の挫折
そもそも『低開発』という概念が誕生したのは、1949年1月20日のことだが、これもサヨが関係している。この日の年頭教書で、トルーマン大統領は『ポイント・フォア計画』(Point Four Program)を発表する。ポイント・フォア計画とは、第二次世界大戦後の米国による世界政策を示す「発展途上国援助計画」で、トルーマン大統領は重要政策の第4項として、開発途上国への開発援助を打ちあげた。1949年現在で1人当り国民所得が100ドル以下の28か国、15億6500万人が、農業等を中心とした技術援助、保健衛生、教育を行うとしたのだが、これは、ヨーロッパでのマーシャル・プランに続き、発展途上国において反共体制を整備し、米国の政治経済力を伸ばすことが狙いだった(6)。
けれども、北側諸国で社会発展のための目標が失われただけでなく、南側諸国でも開発政策は失敗した(4)。「第三世界の開発援助政策」は行きづまった。貧困はいっこうになくならず、むしろ絶対的貧困は「開発援助」以前よりも拡大し、南北間の格差が飛躍的に拡大することが誰の目にも明らかになった。こうして1980年代から、一部の開発学者や開発活動家が「開発」の概念と「開発」の事業に対する批判を開始する(6)。イリイチらが消費社会とその根底に潜む進歩・科学・技術を疑問視したことが、「ポスト開発」の探求へと繋がった。そして、成長社会は望ましくないだけでなく持続不可能だとの新たな批判の次元をもたらしたのだ(4)。
したがって、ポスト経済開発=経済発展派の批判は、「開発のよりよい形」や「オルターナティヴな開発」を求めるものではなく、「開発」それ自体に対するオルターナティヴ(脱経済発展)求め、開発をラディカルに否定する(5,6)。
さて、廣田鉄斎氏は、20世紀後半の開発論を大くくり次のように四つの立場に整理している。
①単線的発展論(A型):最終的には、世界中の国々が米国のような高度産業社会になるべきである(ロストウ流の開発論)
②単線的発展論(B型):最終的には、世界中の国々がソ連のような高度産業社会になるべきである(マルクス・レーニン主義)
③従属理論:自分たちも開発したいが、それは現在の世界システムでは不可能である。なぜなら、南側の「低開発」(貧困)と北側の「発展」(富裕)はコインの裏表だからだ。「先進国」が豊かなのは、「後進国」が貧困だからだ。「先進国」は、構造的に「後進国」の貧困をつくりだし、その不平等な権力構造に依存して発展しているにすぎない。したがって、この不平等な権力構造を変えることが先決問題である。
④脱開発派:「開発・発展」は、望ましいことなのか。「後進」とか「低開発」とか言われてきた人々の方が、実は豊かで幸せで、人間らしい。世界全体が米国やソ連のようになるよりも、多様な世界の方が美しい。先進と後進関係は逆転させた方がいい(5)。
脱成長派は、この四番目の立場をとる。1990年代に出版された「ポスト開発論の代表作とされるのは次の三つだ。ヴォルフガング・ザックス編『開発辞典』、エスコバール著『開発と出会う』、マジード・ラーネマ編『ポスト開発文献集』の三つだ(10)。順番に見ていこう。
進歩と科学を疑え~ザックス
ドイツのヴッパータール気候・エネルギー・環境研究所のヴォルフガング・ザックス(Wolfgang Sachs,1946年~)は、イヴァン・イリイチだけでなく、ミシェル・フーコー、マハトマ・ガンディー、カール・ポランニー等の仕事にも影響され、「脱開発派のマニフェスト」ともいうべき『開発辞典(Development Dictionary)』を1992年に上梓した。著者としては、グスタボ・エステバ、ダグラス・ラミス、イヴァン・イリイチ、ヴァンダナ・シヴァ、セルジュ・ラトゥーシュ、オットー・ウルリッヒと早々たるメンバーが並んでいる。ザックスの主張を整理すると次のようになる。
①過去の40年は開発の時代だったがこの時代はすでに終わりつつある
②資源環境問題を考慮すれば、「産業=勤勉モデル」はもはや「先進的」とはみなせない
③冷戦と密接に結びついていた「開発援助政策」は1989年の後では無意味なものとなった
④開発を通じて「開発途上国」のほとんどが「先進国」に追いつくどころか南北格差はむしろ拡大した
⑤開発とは、欧米の諸制度を普遍化・一般化するで文化的な多様性を抹殺するものだ(7)。
ここまではいい。けれども、脱開発派は、開発パラダイムの課題をさらに掘り下げていく。F. J. シュールマンは、前述した①ロストウ流の近代化論、②マルクス=レーニン主義、③従属論と、いずれの開発理論も次の三つのパラダイムが共有されていたと指摘する。
①第三世界の住民は同質
②進歩することは正しい
③進歩を実現するにはネーション・ステーツと科学が必要(7)
また、オランダ出身の社会学者、ネーデルフェーン・ピータース(Nederveen Pieterse,1946年~)は、開発が否定される理由を三つあげる。
①貧困問題
自給を通じて基本的なニーズを満たす自給経済は物質的には貧しくはない。けれども、市場経済に参加していないことから、開発イデオロギーからすれば貧しくなってしまう。
②開発=西洋化の危険性
本当に恐ろしいのは、開発が失敗することではなく成功してしまうことだ。なぜなら、開発主義は新たな植民地主義のバージョンだからだ。「西欧化」は、多様な歴史を無視し、工業化世界のモデルを外から押し付ける。本当に必要なものは、内発的な発展だ。
③近代主義と科学の批判
開発思考が基づく近代主義と科学は西側の宗教である(7)。
こうして導きされる結論はかなり過激だ。開発=発展とは『いかさま』であり、『発展途上世界』やそこで暮らす人々に対する新植民地主義的な侵略行為を覆い隠すためにでっち上げられたものだった(5)。したがって、①既成の知識には「権力」性を持ち、②そのことを暴くことで「知」は民衆の力となりうることになる(7)。
草の根と連帯せよ~エスコバル
コロンビア出身の人類学者、アルトゥーロ・エスコバル(Arturo Escobar,1952年~)大学教授は、このブログの「ブエン・ヴィヴィル・シリーズ」で1回目から登場している。エスコバルも『開発と出会う(Encountering Development)』(1995年)で「知」が権力システムと結びつくと見なす。そして、これに対して「草の根運動との連携」を重視し、「農民、都市マージナル、脱専門的知識人」からなる「われわれ」を描き出す。草の根運動には、女性、エコロジー運動、農民、都市マージナル、市民運動、エスニック・マイノリティ、インディヘナ、都市文化、若者運動、スクウオッター運動、キリスト教基礎共同体が含まれるが、こうした運動は「本質的にローカル」で、多元主義的であり、組織の政治や既成権力組織とはなじまない。そこで、共有されるのは「文化やローカルな知識への関心」「科学への批判」「ローカル化した多元的な草の根運動の推進」だ。エスコバルは、民主化、差異、反開発がポイントであるとする(7)。
開発は支配のためのイデオロギー~ラーネマ
マッジド・ラーネマ(Majid Rahnema, 1924年~) の『ポスト開発文献集』もザックス編『開発辞典』と並び大きな役割を果たした。ラーネマは、テヘラン出身。長年、国連でイランを代表する外交官だった。1967年には、依頼を受けて最初の科学高等教育省を組織したが、4年後に辞職している。その後、内発的発展のための研究所を設立する。シャーによるトップダウンの権威主義的な開発ではなく、パウロ・フレイレ(Paulo Freire, 1921~1997年)の教育思想の影響を受け、ボトムアップな開発を目指すものだった。けれども、イラン・イスラム革命(1979年)によって故郷を去ることとなり、当時UNDPの事務総長であったブラッドフォード・モース(Bradford Morse)から招かれ、UNDPのマリ代表となり、その後、草の根やNGOの特別顧問を務めた。1985年に引退し、6年間カリフォルニア大学バークレー校で客員教授を務めた。また、1993年以来のクレアモント大学(Claremont Colleges)のピッツァーでも客員教授となっている。現在は、パリのアメリカン大学(American University of Paris)の客員教授だ。
ラーネマもイリイチの思想に基づき「開発」を「人々の自律や自治への脅威」と分析する。
「開発とは、本当のニーズや希望に対する間違った解答だった。それは、北側の支配権力のために構築されたイデオロギーだった。開発は、古い植民地主義を魅力的な道具に変えた」(9)
ラーネマの本にもイリイチは登場し、こう書いている。
「植民地主義の崩壊とともに植民地解放闘争に加わっていた多くの人々が指導者の新たな『開発』の要求を受け入れた。しかし、今日では、当時の『開発』に対する熱狂はほとんど残っていない。いま人々が問うべき問題は、『開発』を押しとどめ、人々自身の願いや希望に一致した変化をもたらすために必要な力を生み出すためには、どうしたらいいか、だ」(7)
ラーネマの本は南や北の思想家や活動家の文章を集めたものだ。背景も経験も多様だが、開発のレトリックを見破り、開発というイデオロギーや歪んだレンズから自由である点では共通している。そして、「物語の別の側面」とりわけ「敗者」の視点から編集された独創的なもので、ヴァナキュラーな知恵、伝統的な知恵、豊かで多様で持続可能なライフスタイルに焦点をあている(7)。
脱成長論・ポスト開発はウヨもサヨも超える
要するに、トルーマンやケネディ、スターリンやフルシチョフらによる「経済発展」の「約束」は「永久に果たされない約束=幻想・錯覚」だった。そもそも、「経済成長」がグローバルな規模で、圧倒的多数の人びとの思考・行動様式やライフスタイルを束縛する「支配的なイデオロギー」となったのは、第二次世界大戦後のことで、その「覇権」(ヘゲモニー)はたかだか60年程度にすぎない。従来の「経済成長、産業化・工業化、近代化の路線」を今後も追い求めるのではなく、「次の時代」を展望しなければならない(5)。「二項対立的で、機械論的で、還元主義的で、非人間的で、究極的には自己破壊的なアプローチである開発」を超える「脱開発の時代」は、新たな原理に基づくものでなければならない。それは、ただ昔へと回帰すのではなく「ヴァナキュラーな社会」(前近代的な伝統社会)からインスピレーションを引き出すものだ。
エスコバルは、「開発に対するオルターナティヴ」は、草の根の運動、都市と農村との共同、インフォーマルなセクターに根ざすとし、新たな社会は、
①ホモ・エコノミカスと世界市場ではなく、連帯経済、相互性
②中央集権的な権威政治構造ではなく、直接参加型民主主義
③近代科学から、新たな知の諸概念(伝統的な知識体系)に基づき、そこでは「伝統」と「近代」とがハイブリッド化されることになると述べている(9)。
もちろん、上述した三者以外にも、「ポスト開発思想」の論客はいる。ダグラス・ラミスやセルジュ・ラトゥーシュ、ヘレナ・ノバーク=ホッジ、ヴァンダナ・シヴァだ(10)。
開発途上国にとって、開発とはなんであったのであろうか。植民地が解体した後、独立運動の指導者たちは、荒廃した祖国を「近代国民国家」に転換することを願望していた。ただマハトマ・ガンディーだけを唯一の例外として。一方、以前の植民地支配者たちは、新たな支配のためのシステムを探し求めていた。
①旧植民地に対する支配を維持できる
②旧植民地の自然資源を搾取し続けられる
③旧植民地を彼らの市場として利用できる
④地政学的な野心のための軍事基地として利用できる
開発の神話は、この思惑をかなえられる理想的な装置として出現した。
もちろん、開発をめぐっては、「トップダウン」型の開発を目指す立場と、「内発的」で「人間中心」で「参加的」で「ボトムアップ」型の「持続可能な」開発を求める立場とがあった。けれども、開発そのもののイデオロギーが問題にされることはなかった。当時は、開発は神聖で侵さざるべき存在だった。それを「人びとの自律や自治に対する脅威」だと1960年代後半に最初に指摘したのは、イリイチだった。
「大衆」は、植民地支配という古い征服からも、近代国民国家という新たな支配からも自らを解放したいと願っていたが、開発は解放ではなく、むしろ分断、排除、差別の原因だった。若者たちは「個人的な」成功と社会的に創り出された「ニーズ」を求めて村を出て、女性、子ども、老人が村に残された。人々の暮らしと文化は徹底的に破壊され、身体も精神もボロボロに傷ついた。けれども、開発エスタブリッシュメントにとっては、人びとのこのような先例のない悲劇は、経済発展のために支払われるべき不可避的な代価にすぎなかった。
「米国型資本主義」の自由主義も「ソ連型共産主義」の社会主義も、近代産業=勤勉主義であることにはかわりはなかった。「ほんらいの脱成長論」とは、この両者をトータルに「のりこえる」ための思想・運動なのである(11)。
モラレス登場の意味
大変な回り道をしたようだが、廣田鉄斎氏の分析によって、ようやく、ブエン・ヴィヴィルやモラレス登場の意味を解釈できるところまで来た。
氏の四つの立場に立てば、日本はいまだに①の単線的発展論(A型)をひた走っていると言えるだろう。明治維新そのものが大英帝国が仕掛けた内乱であり、坂本龍馬は英国の使い走りにすぎなかったという説もある。けれども、少なくとも大東亜戦争に敗北するまでは我が大日本帝国は独立国だったのではあるまいか。
モラレスは国連総会で「主権国家というのは、自らの国のなかに外国の軍事基地を持たない国のことを言う」と述べている。
このモラレスの解釈が正しいとするならば、日本は主権国家とは言えない。そして、A型の目的は、発展途上国において反共体制を整備し、米国の政治経済力を伸ばすためであった。なればこそ、発展途上国日本は、悪名高い世界銀行から融資を受けて東海道新幹線も整備したのだった。日本が世銀からの借金をようやく完済しをえたのは1990年にすぎない。
一方、フィデルのキューバは、ソ連崩壊までは、②の単線的発展論(B型)を突き進んできた。けれども、フィデルは、自国だけは援助を受けながら、一方で、③の従属理論を強力に発言し続けた。キューバを含めた南側の貧困は、米国に象徴される北側の富裕とコインの裏表である。この不平等な権力構造を変えよ、というのは、フィデルが一貫して主張し続けてきた論法だった。そして、これは、ベネズエラのチャベスにも継承された。ブログ「マスコミに載らない海外記事」の中南米シリーズを見ればそのことがよくわかる。
そして、日本の論壇ではこうした路線は弱い。同サイトの2013年3月21日の記事「ウゴ・チャベス」の内容を一部抜粋してみよう。
「チャベスは世界のリーダーだった。アメリカの政治家連中とは違い、チャベスは非欧米世界中で尊敬されていた(略)。チャベスは奇跡だった。彼はアメリカ合州国とベネズエラのエリートに寝返らなかったので、彼は奇跡だった。彼が寝返っていれば、チャベスは、石油収入で、サウジアラビアの王家のように、大変な金持ちになり(略)、ワシントンに仕える限り、終身独裁者でいられたろう(略)。チャベスにとって、寝返るのは政治的にたやすいことだったろう。大衆に受ける言辞を続け、軍隊の盟友を昇進させ、底辺層に、彼等がこれまで経験したことがないほどの給付を与え、残りの石油収入を腐敗したベネズエラ人エリートと分け合いさえすれば良かったのだ(略)。しかし、ラファエル・コレアやエボ・モラレス同様、チャベスは本物だった。ベネズエラ国民の大多数が、チャベスは本物だったことを理解している(略)。ワシントンが一番憎んだのは、買収できない本物だった(略)。日本の傀儡政治家連中は、チャベスについては触れない。大本営広報自体で、チャベスは禁句だろう(略)。チャベスと比較すれば、日本の傀儡政治家連中のひどさが浮き彫りになってしまうからだ」
では、モラレスはどうなのか。モラレスがチャベス同様③の従属理論に立脚していることは明らかだ。なればこそモラレスは、米国の利益を代弁する東部のサンタ・クルスの富裕階層と対立している。けれども、したたかなモラレスは同時に、成長路線を捨ててもいない。そこが、モラレスが支持層である先住民からも批判されている理由だ。
とはいえ、モラレスが言う「パチャママ」や「ブエン・ヴィヴィル」には、初期の社会主義の要素がある。加えて、近代科学を超えて、新たな知の諸概念(伝統的な知識体系)を取り込もうとする姿勢が見られる。シャーマンの思想には、 スピリチュアリティの要素が含まれるのだ。
補足
私自身はサヨではなかったし、今でもエコロジストではあっても、サヨではないのだが、最近まではミゲル・アルティエリ氏らのアグロエコロジーの思想の影響を大きく受けてきた。なればこそ、「伝統農法本」では、インカの農法もボリビアの農法も扱いながら、複雑系の科学の要素を組み込んだアグロエコロジーは有機農業を超えると短絡的に発想し、悦に入っていた。
なればこそ、次の一文に衝撃を受けている。
「先住民農業とアグロエコロジーを混同してはならない。この二つの農法は、慣行農業よりは互いに近い。けれども、一方はホーリスティックな西洋科学の領域内に埋め込まれているが、他方はそうではない」(12)
そう。パチャママとそれと密接に関連するボリビアの農業を理解するためには、複雑系の科学を含め、西洋科学を一度捨てなければならない。それは、真木悠介こと見田宗介氏が『気流の鳴る音―交響するコミューン』でカルロス・カスタネダに魅了された上で、交響するコミューンを提唱していること。そして、『アンデス・シャーマンとの対話―宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観』の著作がある立教大学社会学部の実松克義元教授のラテンへの出発点がやはり、カルロス・カスタネダであったこととシンクロする。
したがって、今回でブエン・ヴィヴィルの特集はひとまず終える。続いて、モラレスがどのように育ってきたのか、そして、アンデスの宇宙観がどのように脱成長と関係していくのか、パチャママと伝統農業とスピリチュアリティを考えてみたい(終)。
ザックスの写真はこのサイトから引用。
エスコバルの写真はこのサイトから引用。
ラーネマの写真はこのサイトから引用。
【引用文献】
(3) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その3―イリイチとシューマッハー」
(5)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その5―ポスト《経済開発=経済発展》論①」
(6)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その6―ポスト《経済開発=経済発展》論②」
(7)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その7―ポスト《経済開発=経済発展》論③」
(9) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8―ポスト《経済開発=経済発展》論④」
(10) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8続き―ポスト《経済開発=経済発展》論④補足」
(11) 2010年11月4日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8続き―ポスト《経済開発=経済発展》論④補足の補足」
(12) Tirso Gonzales, Marcela Machaca, Nestor Chambi, Zenón Gomel1,Latin American Andean Indigenous Agriculturalists Challenge Current Transnational System of Science, Knowledge and Technology for Agriculture: From Exclusion to Inclusion