没落屋

吉田太郎です。没落にこだわっています。世界各地の持続可能な社会への転換の情報を提供しています。

ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~12脱成長論はウヨとサヨを超える

2013年05月30日 23時15分44秒 | ボリビア

 5月29日付のブログでは、先進国の脱成長への流れを見てきた。今日は、南からの胎動と論理を見てみよう。実は成長批判と脱成長には南が深く関係する。前日に続いて、廣田鉄斎氏のブログ、さて何処へ行かう風が吹くの「脱成長論の系譜」シリーズのまとめを続け、私なりの頭の再整理につなげたい。

シューマッハーと中間技術

 カウンターカルチャー運動は人間性の頽廃、エコロジー派は資源・環境問題を重視していたが、その両方を視野に入れつつ、成長主義的な経済体制を批判して、大きな反響を呼び起こしたのが、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー(1911~1977年)の『スモール・イズ・ビューティフル』(1973年)だ。

 シューマッハーのポイントは三つある。

①生産力と「経済効率」をあげるよりも、むしろ、下げる方が、人間の幸せにつながる
②経済開発においては「中間技術」を重視し、それによる雇用の創出を提唱
③草の根民主主義を支持

 シューマッハーがこうしたアイデアを得たきっかけは、1955年にビルマ政府の経済顧問としてビルマに赴いたことだった。シューマッハーは、そこで、仏教経済学と中間技術の着想を得た。

 仏教経済学は功利主義的なケインズ経済学に対する批判だし、中間技術論はヨーゼフ・アーロイス・シュンペーター(1883~1950年)のイノベーション論に対する批判だった。シューマッハーは、シュンペーターの企業家精神の理論を評価しながらも、民主主義に対して冷笑的であったシュンペーターとは違いガンジーに倣って民衆の創意に信頼をおいていた。このシューマッハーの思想はサティシュ・クマールをはじめとするシューマッハー学派に継承されていく(3)

 ちなみに、シュンペーターについては2011年2月19日付けのアグロエコロジーブログ、『レリジアンスな人々』でも少しだけ書いた。この理解から、私は、イノベーションは決してどこまでも続く成長を担保するものではなく、むしろ、①資源の利用(exploitation)、②システムの保全(conservation)、③資源の開放(release)、④システムの再組織化(reorganization)という4段階で繰り返されるサイクルの中で、双六が振り出しに戻る中で再び繰り返されるゲームの一局面でしかないと考えている。御関心がある方はリンク先に飛んでいただきたい。

途上国からの批判~「モラル・エコノミー論」

 19世紀にイギリスでは、暴徒が暴利を貪る者をうち倒し、生活必需品を適正価格で売れという民衆暴動が起こった。資本主義経済では、需要と供給の関係で稀少なものは高価格で販売されるのは当然だ。けれども、生活者の支援からすれば、生きるための必需品が適切価格で手に入らないことは困る。E.P.トムスン(Thompson,1971)は、この態度に着目し、これを「モラル・エコノミー」と呼んだ。

 このモラル・エコノミー論はジェームズ・スコット(James C. Scott,1936年~)の『モーラル・エコノミー―東南アジアの農民叛乱と生存維持』(高橋彰訳,勁草書房, 1999年)』(The Moral Economy of the Peasant: Subsistence and Rebellion in Southeast Asia, 1976)」によってさらに有名になる。マレーシアの村を調査していたスコットは、逮捕や治安政策等国家による日々抑圧に貧しい農民たちがさらされていることに気づいた。こうした状況下では表立って政治的な抵抗をしても失敗するだけだ。そこで、農民たちは、遅刻をしたり、口先だけで同意をしたり、放火やサボタージュを通じて、国家権力に抵抗していた。

 抵抗は、進歩的な農業技術を否定することにもつながっていた。例えば、貧しい農民たちはコンバインを受け入れようとはしない。豊かな農民は、彼らが「未開」だからだと非難する。けれども、貧しい農民たちは、農業技術が進歩することが、田畑を傷つけ、伝統的な価値観が失われ、経済的にも採算があわないことを知っている。つまり、貧しい農民たちは、モラル・エコノミーの観点から、国家や経済的な豊かさを独占する人たちを批判している。進歩への非協力な態度はその倫理性の表れである。そうスコットは判断した(2)

最も根源的なイリイチの批判

 シューマッハーも第三世界での経験がその思想形成に大きな影響を与えたが、イリイチは第三世界そのもの、プエルト・リコやメキシコでずっと活動を続けた(3)

「脱成長」は目新しい言葉として扱われている。けれども、セルジュ・ラトゥーシュによれば「脱成長」の理念そのものはかなり古く、文化主義者たちやエコロジストたちの経済批判の伝統に根ざしている。1960年代末にはいまの脱成長とほぼ近い概念が構想されていた。

 初期の社会主義のようなユートピアに戻るわけでもなく、アナーキズムの伝統に立ち戻るわけでもなく、こともなく、自律的でシンプルな社会を求める。この立役者となったのは、アンドレ・ゴルツ、フランソワ・バルタン、ジャック・エリュール、ベルナール・シャルボノーたちだが、なかでもコルネリュウス・カストリアディスとイヴァン・イリイチの影響が大きい(4)

 イリイチによれば、19世紀末から20世紀半ばにかけて整えられつつあった学校、医療、福祉等々のシステムは、「専門家」によってパッケージされた「サービス」を人びとに押しつけるもので、人間の自律と自由を奪うものだ。すなわち、「ゆりかごから墓場まで」保障してくれる「福祉国家」とは、民衆が要求し、実現すべき目標ではなく、忌避し拒絶すべきものであり、むしろ、「コンヴィヴィアルな自由(自立共生)」と「ヴァナキュラーな価値」を剥奪する侵害である。

 イリイチは、近代産業主義、とりわけ、「福祉国家」にその批判の焦点をあてた。この思想は、当時流行していたサヨのテクノストラクチュア(テクノクラシー)批判、専門家主義・エリート主義批判と同一視された。このため、1980年代以降には、ウヨ的な市場経済万能主義(フリードマン)とリバターリアニズム(ノージック)、すなわち、新たな「経済成長至上主義」に絡め取られてしまった(2)

 けれども、イリイチの思想は、近代産業=勤勉社会にとっては最もラディカルな批判だ。マルクスも資本主義社会には批判してみたもののイリイチの思想はそれをはるかに凌駕する。なぜなら、イリイチは、20世紀に「社会主義・共産主義」と「自由主義・資本主義」という二つの形をとった、近現代という時代精神の「共通の土俵」、産業=勤勉主義(経済パラダイム)をトータルに否定するからだ。見方によっては、イリイチの思想はきわめて「反動的」な思想にも見える。じっさい、近代産業=勤勉主義の立場から見れば、イリイチの思想は明らかに「ウルトラ反動思想」であろう(3)。かくして、イリイチは後述するドイツのヴォルフガング・ザックスやフランスのセルジュ・ラトゥーシュ、そして、米国の元津田塾大学教授のダグラス・ラミスなどの「脱開発派」「脱成長派」に大きな影響を与えることになる(2)

サヨに対抗するために作られた開発論の挫折

 そもそも『低開発』という概念が誕生したのは、1949年1月20日のことだが、これもサヨが関係している。この日の年頭教書で、トルーマン大統領は『ポイント・フォア計画』(Point Four Program)を発表する。ポイント・フォア計画とは、第二次世界大戦後の米国による世界政策を示す「発展途上国援助計画」で、トルーマン大統領は重要政策の第4項として、開発途上国への開発援助を打ちあげた。1949年現在で1人当り国民所得が100ドル以下の28か国、15億6500万人が、農業等を中心とした技術援助、保健衛生、教育を行うとしたのだが、これは、ヨーロッパでのマーシャル・プランに続き、発展途上国において反共体制を整備し、米国の政治経済力を伸ばすことが狙いだった(6)

 けれども、北側諸国で社会発展のための目標が失われただけでなく、南側諸国でも開発政策は失敗した(4)。「第三世界の開発援助政策」は行きづまった。貧困はいっこうになくならず、むしろ絶対的貧困は「開発援助」以前よりも拡大し、南北間の格差が飛躍的に拡大することが誰の目にも明らかになった。こうして1980年代から、一部の開発学者や開発活動家が「開発」の概念と「開発」の事業に対する批判を開始する(6)。イリイチらが消費社会とその根底に潜む進歩・科学・技術を疑問視したことが、「ポスト開発」の探求へと繋がった。そして、成長社会は望ましくないだけでなく持続不可能だとの新たな批判の次元をもたらしたのだ(4)

 したがって、ポスト経済開発=経済発展派の批判は、「開発のよりよい形」や「オルターナティヴな開発」を求めるものではなく、「開発」それ自体に対するオルターナティヴ(脱経済発展)求め、開発をラディカルに否定する(5,6)

 さて、廣田鉄斎氏は、20世紀後半の開発論を大くくり次のように四つの立場に整理している。

①単線的発展論(A型):最終的には、世界中の国々が米国のような高度産業社会になるべきである(ロストウ流の開発論)
②単線的発展論(B型):最終的には、世界中の国々がソ連のような高度産業社会になるべきである(マルクス・レーニン主義)
③従属理論:自分たちも開発したいが、それは現在の世界システムでは不可能である。なぜなら、南側の「低開発」(貧困)と北側の「発展」(富裕)はコインの裏表だからだ。「先進国」が豊かなのは、「後進国」が貧困だからだ。「先進国」は、構造的に「後進国」の貧困をつくりだし、その不平等な権力構造に依存して発展しているにすぎない。したがって、この不平等な権力構造を変えることが先決問題である。
④脱開発派:「開発・発展」は、望ましいことなのか。「後進」とか「低開発」とか言われてきた人々の方が、実は豊かで幸せで、人間らしい。世界全体が米国やソ連のようになるよりも、多様な世界の方が美しい。先進と後進関係は逆転させた方がいい(5)

 脱成長派は、この四番目の立場をとる。1990年代に出版された「ポスト開発論の代表作とされるのは次の三つだ。ヴォルフガング・ザックス編『開発辞典』、エスコバール著『開発と出会う』、マジード・ラーネマ編『ポスト開発文献集』の三つだ(10)。順番に見ていこう。

進歩と科学を疑え~ザックス

 ドイツのヴッパータール気候・エネルギー・環境研究所のヴォルフガング・ザックス(Wolfgang Sachs,1946年~)は、イヴァン・イリイチだけでなく、ミシェル・フーコー、マハトマ・ガンディー、カール・ポランニー等の仕事にも影響され、「脱開発派のマニフェスト」ともいうべき『開発辞典(Development Dictionary)』を1992年に上梓した。著者としては、グスタボ・エステバ、ダグラス・ラミス、イヴァン・イリイチ、ヴァンダナ・シヴァ、セルジュ・ラトゥーシュ、オットー・ウルリッヒと早々たるメンバーが並んでいる。ザックスの主張を整理すると次のようになる。

 ①過去の40年は開発の時代だったがこの時代はすでに終わりつつある
 ②資源環境問題を考慮すれば、「産業=勤勉モデル」はもはや「先進的」とはみなせない
 ③冷戦と密接に結びついていた「開発援助政策」は1989年の後では無意味なものとなった
 ④開発を通じて「開発途上国」のほとんどが「先進国」に追いつくどころか南北格差はむしろ拡大した
 ⑤開発とは、欧米の諸制度を普遍化・一般化するで文化的な多様性を抹殺するものだ(7)

 ここまではいい。けれども、脱開発派は、開発パラダイムの課題をさらに掘り下げていく。F. J. シュールマンは、前述した①ロストウ流の近代化論、②マルクス=レーニン主義、③従属論と、いずれの開発理論も次の三つのパラダイムが共有されていたと指摘する。

 ①第三世界の住民は同質
 ②進歩することは正しい
 ③進歩を実現するにはネーション・ステーツと科学が必要(7)

 また、オランダ出身の社会学者、ネーデルフェーン・ピータース(Nederveen Pieterse,1946年~)は、開発が否定される理由を三つあげる。

①貧困問題
自給を通じて基本的なニーズを満たす自給経済は物質的には貧しくはない。けれども、市場経済に参加していないことから、開発イデオロギーからすれば貧しくなってしまう。
②開発=西洋化の危険性
本当に恐ろしいのは、開発が失敗することではなく成功してしまうことだ。なぜなら、開発主義は新たな植民地主義のバージョンだからだ。「西欧化」は、多様な歴史を無視し、工業化世界のモデルを外から押し付ける。本当に必要なものは、内発的な発展だ。
③近代主義と科学の批判
開発思考が基づく近代主義と科学は西側の宗教である(7)

 こうして導きされる結論はかなり過激だ。開発=発展とは『いかさま』であり、『発展途上世界』やそこで暮らす人々に対する新植民地主義的な侵略行為を覆い隠すためにでっち上げられたものだった(5)。したがって、①既成の知識には「権力」性を持ち、②そのことを暴くことで「知」は民衆の力となりうることになる(7)

草の根と連帯せよ~エスコバル

 コロンビア出身の人類学者、アルトゥーロ・エスコバル(Arturo Escobar,1952年~)大学教授は、このブログの「ブエン・ヴィヴィル・シリーズ」で1回目から登場している。エスコバルも『開発と出会う(Encountering Development)』(1995年)で「知」が権力システムと結びつくと見なす。そして、これに対して「草の根運動との連携」を重視し、「農民、都市マージナル、脱専門的知識人」からなる「われわれ」を描き出す。草の根運動には、女性、エコロジー運動、農民、都市マージナル、市民運動、エスニック・マイノリティ、インディヘナ、都市文化、若者運動、スクウオッター運動、キリスト教基礎共同体が含まれるが、こうした運動は「本質的にローカル」で、多元主義的であり、組織の政治や既成権力組織とはなじまない。そこで、共有されるのは「文化やローカルな知識への関心」「科学への批判」「ローカル化した多元的な草の根運動の推進」だ。エスコバルは、民主化、差異、反開発がポイントであるとする(7)

開発は支配のためのイデオロギー~ラーネマ

 マッジド・ラーネマ(Majid Rahnema, 1924年~) の『ポスト開発文献集』もザックス編『開発辞典』と並び大きな役割を果たした。ラーネマは、テヘラン出身。長年、国連でイランを代表する外交官だった。1967年には、依頼を受けて最初の科学高等教育省を組織したが、4年後に辞職している。その後、内発的発展のための研究所を設立する。シャーによるトップダウンの権威主義的な開発ではなく、パウロ・フレイレ(Paulo Freire, 1921~1997年)の教育思想の影響を受け、ボトムアップな開発を目指すものだった。けれども、イラン・イスラム革命(1979年)によって故郷を去ることとなり、当時UNDPの事務総長であったブラッドフォード・モース(Bradford Morse)から招かれ、UNDPのマリ代表となり、その後、草の根やNGOの特別顧問を務めた。1985年に引退し、6年間カリフォルニア大学バークレー校で客員教授を務めた。また、1993年以来のクレアモント大学(Claremont Colleges)のピッツァーでも客員教授となっている。現在は、パリのアメリカン大学(American University of Paris)の客員教授だ。

 ラーネマもイリイチの思想に基づき「開発」を「人々の自律や自治への脅威」と分析する。

「開発とは、本当のニーズや希望に対する間違った解答だった。それは、北側の支配権力のために構築されたイデオロギーだった。開発は、古い植民地主義を魅力的な道具に変えた」(9)

 ラーネマの本にもイリイチは登場し、こう書いている。

「植民地主義の崩壊とともに植民地解放闘争に加わっていた多くの人々が指導者の新たな『開発』の要求を受け入れた。しかし、今日では、当時の『開発』に対する熱狂はほとんど残っていない。いま人々が問うべき問題は、『開発』を押しとどめ、人々自身の願いや希望に一致した変化をもたらすために必要な力を生み出すためには、どうしたらいいか、だ」(7)

 ラーネマの本は南や北の思想家や活動家の文章を集めたものだ。背景も経験も多様だが、開発のレトリックを見破り、開発というイデオロギーや歪んだレンズから自由である点では共通している。そして、「物語の別の側面」とりわけ「敗者」の視点から編集された独創的なもので、ヴァナキュラーな知恵、伝統的な知恵、豊かで多様で持続可能なライフスタイルに焦点をあている(7)

脱成長論・ポスト開発はウヨもサヨも超える

 要するに、トルーマンやケネディ、スターリンやフルシチョフらによる「経済発展」の「約束」は「永久に果たされない約束=幻想・錯覚」だった。そもそも、「経済成長」がグローバルな規模で、圧倒的多数の人びとの思考・行動様式やライフスタイルを束縛する「支配的なイデオロギー」となったのは、第二次世界大戦後のことで、その「覇権」(ヘゲモニー)はたかだか60年程度にすぎない。従来の「経済成長、産業化・工業化、近代化の路線」を今後も追い求めるのではなく、「次の時代」を展望しなければならない(5)。「二項対立的で、機械論的で、還元主義的で、非人間的で、究極的には自己破壊的なアプローチである開発」を超える「脱開発の時代」は、新たな原理に基づくものでなければならない。それは、ただ昔へと回帰すのではなく「ヴァナキュラーな社会」(前近代的な伝統社会)からインスピレーションを引き出すものだ。

 エスコバルは、「開発に対するオルターナティヴ」は、草の根の運動、都市と農村との共同、インフォーマルなセクターに根ざすとし、新たな社会は、

 ①ホモ・エコノミカスと世界市場ではなく、連帯経済、相互性
 ②中央集権的な権威政治構造ではなく、直接参加型民主主義
 ③近代科学から、新たな知の諸概念(伝統的な知識体系)に基づき、そこでは「伝統」と「近代」とがハイブリッド化されることになると述べている(9)

 もちろん、上述した三者以外にも、「ポスト開発思想」の論客はいる。ダグラス・ラミスやセルジュ・ラトゥーシュ、ヘレナ・ノバーク=ホッジ、ヴァンダナ・シヴァだ(10)

 開発途上国にとって、開発とはなんであったのであろうか。植民地が解体した後、独立運動の指導者たちは、荒廃した祖国を「近代国民国家」に転換することを願望していた。ただマハトマ・ガンディーだけを唯一の例外として。一方、以前の植民地支配者たちは、新たな支配のためのシステムを探し求めていた。

 ①旧植民地に対する支配を維持できる
 ②旧植民地の自然資源を搾取し続けられる
 ③旧植民地を彼らの市場として利用できる
 ④地政学的な野心のための軍事基地として利用できる

 開発の神話は、この思惑をかなえられる理想的な装置として出現した。

 もちろん、開発をめぐっては、「トップダウン」型の開発を目指す立場と、「内発的」で「人間中心」で「参加的」で「ボトムアップ」型の「持続可能な」開発を求める立場とがあった。けれども、開発そのもののイデオロギーが問題にされることはなかった。当時は、開発は神聖で侵さざるべき存在だった。それを「人びとの自律や自治に対する脅威」だと1960年代後半に最初に指摘したのは、イリイチだった。

 「大衆」は、植民地支配という古い征服からも、近代国民国家という新たな支配からも自らを解放したいと願っていたが、開発は解放ではなく、むしろ分断、排除、差別の原因だった。若者たちは「個人的な」成功と社会的に創り出された「ニーズ」を求めて村を出て、女性、子ども、老人が村に残された。人々の暮らしと文化は徹底的に破壊され、身体も精神もボロボロに傷ついた。けれども、開発エスタブリッシュメントにとっては、人びとのこのような先例のない悲劇は、経済発展のために支払われるべき不可避的な代価にすぎなかった。

 「米国型資本主義」の自由主義も「ソ連型共産主義」の社会主義も、近代産業=勤勉主義であることにはかわりはなかった。「ほんらいの脱成長論」とは、この両者をトータルに「のりこえる」ための思想・運動なのである(11)

モラレス登場の意味

 大変な回り道をしたようだが、廣田鉄斎氏の分析によって、ようやく、ブエン・ヴィヴィルやモラレス登場の意味を解釈できるところまで来た。

 氏の四つの立場に立てば、日本はいまだに①の単線的発展論(A型)をひた走っていると言えるだろう。明治維新そのものが大英帝国が仕掛けた内乱であり、坂本龍馬は英国の使い走りにすぎなかったという説もある。けれども、少なくとも大東亜戦争に敗北するまでは我が大日本帝国は独立国だったのではあるまいか。
モラレスは国連総会で「主権国家というのは、自らの国のなかに外国の軍事基地を持たない国のことを言う」と述べている。

 このモラレスの解釈が正しいとするならば、日本は主権国家とは言えない。そして、A型の目的は、発展途上国において反共体制を整備し、米国の政治経済力を伸ばすためであった。なればこそ、発展途上国日本は、悪名高い世界銀行から融資を受けて東海道新幹線も整備したのだった。日本が世銀からの借金をようやく完済しをえたのは1990年にすぎない。

 一方、フィデルのキューバは、ソ連崩壊までは、②の単線的発展論(B型)を突き進んできた。けれども、フィデルは、自国だけは援助を受けながら、一方で、③の従属理論を強力に発言し続けた。キューバを含めた南側の貧困は、米国に象徴される北側の富裕とコインの裏表である。この不平等な権力構造を変えよ、というのは、フィデルが一貫して主張し続けてきた論法だった。そして、これは、ベネズエラのチャベスにも継承された。ブログ「マスコミに載らない海外記事」の中南米シリーズを見ればそのことがよくわかる。

 そして、日本の論壇ではこうした路線は弱い。同サイトの2013年3月21日の記事「ウゴ・チャベス」の内容を一部抜粋してみよう。

「チャベスは世界のリーダーだった。アメリカの政治家連中とは違い、チャベスは非欧米世界中で尊敬されていた(略)。チャベスは奇跡だった。彼はアメリカ合州国とベネズエラのエリートに寝返らなかったので、彼は奇跡だった。彼が寝返っていれば、チャベスは、石油収入で、サウジアラビアの王家のように、大変な金持ちになり(略)、ワシントンに仕える限り、終身独裁者でいられたろう(略)。チャベスにとって、寝返るのは政治的にたやすいことだったろう。大衆に受ける言辞を続け、軍隊の盟友を昇進させ、底辺層に、彼等がこれまで経験したことがないほどの給付を与え、残りの石油収入を腐敗したベネズエラ人エリートと分け合いさえすれば良かったのだ(略)。しかし、ラファエル・コレアやエボ・モラレス同様、チャベスは本物だった。ベネズエラ国民の大多数が、チャベスは本物だったことを理解している(略)。ワシントンが一番憎んだのは、買収できない本物だった(略)。日本の傀儡政治家連中は、チャベスについては触れない。大本営広報自体で、チャベスは禁句だろう(略)。チャベスと比較すれば、日本の傀儡政治家連中のひどさが浮き彫りになってしまうからだ」

 では、モラレスはどうなのか。モラレスがチャベス同様③の従属理論に立脚していることは明らかだ。なればこそモラレスは、米国の利益を代弁する東部のサンタ・クルスの富裕階層と対立している。けれども、したたかなモラレスは同時に、成長路線を捨ててもいない。そこが、モラレスが支持層である先住民からも批判されている理由だ。

 とはいえ、モラレスが言う「パチャママ」や「ブエン・ヴィヴィル」には、初期の社会主義の要素がある。加えて、近代科学を超えて、新たな知の諸概念(伝統的な知識体系)を取り込もうとする姿勢が見られる。シャーマンの思想には、 スピリチュアリティの要素が含まれるのだ。

補足

 私自身はサヨではなかったし、今でもエコロジストではあっても、サヨではないのだが、最近まではミゲル・アルティエリ氏らのアグロエコロジーの思想の影響を大きく受けてきた。なればこそ、「伝統農法本」では、インカの農法もボリビアの農法も扱いながら、複雑系の科学の要素を組み込んだアグロエコロジーは有機農業を超えると短絡的に発想し、悦に入っていた。

 なればこそ、次の一文に衝撃を受けている。

「先住民農業とアグロエコロジーを混同してはならない。この二つの農法は、慣行農業よりは互いに近い。けれども、一方はホーリスティックな西洋科学の領域内に埋め込まれているが、他方はそうではない」(12)

 そう。パチャママとそれと密接に関連するボリビアの農業を理解するためには、複雑系の科学を含め、西洋科学を一度捨てなければならない。それは、真木悠介こと見田宗介氏が『気流の鳴る音―交響するコミューン』でカルロス・カスタネダに魅了された上で、交響するコミューンを提唱していること。そして、『アンデス・シャーマンとの対話―宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観』の著作がある立教大学社会学部の実松克義元教授のラテンへの出発点がやはり、カルロス・カスタネダであったこととシンクロする。

 したがって、今回でブエン・ヴィヴィルの特集はひとまず終える。続いて、モラレスがどのように育ってきたのか、そして、アンデスの宇宙観がどのように脱成長と関係していくのか、パチャママと伝統農業とスピリチュアリティを考えてみたい(終)。


ザックスの写真はこのサイトから引用。
エスコバルの写真はこのサイトから引用。
ラーネマの写真はこのサイトから引用。

【引用文献】
(3) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その3―イリイチとシューマッハー
(5)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その5―ポスト《経済開発=経済発展》論①
(6)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その6―ポスト《経済開発=経済発展》論②
(7)2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その7―ポスト《経済開発=経済発展》論③
(9) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8―ポスト《経済開発=経済発展》論④
(10) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8続き―ポスト《経済開発=経済発展》論④補足
(11) 2010年11月4日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その8続き―ポスト《経済開発=経済発展》論④補足の補足
(12) Tirso Gonzales, Marcela Machaca, Nestor Chambi, Zenón Gomel1,Latin American Andean Indigenous Agriculturalists Challenge Current Transnational System of Science, Knowledge and Technology for Agriculture: From Exclusion to Inclusion


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~11 脱成長論は先進国(日本)では頓挫した

2013年05月29日 23時52分17秒 | ボリビア

 廣田鉄斎氏のブログ、さて何処へ行かう風が吹くの「脱成長論の系譜」シリーズには、脱成長論、資本主義、社会主義、そして、ポスト開発主義の流れが見事なまでに整理されている。これをもとに、モラレス登場の意味について、私なりに頭を再整理してみたい。

サヨによって叩き潰された脱成長エコ社会主義の芽

 インカをモデルとした本来の「社会主義」には、「脱成長的」な要素があったと書いた。けれども、19世紀末から20世紀にかけ、科学的社会主義の登場によってこの内容は変貌する。科学主義、官僚主義、専門家主義、エリート主義、国家主義、ナショナリズム。資本主義が持つ「近代産業=勤勉主義」の要素が持ち込まれ、「中央集権的計画経済」を目指すものへと変化する(1)。これを象徴するのが、ソ連共産党書記長のフルシチョフの「十年で米国に追いつく」という宣言だ。要するに、第二次世界大戦後の復興が一段落した1950~60年代は、①西側諸国も「高度経済成長」を遂げ、②東側諸国も「経済成長」を目指し、③「第三世界」の旧植民地・新興独立国も米国かソ連の援助の下で経済開発と経済発展を目指すという、ウヨもサヨもこぞって世界中が成長を目指す時代となったのだ(2)

 今、私たちは、「近代産業社会」、別な言葉で表現すれば「勤勉社会」の中に浸っている。この「勤勉社会」を支配するイデオロギーは経済学だ(2)。近代資本主義市場システムには、限りなき物質的欲望(無制限の資本の蓄積)を増殖させるメカニズムが内在している。そして、化石燃料資源を用いることが、生産力を爆発的に増大させ、物質的欲望を追求することを可能にした(1)

 けれども、アダム・スミス(1723~1790年)もデヴィッド・リカード(1772~1823年)も、古典経済学派の人々は、永遠に経済が成長し続けるとは考えてはいなかった(2)。経済成長に物理的な限界があることを最初に直感したのはロバート・マルサス(1766~1834年)だった。マルサスの直観は、後にサディ・カルノーが熱力学の第二法則(1824年)を確立することで、科学的な基礎も得る。この熱力学の法則を経済学に適用し、社会主義とエコロジーとを融合させようと先駆的に試みた人物もいる。セルゲイ・ポドリンスキー(1850~1891年)だ(4)。ちなみに、ポドリンスキーについては2010年7月4日付けのアグロエコロジーブログ、『伝統農業の効率性』でも少しだけ書いた。御関心がある方はリンク先に飛んでいただきたい。

 とすると、疑問がわく。本来の「社会主義」がインカをモデルとして誕生したのであれば、当然そこには「脱成長」の要素もあったはずだ。さらに、ポドリンスキーは熱力学の法則を組み込もうとしていた。となれば、19世紀には、脱成長エコ社会主義が誕生していたとしてもおかしくはないはずだ。どうして時代はそのように進まなかったのだろうか。

 その責任はマルクスにある。マルクスは、ポドリンスキーのアイデアを無視した。「平均利潤率の傾向的低下」という切り口から資本主義経済の成長が鈍化するは気づいていたが、この生産力の発展を妨げる「資本主義の桎梏」は「社会主義革命を通じて打ち破れる」とトンデモない結論を導いてしまったのだ。

 むしろ、経済成長よりも「定常状態」の方が望ましいと考えていたのは、『経済学原理』(1848年)を書いたジョン・スチュアート・ミル(1806~1873年)の方だった。けれども、マスクスはこのミルも「折衷主義」とけなす(2)。いち早くエネルギー面から農業の分析を試みたポドリンスキー。彼が社会主義者であったにも関わらず、マスクスをはじめとするマルキシズム一派は、脱成長エコ社会主義を構築する絶好の機会を自ら摘んでしまったのだ。なんというサヨの愚かさであろう。

サヨによって叩き潰された脱成長エコ資本主義の芽

 したがって、いまも主流派の経済学の中心にあるのは経済効率性だし、そこでは指数関数的な経済成長は自明の前提とされている(3)

 主流派経済学は次の想定を前提としている。

 ①歴史、社会、文化の「根底」を形づくるのは経済である
 ②この経済は数学的な法則性を持つ。経済学は客観的・合理的な「科学」である
 ③人間は経済的利益によって行動する。経済学は歴史や社会現象を解き明かすことができる

 この近代経済学の信仰は、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1835~1882 年)が、メンガー、ワルラスとともに「新古典派経済学」の「限界革命」を打ち出したことによって誕生したと言っていい。ジェボンズは、その主著『経済学の理論』(1871年)で、生産費説(労働価値説)に立脚する「古典派経済学」を鋭く批判し、経済学を快楽と苦痛(主観的効用)の微積分学として構築し直した。これ以降、主流派の経済学は、歴史や社会や文化を捨て、数式を使った抽象的な数理モデルとなり、現実から完全に遊離していく(2)

 前述したホモ・エコノミクス(合理的経済人)の想定は近代産業=勤勉社会にはふさわしい。けれども、こうした想定が普遍的に正しいかどうかは証明されてはいない。むしろ、人類史はその反対であったことを証明しているように思える(2)。ラッダイト運動を除いて、工業化や科学技術はそれまでほとんど批判されることはなかったけれども、近代経済が基礎とするホモ・エコノミクスの人類学的な基礎は、あらゆる人文科学が還元主義的だと非難してきた(4)

 社会学では、エミール・デュルケーム(1858~1917年)やマルセル・モース(1872~1950年)、人類学では、マーシャル・サーリンズ(1930年~)、精神分析学ではエーリッヒ・フロム(1900~1980年)やグレゴリー・ベイトソン(1904~1980年)が疑問視してきた(4)。経済学でもソースティン・ヴェブレン(1857~1929年)やカール・ポランニー(1886~1964年)は、経済以外の社会制度との関連で経済を捉えようと試みたし、イギリスの経済学者、ミシャン(1917年~)も『経済成長の代価(The Costs of Economic Growth,1967)』(都留重人監訳、1971年・岩波書店)、『経済学21の俗説(Twenty-one Popular Economic Fallacies,1969)』(伊達邦春・山岡道男訳、1977年・日本経済新聞社)、『経済学の神話性(Economic Myths and the Methodology of Economics,1986)』(都留重人他訳・1987年・ダイヤモンド社)で、生活の質の観点から成長や従来の経済学を批判した(2)

 とすると、疑問がわく。「近代経済学」がホモ・エコノミクスという非現実的なモデルをベースに誕生したのであれば、当然そこにはいずれ破綻し「脱成長」へと方向転換する要素もあったはずだ。となれば、第二次大戦後には、脱成長エコ資本主義が誕生していたとしてもおかしくはないはずだ。どうして時代はそのように進まなかったのだろうか。

 その責任もある意味ではサヨにある。例えば、1960年代に欧米先進諸国は史上例を見ないほどの経済的な急成長を遂げるが、これを支えたのは、ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946年)のシステムだった。「ゆりかごから墓場まで」のスローガンのもとイギリスでは、福祉国家が急速に建設された。ケインズの経済理論は、19世紀のドイツ観念論(ヘーゲル主義)の影響を受けたイギリスのニューリベラリズム(国家によって保障される積極的自由論)とフェビアン社会主義の系譜の中から生まれた。けれども、重要なことはこのケインズ主義が、ソ連型社会主義(共産主義)に対抗するための資本主義の生き残り策として打ち出されていたことだ(2)。つまり、サヨという対立軸の存在がなければ、資本主義はいまのようなむき出しのグローバリゼーションへとはるかに早く暴走・破綻し、ここまで事態を悪化させずにすんだのかもしれないのだ。なんというサヨの愚かさであろう。

成長の陰とカウンターカルチャーの時代

 さらに重要なことに、経済学は支配的な体制の中で「制度化」され、エコノミストは現代社会の司祭や宣教師、巫女・占い師の役割を果たすようになっていく(2)。けれども、1960年代に入って、産業化がさらに進み、「豊かな社会」が実現されると、ベトナム戦争、過剰な競争と大規模組織による疎外感、公害問題の多発等、産業文明がもたらしたさまざまな矛盾が顕在化してきた(3)

 その直前の1958年にはジョン・ケネス・ガルブレイス(1908~2006年)の『ゆたかな社会』(The Affluent Society)がベストセラーになった。ガルブレイスは、生産者側の広告宣伝によって消費者の本来意識されない欲望がかき立てられるとする「依存効果」(dependence effect)を提唱し、それまで疑われることがなかった前提、すなわち、経済成長が社会的な健全性の証だとする考え方に疑問を投げかけた(2)

 産業化と物質万能主義、企業社会での労働が正当性を疑われるようになり、米国を中心に「カウンターカルチャー」の運動が発生した。この運動は当時多くの若者の共感を得た。その一部はヒッピーとして、田園地域での自給自足の生活(コミューン)や都市での共同生活、アジアを中心とする海外放浪等の反世俗的なライフスタイルを選択した。

 『緑色革命』(1970)を著したチャールズ・ライク(Charles Reich:1928年~)は、こう整理している。

 ①意識Ⅰ:19世紀~20世紀のはじめまでに見られた個人的な自律と努力を重視する意識
 ②意識Ⅱ:20世紀半ばまでの大企業体制を支え、組織に順応していく意識
 ③意識Ⅲ:1960年代以降のカウンター・カルチャー運動で噴出した意識

 ライクは、組織や資本主義システムに埋没することを嫌い、自己実現を重視するこの意識Ⅲへの変革が必要だと主張した(3)

エントロピーの法則~理系からの反撃

 「カウンターカルチャー」運動は、ベトナム戦争の終結とともに衰えていく。けれども、それにかわって注目を浴びたのが資源・環境問題だった。カウンターカルチャーは、人間の疎外や精神的な荒廃の面から物質万能主義を批判した。けれども、資源の枯渇や地球環境問題が深刻化することで、資源・環境問題の面からの物質万能主義的の批判も盛んになっていく(3)

まず、環境面から無限の成長を批判したのは、イギリス出身の米国の経済学者、ケネス・E・ボールディング(1910~1993年)だった。ボールディングは、1966年に「来たるべき宇宙船地球号の経済学(The Economics of the Coming Spaceship Earth)」で、従来の経済学が無限な資源を想定していることに無理があるとし、これを「カウボーイ経済」と呼んで批判した。

「未来の『閉じた経済』は『宇宙飛行士経済』と呼ばれるべきだろう。地球は一個の宇宙船となり、無限の蓄えはどこにもなく、採掘するための場所も汚染するための場所もない。したがって、この経済の中では、人間は循環する生態系やシステム内にいることを理解する」

 ボールディングは「指数関数的な経済成長を信じているのは、狂人か経済学者のどちらかだ」とも述べた(2)

 さらに、1972年には、ローマクラブの『成長の限界』が世間の注目を集め、その直後の1973年には「第一次石油ショック」が起こり、世界は同時不況(スタグフレーション)の時代へと突入する。公害問題も深刻化し、長引く不況の中で、物質万能主義への反省が広まっていく(3)

 ドイツではヘッケルやシュタイナーらがエコロジーの思想の先駆けとなったが(1)、資本主義であれ社会主義であれ、化石燃料に依存している以上、化石燃料が枯渇すればいずれ衰退するはずである。この明白な事実を『石炭問題』(1865年)によって把握していたのは、前述したジェヴォンズだった(2)。けれども、経済においてエコロジー問題が発展したのは1970年代以降のことだ。そして、それは、ルーマニアの経済学者ニコラス・ジョージェスク=レーゲン(1906~1994年)の功績によるところが大きい。ジョージェスク=レーゲンは、エントロピーの法則から生物経済学を構築しようと試みた(2,4)。『エントロピー法則と経済課程』(1993, みすず書房)(The Entropy Law and the Economic Process, 1971)、『経済学の神話:エネルギー,資源,環境に関する真実』(1981, 東洋経済新報社)(Energy and Economic Myths: Institutional and analytical economic essays, 1976)が重要だ(2)

 このジョージェスク=レーゲンの思想をベースに、フランスの脱成長派は誕生した。一方で、その後を継いだのがハーマン・デイリー(1938年~)だ。ディリーは主流の「環境経済学」とは区別される「エコロジカル経済学」の創始者の一人で、『持続可能な発展の経済学』(みすず書房、2005年)で次の三原則を提唱する。

 ①再生可能な資源の消費ペースは、その再生ペースを上回ってはならない。
 ②再生不可能な資源の消費ペースは、それに代わりうる持続可能な再生可能資源が開発されるペースを上回ってはならない。
 ③汚染の排出量は、環境の吸収能力を上回ってはならない(2)

サヨによって叩き潰された脱成長運動の芽

 1960年代以降は、様々な「エコロジー思想」が産まれ、とりわけ1980年代には、ソーシャル・エコロジー、エコフェミニズム、ディープ・エコロジー等さまざまな潮流を生み出した。論者によって強調の度合いに違いはあるものの、共通するのは、現在のような大量生産・大量消費による暮らしは維持不可能で、シンプルな消費生活が必要だということだ(3)

 とすると、疑問がわく。カウンターカルチャー運動を発端に、エントロピーの法則の支援を受け、多様なエコ思想も充実し、お膳立てが整った以上、1980年代には、脱成長エコ資本主義・あるいは脱成長エコ社会主義が誕生していたとしてもおかしくはないはずだ。どうして時代は、そのように進まなかったのだろうか。ましてや日本においては、いまだにそうした運動の芽すら見えないのであろうか。

 実は、日本では1960年代後半から80年代前半にかけ、カウンタカルチャー運動や公害・環境問題、「第三世界」問題の社会科学的な分析の中から、脱成長の思想と理論が生まれていた。その担い手には、従属理論(次回で後述)を日本に紹介した南北問題の専門家、西川潤(1936年~)やイリイチやシューマッハーの紹介者たち(次回で後述)、『自動車の社会的費用』(1974年)を書いた宇沢弘文(1928年~)、反公害運動に関わった宇井純(1932~2006年)、反原発運動の先駆者、高木仁三郎(1938~2000年)等がいた。経済学においても玉野井芳郎(1918~1985年)は1978年に『エコノミーとエコロジー』を出版し、玉野井を中心に1983年には「エントロピー学会」が設立されていた。

 1960年代の後半から1980年代の前半にかけては、すでに日本では脱成長の思想と運動が創生されていた。ある意味では、21世紀に入ってからデクロワッサンス運動が起きたフランスよりも日本の方が進んでいたのだ。

 けれども、その後、日本では1980年代の後半から脱成長の思想や運動は、アカデミズムや主流のメディア上では停滞してしまう。それは、戦後のケインズ主義を批判して登場したネオリベヘゲモニーを握る時期と重なっている。

 そして、この責任もサヨにある。日本では、福祉国家やテクノストラクチュアに対するイリイチのサヨ的な批判が、1980年代以降には、ウヨ的な市場経済万能主義(フリードマン)とリバターリアニズム(ノージック)、すなわち、新たな「経済成長至上主義」に絡め取られてしまったのだ(2)。より深読みすれば、サヨの批判はイリイチの言わんとすることをちゃんと理解できていなかったのだ。なんというサヨの間抜けぶりであろう。

補足

 私自身、1980年代の学生時代に、玉野井芳郎や槌田敦、室田武氏らのエントロピー思想の影響を大きく受けた。サヨではなかったし、今でもエコロジストではあっても、サヨでもウヨでもないのだが、イリイチやシューマッハーも愛読した。しかし、上の文章のようにイリイチを脱学校や脱病院、すなわち、脱管理福祉社会としてしか読むことができなかった。開発途上国問題や南北格差にも関心はもっていたが、節約すべき「豊かな先進国」VS援助されるべき「貧しい途上国」という程度のまことに皮相で表面的な理解しかできていなかった。

 けれども、イリイチやシューマッハー、とりわけ、イリイチは、開発途上国において、深く読み込まれ、「ポスト開発論」へとつながっていく(続)

【引用文献】
(1) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その1―前史
(2) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その2―経済学内部からの脱成長論
(3) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その3―イリイチとシューマッハー
(4) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その4―ラトゥーシュによる整理


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~10死闘への序幕

2013年05月28日 00時49分53秒 | ボリビア


憲法改正で戦争放棄を

 前回のブログでは、イエローモンキーとしての日本人が、どっぷりと放射能を浴びつつ、いずれは弱体化して滅んでゆく、と書いた。極貧に落ち込んだままなんとか畳の上では死ねると思っていたのだ。けれども、事態はさらに深刻なのかもしれない。

 早稲田大学院の山本尚利教授は、ブログ、新ベンチャー革命の2013年5月26日付けの記事、No.755「ネット時代における米兵の覚醒と米国防予算削減:日本人が米軍の傭兵にされる危険が浮上!」には、ネットを通じて米国の若者と米兵が覚醒し始めていると警鐘を発している。

「戦前の軍国日本は米国戦争屋の敵国役を演じさせられましたが、今の安倍政権は米戦争屋の完全なロボットに堕しています。「ネット情報によれば、最近の米若者は完全に覚醒したようです(略)。イラクやアフガンなどに派兵された米国の若者の元米兵が公然と米国防総省に反旗を翻しています。みんなで渡れば怖くない、一触即発状態です、今の米国は(略)。

 米戦争屋はすでにアカデミとかクラフト・インターナショナルとか米の民間傭兵企業を使って戦争ビジネスを展開していますが、米国防予算削減が避けられない今、米の民間傭兵利用すらもコストがかかります。ましてや、覚醒した米国の若者をだまして徴兵することすらもままならなくなっています(略)。そこで、残るは私有傀儡国軍部の兵士を自分たちの戦争ビジネスの傭兵に活用しようと企むのは当然です。ちなみに、韓国人兵士はベトナム戦争やイラク戦争で傭兵としてすでに利用された実績があります。残るは、日本人兵士と北朝鮮人兵士の傭兵化です(略)。米戦争屋は、安倍政権および悪徳ペンタゴン・マスコミを巧妙に操り、お人好し国民をだまして、国民の安倍自民党支持率が高止まりしていますが、このまま行くと、今年7月の参院選では自民が大勝する可能性があります。多くのお人好し国民がまたもだまされて、安倍政権に高支持を与えると、それこそ、日本は戦前の大政翼賛会国家に成り下がり、米戦争屋の傭兵国家にされる危険が高まる可能性が大です」


 堤未果さんのベストセラー『ルポ貧困大国アメリカ』(2008)岩波新書では、1%と99%にわけられた米国内において、兵士の確保源として貧困に陥った若者を活用している様が華麗な筆遣いで浮き彫りにされているのだが、彼らが戦争を拒否すれば、こっちにもとばっちりが飛んでくる。困ったことだ。

 山本尚利教授の見方によれば、安倍政権は米国からの指令を受けて戦争に向けた準備を着々と進めていることになる。ところが、来日時に安倍首相と会談し、日本の平和憲法を高く評価し「人々が手に手を取って平和に生きる社会を作るため、戦争放棄を憲法改正で掲げたい」とわざわざ語った首相がいる。モラレスだ。モラレスは、大統領として2007年3月5日に来日し、当時の安倍晋三総理大臣、そして、麻生太郎外務大臣と会談したのだ。ボリビアには徴兵制があり、約4万6000人の兵士がいる。モラレス自身、兵役を経験している。けれども、モラレスは日本貿易振興機構での講演でこう語った。

「戦争は解決策にはならない。唯一の良かった戦争である独立戦争でもメスチーソや先住民の人命が失われた。軍隊なしでも人命は救える。武装放棄しつつ社会的な戦いを続ける」(1)

 モラレスは戦いを放棄しているわけではない。例えば、モラレスはこう主張する。

「今日、ラテンアメリカと全世界の先住民は、自然や生命を守るための戦いの前衛として、自らを変えるよう歴史から求められている」

 だが、モラレスは知っていただろうか。その平和憲法そのものが、後述するようにアメリカの先住民にあったことを。

ボリビアが資本主義の原点を作った

 私は、キューバ以外の中南米諸国はトランジットで止まったメキシコ以外は訪れたこともなければ、ましてやボリビアには行ったことすらない。けれども、無理にこの遠い地を日本とつなげてみたいと思う。そのヒントはまず鉱石だ。そもそもキューバが発見されたことそのものが日本が発端となっている。拙著、没落先進国にはこう書いた(P259)

「16~17世紀にはスペインの植民地となったメキシコ、ペルーやボリビアで鉱山発見が相次ぎ、1590~1600年にかけては銀2700トン、金19トンと大量の金銀がスペインに輸出されていた。だが、それを遥かに上回っていたのが当時の日本だった。ほぼ同時期の慶長期(1596~1615)には純銀ベースで131~165トン/年も輸出している。17世紀の世界の銀産出量は年間600トン前後だが、うち、日本銀が最盛期には輸出だけでその3~4割を占めていた。オランダ東インド会社の根拠地、バタビア(ジャカルタ)では、日本製の小判が「クーバン」と呼ばれて、そのまま流通していたし、石見銀山はヨーロッパにも知られていた。石見銀山が発見されたのは鎌倉後期だが、発見当時は山頂からふもとまで、あたり一面が露出した銀で白い雪を踏む状態であったという。フランシスコ・ザビエルは、1552年の書簡で、プラタレアス群島(銀の島)とカスチリヤ人たちが日本を称していると紹介している。ちなみに、キューバ発見も日本が関係している。黄金の島ジパングを紹介したのはマルコ・ポーロの『東方見聞録』だが、366カ所も書き込みをして黄金に強い関心を寄せていた人物がある。他ならぬコロンブスだ。つまり、キューバはジパングの代替品として発見されたことになる」

 この前半部分、「ペルーやボリビアで鉱山発見が相次ぎ」という部分に着目してもらいたい。ピサロ率いるスペイン軍にインカ帝国が征服されたのは1533年のことだが、そのわずか12年後、1545年にはボリビア南部でセロ・リコ銀山が発見される。1546年にはスペイン人によってポトシ市が建設され、1611年には15万人を抱える新世界最大の都市に発展していたのだ(2)

 さて、2009年1月8日のブログ「関曠野流にキューバを採点」は、関曠野氏の著作『世紀転位の思想』を中心に資本主義がなぜ発展したのかを書いた。また、廣田鉄斎氏のブログ、さて何処へ行かう風が吹くの「脱成長論の系譜」シリーズには、脱成長論、資本主義、社会主義、そして、ポスト開発主義の流れが見事なまでに整理されている。これをもとに、モラレスの出現がどのような意味があるのかを改めて整理してみたい。

カリブの海賊が資本主義を誕生させた

 長い人類史にとっては異形なシステムである資本主義が、ヨーロッパという一地域で誕生したのはなぜなのだろうか。まず、理由としてあげられるのが、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。資本主義は、禁欲と勤勉を旨とするプロテスタントの倫理観によって誕生したという説だ。いわば、ヨーロッパ人きまじめ説だ。一方、これとまったく正反対の主張にヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』というものがある。恋愛と贅沢こそが資本主義を産んだというお遊び説だ。こちらの方は、ソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』にも相通ずるものがある。

 けれども、関曠野氏は、いずれの説も取らない。確かに、上述した二つの説は一度誕生した資本主義を暴走させるパワー源にはなりはした。けれども、資本主義という異常なシステムは、ヨーロッパ社会が内発的に発展するといった程度のことで誕生できるはずがない。なにより、大ローマ帝国が崩壊して以来、ヨーロッパは、イスラムよりも中国よりもはるかに文明的には劣っていたではないか。

 そこで、関曠野氏は、資本主義誕生の理由として、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、スペイン人たちが新世界を征服したことにあると主張する。すなわち、以下の二つが大きく世界を変えたのだ。

 ①インディオから奪った金銀をもとに、密貿易業者や海賊を主役とした世界市場が成立した
 ②アフリカから輸入した奴隷によって植民地農場が誕生した

 搾取によってラテンアメリカから運び込まれ蓄積された富が16世紀以降の海洋的・商業的資本主義の原動力となり、これが後にイギリスで産業革命を産む原資となったというのだ。

 したがって、関曠野氏によれば、資本主義は以下の二段階を経て誕生したことになる。

 ①16~18世紀末にかけ中南米を搾取することで誕生した「パイレーツ・オブ・カリビアン型」の商業資本主義
 ②19世紀以降の機械力を用いた産業資本主義

 この二つは区別する必要がある。

ペルーとボリビアが近代農業の原点を作った

 もちろん、金銀だけでは産業革命は成立しない。先進国は出来はしない。中世ヨーロッパの小麦の収量は現在の10分の1ほどしかとれないほど貧しかった。なにより、エジプトという大穀倉地帯を抱えた大ローマ帝国が崩壊して以来、氷河が表土を削り取ったヨーロッパ農業は、アジアよりもはるかに農法的に劣っていたではないか。農業の教科書にはイギリスでノーフォーク式の集約農業が発明されたことが、ヨーロッパの大躍進を招いたとされている。けれども、近代農業という異常なシステムは、ヨーロッパ農業が内発的に発展するといった程度のことで誕生できるはずがない。実は、農業の近代化もインカが関係してくる。拙著、「知らなきゃヤバイ」から引用してみよう(P33~34)。

「19世紀中期になると、イギリス国内の農地の大半ではノーフォーク式の集約農業が行われるようになり、これ以上農地を増やす余地はなくなりました。食料をさらに増産するには既存農地で収量を高めるしかありません。それには、リービッヒの研究から明らかになったリン酸肥料を加え、さらに窒素肥料を投入することが鍵でした。そして、19世紀中頃に、この二つのネックを解決する二種類の画期的な手段がいずれもラテンアメリカからもたらされます。

 一番目が、グアノです。グアノとは、最大で14%もの窒素分を含む海鳥の糞からなるリン酸と硝酸アンモニウムの混合物です。ペルーの北海岸には、紀元前後から7世紀にかけ先住民モチーカ族が、「ファヌ」と呼ぶ海鳥の糞を定期的に沖合の島から採掘しては、ジャガイモやトウモロコシ等を栽培していました。13世紀にインカ帝国を築いたケチュア族もファヌを活用し、インカは帝国の領域毎に採掘するファヌの島々を割り当て、全農民にくまなく肥料が渡るようにしていました。これが、インカの繁栄を支え、1000万人もの人口を養えた理由です。「ファヌは聖者ではないが、多くの奇跡を行う」とされ、海鳥の営巣を妨げるものは死刑となるほどで、黄金と並ぶ神の贈り物として大切にしてきました。ちなみに、「ファヌ」のことをスペイン人たちは「ファノ」と呼び、これが英語では「グアノ」となったのです。

 インカを征服したスペイン人たちは、肥料よりも黄金の方に関心を寄せましたが、1802年にドイツの探検家、アレキサンダー・フォン・フンボルトが、不毛なペルー海岸でなぜか作物の実りが豊かなことに着目します。フンボルトは分析用にグアノのサンプルをフランスとドイツに送り、重要な肥料成分、窒素とリン酸が多く含まれていることが判明します。その後しばらくはグアノの価値は見過ごされてきましたが、1840年頃からヨーロッパに輸出されだします。1850年頃からは「グアノ・ラッシュ」が起こり、それ以後は、毎年1000万トン以上のグアノが採掘され、ある島では島の高さが33m以上も低下したほどでした。結果として、高品質のグアノは1875年には、ほぼ枯渇してしまいます。千年以上も持続可能な資源利用をしてきたインカ人とは対照的です。

 グアノに代わって、登場したのが15%も窒素分を含むチリ硝石(硝酸ナトリウム:NaNO3)でした。硝酸ナトリウムは、地球上では砂漠等の乾燥地でごく稀にしか産出しませんが、一番有名なものがチリ、ペルー、ボリビアにまたがる世界でも最も乾燥したアタカマ砂漠に存在するチリ硝石です。マグマの作用で窒素成分が濃縮したとされる成因説もありますが、海鳥の糞が風で運ばれ、長い時間をかけて堆積したともいわれています。

 チリ硝石の採掘は1804年からスタートしていましたが、1860年代になるとグアノに代わる資源として注目され、その輸出量は1813年の3500トンが50万トン以上へと急増していきます。ノーフォーク農法とグアノやチリ硝石の輸入によって、ヨーロッパの穀物収量は世界最高となりました」


 すなわち、以下の二つがヨーロッパ農業を変えたのだ。

 ①インカから奪ったリン肥料をもとに、化学肥料が誕生した
 ②ボリビアから奪ったリン・窒素肥料をもとに、近代農業が誕生した

 したがって、ヨーロッパの近代農業は以下の二段階を経て誕生したことになる。

 ①19~20世頭にかけペルーとボリビアの肥料を搾取することで誕生した「パイレーツ・オブ・カリビアン型」の略奪式近代農業
 ②第一次世界大戦後のハーバ・ブッシュの発明による化学肥料と農薬(毒ガスが原料)を用いた石油型近代農業

 この二つは区別する必要がある。

ペルーとボリビアが社会主義の原点を作った

 さて、近代資本主義の勃興期や発展期にも、前近代的な伝統社会を保守・復活する立場から資本主義に反発・反対する思想や運動は山ほどあった。初期の社会主義は、前近代的な「成長否定論」として出発した。物質万能主義に対する批判の系譜を辿ってみよう。17世紀半ばのイギリスの清教徒革命時にはウィンスタンリに率いられるディッガーズが原始キリスト教思想に基づく土地共有を実践した。また、フランスではジャンジャック・ルソー(1712~1778年)が登場し(3)、フランス革命(1789~1799年)は、自由・平等・兄弟愛をそのスローガンに掲げた。だが、いったいどこから、こうしたユニークなアイデアが突如としてヨーロッパ社会に生まれたのだろうか。

 関曠野氏はこれについても大胆な説を展開する。

 すなわち、ラテンアメリカ社会の情報がヨーロッパに伝わったからこそ、こうしたアイデアを持てた、とトマス・モアの『ユートピア』を例にひく。

 実際、モアの『ユートピア』は、アメリゴ・ヴェスプッチに伴われ南米を探検したポルトガル船員が見た世界がモデルとなる形で書かれている。空想小説というよりも、『ラテンアメリカ紀行』として読んだ方がいい。

 関曠野氏は、貨幣・商業・私有財産を否定するという斬新なアイデアは、モアの机上の思いつきではなく、新世界、とりわけ、インカ帝国がモデルとなったのだと言うのだ。実際、インカ帝国では各地に生活必需品用の倉庫があり、誰もがそこから必要なものを自由にもっていけたため、餓える者も盗む者もいなかったという。

「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取るという社会主義のスローガンは、インカの共同経済倉庫経済をモデルとした」

 そう関曠野氏は主張する。さらに、中南米世界を目にしたヨーロッパ人たちは、インディオの子どもや女性たちが幸せそうに暮らしていることにショックを受けた。特権や財産を守るために、自分たちが整えてきた家父長制度の持つ抑圧性も反省させられていた。だから、子どもや女性を解放するというフェミニズムも社会主義の主なテーマとなっていた。

 ちなみに、星川淳さんの『魂の民主主義』(築地書館刊、2005年)も、コロンブスがアメリカを「発見」してから、ヨーロッパに流れた情報が米国の民主主義制度に深くかかわっていること。合州国憲法が、アメリカのマイノリティ・ピープル、とりわけ、イロコイ族たちの社会制度からどれほど多く影響を受けていたかを描いている。そして、そこに盛り込まれた「自由と平等」の民主主義の精神が、戦後の米国から押し付けられた日本国憲法にも及んでいると指摘する壮大な作品だ。

 要するに、民主主義も自由も平等も中南米、ホセ・マルティの言う「我らがアメリカ」から発信されていた。

 さて、社会主義、共産主義という言葉を聞けば、今では誰もがマルクスやレーニンを思い浮かべてしまう。だが、関曠野氏はマルクス・レーニン主義と社会主義、共産主義を混同してはならないと以下のように主張する。

 ①社会主義(ソシアリズム)という言葉は、1830年代にフランスのシャルル・フーリエの弟子、ピエール・ルルーが作った
 ②キリスト教社会主義者のペリシテ・ド・ラムネーも社会主義という言葉を広めた
 ③したがって、社会主義という思想は、左翼・右翼とは無関係である
 ④社会主義と資本主義という言葉を最初に対立させて使ったのは、ピエール・ジョゼフ・プルードンである。

 おまけに、19世紀には社会主義は「建設的な思想」で、共産主義は「破壊的な思想」であると区別されていた。これほど、ソシアリズムとコミュニズムが違うとなれば、二つは別物とみなければなるまい。だから、マルクスとレーニンが登場する以前からあった社会主義思想を「原社会主義思想」と呼ぼう。

 そして、セルジュ・ラトゥーシュも最初期の社会主義のいくつかは「脱成長の真正の先駆者だ」と述べている(4)
そして、原社会主義思想は、インカや中南米のインディアンたちの暮らしに啓発されただけあって、今流でいうスロー・ライフや脱成長的な発想を帯びていた。

 けれども、こうした思想は、後にマルクスの革命理論とレーニンが暴力革命に成功したことで見失われてしまう。関曠野氏は、フランス革命を血で血を洗う内乱と導いたロベス・ピエールのジャコバン主義、極端な理想主義、今流に言えば、ゲバラ主義の市場否定と暴力革命は結局、何も生まなかったと否定する。

 ああっ、ゲバラと言えば、かのボリビアで死んだ極左国際テロリストではないか。インカがヨーロッパの原社会主義思想のモデルとなったとすれば、血で血を洗う暴力革命のヒーローとなった人物が死んだのも、はやりボリビアなのである(続く)。

【引用文献】
(1)2007年3月11日三浦陽一「ボリビアと憲法九条 モラレス大統領の来日をテレビが無視する理由」
(2) ラテンアメリカを知る辞典(1987)平凡社
(3) 2010年10月26日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その1―前史
(4) 2010年11月3日廣田鉄斎:さて何処へ行かう風が吹く「脱成長論の系譜その4-ラトゥーシュによる整理


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~8人民貿易協定(中)

2013年05月16日 00時40分35秒 | ボリビア

エネルギー、医療、教育、文化でも対米自立を目指すALBAプロジェクト

 それにしても、圧倒的なまでのネオリベの圧力に対し、暴れん坊将軍、チャベスのなんという見事な防戦ぶりであろうか。チャベスの抵抗戦略は、大きくみれば、以下の三つにわけられるのであろう。

 第一は、米州自由貿易(FTAA)に対して、反米、反資本主義、反グローバリゼーションのスローガンとして、「社会主義」を掲げていることだ。

 第二は、内発的な発展と参加民主主義だ。例えば、農業では、食料主権や食料安全保障のため、中小規模の農民を支援することで、生産振興を図っている。そこで、重視されるのは、地元の農業知識や伝統種子、伝統農法、伝統食だ。そして、先住民グループやアフリカ系の子孫、女性を含めて、農民コミュニティの強化を目指している。それを支えるのが、参加型民主主義で、とりわけ、地区評議会(Consejo comunal)を通じて、各地域で食料計画を立て、コミュニティが地元のフードシステムを管理することを目指している。

 第三は、南々協力だ。ALBAだ。米州自由貿易地域(FTAA=The Free Trade Area of the Americas)協定とALBAとの決定的な違いは、連帯、協力、相補性、持続性、相互性の原則に基づき、社会運動や地元農民を参加型民主主義を通じて統合しようとしていることにある(1)

 例えば、ALBAプロジェクトのひとつ、ALBAフードは、補助金を付けて30%を割引いた食料を提供する一方、参加国政府主導で、民間セクターとの協力のもとに、生産、流通の域内協力を進めるものだ(2)。そして、食糧安全保障を促進するため、農業プロジェクトには5000万ドルが配分されている(3)。けれども、ALBAプロジェクトは、前回のブログでふれた仮想通貨「スクレ」や食料安全保障に限られない。多国籍企業(Empresa Grannacional)は、次のような分野でも組織化されている。

・金融と投資(ALBA銀行)
・教育(識字能力向上キャンペーン)
・インフラプロジェクト(港湾、鉄道、空港)
・エネルギー(石油とガス会社)
・環境(森林管理会社と水と衛生プロジェクト)
・健康(医薬品の生産、分配と医療サービスとトレーニングの提供)
・フェアトレード(輸出入会社とALBAストアー)
・ソーシャル・ツーリズム(観光大学と全国観光産業の開発)
・産業(産業企業と投資プロジェクト)
・文化(ALBA文化基金と文化センター)とスポーツ(ALBAゲーム)
・テレコミュニケーション(通信事業会社とベネズエラ衛星のALBA使用、ベネズエラとキューバ間の海底光ファイバーケーブル)(1)

 多くのラテンアメリカ諸国が打撃を食らったのは、国際通貨基金(IMF)の融資に付随する構造調整条件が大きい。そこで、ALBAプロジェクトで最も鍵となる要素は、その財源確保だ。ALBA銀行は、2007年6月に設立されたが、ベネズエラからの3億ドルと、ALBA加盟諸国(キューバ、エクアドル、ボリビア、ニカラグア、ドミニカ、アンティグア・バーブーダ、セントビンセント、グレナダディーン)からの外貨準備の1%を原資としている。これが、国際通貨基金(IMF)や世界銀行、米州開発銀行(IADB)と決定的に違うのは次の点だ。

1. ほぼ無利子であるかあっても低利子。そして、支払いの形態も柔軟なこと。例えば、キューバは、医者と教師を提供することでその石油輸入代の多くを支払い、ドミニカは、バナナ輸出品で石油輸入の代価を払っている。
2. IMF、世界銀行、米州開発銀行は、各国の貢献度に応じて投票数を割り振り多数決されるが、参加国間のコンセンサスを通じて決定される。
3. 伝統的に IMFはヨーロッパ、世界銀行は米国が代表だが、参加国間で輪番制議長となっている。
4. IMF、世界銀行、米州開発銀行は、市場の自由化や民営化を通じて、外国投資家に魅力ある環境を整えることを目的とするが、ALBA銀行の目的は、地域統合を促進しつつ、投資を通じてホスト国へ開発を支援し、貧困や社会的排除を直接減らすことにある(2)

 ALBA銀行は、その資金から10億ドル以上を社会事業に資金提供している(3)。また加盟国のエネルギー・プロジェクトにも800万ドルを配分している(2)

 カリブ海諸国の貧困解消のため、プロジェクトに直接資金提供するカリベ基金も設けられている。ペトロ・カリベの石油販売額の25%を原資に、低所得住宅、インフラ整備、小中規模の観光客施設づくりを推進している。ペトロ・カリベとは、低金利や柔軟な支払い方式で、ベネズエラ産の石油をカリブ海諸国に提供するものだ(2,3)

 奇跡の計画(Operación Milagro)では、ベネズエラ、エクアドル、ボリビア、ニカラグア、アンティグア・バーブーダ、ドミニカ、セントビンセント、グレナディーンの約200万人が無料で目の手術を受けているし(2)、アルバ・医療プロジェクト(ALBA SALUD)では、貧困解消の治療のため489種類の医薬品を製造・分配するため、350万ドル以上が割り振られている(3)。ALBA諸国間の文盲解消を目指す識字力向上プロジェクト(Yo, sí puedo)もキューバが大きな力を発揮し、360万人以上が恩恵を受けている(2)
 さらに、文化面でも地域的なアイデンティティを深めるため、観光プロジェクトを展開しているが、わざわざ「解放への道」と命名している(2)。また、2008年10月30日には中国の援助を受け、ベネズエラは通信衛星「シモン・ボリバル」の打ち上げに成功した。この衛生を利用し、キューバ、ベネズエラ、ボリビア、ニカラグアは、連絡を強化するため、2010年には、Albatelを創設している(3)。なんというチャベスの暴れん坊ぶりであろう。

人民貿易協定

 このように、ALBAは、農業のみならず、医療、教育、エネルギー、通信とあらゆる分野にわたって、中南米の対米自立を目指しているといっていい。そして、それを貿易面で支えているのが、人民貿易協定(TCP= Tratado de Comercio de los Pueblos)だ。人民貿易協定は、自由貿易協定(FTA)に反対して、ALBAへの加盟を契機に2006年4月28日にハバナでモラレスが提案したことに由来する(3)。チャベスやフィデルのALBAの方針とも合致一致していたことから(2)、モラレスの提案がALBAに採択され、「ALBA-TCP」となったのだ(3)

 ALBAと同じく、利潤追求に基づく企業や市場の論理ではなく、人々の連帯、相互協力、援助に基づく新たな貿易モデルを目指すことから、人民貿易協定が掲げる以下の4つの基本方針は、通常の貿易政策からすればまったく異様なほどだ。

1.貿易協定は開発に際して長期的な展望を持つべきであり、貿易は政府の開発計画と一致しているべきである。加盟国は「貿易保護論者」に対抗する権利を持つ
2.水や食料といった基本的サービスを享受する人権が、多国籍企業の権利よりも上に据えられなければならない
3.貿易協定は、競争や搾取ではなく、連帯と相補性を追求すべきものである
4.貿易協定は、地域コミュニティに根差す小規模ビジネスを保護、かつ、支援しなければならない(2)

 この方針に基づき、人民貿易協定は以下の6つの基本原則を設けている。

1. 貿易と投資は目標ではなく、人民と開発に役立つツールである
2. 外国からの投資や多国籍資本に対しては規制がなされなければならない
3. 人民は食料と農業政策を確立し実施できなければならない
4. 公共サービスは民営化すべきではない
5. 小規模な生産者や協同組合はトレーニングを受け保護されるべきである
6. 貿易協定に関しては、加盟国間の違いが配慮されなければならず、貿易は非相互性に基づかなければならない(2)

 さらに、人民貿易協定の原則を掲げると以下のようになる。

1. 人間の尊厳とブエン・ヴィヴィルのある暮らしを達成するため、連帯と協力に基づく相補性の貿易
2. 貿易にあたっては相手国に条件を付けたり、相手国の国内問題を妨害しない
3. 貿易は、人民、国家、その会社間での相補性と連帯精神に基づく
4. 全人民とその国家のため、その国益と総合的な開発エリアが保護される
5. 最も脆弱な経済に対しては連帯精神をもってこれを扱う
6. 国家の社会経済的発展と経済規制において、主権国家の役割が認識される
7. 人間と自然との調和、母なる大地の権利の尊重、自然と調和した経済発展を促進する
8. 貿易と投資は、人民の文化的・歴史的なアイデンティティの強化に寄与するものであること
9. コミュニティ、地元、協同組合、社会的サービス企業、中小企業に対する優遇措置
10. 私たちの子どもたちのために十分な量と質の食料を保証するため、加盟国間の食料主権と食料安全保障を発展させる
11. 貿易では、開発途上国の必要条件に応じてその関税政策を調節する
12. 貿易協定における人権として、その基本サービスは保護される
13. 多様なサービス産業を発展させるために協力を行う
14. 公的調達を尊重し、協力を行う
15. 貿易上の合同投資では、グランナシオナルなプロジェクト(Proyecto Grannacional)の形式を採択できる
16. ボスではなくパートナーであること。
17. 貿易は生命を尊重すべきである
18. 開発と健康への権利が、知的所有権および工業所有権よりも優先権を得るべきである
19. 金融・貨幣からの独立へとつながる機構が採択されるべきである
20. 労働者と先住民の権利が尊重されるべきである
21. 人民が貿易に参加しそれを引きる役割を果たせるよう、貿易交渉はオープンにしなければならない
22. 人民の社会的ニーズを満たすため、生産において適用される知識の質を社会的に蓄積する
23. 人民の自由な運動は人権と見なされる(3)

ブエン・ヴィヴィルの思想を生かした人民貿易協定

 人民貿易協定を通常の自由貿易協定と際立たせているのは、非相互性と補償制だ。まず、6番目に登場する非相互性について説明しておこう。普通の貿易では、自国に対する待遇と同じ待遇を相手国にも付与すべきだと考える。これを相互主義(principle of reciprocity)、レシプロシティーの原則という。例えば、FTAを通じた貿易の自由化では、相手国の経済規模やその国の特定条件は配慮されない。けれども、人民貿易協定では「非相互性」を考慮に入れる。例えば、キューバは、ベネズエラからの輸入品に対しては関税と非関税障壁を撤廃している。けれども、ベネズエラの側は、キューバからの輸入品の関税障壁は設け、非関税障壁だけを撤廃している。
 第二は補償貿易だ。FTAは販売を通じて利益をあげるが、人民貿易協定では物々交換での支払いを考慮する。例えば、ドミニカは、ペトロ・カリベの輸入石油の40%をバナナで支払っている。当時に、経済的に不利なボリビアでモラレスが直面する課題も考慮に入れている(2)

 ちなみに、人民貿易協定の原則は、モラレスの「ブエン・ヴィヴィル」にも関連してくる。「ブエン・ヴィヴィル」は、自然との調和の回復を目指し、消費主義を批判する。大量の化石燃料に基づくエネルギー・モデルや過剰な産業化、大量の農産物輸出品、水の民営化、バイオ燃料、そして遺伝子組み換え農産物等を拒否している。一方で、母なる大地の権利を遵守し、小規模農民を守り、ローカル市場経済を目指す貿易なのだ。この背景には、ボリビアが経験した「水戦争」と「天然ガス戦争」の辛い歴史がある。

 連帯にもとずく相互利益、国家資源の合理的な開発、天然資源の保全、雇用の拡張、そして、国家国の市場を通じた協力。人民貿易協定では、合弁会社が促進され、環境を尊重し保全する基本枠中で食料主権も重視する。要するに、人民貿易協定は、西洋資本主義モデルをまさに抜本的から否定しているが、その哲学は、先住民コミュニティと社会運動の双方から広く支持されているという(3)。なんというモラレスのしたたかさであろう(続)。

【引用文献】
(1) Lucia Michelutti, Small-scale farmers under socialist governments: Venezuela and the ALBA People’s Trade Agreement, International Institute for Environment and Development/HIVOS,2012.
(2) Understanding Free Trade through the KORUS FTA& the Necessity of Regional Economic Cooperation, Regional Secretariat of Southeast-East Asia Region La Via Campesina in collaboration with the International Strategy Center, August 2012.
(3) Enrique Daza, Alternative Trade Policies from Latin America,A Response to the European Union Free Trade Agenda, Comhlámh 2012.

ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~7人民貿易協定(上)

2013年05月09日 23時48分13秒 | ボリビア

そんなのがアルカ!

チャベ「米州自由貿易地域(FTAA=The Free Trade Area of the Americas)協定って、チョーむかつかへん?。南北アメリカ大陸と周辺国を含む米州のうち、あんさんとこだけ除いて貿易障壁を撤廃する協定やけど糞の役にも立たん。米国・カナダ・メヒコの北米自由貿易協定(NAFTA)の拡大。スペイン語ではアルカ(ALCA=Área de Libre Comercio de las Américas)。そんなのがアルカって感じ」

フィデル「わはははっ」

チャベ「んでもって、アルバ(ALBA)。CをBにするだけで、夜明け、曙のスペイン語になっちゃう。こっちの方が全然いいじゃん」

フィデル「それって、ダジャレや。品格ないな。島崎藤村の『夜明け前』みたいに、もちっと格調高くならへん」

チャベ「だったら、ボリバルのBいれたらどうや。アルバ(ALBA=Alianza Bolivariana para los Pueblos de Nuestra América)(1)

フィデル「わたくし的にはマルティのMがいいな。アルマ(ALMA)で魂。愛しい人」

チャベ「いいね。マルティ。でも、マルティはんは、ボリバルのお墓で感涙にふけっているし、大陸的にはローカル。やっぱ、ボリバルやな」

フィデル「うーん大陸的・・・。ならチェはどう。CheのCを入れたら、アルカ(ALCA)。あれ、駄目やん。もとに戻っちゃった。」

チャベ「所詮、チェはテロリストだし。ボリビアなんか偉い迷惑しとる(2)

モッ君「ねぇねぇ、うちも名前が出てきたから仲間に入れて。そんでもんで、どうしてもCを使いたいのなら、TCPもやろうよ」

チャベ「TCPってなんや」

モッ君「人民貿易協定(TCP=Tratado de Comercio de los Pueblos)」

チャベ「ええなぁ。それ、もらいまひょ」

 という低レベルの漫談から始めてみた。もちろん作り話だが、前半の故チャベス氏とフィデル氏の対話の一部は本物である。引用先をご覧いただきたい。

(1)「マルガリータ島に跳び、フィデルの到着を待った。彼は15分後に到着したが、真夜中を過ぎていた(略)。その夜、私たちはほとんど眠らずに語りあった (略)。首脳会議で私はALCAを糾弾し、ちょっとばかり遊び心をもってALBAという代案を提唱した。ごろ合わせだったのだ。Albaという単語には「曙」の意味がある(略)。首脳会議は終わり、首脳たちは帰国していった。約一週間後、私はフィデルから、ALBAについての書類を送って欲しいという注文を受けた(ウーゴ・チャベス・アレイダ・ゲバラ、伊高浩昭訳『チャベス』(2006)作品社P149~150より引用)

(2)ゲバラのボリビアでの武装闘争は、キューバ革命と違って条件がなかったし、「一つ、二つ、三つのベトナムを」というゲバラの主張もベネズエラにおいても、ラテンアメリカにおいても間違っていたと、チャベスは激しく批判している(新道通弘『革命のベネズエラ紀行』(2006)新日本出版社P95より引用)。さらに、後述2009年の世界社会フォーラムにおいても「革命はもはやゲリラ戦ではない。断じて違う」と強調している。


人民貿易協定はモラレスが提唱

 2013年5月4日のブログ「4脱成長派の助っ人」の最後に「モラレスは人民貿易協定(TCP=Tratado de Comercio de los Pueblos)を提唱している。TCPを英訳すれば、PTT(People’s Trade Treaty)だ。TPPではなく、PTTなのだ」と書いた。「人民」といういかにもサヨが好みそうな言葉づかいだ。けれども、ネットで、モラレスが提唱する(TCP=Tratado de Comercio de los Pueblos)を検索すると次のようなコンテンツの記事がヒットする。

「キューバのカストロ国家評議会議長と、ボリビアのモラレス、ベネズエラのチャベス両大統領はキューバの首都ハバナで4月30日、「連帯と補完の貿易の手段」とされる「人民貿易協定」(TCP)を締結しました。また、ボリビアは、昨年四月にキューバとベネズエラが締結した地域統合構想「米州ボリバル代替構想」(ALBA)に調印しました。

 ALBAは、米主導の米州自由貿易地域構想に対抗し、協力と連帯にもとづく統合モデルとしてベネズエラのチャベス大統領が4年前に提案したもの。「自立し、統合された中南米・カリブの実現」による、社会的不平等の克服や国家が効果的な役割を果たす社会への変革などを掲げています。

 TCPの詳しい内容は明らかにされていませんが、ボリビアからの輸入品に対する関税撤廃やバーター貿易などが実施される見通しです(略)。TCPに関連して、ボリビアに対するキューバの医療サービスの提供やベネズエラの石油関連技術面での支援など、社会的、経済的な協力も行われます」

 出典元は、2006年5月1日(月)「しんぶん赤旗」「人民貿易協定を締結~協力と連帯の地域統合へベネズエラ・キューバ・ボリビア」だ。なんだ、サヨか。サヨしかないのか。

 人民貿易協定そのものは、グローバリゼーションに対抗し、国家主権や伝統文化を保持しようとするものだ。さらに、カリブ・ラテンアメリカの壮大な連帯も目指すものだ。したがって、ウヨ的には『大東亜共栄圏・帝国臣民貿易協定』という大川周明の大アジア主義のコンセプトにも相通ずるものがあるのだが、さしあたって、サヨのフレーズしかない。ということで、この言葉を続けて使う。

農業への理解不足をボリビアで憂さ晴らし?

 ラテンアメリカの諸事情に精通する太田昌国氏は、ボリビアの憲法改正の意義を国際テロリスト、チェのハタ迷惑極まりない暴発から解説している、と私なりに解釈して書いた。けれども、日本では、どうしても、マルティよりも、シモン・ボリバールよりも、ゲバラの方が知名度が高い。

 例えば、『ゲバラの国の日本人:キューバに生きた赴いた日本人100年史』(2005) VIENTという本がある。ロランド・アルバレス、マルタ・グスマン氏の翻訳書だ。よく考えてみると、翻訳書の題名からしておかしい。ゲバラの国とはいったいどこか。キューバのことなのだ。そして、内容はキューバの日本人移民を描いたものだ。となれば、ストレートに「キューバの日本人」でもいいのだが、それでは売れない。これほど左様にゲバラの知名度は大きい。

 さて、この本には、花卉栽培家、竹内憲治氏が出てくる。氏は1901年広島に生まれ、大阪園芸高等学校を卒業し、紆余曲折を経た後に、キューバに渡り、卓越した園芸家として、バラデロにあるデュポンの別荘の広大な庭園の設計・造園を任されていた。1977年に75才で亡くなったが、氏の著作『花と革命』(学苑社1977年発行)の序文は、フィデル・カストロが書いている。個人的にも、明治学院大学の原後雄太助教授(1958~2005)にお会いしたときに、キューバ関係で最も感動した書物とあげられたていことが記憶に残る。そして、この竹内氏が苦労してキューバで栽培・咲かせた百合は「ホセ・ マルティ」と名付けられている。「チェ」ではなく「マルティ」なのだ。これひとつとっても、「ゲバラの国」という題名がどれほど異常かがわかるだろう。

 ところが、この竹内憲治氏はゲバラと関係している。平成14年12月10日の第155回国会、参議院農林水産委員会で、中村敦夫前参議院議員がこんな質問をおこなっている。引用してみよう。

「実は、1974年、私はキューバを訪れております。これは革命15周年記念のテレビの取材で入ったわけですけれども、そのときにいろいろなキューバの社会状況というのを取材しました。中でも農業問題では、実は日本人の農業の指導者に会っているんですね。この方は竹内憲治という方でして、当時72歳。知人の協力を得てずっと若いときに南米の農業を研究して歩いておりまして、ちょうどキューバに来たときに満州事変なんか起こってお金が途絶えてしまって、そこへずっと居着いてキューバの農業についていろいろな指導的役割をしていまして(略)、革命キューバが工業立国にすべきかあるいは農業立国でいくのかという大激論があったわけですね。そのときに工業でやるべきだと主張して工業大臣になったのがあの有名なゲバラなんですが、そんなばかなことをするなといって片方のリーダーになったのがこの竹内という老人なんですね。その人が自然農法とかそういうものを研究していたんですが、ゲバラをもう小僧扱いにして、いかにそんなことはできないかということを論破して、それでゲバラは負けて、そしてボリビアに行って単独ゲリラをやっていくという、そういう歴史があって」

 そうだったのか。ホセ・マルティは、ラテンアメリカを我らがアメリカと呼び、ラテンアメリカ全体の統合を夢見ていたと同時に、「モノカルチャーは死に至る」と農業の多様性の必要性を見抜いていたが、いくらキューバで農業への理解不足で赤っ恥をかかされたからって、江戸の敵は長崎で打つでもあるまいし、それをボリビアに押し付けるんじゃない。

私たちが成長を強いられているのはゲバラのせい?

 さて、このブログでは、脱成長がいかに必要であるか、ネオリベによるグローバリゼーションがいかに問題なのかにターゲットを絞っている。けれども、この問題はラテンアメリカとは無関係ではない。ラテンアメリカの諸事情に精通する太田昌国氏は、アソシエーション研究所が行った講演会で、モラレス政権が誕生した背景を詳細に語っておられる。そして、経済成長という問題が、ラテンアメリカ、とりわけ、キューバと切り離せないことを指摘する。引用してみよう。

「ラテンアメリカ現代史の中で非常に大きな意味を持つ出来事は何かと言えば、まず思いつくのが1959年のキューバ革命です(略)。アメリカは当初、深刻に考えていなかった。バチスタが悪すぎたから仕方がない、と大目に見ていた節があります。

 ところが、革命政府を樹立した若者たちが根本的な社会改革を実施しようとすれば(略)、ことごとくアメリカの権益と正面対立してしまう。実際、革命政権は次々と改革を行い、アメリカの権益に手を着けていく。アメリカとすれば、そんなことをさせてはなるか、というわけで、敵対、妨害、阻止を始めました(略)。ここで、アメリカは間違いなく「第2のキューバを許さない」という教訓を掴んだ。それで、今後どこかの国で社会不安が起きて、彼らの利益にならない政権ができたなら、なるべく早期に、徹底的に潰す。そういう方針が確定されます(略)。それ以降、60年代後半から70年代初頭にかけて、ラテンアメリカ各国では実に多くの軍事クーデターが行われ、軍事政権が乱立しました。

 その軍事政権は、外交面にはキューバとの関係を断ち、社会主義ブロックの影響力を断つ形で、キューバ包囲網を形成する。また内政面では、左翼ゲリラや左翼政党、社会運動を徹底的に弾圧します。と同時に、軍事政権を支えるアメリカや国際金融機関や帝国にとっては、軍事政権がキューバに優越していると誇示する必要があります。社会主義よりうまくいくという実績が欲しい。その指標は経済成長ですから、経済面でのテコ入れも行うことになります。
こうしてみると、いま世界を席巻しつつある新自由主義経済政策が、なぜ軍政下のラテンアメリカ諸国で実験されたのか、よく分かると思います。つまり、外国資本を積極的に導入し、成長至上主義を貫くことによって、あたかも当該国の経済全体が底上げされたように見える。そこが狙いだったわけですね。こうした政策が一番典型的だったのは、ラテンアメリカではピノチェト政権下のチリ。そして、アジアでは朴正煕政権下の韓国です」
(1)

 そうだったのか。この文章を深読みすれば、第2のキューバを作ろうとしたゲバラのハタ迷惑な暴走のおかげで、成長至上主義が米国によってビルトインされてしまったことがわかる。

 氏は続ける。

「2005年11月、アルゼンチンで米州首脳会議が行われましたが、その際ブッシュは、北米とキューバを除く全ラテンアメリカを含む、アメリカ大陸規模の自由貿易市場、『米州自由貿易圏(FTAA)』をつくろうと呼びかけた。94年に成立した北米自由貿易協定(NAFTA)を大陸規模にしたかったわけ。ところが、それに対して、当選する前のエボ・モラレス(略)とかが集まって、その目論見を完全に潰してしまった」(1)

 そうだったのか。なんというモラレスのしたたかさであろう。

世界社会フォーラムで話題にされた人民貿易協定

 さて、2013年5月4日のブログ、「3左派、保守、みどり」では、コモンズの勝俣誠、マルク・アンベール編著『脱成長の道~分かち合いの社会を創る』(2011)からの引用で「2009年のブラジルのアマゾンの都市べレムにおいて開かれたフォーラムでは、人類の共有財の問題と良き生活が先住民によって提起されたのだ(P122)」とブエン・ヴィヴィル(スマク・カウサイ)が登場したことについてふれた。

 世界社会フォーラムとは、ネオリベを推進するため、毎年1月にスイスのダボスで開催される世界経済フォーラムに対抗して、主に南半球諸国のNGOが、「もうひとつの世界は可能だ」をスローガンに2001年から開催しているフォーラムである。とりわけ、2009年のフォーラムには、ルラ(ブラジル)、チャベス(ベネズエラ)、モラレス(ボリビア)、コレア(エクアドル)、ルゴ(パラグアイ)の5人もの大統領が勢揃いした。このとき、人民貿易協定も登場する。故チャベス大統領とモラレス大統領の演説を抜粋してみたい。

「地域の4人の大統領が社会運動団体と会合するなどということは、十年前には考えられなかった(略)。経済と環境の危機は、社会を破壊する資本主義システムの危機であり、進むべき道は社会主義だ(略)。米州ボリバル代替構想は、米州自由貿易圏構想に対抗した戦略的な連合だ。モラレス大統領が提案している「人民の自由貿易条約」は、米国がラテンアメリカのいろいろな国に押し付けている自由貿易協定を阻むことになるだろう。これらすべての対案は新しい共同や提案で、発展し続けている。女性たちに特別のあいさつを送る。女性はラテンアメリカ人の解放過程の機動力になっている。可能性のある必要な世界を生み出す社会運動に光栄あれ」(チャベス大統領)

「ボリビアでは社会運動が変革の責任を担っている。国民投票の勝利で新憲法が承認された(略)。憲法は、長期のたたかいが求めた諸権利を法的に制度化し、必要な変革を続け新憲法は、水道や医療、教育など基本サービスを国民の権利と規定した。これによって二度と民営化することはできなくなっている。領内に外国の軍事基地を置かせないことが、憲法の原理となっている。
われわれは生命と公正、主権と地球の大地に責任を負っている。この責任を全うするためには多くの変革が必要だ。そして世界の変革にはまず自分自身を変革しなければならない」(モラレス大統領)

「勝利50周年を迎えたキューバ革命とフィデル・カストロに祝福を送る。彼をわれわれすべての父とよびたい。私は1999年に政権についた時、フィデルを訪ねた。彼は新自由主義のグローバル化とそれが人民にもたらす忌まわしい結果について考えをのべた。それはいまの世界的な危機の予言だった」(チャベス大統領)


 そして、モラレスが大統領に選ばれた時に最初に訪れた国もキューバだった。なんというフィデルの偉大さであろう。

人民貿易協定と医療・教育の連帯援助

 太田昌国氏は、アソシエーション研究所が行った講演会で、人民貿易協定について言及している。これも引用したい。

人民貿易協定には、非常に注目すべきものがあります。それは、経済的には有利な条件を持っているベネズエラや、問題があるとはいえ革命政権を維持しているキューバが、植民地主義的・新植民地主義的な搾取に晒されてきたボリビアに対して、その歴史的負債を克服し得るような条件を提供すべきだ、という精神に貫かれていることです。

 具体的には、モラレス政権が新自由主義的な自由貿易協定を拒絶することでボリビアが困らないように、キューバやベネズエラが積極的に代替策を提供する。コカを輸入するとか、天然資源を輸入するといった提案が出されています。こうした相互扶助、連帯の精神に貫かれた貿易協定は、これまで言葉はともかく、内容としては存在しなかったのではないか。実際、キューバからボリビアに、識字運動の教師たちが大量に入っています(略)。スペイン語だけでなく、アイマラ語、ケチュア語、グラニー語といった先住民言語も対象です(略)。キューバからは眼科医も大量に来ているそうです。眼病は貧しい先住民に顕著なものですが、それを優先的に治療する方針とのことです。キューバはこれまでも貧しい第三世界諸国に、自国の予算で毎年数千人規模の医療関係者を派遣してきました。キューバ革命の48年を考える上で、忘れてはならないことでしょう」


 いま、このブログは、モラレスのブエン・ヴィヴィルに焦点をおいて調べているのだが、やはりキューバは出てきてしまう。なんというフィデルの偉大さであろう。では、チャベスもフィデルも評価するモラレスの人民貿易協定とは具体的にどのようなものなのであろうか(続)。

【引用文献】
(1) 2007年5月30日『ボリビア・モラレス政権誕生の背景(中)』 』第39/40号地域・アソシエーション研究所
(2) 2009年2月18日「南米大統領の演説!
(3) 2007年6月30日『ボリビア・モラレス政権誕生の背景(下)』第41号地域・アソシエーション研究所


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~6母なる大地の権利法

2013年05月06日 23時33分35秒 | ボリビア


放射能汚染から逃げる権利

 鹿児島の川内原発が再稼働しようとしている。九州電力の瓜生道明社長が「新安全基準が施行される時点で速やかに申請したい」と表明しているからだ。けれども、桜島はこの5月2日に噴火した。火山弾が直撃しても日本の原発は大丈夫なのだろうかと一抹の不安がよぎったりもする。というのも、本澤二郎氏の2013年5月5日付けのブログ、「日本の風景」第1292号に次のようなフレーズを見つけたからだ。

「世界の善良な原子力の科学者は、東京・首都圏の放射能汚染に警鐘を鳴らしている。『大金持ちは鹿児島県に逃げてしまっている』と事情通が教えてくれた(略)。どうやら東京は子どもの住む場所ではない(略)。ドイツ政府は『調査に協力したい』と伝えてきているが、日本政府がOKしないのだと事情通は語っている。事実なのだろうから、やはり金持ちの鹿児島への逃避行は本当なのだろう。富裕層だけが正確な情報を持っている。こんな日本でいいのだろうか」

 仮にこの記事の内容が正しいとすれば、日本には自然の権利はおろか、まともな人権すらないのではないかと思えてくる。東京電力→ゴルフ場→アマミノクロウサギというヒエラルキーがあるのと同じく、情報格差によって、富裕階層(安全圏である鹿児島に避難)→一般国民(安全圏ではない東京に居住)というヒエラルキーがあるからだ。だとするならば、なぜ、あえて特権階級の避難先である鹿児島においても原発を再稼働しなければならないのかがわからない。特権階級すら放射能汚染のリスクから逃れる権利はないのだろうか。

 今日のブログをこんな挑発的なトピックからあえて始めてみたのは、ボリビアの母なる「大地の権利宣言」には「放射性物質から逃れる権利」が人権として明記されているからだ。

全世界のNGOの共感を呼んだ母なる大地の権利宣言

 エクアドルの憲法と比較し、ボリビア憲法では自然保護が位置づけられたものの「自然に本源的な価値を認めてはいない」と5月6日のブログ「5憲法改正」では書いた。けれども、「資本主義は人類にとって最悪の敵だ。資本主義と限りなき産業化のセンスなき開発が環境を破壊している。別の暮らし方について考えることが決定的だ」と発言し、「経済政策は変わらなければならないし贅沢な消費は終えなければならない」と主張するモラレスの暴走は止まらない(1)

 モラレスは、2010年4月19日~22日にかけて、コチャバンバで「気候変動と母なる大地の権利の世界人民会議(Conferencia Mundial de los Pueblos Sobre el Cambio Climatico y los Derechos de la Madre Tierra)」を開催してみせた。会議には129か国からの1万人を含め、3万3000人が参加した。ニカラグアのダニエル・オルテガ(Daniel Ortega)、エクアドルのラファエル・コレア(Rafael Correa)、ベネズエラのウーゴ・チャベス(Hugo Chávez)、パラグアイのフェルナンド・ルゴ(Fernando Lugo)大統領が参加したのみならず、エクアドルのアルベルト・アコスタ(Alberto Acosta)憲法制定議会議長やブラジルの土地なし農民運動(MST=Movimento dos Trabalhadores Rurais Sem Terra)のリーダー、インドのヴァンダナ・シヴァ、『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(2011)岩波書店の著者でもある、カナダのベストセラー作家ナオミ・クラインといった著名人も参加した(2)。国連大学のサイト、Ourworld 2.0 の2010年5月7日の記事「ボリビアの奮闘が民主主義を救う」では、クラインの参加リポートを読むことができる。そして、次のような「母なる大地の権利宣言」がなされた。

①生命への権利、存在する権利
②尊重される権利
③人間による改変から自由に、そのサイクルと生命プロセスを続ける権利
④多様であり、かつ、自律的でつながれた存在として、そのアイデンティティーと尊厳を維持する権利
⑤生命の源としての水への権利
⑥きれいな空気への権利
⑦統合的な健康への権利
⑧汚染、毒性廃棄物、放射性物質から逃れる権利
⑨生命の統合性と健康的な機能を脅かす遺伝子組み換えを避ける権利
⑩この宣言に反する人間活動を速やかに、かつ、完全に廃止する権利(3)

 宣言作成の作業グループの代表を務めたのは、南アフリカの環境弁護士コーマック・カリナン(Cormac Cullinan)だ。カリナンには『原生法:地球の権利のためのマニフェスト(Wild Law: A Manifesto for Earth Justice)』という著作もあり、彼のいわば『地球法』を支持する動きが世界中に広まりつつあると語る。

 「米国には、NGOコミュニティ環境法的防衛財団(The Community Environment Legal Defense Fund)があり、インドにはヴァンダナ・シヴァが率いる地球民主主義運動(earth democracy movement)があり、アフリカでも地球法学(earth jurisprudence)、つまり、地球を中心に据える法的アプローチが広がっています。イギリスでは毎年、原生法の会議が開かれ、オーストラリアでも始まりました」

 カリナンは、「母なる大地の権利宣言」についてこう語る。

「この宣言は本質的には人権です。国連の世界人権宣言を補完することを意図しているのです」(4)

 モラレスは2009年12月の国連気候変動枠組条約第15回締約国会議(COP15)のコペンハーゲン合意に反対し、米国や英国から笑い物にされたが、ボリビアはそれで世界から孤独したわけではない。むしろ、ボリビアの主張は、世界中の社会運動から支持され、気候変動の問題を深刻に受けとめる世界の数少ない国のひとつであるとの国際的な評価を勝ち取った(5)。なんというモラレスのしたたかさであろう。

母なる大地法制定へ

 「母なる大地の権利宣言」を世界に発信してみせたモラレスだが、モラレス政権は「母なる大地の権利法」を2010年12月に国会で制定させる(2011年12月21日に公布)。同法は、第7条で地球のために以下の権利を確立した。

①生命の権利:生命システムの統合性、それらを支える自然システム及びその再生のための能力と条件を維持する権利
②生命の多様性への権利:将来の存在、機能、可能性を脅かすことになる形で、その構造の人為的改変、遺伝的改変を受けることなく、母なる大地を構成する多種多様な生命を保全する権利
③水への権利:生命システムの維持に必要な、水の循環機能の維持及び、質的量的な水の存在を保全する権利。また母なる大地とそれを構成するすべての生命の再生産のために、汚染から保護される権利
④きれいな空気への権利: 清浄な大気への権利:生命システムの維持に必要な大気の質と組成を保全する権利。また母なる大地とそれを構成するすべてのものの再生産のために、汚染から保護される権利
⑤バランスが保たれる権利:循環を維持し、また生命プロセスを再生産するために、均衡ある形で、母なる大地を構成するものの相互関係、相互依存、補完関係及び機能性を維持し、回復する権利
⑥復元の権利:人間活動によって直接また間接的に影響を受けた生命システムが適切な時点で有効に回復する権利
⑦汚染されない権利:母なる大地を構成するものが汚染から保護される権利、また人間活動から生み出される毒性廃棄物や放射性物質から保護される権利(6)

 この法律は、さらに「調和」と「平和」、「あらゆる核兵器、化学兵器、生物兵器の根絶」を推進する(6,7)

 母なる大地法の権利法は、こう主張する。

「よく生きることとは、自然を破壊しないバランスが取れた生産と消費行動を行い、それを実践することを意味する。それには、生命に対して、倫理的、スピリチュアルな関係を持つことを必要とする。よく生きることは、生命とともに集団としての幸せを完全に成就することである。母なる大地の権利法の核心には、母なる地球を意味するアンデスの先住民のパチャママ(Pachamama)の世界観に由来し、地球は聖なるものだとの認識がある。すべての生命は切り離すことができないコミュ二ティであり、相互依存しあい、調和しあいながら、宇宙とコミュニケーションしあい、運命共同体をわかちあっている。したがって、母なる地球は、聖なるもので、生命の源であり、彼女の子宮内ですべての生物を養っている」(7)

先住民の世界観を高付加価値化する

 アルバロ・ガルシア・リネーラ副大統領は、この法律を新時代の出来事と見なす。

「世界で初めて、人間と自然との関係性が、独創性、相互関係と対話の基礎のうえに置かれたのです」(5)

 デビド・チョクエウアンカ(David Choquehuanca)外相は、パチャママへの先住民の畏敬の念が、気候変動を防ぐには決定的だと語る。

「私どもの祖父母は、動植物の大家族に私たちが属すると教えてきました。私たちは、地球のすべてが大家族の一部をなしていると信じています。私たちは先住民の価値観でエネルギー、気候、食料、金融危機の解決に寄与できるのです」(7)

 ボリビアは、気候変動や自然の乱開発に歯止めをかけ、国民の暮らしの質を高めるため、自然に包括的な法的権利をもたらす世界初の国になったのだ。これは、憲法策定に続き、従来の西洋型の開発モデルから、ブエン・ヴィヴィルに基づく、アンデスの先住民のスピリチュアルな世界観の再生、ホーリスティックなビジョンへのシフトを代表するものといえるだろう(7,8)

 法案の原案は、300万人以上いる36の先住民グループのすべてを代表するボリビア内にある社会運動の包括団体、単一性協定(Pacto de Unidad)が準備した(8)。単一性協定とは、2004 年9 月にサンタクルス市で開催された農民先住民組織の合同会議によって、ボリビアに存在する5 つの農民先住民組織、ボリビア農民労働者組合連合(CSUTCB=Confederación Sindical Única de los Trabajadores Campesinos Bolivianos)、ボリビア先住民連合(CIDOB=Confederación de Pueblos Indígenas de Bolivia))、ボリビア農民女性全国連盟バルトリナ・シサ(FNMCB”BS”=Confederación Nacional de Mujeres Campesinas Bolivianas “Bartolina Sisa”)、ボリビア開拓農民組合連合(CSCB=Confederación de Sindicatos Colonizadores de Bolvia)、クジャスユアイユ・マルカ全国調整委員会(CONAMAQ=Coordinadora Nacional de Ayllus y Markas del Qullasuyu)を核として締結された相互協力協定だ。

 ボリビア先住民運動は1960 年代後半から発展し、CONAMAQ 以外の4つは既に20 年以上の長い活動歴を持つが、発達している。これまで組織を統一することができなかった。とりわけ、アンデス高地部(アルティプラノ)やアンデス渓谷部(バジェ)一帯のアイマラ族、ケチュア族という多くの先住民を主体とするCSUTCBとチキタノスやモホスといった東部低地帯(オリエンテ)の少数民族を中心とした組織CIDOBとの対立が深刻だった。けれども、社会主義運動党(MAS=Movimiento al Socialismo)の党首として、モラレスが、選挙公約に憲法改正を掲げ、先住民の要求をこの憲法改正に反映させたいという狙いが、農民先住民組織を団結に至らせたのだ(9)。なんという、モラレスのしたたかさであろう。

 コーマック・カリナン氏は、母なる大地の権利宣言の原案づくりの苦労をこう語る。

「ワーキンググループは400人以上がいましたが、昨日はおそらく1000人がいました。あらかじめ文章は用意してあり、ボリビアでのプレ会議のワークショップで研究されましたが世界中が貢献しました。ですが、ネックとなったのは、先住民の見解に由来するまったく別の文化の世界観を我々が理解できる法的な言語表現にすることでした」(4)

 また、ベルリンでの脱成長会議に参加したブリアン・ダヴェイ氏は、大地の母の権利宣言について、こう感想を書いている。

「彼らは自分たちを地球の一部だと見なしている。彼らは地球の上を歩き、その一部として生きているとの説明が会議場ではあった。彼らは、人間を進化の頂点とみる人間中心の世界観を持っていない。彼らの見解は自然中心的で、人間はこの世界の参加者の一部でしかない。このまったく違った世界観が、母なる大地の権利の憲章、ブエン・ヴィヴィルの展望へとつながっている。これが『持続可能な開発』とはまったく違うことに気づかれるであろう。それは、『グリーン・エコノミー経済』をデザインすることとも違う。それは西洋の伝統の一部ではない、異なる文化からもたらされる異なる声だ。西洋は、今挑戦されている」(3)

 あえて、挑発的な表現をしてみたい。宣言にせよ、法律にせよ、ブエン・ヴィヴィルにせよ、そのモデルとなったのは、つい最近までは「野蛮な土人、未開人たち」とされてきた連中のパチャママの概念だ。日本流に言えば、西洋人からはとうてい理解できないような辺境の地にある「神道」やら「アラハバキ」やらのアニミズムの土着信仰だ。けれども、モラレスは、住民参加のもとに素案を練りながら、世界的に著名なプロを参加させることで箔をツケて、逆に西洋人にこんな発言をさせるまで、グローバルスタンダードにまで、昇華させてみせたのだ。なんという、モラレスのしたたかさであろう。

母なる大地の権利法による開発規制

 母なる大地の権利法は、生態系のバランスや地元住民に影響するメガインフラや開発プロジェクトを否定する。
「地球はすべての母親だ。それが世界の歴史を作っている。再生の保証としてその調和が保全されなければならない」とアルヴァロ・ガルシア・リネラ副大統領は言う。

 母なる大地法の権利法は、産業の影響から、彼らの暮らしや多様な文化を保護する。ボリビア農民労働者組合連合の指導者、ウンダリコ・ピント(Undarico Pinto)氏も期待をかける。

「それは産業をさらに透明化するでしょう。そして、国、地方、地元レベルで人民が産業を規制することを可能にするでしょう」(7)

 母なる大地の権利法は、国内の豊かな鉱床も、「聖なる恵み」と再定義し、根本的な保全、公害の削減し、産業を規制する社会的手段を設けた(7,8)。職務や機能は別途法律にて定めるとされているが、母なる大地の権利法は、その第10条母なる大地の擁護官で、この法律に定められた母なる大地の権利の、有効性、促進、普及、履行を見守るために「母なる大地の擁護官」(Defensoría de la Madre Tierra)を設置することとしている(6)。母なる大地の権利法によって、ボリビアは、自然保護と自然崇拝に基づく新たな社会・経済モデルに挑戦していくことになる。産業を規制する政策を発展させることで、ボリビア経済は、自然の限界内で操業されていくにちがいない。そして、エネルギーの効率性を高めつつ、再生可能エネルギー技術を採択し、エネルギーや食料主権を目指して働くことになる(8)

脱遺伝子組み換え宣言

 モラレスは、食料主権においても暴走している。2011年6月21日、アイマラ族の新年の式典で、モラレスは、食料主権に向けて、小規模農業を奨励し、基礎的穀類の自給率を高める新たな法律を制定した。農業革命法(RPCA=Revolución Productiva Comunitaria Agropecuaria y la Pequeña Producción Campesina)が目指すのは、あらゆるボリビア人に食料の権利を保証し、カンペシーノの生活条件を改善することだ。農村開発省のビクトル・ウゴ・バスケス(Víctor Hugo Vásquez)副大臣は言う。

「この法律は歴史的なものです。なぜならば、ボリビア農民女性全国連盟バルトリナ・シサ、クジャスユアイユ・マルカ全国調整委員会、ボリビア農民労働者組合連合といった社会組織と法制局と執行機関とがボトムアップで開発したものだからです」

 輸出を規制し、基幹食料を国内販売することを求める政府の方針に対して、東部サンタ・クルス地域の大規模な生産者は非難する。

「政府が輸出品を禁止する法令によって、生産意欲が失われている」と脂肪種子生産全国協会のデメトリオ・ペレス(Demetrio Perez)代表は、非能率的な官僚政治から輸出承認証を得られず、地元にも売れず、作物が圃場で腐ったと不平をもらす。けれども、ネメシア・アチャコジョ(Nemecia Achacollo) 農村開発大臣は「政府は、子どもを探さなければならない母親に似ている。国内市場が不足している中で、食料を輸出することは受け入れられない」と反論してみせる。

 農業革命法は、潅漑計画、小規模農場の機械化、穀類備蓄の全国サイロ・システム、ボリビアの在来作物種を回復し、保存し、カタログ化するための国立種子バンクを創設する。さらに、旱魃、野火、洪水、雪、害虫といったアンデス特有の気候変動の影響から、小規模農場を守るため、パチャママ特別プログラムも設けている。

 在来作物を守るためには、遺伝子組み換え農産物を規制しなければならない。モラレスは全国からGMO作物を排除する5カ年プログラムも発表した。だが、農業革命法は、ジャガイモ、トウモロコシ、キノアといったボリビアの在来穀物では遺伝子組み換えを禁止しているものの、ダイズ、トマト、サトウキビといった非在来の作物では認めている。この遺伝子組み換え種子禁止の解除は、低地のサンタ・クルス地域でこうした作物を栽培する大規模農場主に対する妥協だった。このため、環境と開発のボリビア・フォーラム(FOBOMADE=Bolivian Forum on Environment and Development)で「エボは、パチャママの守り手か、それともモンサントの使用人か」とモラレスは批判されることとなる(10)

 だが、モラレスはあきらめない。2012年10月15日、モラレスは、地主や企業の手に農地所有が集中することを禁じ、あわせて、国内において遺伝子組み換え種子の導入、生産、利用、商業化を禁ずる「母なる大地とヴィヴィル・ビエン総合開発法」を制定してみせた。なんという、モラレスのしたたかさであろう(11)

各地域は可能な限り自給自足

 モラレスの食料主権に向けた動きは、エドアルド・ギュディナス(Eduardo Gudynas)の描く壮大な自給圏構想ともシンクロする。ギュディナスは、ラテンアメリカをグローバル経済から切り離すことを提唱する。ギュディナスは、アメリカのどのサヨ政権も犯す誤りが、開発=経済成長だと信じていることだとサヨを批判する。それが、ラテンアメリカ諸国が莫大な量の原材料を輸出し続けている理由だからだ。ギュディナスは言う。

「多くの原材料の輸出によって貧困を削減できると考えることはノー天気(naïve)です。私たちは、内発的な自律開発戦略を必要としています」

 ギュディナスは、ブエン・ヴィヴィルが西側の脱成長に関する議論とはまったく関係がないことを強調する。

「ゼロ成長、あるいはマイナス成長はこのアプローチの結果かもしれませんが、その前条件や想定ではありません。例えば、豊かな人々による過剰消費は減らさなければなりません。その意味では、より少ない成長が確かにあるでしょう。ですが、一方で、いくつかのセクターは成長し続ける必要があります。例えば教育や衛生です。このアプローチの最終結果は、成長にもなるし、あるいは成長でないかもしれません」

 ギュディナスは、ヨーロッパ、北米、あるいは、中国やインドへの無拘束の原材料輸出は、最終的には終わると予測する。

「彼らはもはや私たちの石炭やガスを受け取らないでしょう。私たちは私たち自身の経済戦略を決定するために、グローバルな経済から大陸を切り離すでしょう。私たちが最終的に輸出する原材料の量は、現在のレベルの約10パーセントだけになるでしょう。残されたものだけが輸出されるでしょう」

 輸出型経済のかわりに、ギュディナスは、地域に重点をおいたラテンアメリカ経済を予測する。

「南アメリカ諸国間の貿易は増えるでしょう。中国から机や椅子を購入するかわりに、地域レベルでこれを自分たちでするほうがずっとよいでしょう!」

 ギュディナスによれば、グローバリゼーションに取ってかわり、国々や大陸は基本的に自給しなければならないであろう。

「これは孤立と同じではありません。私たちは、余剰食糧他の品物を輸出できます。そして、もちろん、他の大陸と本や音楽は交換しあうでしょう」

 ギュディナスのビジョンでは、経済の基礎をなすことになるのは農業だ。結果として食料主権は全大陸で現実となることになる。

「このプロセスが完了したときには、もはや栄養失調はなく、農業は雇用も創出することから、誰もが仕事を持ち、貧困は0パーセントまで減らされるでしょう」

 各地域が可能な限り自給を目指し、各地域のエコロジー的な生産力に応じて、有機農業が、農地の半分上で実施されることになる。もちろん、それが完全に可能ではないことはギュディナスも認める。

「ウルグアイはジャガイモよりもオーガニック・ミートの生産がよいのです。ジャガイモは大量の農薬を使わなければ栽培できません。ですが、それは、食料主権の概念とはまったく違う概念です。なぜなら、それはラテンアメリカの個々の国レベルではなく、地域のエコロジー的なキャパシティーで決められるものだからです」

 ギュディナスは、サオ・パウロ(São Paulo)やブエノスアイレスのような大規模な首都は、すでに大きすぎると主張するが、市街地から農村への移住を強制すべきではないと付け加える。

「私たちは市民参加を増やす必要があります。つまるところ、市街地から州や農村地域へとシフトしていくでしょう」

 ギュディナスは現在のライフスタイルによる自然へのダメージは不可逆で石油枯渇が早く訪れることを期待する。

「石油がまもなく枯渇すること、あるいは、少なくとも、その生産ピークに達することを望みます。というのは、その後には、私たちは現在のライフスタイルによってなされたダメージを修復するための時間が十分にあるからです。もし、それが長期的なプロセスになるのであれば、私はますます悲観的になりましょう。

 そして、贅沢はとてもとても高価になります。私が理想とする社会では、贅沢はまだ選択肢としてもありますが、とても高額な選択肢になるでしょう。モノの価格がその社会的環境コストを正直に反映するようになるからです。1トンの鉄は多くの消費財も同様にずっと高価になります。そこで、未来の製品は、今日あるよりは、ずっと長もちするものになりましょう。それは修理されることで、雇用を創出し、ゴミを少ししか出さないでしょう」(12)

 今、この文章を書いていて、ふと、2010年の9月に韓国の有機農業推進の立役者、金成勲元農林部長(農林大臣)から聞いた話を思い出した。金成勲元部長はカナダのブリティッシュコロンビア大学で教鞭をとっているのだが「ヨーロッパ人の方が、近代文明に対する反省がよほど深い」と語る。その一方で、「韓国をはじめとするアジアには伝統農法をはじめ、再評価すべき文化が満ち溢れているのに、韓国人は西洋化ばかりを目指してあえてそれを捨てている。愚かなことだ」となげいていた。

 韓流TPPともいうべき米国と自由貿易協定(FTA)を結ぶことで、いかに食料主権を失ったかはこのブログでもしつこいほど書いてきたが、モラレスが、TPPではなく、PTT(People’s Trade Treaty:TCP=Tratado de Comercio de los Pueblos)を推進したり、母なる大地の権利法やブエン・ヴィヴィルを推進している背景には、ギュディナスが描くような壮大なラテンアメリカの自給自立ビジョンがあるのではあるまいか。であるとすれば、再度、言いたい。なんという、モラレスのしたたかさであろう(続)。

【引用文献】
(1) Alex Tilley, Vivir bien (Living well): a new model for development from Bolivia’s indigenous process of change, Magazine Adelante, Apr 2011.
(2) Franz Chávez, climate change-Bolivia: In Defence of Pachamama,Inter Press Service,Apr16,2010.
(3) Brian Davey, What could a post-growth society look like and how should we prepare for it? , Jun 10, 2011.
(4) Bolivia Climate Conference Moves to Establish Universal Declaration of the Rights of Mother Earth, Democracy Now! , April 22,2010.
(5) Thomas Fatheuer, Buen Vivir, A brief introduction to Latin America’s new concepts for the good life and the rights of nature, Edited by the Heinrich Böll Foundation, Publication Series on Ecology Volu me 17, Berlin, June 2011.
(6) 2010年12月30日青西靖夫「ボリビア:母なる大地の権利法(訳)」開発と権利のための行動センター
(7) John Vidal, Bolivia enshrines natural world's rights with equal status for Mother Earth, The Guardian, 10 April, 2011.
(8) Bolivia Gives Legal Rights To The Earth, share.banoosh.com, Sep17, 2012.
(9) 宮地隆廣「統一協定(Pacto de Unidad):ボリビア先住民運動の新展開と変わらない構造」ラテンアメリカ時報 No.1380 2007 年秋号
(10) Bolivia grapples with "food sovereignty" ?and food crisis, WW4 Report, 06/27/2011.
(11) Pachamama Law enacted and GMO ban in Bolivia!, CENSORED NEWS, October 25, 2012.
(12) Cordaid,Eduardo Gudynas Buen Vivir, The Good Life, Imagining Sustainability-6, CIDSE,13 June 2012.

カリナンの写真はこのサイトから
ギュディナスの写真はこのサイトから


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~5憲法改正

2013年05月06日 18時23分44秒 | ボリビア

武力で内政干渉を試みた無謀なゲリラ・チェ

 ラテンアメリカの諸事情に精通する太田昌国氏は、ボリビアの憲法改正の意義を国際テロリスト、チェのハタ迷惑極まりない暴発から解説している。

「ゲバラは『民衆の海』からの孤立を克服し得ないままに敗北の過程を辿っていた。ゲバラは『武力をもって内政干渉を試みた無謀なゲリラ』だった」(1)

 そして、太田氏は、モラレスが『ゲバラとは異なる方法』で社会変革の実現を目指し、そこで憲法が重要であったと説く。

「国の基本的なあり方は、新しい憲法によって定められる必要があると考えたエボ政権は、制憲議会で民衆参加型の討議を続けてきた(略)。政府提案の新憲法草案は、右派による修正を強いられた条項もあったが2007年12月に議会を通過し、2009年1月国民投票にかけられ、60%以上の賛成を得て承認された(略)。同じく、エクアドルでも2007年1月に就任したラファエル・コレア大統領下で、2008年9月に新憲法案が国民投票にかけられ、60%以上の賛成多数で承認された」(1)

国家ビジョンを示す南米憲法

 1990年代後期から2000年代初めにかけ、ネオリベの市場原理主義や従来型の開発戦略への批判が高まり、その後、サヨ政権が選挙で勝利し、数世紀にわたって無視され続けて来た先住民の知識や伝統が認められることになったことについては述べた。そして、この政治的な動きを背景として、ブエン・ヴィヴィルは、エクアドル憲法(2008年)、ボリビア憲法(2009年)にも組み込まれることとなる(2)

 日本では憲法改正というと、とかく大上段に構えた大事に捉えられがちだ。けれども、ラテンアメリカでは、新政権による新たな政治の始まりの象徴として、憲法が簡単に制定・改正される伝統がある。実際、1990年以来、7つもの新たな憲法が採択されている。

 故チャベスが行った憲法制定も高度に政治色を帯びた環境の中でなされたもので、1999年には国民の72パーセントが、ベネズエラ憲法に賛成を投じている。

 おまけにラテンアメリカの憲法は、概して長文で扱う範囲も幅広い。微に入り細に入り、政策にまで踏み込む。そこで、ビジョンと法律とがごちゃまぜにされた「ショッピングリスト」だ、と批判や嘲笑の対象とされてきた。どの憲法であれ、条文と現実とに乖離があることが課題だが、憲法が広範囲で長たらしければ、そのギャップはさらに拡がる。けれども、Thomas Fatheuer氏は、憲法制定がプロセス指向であることから過小評価してはならないと述べる。憲法は、私たちがどこへ行きたいのか。社会ビジョンは何なのか。いかなる権利を優先的したいのか。現状には明らかに合致しないまでも、単なる基本法を越えて、目指すべき方向性を定めることを意図したものだと分析する。しかも、エクアドルでもボリビアでも、憲法制定のプロセスには、かなりの国民参加があり、社会変革のためのロードマップも創り出している。憲法制定は、その観点から読まれるべきだし、議論されるべきだ、と述べている。つまり、憲法は国の方向付けとして役立つのだ(3)

多民族国家としての国家規定

 まず、エクアドル憲法もボリビア憲法も、ポスト植民地の文脈で、独裁体制や経済搾取体制を抜け出し、新たに自分たちの国家を再建するためのルーツとして憲法を位置づけている。新たな時代の始まりとして、いずれも「多民族国家」であることを憲法上で規定している(3)。とりわけ、それが明確なのがボリビアで、モラレス政権は、自分たちを社会運動政権と見なし、社会運動とともにその目標を追求し続け、実現しようとしている(2)。そこで、ボリビア憲法は、「新自由主義国家を過去のものにする」と前文で謳い、まず、多民族から成る共同体的な民主国家であることを規定する(1)。ここが、ベネズエラが「ボリバル革命」にこだわったのとは違う。多民族国家であることを認めるということは、「naciones indígenas」と呼ばれる先住民の平等や自治を強化することに他ならない(3)。すなわち、ボリビアでは、先住族の諸権利を保障し、参加型民主主義を徹底することを目指している。無権利状態に放置されてきた先住民が憲法草案作りに参画したこと自体がその証しだ(1)。先住民の権利は、コロンビア、ペルー、ベネズエラ憲法でも広げられているが、ボリビアとエクアドルでは、先住民運動の存在が憲法制定で抜本的に重要だった(3)

 日本は、いちおう「単一民族国家」とされているから、「多民族国家」のイメージがわかない。けれども、前九年の役、後三年の役では俘囚とか蝦夷(東日本、ツングース系)が出てくるし、さらに古くは、熊襲(南九州、南方系)、隼人(南九州、インドネシア系)、安曇(北九州、インドシナ系)、国栖(四国、畿内大和から関東)、佐伯(北陸から関東)、土蜘蛛(関東から西日本、ツングース系)がいた。稚拙なアナロジーだが、外来宗教仏教(キリスト教)をベースとした大和朝廷(スペイン系植民地政府)の権力を、蝦夷である安倍頼良の血を引く藤原清衡が奪って新政権を樹立し、アラハバキ(パチャママ)を国教として位置づけてしまったようなものだ。これがどれほど大変なことかがわかるだろう。

戦争否定・外国軍基地禁止

 エクアドルの新憲法では、ネオリベ政策で破壊された庶民生活を再建し、飲用水や食料の主権を確立して、周辺諸国と相互扶助・連帯・協働を通じて持続可能な経済を建設することが基本方針とされているが、太田氏は、新憲法制定に先立ち、雇用仲介や派遣労働が禁止され、米国との軍事基地貸与協定を更新しないことが決められたことに注目する。

 同じく、ボリビアの新憲法も、侵略戦争の否定、外国軍の基地の禁止、経済的な所有制度は「公、民、共同体」の三つからなる混合経済であるしている。アルバロ・ガルシア・リネラ(Alvaro Garcia Linera)副大統領はこれを「アンデス・アマゾン型資本主義」と呼ぶが、その背景には、前政権が水資源の独占支配をめざす多国籍企業と協調し、水道事業の私企業化を認める法案を議会に提出し、多くの犠牲を払ってこれを阻止したことがある。したがって、飲用水も人権であることが規定されている(1)。 

 さらに、ボリビア憲法の驚くべき特徴は、近代国家が依拠する近代法を唯一絶対のものとしていないことだ(1)。すなわち、先住族は、憲法と矛盾しないか基本的人権を破らない限りでは、自分たちの基準や手続きを適用することが認められている(3)。共同体が持つ伝統的なやり方で紛争を処理することを認めているのだ(1)

権利としてのブエン・ヴィヴィル

 ブエン・ヴィヴィルはエクアドル憲法でもボリビア憲法でともに位置づけられている。例えば、エクアドル憲法は前文において、「パチャママを祝福し、よき生き方、スマク・カウサイ(sumak kawsay)を実現することが述べられている。けれども、二つの憲法の間での位置付けは根本的に違う。ボリビアとは違って、エクアドルのコレア政権は、それ自体を社会運動体とは見なさない(3)。そして、スマク・カウサイは、医療、住宅、教育、食料、環境等を含めた権利として記述されている(2,3)
 開発の総則、第275条では、この「よき生き方」の実現を担保するために開発があると位置づけられ、「ブエン・ヴィヴィルは、人、コミュニティ、民族、国家が、異文化間の文脈で、多様性の尊重や自然と調和した共生に基づいて、その権利の享受し、その責務を果たすことを必要とする」規定している。ブエン・ヴィヴィルは、新たな開発モデルの基礎をなす基本原則として定義されている(3)
 憲法上でのこの言葉づかいは、第二世代の人権を想起させるものがある。ちなみに、第一世代の人権とは、18世紀末に誕生した自由を確保するための自由権。第二世代の人権とは、20世紀初めに誕生した平等を確保するための経済的・社会的・文化的な社会権。第三世代の人権とは、第二次世界大戦後の非植民地化の流れとともに、発展途上国で新たに主張されるようになった人権の総称で、発展、環境、平和への権利を言う。

 けれども、憲法のそれ以外の部分を読めば、ブエン・ヴィヴィルの概念が、第二世代の人権を越えるものであることがわかる(3)。その権利には、自由、参加、コミュニティ、保護、さらには自然の権利も含まれている(2)。すなわち、憲法第71条~第74条では「自然の権利」が規定され、第71条では「生命が再生産され、実現される自然、パチャママは、総体としてその存在と維持そして再生を尊重される権利を有する」と定めている。自然そのものに権利を認めるという憲法は画期的なもので、BBCは世界で最初の憲法であると報道しているという(4)

 なお、エコアドル憲法については以下のサイトで情報を得ることができる。
・2009年新木秀和「エクアドル2008年憲法の概要」ラテンアメリカ・カリブ研究第16号
・2008年10月12日青西靖夫「エクアドル新憲法について」開発と権利のための行動センター
・2013年4月14日「エクアドル憲法翻訳される」キューバ研究室

モラル原則としてのブエン・ヴィヴィル

 ボリビア憲法は、多民族主義の特徴を重視して、様々な先住民の言葉(主にアイマラ語)の用語とスペイン語の翻訳の双方が含まれている(3)。ボリビアでは、ブエン・ヴィヴィルは「ヴィヴィル・ビエン(Vivir Bien)と表記され(2)、他民族社会の価値観、倫理的・モラル的な原則をカバーした第8条に登場する(2,3)。すなわち、ボリビア憲法では、倫理的な原則としてのブエン・ヴィヴィルに重点をおき、EUのように成長志向ではなく、国民のベーシックニーズを担保することを権利として公式化するとして、ブエン・ヴィヴィルを組み入れている。怠けず(amaqhilla)、嘘をつかず(ama llulla)、盗まず(ama suwa)、よく生きる(suma qamaña、vive bien)、調和的な暮らし(ñandereko、vida armoniosa)、よい生活(teko kavi、vida buena)、悪いものがない土地(ivi maraei、tierra sin mal)、高貴なる道(qhapaj ñan、Camino o vida noble)としている(3)

 こうした原則は、統一、平等、尊厳、自由、連帯、相互性、社会的公正、ジェンダー公正、社会正義、責任等の原則にもつながるものだ。さらに、ヴィヴィル・ヴィエンを含めた倫理的なモラル的な原則は、経済モデルの基礎として位置づけられている。一方、自然保護は、従来の第三世代の人権(生活の質や環境保護)として位置づけられているが、自然に本源的(intrinsic)な価値を認めてはいない(2,3)。また、エクアドルよりも文化的に多様であることから、権利としてはブエン・ヴィヴィルを位置づけていない(2)

 なお、ボリビア憲法については以下のサイトで情報を得ることができる。
・ボリビア:モラレス大統領の取り組みと紛争
・2009年2月6日青西靖夫「ボリビア新憲法概要」開発と権利のための行動センター
・2011年9月27日「ボリビア新憲法(2009年)、邦訳される」キューバ研究室

自然権を憲法上の位置づけ

 エウアルド・ギュディナス氏は、ブエン・ヴィヴィルは、アルトゥーロ・エスコバル(Arturo Escobar)ノースカロライナ大学教授のポスト開発の研究と共通するものがあり、開発に対する批判的なアプローチは先住民の伝統を補完でき、その逆も正しいと指摘する。さらに、近代の人間中心主義(anthropocentric)を否定し、環境そのものに価値を認めるアルネ・ネスのディープエコロジー等、生命中心主義(biocentric)のアプローチは、とりわけ、熱帯林で先住民のブエン・ヴィヴィルの展望と類似するとも述べている(2)

 Thomas Fatheuer氏も、エクアドルもボリビアもブエン・ヴィヴィルの概念を憲法上に位置づけ、かつ、自然を法的な権利を実体だとみなしている。自然に法的権利を認めることは、西洋思想における自然概念を根底から問いかけている。もし、これが単なる憲法上のレトリックを超えて、本当に影響力を持つとすれば、それは、私たちにとって政治的にも大変に重要なことであろうと、述べている。持続可能な開発やグリーンエコノミーをさらに超えるものだからだ(3)

 2013年5月4日のブログ「ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~4脱成長派の助っ人」では、「ブエン・ヴィヴィルのアプローチが、持続可能な開発の概念すら、拒絶する傾向がある」と書いたが、エクアドルのアルベルト・アコスタ(Alberto Acosta)憲法制定議会議長も、次のように語っている。

「ブエン・ヴィヴィルの哲学では、伝統的な開発概念を疑問視することが必要です。この展望からすれば、有名な『持続可能な開発』も平等、自由、平等の権利、さらに持続性の権利と、新たなパラダイムへの中間目標として認められるべきものなのです」(3)

 米国には、自然の権利の法的位置づけに携わるNGOコミュニティ環境法的防衛財団(The Community Environment Legal Defense Fund) があるが、この組織は、憲法策定のアドバイザーとしてエクアドルに招待されていた。また、憲法上に自然の権利を位置づける活動で世界的に著名な南アフリカの環境法律家コーマック・カリナン(Cormac Cullinan)弁護士は、2010年4月19日~22日にかけ、コチャバンバで「気候変動と母なる大地の権利の世界人民会議(Conferencia Mundial de los Pueblos Sobre el Cambio Climatico y los Derechos de la Madre Tierra)」に、「母なる大地の権利宣言」の草稿を携えて出席している。西洋においても、研究者やNGOの間では「自然の権利」が考えられてきた。けれども、エクアドルやボリビアは、自然についての新たな理解を政策に組み入れてることで、それを学会から政界へと持ち込んでいる(3)

 日本でも、1995年に奄美大島でのゴルフ場開発に対して、アマミノクロウサギ他三種の野生動物を原告として「自然の権利」訴訟が提訴されたことがあるが、「自然の権利」といっても、とうていイメージがわかない。自然破壊の面ではアマミノクロウサギよりも圧倒的に強いゴルフ場ですら、東電にはかなわない。福島県二本松市のゴルフ場原発事故で汚染され、営業ができなくなったとして、東電に損害賠償の仮払いを求めた仮処分申請は、東京地裁によって却下されているからだ。東電は、いったん環境に放出してしまえば、放射性物質は東電の所有物ではないという論理を展開してみせた。ここには、アマミノクロウサギ<ゴルフ場<東電という歴然としたヒエラルキーがある。

 稚拙なアナロジーだが、エクアドルやボリビアで起きていることは、自然保護のオーソリティーである鬼頭秀一東京大学教授が、憲法改正委員会の座長となって、奄美大島のクロウサギのウサギ権や、愛媛県今治市の織田カ浜に棲息するイカ権やタコ権を憲法上に人権として位置づけてしまったようなものだ。これがどれほど大変なことかがわかるだろう。

サヨとトンデモを超えて

 ブエン・ヴィヴィルやパチャママの概念は、これほどの深みを持つ。そこで、パチャママについて書かれた日本語の入門書がないかと書店を物色したところ、一冊見つけた。書き出しぶりからして素晴らしい。引用してみよう。

「アンデス地方で暮らす人々にとって、万物を産み出し、豊穣を司る大地の女神パチャママは重要な存在である・・・」(P18)。そして、この本はすぐさま、パチャママの思想がアルバート・ハワード卿の有機農業の思想をシンクロすると述べる。そして、アマゾンの奇跡の土壌テラ・プラタを扱い、ボリビアのモホス大平原にあった高度な文明へと筆を進め、放射能の危険性に言及していく」

 なんと素晴らしい。有機農業といいテラ・プラタといい、原発問題といい、私が興味を抱いているものばかりではないか。思わず買ってしまった。ケイ・ミズモリ著『超不都合な科学的真実~長寿の秘密/失われた古代文明』(2009)徳間書店だ。けれども、論理は途中からおかしくなっていく。地球は空洞であり、放射性降下物質を恐れた古代アトランティス人たちは、広大な地下都市を築いており、それがブラジルをはじめとする中南米各地に眠っていて。。。。。えっ。これってドンデモ本ではないか?。


 ウヨを避けようとすれば、ゲバラの如き極左テロリストに出くわし、サヨを避けようとしてパチャママへと向かえば、スピリチュアル系のトンデモ本に出くわす。日本はまことに嘆かわしい。これでは、パチャママもブエン・ヴィヴィルもUFOやアトランティスと一緒くたにされてしまうではないか。で、ネットを検索していると、国際基督教大学の中野佳裕氏の「3・11後の開発学の方向性─開発倫理学を再フレーミングする─」という論文がヒットした。中野氏は同論文で、フランスの脱成長運動と並ぶ広い枠組みの中にブエン・ヴィヴィルを位置づけて考察されている。素晴らしい。まだ政治的、政策的にブエン・ヴィヴィルが論じられるには到底至らず、ラテンと言えば極左国際テロリストのゲバラか、トンデモ系のシャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』や『聖なる予言』のアセンション本(南米ペルーの森林で古代文書が発見されるのです。少し古いか)しか思い浮かばない、日本の現状を踏まえれば、ブエン・ヴィヴィルが、こうした学術的なきちんとした評価を受けることがまず第一ステップだろう。中野氏の努力に万全のエールを送りたい(続く)。

【引用文献】
(1) 太田昌国『ラテンアメリカ諸国における新憲法制定が意味すること』現代企画室ウェブサイト「状況20-21」より転載2009年8月6日
(2) Eduardo Gudynas, Buen Vivir: Today's tomorrow, Thematic Section Development , Palgrave Macmillan,2011.
(3) Thomas Fatheuer, Buen Vivir, A brief introduction to Latin America’s new concepts for the good life and the rights of nature, Edited by the Heinrich Böll Foundation, Publication Series on Ecology Volu me 17, Berlin, June 2011.
(4) 2008年10月12日青西靖夫「エクアドル新憲法について」開発と権利のための行動センター


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~4脱成長派の助っ人

2013年05月04日 22時53分59秒 | ボリビア

フランスに根ざす脱成長

 脱成長とはいったい何か。それは、ブエン・ヴィヴィルとは、どのように関係するのか。ここで頭の整理をしておくのも一興だろう。ジャネット・イートン(Janet M Eaton)氏のブログには、その流れがコンパクトにまとめられているので、再整理して紹介してみたい。

 脱成長という言葉は、エコロジーのエコノミスト経済学者ニコラス・ジョージェスレーゲン(Nicholas Georgescu- Roegen)の1971年の「エントロピーの法則と経済過程(entropy and the economic process)」に最初に用いられたフランス語「decroissance」の翻訳だ。ジョージェスクレーゲンは、従来の経済成長モデルにエコロジー的な成長の限界を主張し、これが、フランスの脱成長運動につながった。

 フランスの脱成長運動は、マルクス、ガンジー、カール・ポラニー(Karl Polanyi)、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)、イバン・イリイチ(Ivan Illich)、E.F.シューマッハーらを参考にしつつ、消費主義と関係する社会悪や誤った経済成長モデルへを批判するフランスの政治文化内の伝統に根ざす。フランスの脱成長運動が、古典的な経済成長モデルを批判するポイントは三つある。

 第一は、先進国における成長はもはや社会的に反生産的、非経済的となっていること。
 第二は、天然資源の枯渇、エネルギー供給の衰退、汚染、気候変動、生物多様性の損失等のエコロジー的に持続可能ではないこと。
 第三は、開発途上国を犠牲にした先進国による資源の浪費だ。

 そして、脱成長運動の国際会議がパリ(2008)、バルセロナ(2010)と続けて開かれ、ル・モンド・ディプロマティク(Le Monde Diplomatique)にも取り上げられるようになった(1)

米国の脱成長

 脱成長運動の中心となったのは、フランスだが、他のヨーロッパ諸国、そして、北米でも着目されている。北米では、エコロジー経済学の創立者ハーマン・ディリー(Herman Daly)ヨーク大学教授、成長なきマネジメント(Managing Without Growth)の著者ピーター・ヴィクター(Peter Victor) 教授、エコロジカル・フットプリントの共著者、ウィリアム・リース(William Rees)教授、エネルギーと国富(Energy and the Wealth of Nations)の共著者、チャールズ・ホール(Charles Hall)教授が、脱成長運動と関係する。北米では、2010年にカナダのバンクーバー、そして、2012年5月にはカナダのモントリオール(2012)での二度、「アメリカ大陸諸国の脱成長国際会議」(degrowth conference of the Americas)が開かれているが、ヴィクター、リース、ホールの3人は、2012年の会議にも参加している。

 脱成長運動は、カナダのリチャード・ヘインバーグ(Richard Heinberg)の著作「成長の終わり(The End of Growth)」にも登場し、最終節「ポスト成長の経済学(Post- Growth Economics)」では脱成長のルーツや哲学的な影響がまとめられている。
脱成長は、2012年6月の米国のニュー・エコノミー会議でも扱われ、非成長経済が注目され、ボストン・カレッジ(Boston College)のジュリエット・スコー(Juliet Schor)教授が脱成長を提唱する。

 脱成長運動は、イギリスの持続可能な開発委員会(Sustainable Development Commission)から、2009年3月にエコノミスト、ティム・ジャクソン(Tim Jackson) 教授のリポート「成長なき繁栄(Prosperity Without Growth)」が出された後、さらに国際的な関心を呼んだ。教授のリポートは、政府の公式文書としては最初に脱成長を扱ったもので、最新の脱成長の入門書として広く読まれたからだ。ジャクソン教授とカナダのピーター・ヴィクター教授は、幸せ経済社会研究所(ISHES= Institute for Studies in Happiness, Economy and Society)の報告書でもとりあげられている(1)

 ちなみに、幸せ研とは、枝廣淳子さんが率いるシンクタンクだ。アラン・アトキソン・枝廣淳子『GDP追求型成長から幸せ創造へ~グリーン経済とそのあとに来るもの』(2012)武田ランダムハウスジャパンでその言わんとすることは日本語でも読める。

豊かになるための脱成長

 脱成長運動は、問題となる経済成長に対処するため、生産や消費の規模の縮小、あるいは経済の縮小を主張する。長期的に人間が生きのびるための必要条件であることもあるが、いま、ここでよりよく生きるためには必要だからだ。伝統的な経済パラダイム内では、景気の停滞や不況は一般的に問題とされる。いわゆる「グリーンエコノミー」も現在の欠陥のあるグローバルな経済成長モデルを追求するものだ。したがって、脱成長は、すべてを犠牲にしたばかげた成長の追求に挑戦する象徴的な言葉として価値を持つ。

 脱成長では、計画的な景気縮小や平等なダウンスケーリングは、オルタナティブなパラダイムへとつながる。脱成長運動はよき生活を重視し、成長の終わり、ポスト成長開発、ピーク・オイル、ワーク・シェアリング、より少ない消費、共同生活、芸術・音楽・家族・文化やコミュニティに多くの時間を割く、自発的な簡素化(voluntary simplicity)、トランジションタウン、地域通貨、グロス・ナショナル・ハピネス、所得の再分配、産業や農業のローカル化、新たなガバナンス、参加型民主主義、貿易の脱グローバリゼーション、定常状態経済学等の関連する考え、概念、運動にもつながる。

 脱成長は、現在の経済成長システムが重視する支配的な価値観や知識を抜本から破壊する「ツール」とされ、ある1人の有名な脱成長の学者は、それをこう指摘する。

「…脱成長は、ただ少なくするという量的な問題ではありません。それは、さらに抜本的で…価値観のパラいダム的な方向転換についてのことなのです。とりわけ、社会的エコロジー的な価値観の見直しや経済の再政治問題化の見直しで」

 この脱成長の学者は、「マインドの脱植民地化」や「イメージの脱植民地化」についても語る。もし、経済成長が、客観的なリアリティではなく、抽象的な観念にすぎないことがわかってしまえば、真面目にオルタナティブの構想が描けると指摘する。このことを「経済から遁れる」として話す人もいる(1)

ドイツにも上陸した脱成長

 脱成長運動が、フランス、イタリア、スペインとラテン系の国から発祥し、英米で着目されてきた流れがわかるが、エコ大国ドイツにもほどなくして伝播する。ブログ『さて何処へ行かう風が吹く』の2011年5月18日の記事、「フランソワ・シュナイダーさんからのメール(1)」にその情報が出ている。

「ドイツ緑の党の、少なくとも現在の主流派は『脱成長派』ではまったくないが、ドイツAttac(Association for the Taxation of Financial Transactions for the Aid of Citizens)主催のポスト成長会議が開催される(略)。日本の核発電所の大惨事と一年前のメキシコ湾石油流出事故がはっきり示していることは、人類によるエネルギーの抽出・搾取がますます多くの犠牲を要求しているということだ(略)。「永遠の成長」に基づく経済モデルこそが、問題の根元であるということが、ますます明らかになりつつある―わたしたちは、成長の限界に達したのだ」

 このポスト成長会議の内容は、ブライアン・ダヴェイ(Brian Davey)氏によって、コンパクトにまとめられているので、再整理した内容を紹介してみよう。

 2011年5月20~22日にドイツでもアタックの主催によって、ポスト成長会議が開かれている。著名なシンクタンクや財団を含め50以上の組織がこの会議を支援し、閉会式には2,500が参加した。脱成長思考はドイツにも定着している。これほど強力ならば、政治的な影響力がないはずがない。

 私は、開発が必要だとか、貧しい人々を含めて、誰もが望むものであるとすることを止める必要性だった。基調講演を行ったヴァンダナ・シヴァも、ほとんどの開発は、一握りのグループや企業エリートにだけ利益がいき、貧しい人たちの搾取、借金、居住環境の汚染、不安定な雇用へとつながる。よき暮らしとは何か。考え方の質的な変化が必要だ。成長を止めることがその根にある(2)

サヨが向かう連帯経済

「成長を越えて」会議の議論には、労働組合も参加していた。サヨと緑との対話は、とりわけ興味深かった。会議の場で、サヨは、資本主義では、競争と利潤の拡大によって突き動かされるため、成長の問題とは、資本主義の問題だとした。だが、そのオルタナティブは何なのか。旧来型の党組織に率いられる中央計画経済なのか。多くにとっては、それは「連帯経済」だった。例えば、ポスト成長経済の農業や食べ物に関するワークショップの議論では、ある有機農家は、1980年代末以来、ビオラント(Bioladen)の発展で、有機農産物市場が拡大したと語る。けれども、20~30年後に、有機農家が目にしたのは、ビオラントへの交渉力の低下と、とても生活ができない程の有機農産物価格の下落だった。そこで、ワークショップでは、有機農家は、消費者との連帯経済、地域支援型農業(Community supported agriculture)を求めたのだった。

 必要とされているのは、社会的でエコロジー的で破壊的ではない違った開発モデルだ。ヴァンダナ・シヴァは、成長ではなく「国の幸せ」に重点をおくブータン政府からアドバイスを求められ招待されたと語った。彼女の役割は、有機農業を促進するためのアドバイザーになることであろう。農民が少ししか化学資材を買わなければ成長は縮小する(2)」。

 ちなみに、前回、欧米で拡がっているCSAの手本が日本であり、その起源ともいわれるのが、埼玉県小川町の金子美登氏である。氏は、2013年5月8日に、勝俣誠明治学院大学教授と「経済成長すれば、人は幸せになれるのか」という対談をなされる。

 CSAと有機農業と脱成長はこんなところでもつながっている。

 話をもとに戻すと、ブライアン・ダヴェイ氏はこう結んでいる。

「おそらく、私たちはピークオイルによって混乱に直面するであろう。崩壊は人々に嫌悪感を持たせるが、会議の初めに、Nicho Paechが、来るべき20年、30年先の未来の準備をしなければならないと主張したように、好むと好まざるとにかかわらず没落は起こる。けれども、準備をすれば、受け身の被害者になることは避けられる。さらに、よき暮らしが可能な社会を形成できるかもしれない」(2)

 欧米の脱成長運動の背景には、こうした危機感がある。

ブエン・ヴィヴィル登場

 では、ブエン・ヴィヴィルはこうした動きとどうつながって来るのだろうか。ブライアン・ダヴェイ氏はこう続ける。

「必要とされているのは、違ったビジョンや違った開発モデルだ。この点で、この会議はトランジション運動やフランスの脱成長運動の考え方と何かを共有していた(略)。だが、ポスト成長経済へのビジョンや目標を模索する中で、この会議で、とりわけ、影響力があったのは、エクアドルとボリビアの先住民たちのグーテス・レーベン(Gutes Leben)だった。こうした考え方が、いまエクアドルやボリビアの政治や憲法に影響を及ぼしている事実は、信じられないほど重要だ。

 いったい消費主義は本当に人間性の一部なのだろうか。例えば、ボリビアの脱植民地(Descolonización=Ministerio de Culturas del Estado Plurinacional de Bolivia)省のエリサ・ベガ(Elisa Vega)副大臣は、祖父は最近110歳で死ぬまで最後まで元気で、貯金はしていなかったが、腐らない豊かな食べ料を残し、先住民は消費志向ではなかったと語った。また会うときも、同じ伝統的な衣装を着ているだろうと彼女は語った。先住民にとって大切だったのは、家族やコミュニティとの関係性、そして、母なる自然、パチャママとの関係性だった(2)

 前出のジャネット・イートン氏もブエン・ヴィヴィルに着目する。

「とりわけ、興味深いことは、西洋の脱成長とラテンアメリカの先住民の展望とがパラレルであることだ。ここで、人間やその環境との関係性、コミュニティ内での人間の調和した関係性を重んじるラテンアメリカの先住民の『ブエン・ヴィヴィル』の概念との類似性が目にできる。事実、世界中の様々な社会には、よい生活で共有される基礎的目標について同じような見方がある。例えば、アラビアの歴史家と哲学者イブン・ハルドーン(Ibn Kaldûn)が繁栄を意味して用いた「beumran」、ガンジーのスワデシ・サルボダヤ(swadeshi-sarvodaya=自給自足と幸福)だ。

 そして、今、ボリビアやエクアドルの政治的枠組みの中心的な要素となっている。あるエクアドルの経済学者はこう結論を下す。

『提案されたオルタナティブな概念のうち、開発と経済成長についての古い概念を置き換えるための理論的な枠組み内でより多くの選択肢を示すものは、Sumak Kawsay(よき生活)だ』

 ブエン・ヴィヴィルのアプローチは、資本主義、植民地主義、帝国主義、ネオリベに批判的で、持続可能な開発の概念すら、成長と消費を増やすことを目指す主流の開発の思想に根ざすとして、撞着語法を拒絶する傾向がある。モントリオールの会議には、脱成長経済を目指す、研究者、NGO活動家、先住民が参加したが、エドアルド・ギュディナス(Eduardo Gudynas)は、ブエン・ヴィヴィルが、開発へのオルタナティブなビジョンへのプラットフォームになると示唆する」(1)

 同じ指摘をThomas Fatheuerも行っている。

「成長の指標としてのGNPは理論的には否認されている。新たな指針として幸せも論じられ、ブータン王国が憲法上に幸せの促進を義務づけたことも有名だ。けれども、GNPはいまだに政治上では優位にとどまっている。アンデスの伝統に立脚して、エクアドルもボリビアもブエン・ヴィヴィルの概念が先住民の起源―南米の文脈では非植民地―にあることを強調する。ブエン・ヴィヴィルは、植民地化された南米の過去を克服するための試みだが、それは新たな原則にもつながっている。従来の成長や進行への不安に対して、新たなアイデアを求める努力を補完するように見える」(3)

 ブログ『さて何処へ行かう風が吹く』の2012年10月5日付けの記事『第三回脱成長国際会議のビデオ』では、脱成長運動とブエン・ヴィヴィルの接点がどこにあったのか簡潔にふれている。

「2008年4月のパリ会議で明確に姿を現したフランス(とスペイン・イタリア)の知識人を中心とした「21世紀の脱成長」運動は(略)、2012年5月のモントリオール会議では「先住民の視点」が導入され、9月のベネチア会議では中南米の「Buen Vivir」との接点が模索され、そのフロントが急速に拡大しつつある」

 脱成長のビジョンは見えてきたものの、その具体的な着地点が見えない中、ブエン・ヴィヴィルが強力な援軍、支援部隊として、欧米の脱成長派の世界に乗り込んできたことが良くわかるだろう。

ブエン・ヴィヴィルは脱成長なのか

 だが、エドアルド・ギュディナスは、ブエン・ヴィヴィルは脱成長ともサヨとも違うと述べている。

「ブエン・ヴィヴィルは、ポスト資本主義志向で伝統的な社会主義と共通するものもある。そこで、ニュータイプの社会主義として評価されることが多い。けれども、ブエン・ヴィヴィルは社会主義とは違う。「21世紀の社会主義」は、いまだに近代の枠内にあって環境的な要素も弱く、異文化間(intercultural)でもない。

 エクアドルのバイオ社会主義者、レネ・ラミレス(René Ramírez)は生命の要素(自然の権利)と「共和主義」を組み込んで、社会主義の伝統を改良した「社会主義のsumak kawsay」を提唱している。それは、自然の権利を認めることで、ブエン・ヴィヴィンの展望と互換性をもつ。けれども、進歩を信頼し、物質主義的な展望があることから、それは、近代合理主義の一部だ。もちろん、ブエン・ヴィヴィルは、保守主義やネオリベラルの立場では可能ではない。ウヨからは近代思想を越えられないであろう。つまり、ブエン・ヴィヴィルは、ポスト資本主義であるだけでなく、ポスト社会主義的なのだ。

 そして、開発の手段としての成長を拒絶することから、「脱成長」運動の考え方とも幅広くはオーバーラップする。脱成長としては、幅広く脱成長を主張するセルジュ・ラトゥーシュ(2009)や詳細に「持続可能な脱成長戦略」を提案するスペインのマルチネス・アリエル(Martínez-Alier)がいる。けれども、成長拒絶や暮らしの質を重視して、緊縮生活へシフトする点では一致するが、倫理性が強く、スピリチュアルな立場を組込み、異文化的でもある点がラトゥーシュとは違う。マルチネスの戦略にも、自然との二重性の解体や自然の本源的な価値認識等の要素が組込まれていない。ブエン・ヴィヴィルの概念は幅広く、ただ消費の削減やつつましい生活を呼びかけるものではない。脱成長は目的ではなく結果なのだ」(4)

暴走するモラレス

 以下、これまでの流れを、私なりに時間軸で整理してみた。★がオールド・サヨ、☆が脱成長とブエン・ヴィヴィルと関連する動きだ。

★1959年    フィデル・カストロのキューバ革命
★1967年10月9日、極左テロリスト、ゲバラ、ボリビアの地で他の同志を巻き添えにして自滅
☆1971年 ニコラス・ジョ-ジェスク・レーゲン「エントロピーの法則と経済過程」
☆2001年 パリで開かれたユネスコ会議でラトゥーシュ「縮退(decroisssance)」の言葉を使用
★1998年12月 ウーゴ・チャベス大統領選挙で当選
★2004年12月 ベネズエラ、諸国米州ボリバル同盟(Alianza Bolivariana para los Pueblos de Nuestra América)キューバと締結
★2005年12月18日 エボ・モラレス大統領選挙で当選
★2006年4月29日 ボリビア、米州ボリバル同盟に加盟(三国同盟成立)
★2006年11月26日 ラファエル・コレア大統領選挙で当選
☆2008年4月18日~19日 第1回脱成長国際会議(フランス・パリ→脱成長の言葉が普及)
☆2008年10月20日 ボリビア新憲法発効(ブエン・ヴィヴィルを憲法上に位置づけ)
☆2009年4月22日 モラレス国連総会で「マザーアースの権利に関する世界宣言」を提案
☆2009年1月27日~2月1日 ブラジル・アマゾン地域のベレムで第8回世界社会フォーラム開催(120部族の先住民1900人、さらに1400人のアフロ系子孫が参加し、良き生活を提唱)
☆2009年2月7日 ボリビア新憲法公布(ブエン・ヴィヴィルを憲法上に位置づけ)
★2009年6月24日 エクアドル、米州ボリバル同盟に加盟
☆2009年12月   国連総会で「マザーアースの権利に関する世界宣言」が採択
☆2010年3月26日~29日 第2回脱成長国際会議(スペイン・バルセロナ)
☆2010年4月19日~22日 気候変動およびマザーアースの権利に関する世界民衆会議(ボリビア・コチャバンバ)
☆2010年4月29日~5月2日 脱成長バンクーバー会議
2011年3月11日 福島原発事故
☆2011年4月24日  モラレス、「気候変動と母なる大地の権利に関する世界民衆会議」から1周年の集いで福島原発事故を受け、ボリビアの原発推進を却下、原発なき南米発言
☆2011年5月20~22日 ポスト成長会議(ドイツ・ベルリン)
☆2012年5月13日~19日 アメリカ大陸の脱成長会議(カナダ・モントリオール→先住民の視点が導入)
☆2012年9月19日~23日 第3回脱成長国際会議(イタリア・ベネチア→ブエン・ヴィヴィルが注目)

 脱原発に関心を持たれる方は、モラレスの「気候変動と母なる大地の権利に関する世界民衆会議から1周年の集いで福島原発事故を受け、ボリビアの原発推進を却下、原発なき南米発言」という一文に驚かれたのではあるまいか。フィデルが、2006年5月のメーデーで「もし、今、キューバによってなされている努力が、世界のそれ以外のすべての国においても模倣されるならば、新たな原発建設に15年のモラトリアムが宣言できよう。何も我々を止められない。祖国か死か、我々は勝利する!」と述べたことは、2012年12月19日のブログ、インカの目覚め(1)~中世化する国家でも書いたが、モラレスも脱原発していたのだ。モラレスは言う。

「日本において進行中の原発事故は極めて深刻な痛みで、深い懸念をもたらす。私はボリビアも原発を持つべきだと思ってきた。けれども、今、私は間違っていたことを理解させられた。いま、日本で目にされていることに鑑み、それを拒絶しなければならない。ボリビア人民、ラテンアメリカ人民の命を守るため、南アメリカは原発なしであるべきだ」(5)

 モラレスの暴走ぶりは止まらない。国際貿易については、2006年4月29日に加盟した諸国米州ボリバル同盟(ALBA =Alianza Bolivariana para los Pueblos de Nuestra América)の一貫として、多国籍企業に有利な欧米型の自由貿易協定に対して、国や地域間の経済的相違を認めつつ、連帯の精神を通じて、不公正な国際競争から、小規模生産者、協同組合、コミュニティ企業、先住民たちの暮らしを守ることを目指し、人民貿易協定(TCP=Tratado de Comercio de los Pueblos)を提唱している。TCPを英訳すれば、PTT(People’s Trade Treaty)だ。TPPではなく、PTTなのだ(6)

 経済成長のために原発を海外に売り込み、TPPを推進する我が国の目線からすれば、モラレス大統領の政策はあきらかにおかしい。パチャママをバックにモラレスはいったいどこまで暴走しようとしているのだろうか。ブエン・ヴィエンが政策に及ぼす影響をみていきたい(続)。

【引用文献】
(1) Janet M Eaton,What is Degrowth ? August 4, 2012.
(2) Brian Davey, What could a post-growth society look like and how should we prepare for it? , Jun 10, 2011.
(3) Thomas Fatheuer, Buen Vivir, A brief introduction to Latin America’s new concepts for the good life and the rights of nature, Edited by the Heinrich Böll Foundation, Publication Series on Ecology Volu me 17, Berlin, June 2011.
(4) Eduardo Gudynas, Buen Vivir: Today's tomorrow, Thematic Section Development , Palgrave Macmillan,2011.
(5) Evo Morales descarta uso de energía nuclear, ABI Bolivia, 23 abr,2011.
(6) Alex Tilley, Vivir bien (Living well): a new model for development from Bolivia’s indigenous process of change, Magazine Adelante, Apr 2011.

写真は、文献(5)から


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~3左派、保守、みどり

2013年05月04日 15時59分31秒 | ボリビア


サヨのゲバラからドロンボーへ

 希代の国際テロリスト、チェ・ゲバラが、後に有名となった「アスタ・ラ・ヴィクトリア・シエンプレ(Hasta la victoria siempre)」というというスローガンとともに、ボリビアの大地で、その旺盛なゲリラ活動にようやく終止符をうったとき、その一途なまでの思い込みにつきあわされて命を落としたキューバ人の同胞たちは、結果からすれば哀れだったのではあるまいか。

 愛読書であるジョン・マイケル・グリアの『エコテクな未来』を読んでいて、ほとほと感心させられるのは、これから迎えるであろう深刻な脱工業化、石油文明の崩壊と没落にあたって、こうした生真面目さが、害あって一利なし。有害そのものだと一蹴してみせていることだ。グリアは、どのように未来に対処するかという節を設け、ウォーレン・ジョンソンの『節約に向かってごちゃ混ぜにする(Muddling Toward Frugality)』を例にヒーローの危険性をこう指摘する。

「イデオロギーや壮大な計画に依存する習慣は、悲劇的な言葉から借り受けている。そこでは、偉大なヒーローが理想のためにすべてを危うくする。もちろん、これは壮大な文学やドラマを作ってはいる。にもかかわらず、悲劇のヒーローはたいがい命を落とし、すべてを一緒に引きずりおろすことが多い。したがって、彼らは、建設的な変化のための最良のモデルではないかもしれない」

 この文章を読み返す毎に、私には、同志を巻き添えに自殺的な暴発を果たした狂信的な極左、ゲバラのハタ迷惑な姿が思い浮かんでしまう。グリアは、ガチガチの理想やイデオロギーを抱かずに、とにかくやれることを肩肘はらずに試みつづけることがベストな対応策、適応型の戦略だと指摘する。適応型ということは、レジリアンスが高いと言うことでもある。

「オルタナティブとして、ジョンソンは、コミックのヒーローの想定外の可能性を提示する。コミックのヒーローは、たいがいでたらめなやり方をし、完全無欠でもなく大きな行動計画もないまま手がかりもなく、状況のなかでつまずいたりしていく。ヒーローとは反対に、彼らの努力は、多くの社会変化の提案者たちが熱望する尊敬をとうていインスパイアーできやしない」(同著、第5章より)

 けれども、悲劇のヒーローとは違って、コミックのヒーローは、ゲバラの如くハタ迷惑な存在ではないだろう。滑稽でユーモアセンス溢れながら、あきらめることなく何度もミッションに挑戦していくドロンボー一味。ドロンジョやボヤッキーやトンズラーこそが、21世紀のヒーロではあるまいか。2011年2月16日の記事『人類滅亡回避のヒントは、ウメボシデンカとヤッターマンにあった』にも書いたが、「やられても、やられても、なんともなーいなーい。おれたちゃ不死身だ ヘイへへーイ、ドンドンドロンボー」(作詞:山本正之/作曲:山本正之/ 編曲:神保正明/ 歌:小原乃梨子、八奈見乗児、たてかべ和也)こそが、まさに、レジリアンスの定義そのものなのである。

 けれども、レジリアンスが日本流に解釈されてしまうと藤井聡京都大学教授の『救国のレジリエンス 「列島強靱化」でGDP900兆円の日本が生まれる』(2012)講談社のように、250兆円規模の公共投資による経済成長に化けてしまう。

サヨとはきっぱり縁を切れ、脱成長としてのブエン・ヴィヴィル

 ブエン・ヴィヴィルの概念は、今日のテーマである脱成長ともリンクする。コモンズの勝俣誠、マルク・アンベール編著『脱成長の道~分かち合いの社会を創る』(2011)には、ブエン・ヴィヴィル(スマク・カウサイ)が登場している。抜粋してみよう。

「つつましさの感覚を回復するには、異端派の経済学者よりも、ボリビアとエクアドルの先住民が自分たちの憲法にスマク・カウサイ(ケチュア語で、地域文化に根ざしてみなで充実した生活を送ること)を目標に盛り込んだことが重要だと指摘する(P32)」

「つつましさの概念は『世界社会フォーラム』にも登場する。2001~2003年にかけては新自由主義の批判がなされ、2004年のインド・ムンバイにおけるフォーラムでは家父長制やジェンダーの問題が加わった。そして、2009年のブラジルのアマゾンの都市べレムにおいて開かれたフォーラムでは、人類の共有財の問題と良き生活が先住民によって提起されたのだ(P122)」

「近代西洋は、自然、社会、存在とのかかわりという大きな三つの要素を失った。だが、これは、ボリビアのエボ・モラレス大統領が2010年4月20日に『母なる大地の権利に関するコチャバンバ会議』で提唱された(P124)。この背景には、コチャバンバの住民が、米国企業ベクテルによる水・衛生サービスの民営化への反対運動をおこしたことがある(P128)。もちろん、ただ伝統に回帰するのではなく、伝統社会と西洋近代の最良の部分を統合する必要がある(P124)」


 けれども、私が「ブエン・ヴィヴィル」の存在に着目するきっかけとなったのは、この本よりも、ブログ『さて何処へ行かう風が吹く』の2012年8月18日付けの記事『脱成長とは何か? 』を読んでからだ。そこでは、こう書かれている。一部を抜粋してみよう』(赤字は私の加筆)。

「脱成長とは、経済成長にもとづく従来の社会モデル―「左(サヨ)」のモデルであれ、「右(ウヨ)」のモデルであれ―それから、きっぱり縁を切ろうという呼びかけである(2012年5月、カナダのモントリオールで開催された「アメリカ大陸諸国の脱成長国際会議」)」

 おおっ、サヨが否定されているではないか。

 この記事は、脱成長の概念は新しいことを指摘する。

「だがフランスでも「デクロワッサンス」というコトバが一般に流通し出したのは、1990年代以降、本格的には2000年代に入ってからである(略)。セルジュ・ラトゥーシュによれば、彼が「縮退(decroisssance)」というフランス語を使って「脱成長」について語り、経済収縮を訴えたのは、2001年にパリで開かれたユネスコの会議でのことだった(略)。ラトゥーシュの発言を信じれば、de-growthという英語の歴史も十年余りしかないことになる。英語のこのコトバが本格的に流通しだしたのは、2008年4月の脱成長パリ会議以降、さらに言えば、2010年3月の脱成長バルセロナ会議以降のことであろう」

 2010年か。なんと、新しい。2010年といえば、日本でも同年7月に『セルジュ・ラトゥーシュ著、中野佳裕(訳)『経済成長なき社会発展は可能か?』作品社が出版されている。

 ちなみに、「縮退(decroisssance)」を「没落」と無理に意訳して、私が没落本「「没落先進国」キューバを日本が手本にしたいわけ」を出したのは2009年10月のことだ。どうもタイトルを間違ったらしい。「脱成長先進国・キューバから見つかる日本の本当の幸せ」とかにすれば、もっと売れたかもしれない。いや売れるという発想そのものが、非脱成長的ではあるのだが。

 それはさておき、このブログでは次にブエン・ヴィヴィルを登場させる。

「しかし、特に興味深いのは、欧米の脱成長言説と、先住民の視点、およびラテンアメリカで生まれた言説―特に「(他者と比較して)より豊かな暮らしをするのではなく、仕合わせに生きる」(live well, not better―スペイン語ではVivir Bien、ケチュア語ではSumak Kawsay、たいていはBuen Vivir)と呼ばれるモデル―とのパラレルな関係である(略)。ワークシェアリング、より少ない消費、ともに生きる創造的な方法の発明、より多くの時間をアート、音楽、家族、文化、コミュニティにあてる生き方、自発的な簡素化(voluntary simplicity)―これらすべてが、持続可能な脱成長の重要な要素である。これはラテンアメリカ先住民のBuen vivirという概念ときわめて類似した考え方だ(略)。地球と人類がいままさに直面している経済的、エコロジー的、金融(財政)的危機の拡大に対処するために、経済成長という万能インチキ薬を批判することができ、これまでとはまったく異なる、新しい発想法が求められていることは明白だ」

アナクロ・サヨはヨーロッパでは絶滅している

 ブログ『さて何処へ行かう風が吹く』の2012年10月5日付けの記事『第三回脱成長国際会議のビデオ』では、さらに脱成長の意味を深く掘り下げてある。抜粋してみよう。

「緑」という観点から、現在の対抗軸を三つに区分すると、
①非緑グローバル資本主義の従来路線―米中日、国連・EUの経済機関などを中心に、現在でも支配的。1992年のリオ会議以降は「持続可能な開発・発展(その実は→持続的な経済成長)」というリップサービスだけはしている。

②緑の資本主義改革路線(「弱い」エコロジー的近代化路線)―ドイツ、北欧、国連やEUの一部機関などに影響力を及ぼしている。国・地域によっては21世紀初めまでに、かなり強力な動きとなっていたのだが、2007-8年以降の経済危機によって揺り戻された憾がある。

③緑の脱成長路線―脱資本主義? 「強い」エコロジー的近代化? それとも、脱近代化? 今のところ、さまざまな潮流が入り混じっている。

 という三軸が析出される。なお、②はネオリベラルな政策とも結びつきうる―というか、結びついている。

 中長期的には、①が影響力を失い、②と③の対立関係が、中心になっていくものとおもわれる。わたしは、原発事故直後は②と③の「統一戦線」によって①に対抗し、その中で③の影響力を強める、という「二段階論」を採っていたが、その後の経緯をみて、③の立場から②を批判していくことの重要性を痛感するようになった(②の立場では「社会的公正」も「緑」も守れない)。現在は、③の立場を固めつつ、①と②に同時に対抗していくという、「両面同時批判」「二正面作戦」が重要ではないかと考えている。


 ここにはとても大切なポイントが書かれているので、私なりに解釈し直して繰り返す。

 原発事故以降は、①ネオリベ・ウヨ経済成長路線に対して、②へたれ緑派と③脱成長派(ブエン・ヴィヴィル)とがタッグチームを組んで、まず、ウヨ・ネオリベを叩きのめしてから、じわじわと力を付けて、しかるが後に、へたれ緑派を圧倒するという二段階戦略を考えていた。けれども、実は、②へたれ緑派では、本当の緑も社会的公正も守れない。だから、ヴエン・ヴィヴィル一本やりでいく。

 ちょ、ちょっと待って欲しい。サヨは。サヨはどこにいったのだ。それも書いてある。

「ちなみに、「緑の社会主義派」は中南米では多数派で、非緑の社会主義経済成長派は、すくなくとも欧米ではすでにほぼ絶滅」

 なっなんと。『さて何処へ行かう風が吹く』の見解によれば、非グリーンのオールド・サヨはすでに欧米では絶滅しているというではないか。前パラグラフでは、サヨと縁を切れとつけたものの、すでに、縁を切る以前にアナクロ・サヨは消滅していたのである。

それでも日本ではにサヨが必要かもしれないわけ

 実は、冒頭でドロンボー一味を登場させたのには伏線がある。ヤッターマンよりも、ドロンボー一味こそが、本当の主人公であると喝破してみせたのは、岡田斗司夫氏の『「世界征服」は可能か?』(2007)ちくまプリマー新書だ。

 岡田斗司夫氏は、世に先駆けて『評価経済社会~ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』(2011)ダイヤモンド社で、贈与経済を提唱し、最近も贈与経済に関心を抱く内田樹氏との対談集『評価と贈与の経済学』(2013)徳間書店を上梓している。

 岡田氏の評価経済社会には、おおいに共鳴させられるのだが、『日本が世界一貧しい国』(2013)祥伝社の著者でもある谷本真由美氏の『ノマドと社畜』(2013)朝日出版社を読んでいて、この「評価経済社会」が仰天する形で扱われているフレーズに出くわした。引用してみよう。

「最近は評価が人やモノの価値を決めるという評価経済社会の考え方が流行っていますが、このような考え方を悪用して『今は評価経済社会だから、君にはお金を払わないよ。その代わりに評価しますから』と、無償労働を強いる場合もあるかもしれません。さらに、低賃金労働の斡旋もありえます。ここまでくると、「立派な貧困ビジネス」の成立です(P15)」

 日本では脱成長、贈与経済すらも貧困ビジネスに吸収されてしまう危険性があるのだ。そして、鴨にされる若者が温和で優しく、「パチャママと調和したブエン・ヴィヴィル的な生き方をしているんだ」等と勘違いすれば、それは、修行のためにマハーポーシャで功徳を積んでいたのと何ら変わりがないではないか。搾取に対抗できるのは、優しさでもパチャママへの愛でもなく、バールやゲバ棒だ。階級闘争だ。となれば、日本ではやはりサヨが必要なのではあるまいか。

アスタ・ラ・ヴィクトリア・シエンプレ

 話が飛ぶ。日本では昭和2年~12年にかけて、かつてサヨたちが、『日本資本主義発達論争』という実に低レベルな論争をしていたことがある。「正統派」の講座派は、モスクワのコミンテルンから伝えられたテーゼを指針に、ロシア革命と同じく、日本の社会変革はブルジョア民主主義革命とその後の社会主義革命という「二段階革命」が必要であるとした。これに対して、労農派は、明治維新も一種のブルジョア革命であったとし、すでに日本は明治維新以後資本主義社会として発達してきているため、ダイレクトに社会主義革命に向かえるという「一段階革命」路線を支持した。

 この論争がばかばかしかったのは、日本の社会や精神構造を無視して、進歩的であるはずのソ連モデルを日本にあてはめようとしたことにある。そして、サヨからは、西洋近代のブルジョワ市民社会を理想とする「近代主義者」「市民派」であると批判された丸山真男は、戦後に「自立した個人」を目指したが、それも、結果として実現できたであろうか。

 谷本真由美氏は日本の貧しさの諸悪の根源は、日本人を縛るムラ社会の鎖、日本を支配する世間様という独裁者にあると『日本が世界一貧しい国』で指摘している。ブエン・ヴィヴィルには、個人レベルでのよき生活を超え、幸せはコミュニティ内にあってのみ可能だとする考えがある。そして、「自立した個人」を達成した西洋人が、コミュニティに埋め込まれた自己の概念に啓発されていると前回のブログで述べた。けれども、ロンドン大学教授を夫に持つ谷本真由美氏の分析によれば、日本はいまだに自立した個人がない未開国である。講座派と労農派のアナロジーで、『さて何処へ行かう風が吹く』の戦略を表現すれば、次のようになるのではあるまいか。

 日本では平成13年から、サヨたちが『日本脱成長論争』という実に低レベルな論争をしていたことがある。「正統派」の脱成長講座派は、フランスのセルジュ・ラトーシュから伝えられたテーゼを指針に、日本の社会変革は、「緑の資本主義改革路線」とその後の「緑の脱成長路線―脱資本主義革命」という「二段階革命」が必要であるとした。これに対して、ベネズエラとボリビアとエクアドルのテーゼを受けた労農派は、日本はいまだに自立した個人がない未開社会であり、原子力ムラに象徴される濃厚なコミュニティが残存し、欧米とは異なる未開国・先住民社会であることから、ダイレクトにブエン・ヴィヴィル革命に向かえるという「一段階革命」路線を支持した。

 そもそも冒頭に掲げた「アスタ・ラ・ヴィクトリア・シエンプレ(Hasta la victoria siempre)」というゲバラのスローガンの時間認識そのものが直線的でキリスト教的だ。ゲバラの娘、アレイダさんによれば、その意味の背景には「No vorveria a Cuba hasta la victria,pero en mi siempre , patroia o muerte,venceremos」『私は「勝利するまで」キューバには戻らない。だが「いつも」私の心には「祖国か死か、勝利するのだ」の意味がある』」と書いたのが「アスタ・ラ・ヴィクトリア・シエンプレ」に縮められたという(伊高浩昭『キューバ変貌』(1999)三省堂)。

 そこには、今、ここで生きるという時間の流れはない。ゲバラの言う勝利の日とはいったいいつの日のことなのか。1年後か10年後か100年後か。奴隷制、封建制、資本主義を経て、プロレタリアートの再臨によって、いつの日にかは必ず訪れるであろう千年至福の共産主義世界。それまでは、「ずっと」とサヨのスローガンにつきあえ、というのだ。ここにゲバラの異常さがある。

 けれども、私たちは、ゲバラよりもはるか以前の1942年に、ゲバラとまったく同じ「ずっと」に、今日のテーマでもある「脱成長、貧困社会」を組み合わせたウヨのスローガンを見出すことができる。「欲しがりません勝つまでは」だ。大政翼賛会と複数の新聞社が国民の不満を抑圧するために募集し入選した「国民決意の標語」だ。そして、こうしたトップダウンの脱成長社会にならないためには、ブエン・ヴィヴィルが言う魂の脱植民地化が必要なのである(続く)。


ブエン・ヴィヴィルに学ぶ~2個人を超えた幸せ

2013年05月03日 01時27分58秒 | ボリビア

サヨのキリスト

 フィデル・カストロは「最初の社会主義者はイエス・イエスだった」と語ったことがある。こともあろうに、欧米文化圏の大黒柱たるキリストがサヨだったというのだ。グローバリゼーションを推進しているキリスト教原理主義者にとっては驚天動地の発言だろう。これほど物議をかもし出し、事の本質をつく突っ込みをさらりと言ってのけるところに、フィデルの凄味、面目躍如たるものがある。本当にフィデルは偉大だ。

 けれども、サヨの教祖たるマルクスの思想が、単なるキリスト教のパクリ、コピペにすぎないことを知れば、フィデルの発言も驚きにはあたらない。

 私が愛読するジョン・マイケル・グリアは「長き没落」の中で、マルクス主義について、こんな風に述べている。

「19世紀の唯物主義科学の専門用語に包み込まれているとはいえ、その理論の宗教的土台を目にすることは難しくはない。というのも、マルクス主義理論のあらゆる要素は、キリスト教の終末論に正に匹敵するものを持っているからだ。原始共産制はエデンであり、私有財産の発明が崩壊を引き起こす原罪だ。奴隷制、封建制、資本主義の段階は、まさに、プロレタリアートの再臨、社会主義の千年至福状態、そして、弁証法的な唯物論者が天から降臨し、最終的な共産主義の到来に至るまで、神の摂理なのである」

 

 サヨの世界観とキリスト教のコスモロジーとは、これほど親和度が高い。そもそも希代のテロリスト、ゲバラが、ラテンアメリカ大陸においてあれほど熱烈な信者を集められたのも、その遺体写真がルネサンス期のイタリア画家、アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431~1506年)の「死せるキリスト」のイメージにそっくりだったからだ(1)


 残念ながらBBCが復元したオリジナルのキリストの実像は、イケメンのチェとは似ても似つかぬおっさん顔なのだが(2)、幻影だけが独り歩きして、チェは、赤きキリストとなった。サヨは近代化を産んだキリスト教そのものであると言っていい。


サヨを超える南米のブエン・ヴィヴィル

 さて、ラテンアメリカでは、過去数十年、政府や開発銀行を通じて多くの開発プロジェクトが実施されてきた。だが、従来型の開発が社会や環境にもたらすネガティブな影響や想定されていた経済効果がないことが繰り返し指摘されてきた。2000年の初めには、従来の開発戦略の悪影響を部分的に修復したり、経済的な補償を行うだけではもはや不十分で、開発のあり方そのものを破棄しなければならないことが明らかとなってきていた。アルチュロ・エスコバル(Arturo Escobar,1992)は「オルタナティブな開発」と「開発のオルタナティブ」とには決定的な違いがあると指摘する。

 ブエン・ヴィヴィル(Buen Vivir)は、こうした開発への批判から登場してきた。もちろん、開発のあり方を疑問視する学術研究とは無関係に登場してきたが、共通するものは多くある。開発の基礎となるヨーロッパ的な制度の枠組みそのものをラディカルに脱構築しようとしているからだ。

 社会主義的な新左翼政権は、中国、ベトナム、ブラジル、ベネズエラとグローバルに南側においても見出されるが、古典的な成長戦略を堅持する新興国であって、廉価な商品を輸出したり、天然資源を交換していて、西洋の枠組みを超えてはいない。エドアルド・ギュディナス(Eduardo Gudynas)は、開発がいまだに推進されているのは、近代文化の中に深く埋め込まれているためであり、開発に対するオルタナティブは、近代西洋文化を越えるための道を開かなければならず、ブエン・ヴィヴィルがその機会をもたらすと論じる(3)

 ボリビアでは、2005年の大統領選において、エボ・モラレスが勝利した。この勝利では、ネオリベ的な経済政策の批判が中心的な役割を果たした。続いて、エクアドルでは、2006年の大統領選挙でラファエル・コレアが勝利した。ここでも、「新自由主義の長き夜」に終止符を打ち、「政党寡頭制(partidocracia)」に支配されてきた旧来の国会を放棄するとのコレア公約が決定的だった。ネオリベを否定するという意味では、モラレスもコレアもサヨそのものだ。では、なぜゆえに、ブエン・ヴィヴィルがエクアドルとボリビアだけで憲法化されたのであろうか(4)

ボリビアとエクアドルのサヨがそれ以外のサヨと違うわけ

 それは、エクアドルとボリビアでは先住民が多いという国民構成が関係している。ボリビアでは、人口の約55パーセントと先住民の方がマジョリティだ。ケチュア族とアイマラ族が中心だが、国内には36ものエスニック・グループがいて、白人は人口の15パーセントにすぎない。エボ・モラレス自身が、ボリビア史上で初めての先住民出身の大統領だ。そして、モラレス政権は、それ自体を社会運動政権とみなし、先住民のルーツを強調している。

 エクアドルでは、国民の最大グループを構成するメスティーソで、先住民はこれと共に人口の35パーセントを占める。10パーセントはアフロエクアドル人と自称し、白人は10パーセントとマイノリティーにすぎない。憲法改正において、ボリビアとエクアドルは、自らを多元主義的(plurinational)な国家と再定義してみせた。両国が、ベネズエラの「21世紀の社会主義」とは明らかに別のアプローチを取っているのは、アンデスの先住民の伝統を意識的に志向していることがある(4)。そして、開発に対するラディカルな問いかけが、先住民に可能だったのは、彼らの文化的には、「開発」や「進歩」といった概念がもともと欠いていたからだ(3)

 キリスト教とは別の文化を持つ先住民には、サヨもウヨも存在しないのは、言うまでもない。ウヨの開発やグローバリゼーションを否定しているからといって、「ははーん、さしずめ、お主、サヨだな」と問いかけてみても、彼らは「いんや、違うよ」と答えるに違いない。

「なっなに。では、サヨでないとすれば、貴様は本当はウヨなのか」と突き詰めても、「いんや、それも違うよ」と答えるであろう。「なんだと。サヨでもウヨでもないとすると、き、貴様は一体何者だ・・・・?」と西洋の二元論は破綻することになる。

 ブエン・ヴィヴィルは、従来の西洋型の開発論を批判する。けれども、同時に、先住民の伝統の中から出現してきた開発へのオルタナティブであることから、近代ヨーロッパ思想を超える可能性を持つ(3)。西洋のキリスト教の伝統よりもはるかに長い先住民の思考の伝統に依存する。その強みは、自己中心的な一元論的な西洋のパラダイムを拒絶し、多元論を認めることにある(4)

ごった煮概念・ブエン・ヴィヴィル

 ブエン・ヴィヴィル(Buen Vivir)のベースとなった最も有名な概念は、エクアドルのケチュア族(kichwa)の「他者や自然とともにあるコミュニティにおける満ち足りた生活」を意味する「sumak kawsay」である。そして、「sumak kawsay」がエクアドルで話題になるのとほぼ同時期に(3)、ボリビアにおいても同様のヴィヴィル・ビエン(vivir bien)のベースとなったアイマラ(Aymara)族の概念、「suma qamaña」が出現した(3,4)。ちなみに、国際的にはブエン・ヴィヴィルの方が、広く受け入れられている(4)

 けれども、ヴエン・ヴィヴィルの概念は両民族に限られない。エクアドルのシュワル(shuar )族の「shiir waras」もそうであれば、ボリビアのグアラニー(guaraní)族の、調和した暮らし「ñande reko」、良き生活「teko kavi」、悪なき土地「ivi maraei」、高貴なる生活への道「qhapaj ñan」の考え方も、これに近い。調和した暮らしという概念は、チリのマプチェ(mapuche)族の「küme mongen」にも見られる(3,5)。つまり、ブエン・ヴィヴィルと同じか類似した考え方は、それ以外の多くの先住民文化にも見出され、何世紀も存在してきたことがわかる。逆に言えば、開発をめぐる議論の中で引き出されて来ただけなのだ(3)

 けれども、ブエン・ヴィヴィルをひとつの考え方として特定することはできない。例えば、ケチュア族の「sumak kawsay」はグアラニー族の「ñande reko」とは同一ではないし、「suma qamaña 」は、アンデスの生態的文化的な環境においてのみ意味を持ち、それ以外の地域に適用しようとすることは意味がないこれらは、各文化に特有なもので、その言語や歴史、社会的な文脈と共に多様な環境に位置づけられている(3)。ブエン・ヴィヴィルは、多様な概念に根ざし、共有される概念はあってもこれらは同意語ではない(5)。ギュディナスは、他の文化は、それ自身のブエン・ヴィヴィルを探し求めて構築しなければならないと述べる(3)

個人を超える幸せ

 例えば、ヴィヴィル・ビエンやそのベースとなったアイマラ族の「suma qamaña」という言葉は、ボリビア内外では有名になっているとはいえ、部族の村の日々の暮らしの中ではまったく使われていない。というのは、この言葉はアイマラ族出身の社会学者シモン・ヤンパラ(Simón Yampara)が最近になって、創り出したものだからだ。けれども、ヤンパラは、「suma qamaña」の「幸せ」が資本主義社会にある資産の所有や消費による物的な幸せだけには限られず、モノとスピリチュアルな要素とが調和したバランスにあることを理解していた。それは、コミュニティの中においてのみ可能で社会的ではあるが、同時にエコロジー的でもある。この社会的エコロジー的な概念は、アンデスの「ayllu」という概念ともつながる。この概念によれば、幸せは、人間だけでなく、作物や牛、さらにはそれ以外の自然をも包み込む。どれもが他を含んでいて、切り離せない。したがって、自然から社会を切り離す、西洋の二元論は、この見解の下では瓦解する。こうして、ボリビア高地やペルー南部でのいくつかの考え方を「ブエン・ヴィヴィル」としてまとめあげることができたのだ(3)

 ブエン・ヴィヴィルの概念は英訳することが難しい(3)。スペイン語の「buen vivir」を直訳すれば「よい暮らし」「よく生きる」になるが、エドアルド・ギュディナスは、これが、西洋の幸せ(wellbeing)や福祉(welfare)の概念とはまったく別のものだ、と語る。

「ブエン・ヴィヴィルで言う、幸せは、コミュニティ内における社会的な文脈、そして、かけがえなき環境の中にある個人のそれなのです」(6)

 ブエン・ヴィヴィルの概念は一見なじみやすいが、それが誤解をまねく。ブエン・ヴィヴィルは、アンデスの先住民の伝統に深く根ざす。個人レベルでのよき生活として見ることは明らかに間違いなのだ(4)。まず、「よく生きる」という表現そのものが、ヨーロッパ語では理解することがむずかしい。ここで、表現されているのは、「良く(better)」、すなわち、他者よりも良く、あるいは、他者を犠牲にしたうえで良く、ではなく「良く(well)」なのだ。英語では、量的な「better」と質的な「well」の意味が類似しているため混乱を招く。この背景には、言語と文化との関係性がある。英語表現は、大きくは名詞に基づき、モノを対象として表現する。けれども、例えば、アニシアベ族(Anishinabe)*の言葉は、動詞が支配し、対象よりもプロセスが重視され、それが自然を支配するよりも統合する文化に通じている(5)

 個人レベルでのよき生活が大切にされることは確かだ。けれども、その幸せはコミュニティ内にあってのみ可能だとの考えがある。さらに、そのコミュニティの概念も、自然まで含む幅広い意味で捉えられている。すなわち、ブエン・ヴィヴィルの幸せは、他者や自然との共生まで包み込み(3)、さらには、自然との調和を目指す。天然資源の開発が否定されるのもこのためだ(4)。西洋の資本主義では、消費し、所有する個人の権利が重視されるが、ブエン・ヴィヴィルでは、個人の権利は、コミュニティや自然に従うものとなる(6)

シュレーディンガーのネコと循環する時間

 ボリビアのダビッド・チョケワンカ・セスペデス(David Choquehuanca Cespedes)は「西洋の蓄積モデルに起因する無拘束で過剰な産業化は、人間にとって解決策をもたらさない。植民地化によって我々は『ありたい(wanting to be)』とされてきたが、私たち自身の道に『ある(being)』ことへと回帰しなければならない」と指摘する。ブエン・ヴィヴィルは「もっと持つ」ことを目標にはしない。線形の思考モデルによる蓄積や進歩や成長よりも、「Sumak Kausay」で平衡状態の達成や再生産を目指す。植民地化で抑制された生活様式への回帰し、人間と自然とが調和することを求める。

 アイマラ族でもあるボリビアの歴史家・社会学者シルビア・リベラ・クシカンキ(Silvia Rivera Cusicanqui)は、「ch,ixi」という概念を提唱する。「Ch,ixi」とは、何かが同時に存在し、かつ、同時に存在しない第三の状態についてのアイマラ族の概念である。自然を中心とした世界観で人間中心の世界観を否定しない。Ch,ixiは、矛盾した状態で同時の存在を許す能力でもある。ザビエル・メディーナ(Javier Medina)も、この違いを受け入れる能力が基本だとし、量子力学との共通点を持ち出す。

「開発とSuma Qamañaは、シュレーディンガーの猫のように逆説的に共存します」

 シュレーディンガーの猫とは、1935年に、物理学者エルヴィン・シュレディンガー(Erwin Schrodinger)が、何かが存在し、同時に存在しない量子力学的な世界を例証するために行った思考実験である。このように、ブエン・ヴィヴィルの思想は奥が深い(4)

 さらに、先住民の世界観は、西洋的な線形の時間概念の見直しにも及ぶ。伝統的なサヨを含め、西洋の人種差別的な考え方では、先住民文化や先住民の時間や自然に対する洗練されたものの見方を「未開」であるとか「時計を戻す」として描写することが多かった。けれども、ボリビアの、シルヴィア・リベラ・クシカンキは、西洋の線形の歴史認識が「時計を戻す」として非難するものは、アンデスの見解では、未来を再び取り戻す、元に戻せる過去として認識されていると指摘する(5)

 アンデスの宇宙観によれば、時間は始めから終わりへと直線的には流れず、螺旋状のプロセスとみなされている。こうした時間概念の中では、未来も過去の繰り返しであって、未来は私たちの後ろに、過去は私たちの前にあることになる(7)。したがって、もし、何らかのトラブルが生じたとすれば、過去に立証された知識やサバイバル戦略に立ち返ればいい(7,8)。例えば、1983年4月にオルロ県の半砂漠地域の人々は旱魃を経験したが、老人たちは約50年前にも同じ旱魃があったことを覚えていた。そこで、記憶をたどり、食べ物となった約35種類の野生の野菜やハーブを思い出し、それが再び人々の食事にとりいれられ、飢えをしのいだのだ(7)

パチャママと破壊・再生される世界

 アンデスの伝統的な世界観によれば、宇宙は大きく以下の三部門から構成されている。

①パチャンカマチャ(Pachankamacha):生命のうち人間の領域で、コミュニティ、家族、個人とその関係性を含む社会的生活。
②パチャママ(Pachamama):この地球上において生命を可能とするすべての力。生命の自然領域。
③パチャカマック(Pachakamak):宇宙全体に存在する目に見えない人間を超えた聖なる領域。神やパチャママ等の擬人化された自然的存在、農産物の精霊や祖先で、霊的生活と関連し、人間はこの領域には直接的に関与できない(7,8)

 すなわち、人間は、自然だけではなく、霊的世界とも切り離せず、常にダイナミックに相互作用し続けている。したがって、物質レベルにおける生活用の知識やスキルだけでなく、零的世界とも調和する活動が必要となる(9)。自然環境を尊重し、それに適合するときに、自然はそのバランスを保ち、人間が必要とするものをもたらす。同時に、儀式や供物、適正な行動を通じて、様々な霊的なパワーにも配慮し尊重するとき、このパワーが支援や豊かさをもたらす(8)。豊作はただ物質レベルの技術のみならず、それに付随した儀式にも依存する。犂で耕すことによって適切な物理的な栽培条件を作り始める時に、あわせて、儀式を通じて、パチャママ、母なる地球に最適な霊的状態を起こしてもらうように農民たちが祈るのはそのためなのだ(9)

 パチャ(Pacha)とは、存在の全体性に言及するアンデス文化の概念で、時空間を包み込むだけでなく、時空間の性質を克服し、時空間内に自らを浸し、存在するために積極的に宇宙に参加する能力、する生命の形態でもある(4)。ケチュア族には「Pachakuti」と呼ばれる概念があるが、それはこの「パシャpacha」と隆盛や革命を意味する「kuti」をあわせた言葉で、破局や刷新を通じて、世界が再びバランス化される概念と解釈できる。

 地球は閉鎖的なシステムである。化石燃料の形で約3億年もかけて蓄積されてきた古代のソーラー・エネルギーを工業文明はたった300年で消耗させてしまっている。自然循環のバランスを取り戻し、太陽エネルギーに基づく文明へと戻らなければならない時はすでに来ている。したがって、アンデスの世界観では、次の「Pachacuti」が破局につながるのか、刷新につながるかどうかを思索することになる(5)

サヨのパチャママ教

 ボリビアでは、ブエン・ヴィヴィルと並んでパチャママ(Pachamama)も提唱されている。ママ(Mama)とは、ケチュア語の母親の単語で、いまは他の現地語でも用いられている。したがって、パチャママは、「地球の母親」、「母なる大地」という意味になる。

 モラレスは、2010年4月にコチャバンバで、オルタナティブな気候サミット世界民衆会議を開催し、ラテンアメリカのNGOや社会運動から幅広い支援を受けたが、そこで重要な役割を果たしたのが、「母なる大地の権利宣言」の採択だった。2011年11月29日~12月11日にかけ、メキシコ・カンクンでは、国連気候変動枠組み条約第十六回締約国会議(COP16)が開催されたが、「パチャママの権利」をもとに、妥協を拒絶し、最後まで抵抗したのは、ボリビア政府だけだった。そして、世界中のNGOから支持を受けた。なんというモラレスのしたかかさであろう。そして、モラレスの「Pachamama o muerte」といったスローガンには、欧米人は混乱させられるだけだろう。けれども、ザビエル・メディーナは、一神教の目的で、新興宗教として「Pachamamism」を確立するボリビア政府の動きを懸念する。

 山や川、木々、動物、そして、地球を抱く地球の母パチャママ。このイメージは、セミナーのプレゼンにも使われている(10)。けれども、パチャママのもともとのイメージは、アンデスの先住民の間では知られてはおらず、今日、知られている姿は、カトリックの聖母マリアの影響を受けたものなのだ(5)

 はぅ、またしてもキリスト教か。なんとなれば、サヨではないか。これほど左様にサヨ、いやキリスト教の守りは固く、先住民のコスモビジョンすらも支配しているのである(続く)

【引用文献】
(1) 2007年10月12日:ゲバラ、没後40年~「死せるキリスト」とチェ・ゲバラ
(2) BBC unveils hi-tech Jesus, 27 March, 2001.
(3) Eduardo Gudynas, Buen Vivir: Today's tomorrow, Thematic Section Development , Palgrave Macmillan,2011.
(4) Thomas Fatheuer, Buen Vivir, A brief introduction to Latin America’s new concepts for the good life and the rights of nature, Edited by the Heinrich Böll Foundation, Publication Series on Ecology Volu me 17, Berlin, June 2011.
(5) Bob Thomson, Pachakuti: Indigenous perspectives, buen vivir, sumaq kawsay and degrowth, Thematic Section Development , Palgrave Macmillan,2011.
(6) Oliver Balch, Buen vivir: the social philosophy inspiring movements in South America, Guardian, 4 February, 2013.
(7) Stephan Rist, Juan San Martin and Nelson Tapia, Andean Cosmovision and Self-Sustained Development,1999.
(8) Freddy Delgado and Felipe Gomez, 6. KNOWLEDGE AND BELIEF SYSTEMS IN LATIN AMERICA
(9) Freddy Delgado and Dora Ponce, 6.1 Endogenous Development and University Education, AGRUCO, Bolivia, Ancient Roots, New Shoots, Endogenous development in practice, Bertus Haverkort, Katrien vant Hooft and Wim Hiemstra,2003.
(10) Mona Meurer, The Buen Vivir (“good life“) An alternative developmental concept from Latin America,2012.写真は、ウィキペディアとBBCのサイトから
パチャママの画像は文献(10)から

*オジブワ族(Ojibwa)、チペワ族(Chippewa)とも知られ、米国に約10万人、カナダに約76,000人ほどが居住する先住民。米国ではチェロキー族、ナヴァホ族に次いで三番目、北米全体でもクリー族に次いで四番目に人口が多い。自らは「野生の人々」を意味する『アニシナアベ族』と自称している。